2012年7月30日月曜日

私の還暦過去帳(277)

かれこれ35年以上もアメリカ生活が過ぎました。

来た当時は国際電話も値段が高くて、月に一度がせいぜいでした。
しかし、今ではインターネット電話で2セントぐらいの値段です、これに
は助かります、今では市内通話と同じ感覚で話せますし、相手がパソコン
を使いますと、直ぐにSkypeのパソコン電話で長々と話し込んでしまいま
すから、ストレス解消には一番です・・、なぜなら無料だからです。

電話も携帯などと便利なものが出来て、驚く事にインドに滞在中の次男
とも簡単にパソコン経由で話が出来て、まさに鮮明な音量で会話ができま
した。 驚く事にネパール国境に用事での旅先でした。
宿泊している隣の農家から、ニワトリの『コケ、コッコー!』とニワトリが
鳴いて居る声まで鮮明に聞こえました。

スピーカー・ホーンにしていたので、音声がかなり拡大して聞こえましたが、
それにしても技術の進歩です、私の様な歳では、かなり昔の経験が有りま
すので、時には驚きの事が先に出ます。
先日も病院の診察予約を取る為に電話したら、これまた驚きの音声入力での
予約でした。

電話ー貴方はどこで診察するのですか?
    声で言って下さい・・、
   (ちゃんとした綺麗な声です)
答ー ヨセミテー!

電話ー貴方の話す事が分かりませんー!

答ー (もう一度) ヨセミテー!
    (内心発音が悪いと感じながら、イライラです・・)

電話ーヨセミテと言っているのですか?
    (この頃にはトサカに来て、電子ボイスとの会話にイライラです・・)

電話ーOKでしたら、『イエスー!』と言って下さい・・、
    (ついつい・・、日本語でそうだよー!と怒鳴ってしまいました。)

電話ー貴方の言葉が分かりません、もう一度言って下さい・・、
    (何てこった・・、電話が知能を持って判断して、拒否している、)
答ー 『イエスー!』

電話ー了承しました。

それにしても英語が話せなかったり、発音が悪いと、これではどうすることも
出来ません、電話で先日もカード使用で買い物したら音声でカード番号
を言えと命令です・・、これもトサカに来る無人電話対応です、2度ほど
発音が悪いとやり直しに上にパスしました。

そのうちにロボット・コンピユーターシステムが電話番をする時代が遠からず
来ると感じます。

しかし・・、先日の事です、銀行のカスタマーサービスに電話したら、今流行
のインドとおぼしき所からの応対でした。
聞いていたが発音が聞き覚えのあるインド人英語で、チョイと私には2度ほど
確認しないと分かりませんので、聞き直しました。
3度目も一部難解な発音で分からなかったので質問したら、相手の男性が
インド式英語で怒鳴り出しました。これもトサカに来て・・、

ギャー!ギギヤー!と両方でわめいて、怒鳴り合い、
XXXX-!
ばかやろー!
と民族的原語で怒鳴り合い、銀行用事など、また銀行業務など、どこえやら・・、
猫と犬の喧嘩でした。
元を正せば、両方の発音が悪いのです、罪無い事なのですが仕方が有りません。
アメリカに住んでいると、時にはこんなことも突発致します。

それからしたら昔は良かった、ちゃんとした交換手が出てきて、中には昔、日本に
軍人で駐留していたなどと、日本語のカタコトで対応してくれた人も居ました。
最後には『ドウモ、アリガトウ御座イマシター!』と言ってくれました。

2012年7月29日日曜日

死の天使を撃て!

第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』


(28) ヨハンス愛犬の死、

泣いて居たヨハンスは肩を脱臼したのか、片手が上がらなかつた。
彼の愛犬は無残に口から血を流して横たわっていたが、まだ温かみの
残る遺体は眠っている感じがしていた。

ヨハンスは肩をかばいながら起き上がると、側の後ろ手を縛られた
現地人を拳で殴ろうとした。
私は無抵抗の男を殴る事はさせなかった。
『犬を射殺したのはライフルを持った男だ~!』と言ったが、彼の
興奮は中々収まる事は無かった。

私は吉田氏と息子の健ちゃんに馬車で、先にエンカルの町まで行く様
に話した。

私はまずジープが横倒しになっているのを、吉田氏親子も手助けして
貰い、もとに押して戻した。
『がた~ん!』と音がして一度軽くジャンプすると車体は元に戻った。
車体の横に少し擦り傷が出来ただけで、頑丈な車体は何も問題は無く
エンジンが掛った。

シートに犬を包み、助手席に座らせて、現地人はルーカスが横で監視
して座っていた。私がハンドルを握り、彼の注文で実家の父親の農場に
連れて行く事になった。

余り離れた場所ではなく、彼の父親は昔のナチス・ドイツ軍に兵役でい
た時代に、医療関係の部隊に居たと話していたので、直ぐに見てくれる
と言っていた。

犬は後ろの荷台に乗せて、吉田氏親子と別れてジープを走らせた。
先ほど足を撃たれた現地人は陰も形も無かった。
ルーカスが馬の走り去る音を聞いたと言った。

確かに足に傷を受けたのでしばらくは行動に自由は無いと思った、それ
と必ず誰がヨハンスの犬を射殺したか分ると感じた。

仲間の一人を捕まえていたので、後で調べて見る事にしていた。
ヨハンスは無言で、ただ父親の農場に行く道の、曲がり角などを教えて
くれただけで有った。

余り走る事なく農場に着いた。彼の父親が飛び出して来て抱える様にし
て部屋に案内してくれた。
イスに座らせて、シャツを脱がせると鎖骨の脱臼だと言った。

その他は軽い擦り傷で腕を消毒して薬を付けて包帯を巻いて、手馴れた
仕事で終わり、肩は直ぐに母親の準備したギブスの用意が出来ると、
あお向けに寝かせて腕を横に真っ直ぐ伸ばすと、気合を入れて下に引き
元に戻した。

ギブスを当てて、固く縛って全てを済ませると、私の手を取り
『今日は息子が危うい所を助けてもらい感謝致します』と話して、
コニャックを注ぐと、私と傍らに座っているヨハンスにグラスを渡し、
ルーカスも呼んでグラスを合わせた。

父親はそれが終ると、納屋からスコップを持って来ると、シートで包ん
だ犬を抱いて、ヨハンスと家族達で少し離れた空き地に丁寧に埋葬した。

母親が御花を盛り上げた土の上に置き、十字を胸の前で切った。
そしてジープで連れてこられた現地人を、外の空き地で農場の使用人達
が顔の検分をすると、直ぐに身元がばれた!

父親は何か使用人に命令すると、三人ばかりが馬を用意すると銃を手に
どこか消えて行った。

母親は私達を無理に台所に招いて、早めの夕食を出してくれ、ヨハンス
も片手でワインを開けるとグラスに注いでくれ、今日の出来事が無事に
済んだ礼を言ってくれた。

ソーセージとポテトの煮込みをご馳走になり、父親がジープを運転して
夕方遅く、吉田家まで私とルーカスを送ってくれた。

お土産に、沢山のチーズやソーセージ、ハムなど、自家製のワインも入
れたカゴを、母親の手で私に持たせてくれた。
ルーカスの犬にも何かお土産が有った様だ。犬は嬉しそうな顔をしてい
た。

その夜、遅くなって人目を避けてマリオが車で訪ねて来た。
吉田家では話しが出来ないので、ルーカスを連れて店に出かけて
行った。
話しは意外な展開となって進展して行った

私の還暦過去帳(276)

主題: 内閣総理大臣に対しての嘆願書。

拝啓、内閣総理大臣、福田康夫殿。

今般、貴殿が新たな内閣総理大臣として就任されました事に対して、真に
お喜び申し上げます。11月20日からの改正入国管理法施行の波紋と
危機として、内閣総理大臣に一筆啓上いたしたく、失礼を省みずにお届け
いたすもので有ります。

9月18日の日本国内の報道から・・・、、
11月20日から日本入国時点で空港などで入国する際に両手の人さし指
を読み取り機の上に置いて指紋を採取し、顔写真も同時に撮影する事にな
ると報道されていますが、最新の報道で法務省が所轄する、入国管理事務
所において改正入国管理法の施行をテロ対策の一環として入国する外国人
に指紋採取を義務付ける改正入管法について、法務省は11月20日に施
行する方針を決めました。

改正法は昨年5月成立したが、指紋採取は在日韓国・朝鮮人ら特別永住者
や、公用や外交で来日する人などを除き16歳以上の全外国人が対象とな
ります。
この事に対して、アメリカが指定する、テロ支援国家の北朝鮮の政権を
支持する、在日韓国人も、北朝鮮を訪問して再入国する場合でも、指紋
採取は行われない。
アメリカの良識有る人がザル法と批判するのもうなずける事であるが、
日本がテロとしての最重要の対処すべきポイントが外されて、外交特権
の如くに日本国政府は除外している。

空港などで入国する際に両手の人さし指を読み取り機の上に置いて指紋を
採取し、顔写真も同時に撮影して、指紋情報は入管当局が保管し、在留管
理や犯罪捜査にも利用するとされ、この方法はアメリカの入国管理システム
とほぼ同じ機能をすると見られているが、法務省側は『指紋採取はテロ未
然防止の中核』と位置付けているが、しかしながら、その改正原案を読ん
でも、海外在留邦人が帰化した場合の関する配慮は無い。

また重国籍を使い分ける日本人や、海外で重国籍を認める国の年齢制限は
数えられないので、矛盾と 言う格差も見なくてはならないと思います。

それは二重の国籍を所持している 外国人が日本国では22歳で、どちらか
の居住国の国籍を選択 しなくてはならない事を考えると、これも矛盾の
範囲となる、それは 22歳までは国籍の選択猶予となり、たとえば日系
ブラジル人が外国人として入国する事無く、日本国旅券を使用して日本人
として入国出来る。

『22歳過ぎても、『ダンマリ』の沈黙を決め込み日本人として行動して、
国外では居住国の国籍として生きることも出来る改正案である。 』

日本国内で日本国旅券を申請する時は、写真、住民票、指紋などの色々と
政府が決めた手続きをクリアして、最終的に貰えるもので、もし、同じ外
国人であって日本に在住する朝鮮・韓国人の再入国 には余り関係は有り
ません。

しかし、日本国旅券を過去に60年間所持しても、一度外国に帰化したら、
飛行場での入国審査の席で、改正案 の骨子として、『テロリストの入国防
止策』として、指紋や顔写真の『個人識別情報を提供しなければならない』
と言う事は、いかに過去に日本国籍者として政府、警視庁などに日本人とし
て指紋、写真等の情報提供と資料の保管があっても、日本国旅券の無効判
を押したパスポート を提示しても、改正案では法として、無駄な時間と
経費を使い、外国人と処理する様で有ります。

これは改革と簡素化を政府が推進している事に逆行 すると感じられる。
今ではコンピユータ処理で瞬時に読み取り、判別できる照会システムが
出来上がっているのに・・、

改正案では・・、
『指紋提供を拒んだ外国人には国外強制退去処分を法務大臣が出来る
権限を持つことになり、』これには『16歳未満の者や、在日韓国・朝鮮
人などの 特別永住者、国の招待客や外交官は免除される規定である』
しかし・・、
帰化した海外在留邦人は一切の権利と、過去の日本人であった経歴 も否定
され、テロリストと同じ様に危険人物として、ただの外国人として扱われ、
指紋押捺を拒否したら、瞬時に国外退去か、入国拒否となる。

現在この法を施行しているのはアメリカだけで、韓国も施行に反対する
世論があるが、同じく日本国内でもその施行にたいして、矛盾と人権侵害
の危機を日本弁護士連合会は「外国人のプライバシー権を侵害する」と
反対している。
恐ろしく、矛盾した、官僚的な発想の、改正案であると思います。

日本国内に家族、親戚、兄弟が居住して、家さえ所持しても、単に帰化し
たと言う書類上の規約で殺されると同じ、日本人の人格否定で、 祖国日本
に先祖からの墳墓の場所を所有しても、燃えたぎる様な大和魂を抱いてい
ても、その地位は在日韓国・朝鮮人ら特別永住者より低い、無視と蔑視と
テロ・犯罪者扱いと成る。

犯罪者と同類扱いを法で決める前に、政府はもう一度考える必要があるの
ではないかと、首を傾げたくなる法施行だと私の独断と偏見の思考で考え
ますが、内閣総理大臣に、なにとぞご再考の事をお願い申し上げ、世界中
に永住する邦人達が、
『民族は国家なり』の心を抱いている事を理解下さい。

カリフォルニア州、サンフランシスコ在住

2012年7月27日金曜日

死の天使を撃て!

第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』


(27)現地人の襲撃、

翌日の朝早く、私は健ちゃんとジープでヨハンスの農場に出かけた。
今日は私達が来る事になっていたので、犬は小屋に入れて有った。
いつものヨハンスの愛犬が出迎えてくれ、尻尾を振ってくれた。

今日は簡単なベアリングの取り付けだけで、短い時間で済んでしまった。
交換修理が終ってから、もう一度テストしたが一度で成功して、今度は
軽い音でモーターが廻っていた。
水がほとぼしる様に末端の家畜小屋の水場でも出ていた。

今日はヨハンスの離れに居る客人は出てこなかった。静かな静寂が眠く
なるような感じで時間が流れていた。

木陰で仕事が済んでから、お茶を出してくれた。
感謝の言葉で『これでしばらくは何も心配は無いと思うーー!』と言っ
てくれた。健ちゃんは犬と遊んでいた。

私はお茶を飲み干すと、『お昼は私がビーフカレーを作るので、ぜひ食
べに来てくれ-ー』と話しておいた。
彼は吉田氏の農場まで、我々を送ってくれ、『一仕事したらお昼をご
馳走になりに行くーー、』と話して帰った行った。

私は健ちゃんが見守って居る中で、奥さんのヘルプで大釜で沢山のビ
ーフカレーを作り始めた。
奥さんが手際よく、ジャガイモや玉ねぎを切ってくれビーフを入れて煮
込み始めた。時間を掛けて煮込んでから、ブエノスからのお土産の日本
製カレーの素を沢山刻んで入れた。

ビーフカツを揚げて、カツカレーの用意も出来た。美味しいカレーの香
りが漂い、皆がお腹を空かして集まってきた。

『おいしそ~!早く食べたいーー!』と下の妹が早々とお皿を出して
テーブルを作って、サラダに使う熟れたトマトを井戸水で冷やした物を
カゴで持ってきた。

奥さんは沢山大釜で炊いた御飯をテーブルの脇に据えると、御飯を皿に
盛り、カレーをかけて手渡しでテーブルに並べて行った。

匂いに誘われる様にヨハンスがオートバイでお昼御飯に来たので、丁度
良かった。
カツを切って皿の横におき、その上にもカレーをたっぷりと掛け特大の
カツカレーが出来あがり、皆が唸って見ていた。

奥さんが自家製のラッキョーを瓶から出して来て、お鉢に山盛り置いて
くれた。後は何も文句が無い感じで、皆が歓声を上げて食べ始めた。
ヨハンスも前に食べた事が有るので、よく知っていたから、美味しそう
に食べていた。
トマトと玉ねぎのスライスしたサラダは塩とオリーブオイルだけの簡単
なものだけど、良くカレーに合っていた。

皆はお代りして、山盛りについだカレーを食べていたが、どの顔も幸せ
そうな感じで、パクついていた。
食べ終わると、熱いコーヒーを入れて、ミルクをたっぷりと入れると、
皆が『沢山食べすぎたーー!』と言いながら飲んでいた。

食事の後かたずけを済ませると、奥さんと二人の子供はミクロバスで
エンカルの町に帰って行った。
ヨハンスには残ったカレーを御飯の上にカツをのせて、カレーをたっ
ぷり掛けて持たせた。
彼は器用に片手運転でオートバイを運転して、片手にカレーを入れた
カゴを持つと走り去って行った。
彼は『客人にも食べさしてやりたいーー!』と話していた。
その後、少し昼寝を楽しんでいたが、我々も日が暮れない内にエンカル
に戻る為に準備をしてかたずけていた。

馬車にトマトの箱も積み込み健ちゃんがたずなを持って、吉田のおやじ
さんが前に乗り、私とルーカスが後ろの座席に座っていた。
ルーカスの犬はトコトコと後ろから付いて来た。
管理人の現地人が見送ってくれ仲良くなった犬が寂びそうにして眺めて
いた。

しばらく土道を揺られてジャングルの林から道の両側にうっそうと茂っ
ているあたりに来た時、前方で異変が感じられた。
まず『パーン!』と銃声がして、微かに車が急ブレーキを掛ける音が聞
こえて来た。
私達は少し急いで馬を走らせた。

緩いカーブを曲がったとたん、そこにはヨハンスのジープが前方に見え、
横倒しになり、直ぐ先の茂みに人影がチラリと見えた。
とつさに馬車を止め、様子をうかがった。

ルーカスの犬が耳をピーンと立て、鼻でヒクヒクと匂いを探っていた。

ルーカスは釣り竿入れのケースから、ブロウニング・ライフルを取出すと、
すばやく肩掛けカバンから拳銃を取り出して、握り手に巻き付けて有った
皮ひもを伸ばすと、首に掛け、拳銃をズボンのベルトに挟んだ。

予備の弾をポケットに入れると、馬車から飛び降り、まず犬の口を軽く
握り、『吼えるな~!』と言うサインを出した。

犬は鼻を2個所の方向に交互に向けると、『どうやら、あそことーー、
あそこが怪しい奴が隠れている』と合図していた。
ルーカスはここから動かない様にと小声で言うと、林の中に犬と走り込
んで行った。

私ら三人は馬車から降りて、側の茂みに隠れていた。
ジープの方で微かに誰かを呼ぶ声がしていた。

声は確かにヨハンスの声で、苦しそうな声をしていた。私は腰のホルス
ターから拳銃を取り出して、『見てくるーー!』と言うと藪を伝って身
を潜めてジープに近ずいて行った。

すると『パーン』と銃声がジャングルに響いた。
それと激しく犬が突進する音が響いていた。

時々、『ぐわ~!』と獲物に飛びつく襲撃の声も響いて、人の悲鳴も聞
えていた。するとかなり先で人影が動いた。

ライフルを手にしているのが微かに見えた。私は手にしている拳銃で狙
いを付け、威嚇射撃で3発ほど相手をスレスレに撃った。

相手は驚いてパット伏せた。私は走りながらもう一度連射してジープに
近ずいた。
相手が伏せた場所がハッキリと分るので、私も目を離さず、そこを見な
がら走った。

ジープまで走り込み、そこでもう一度、全弾を連射して残りの弾を打ち
込んだ。すばやく空薬莢を抜き、弾を入れた。

ヨハンスが横たわり、ジープから投げ出された様であった。
私は相手が伏せた場所から目を放さなかった。

ヨハンスは『ジープの荷台の私の犬を見てくれ-ー』と話したので見ると、
頭を打ち抜かれて死んでいた。

おそらく即死の感じがした。
私は一瞬『ドキ-ン!』とした。昨日の夕方を思い出した。
ヨハンスは間違われて、現地人の労務者達に仕返しに襲われたと感じた。

ルーカスの犬の声は静かになった。
私はジープを盾にして拳銃で相手が伏せた場所を狙っていた。

相手は藪から片手にライフルを持って、立ち上がって逃げ様としたので、
足を狙ってゆっくりと、『パンー、パンー、』と流し撃ちで撃って行った。

3発目に相手がもんどりうって足を抱えて倒れていった。
命中したと感じて、撃つのを止めた。
そこに後ろ手に縛られた男がルーカスに拳銃で脅されて歩いて来た。

ふと気が付くと、後ろでヨハンスが愛犬を抱いて泣いていた。

2012年7月26日木曜日

私の還暦過去帳、(275)

ここアメリカに住み着いて35年が経過しました。
子供達も育ってしまい、今ではワイフと二人です。
時々サンフランシスコの日本町に買い物に出ます、近くに老人ホーム
があるので、かなりの確立で年配の方達がコーヒーショップで座り込
で何か楽しそうに話しています。

ニジヤと言う日本食品のスーパーが有りますが、ランチタイムには、
どことなく沢山の、これまた年配の方達が来てランチ弁当を買ってい
ます。それとお惣菜の小パックを3~4個も買っている婦人の姿を見
ると、まだご主人が健在と思います。

細かなパックですが日本人にはありがたい惣菜が沢山有ります。
きんぴらごぼう、チキンの一口から揚げ、煮物、おからを煮た物が有
りました。私も歳を取ると日本食を良く食べます。

昔、アルゼンチンで一世の方が白人と結婚していた人が、食事の後
に、冷蔵庫から冷のご飯を取り出して、お湯を通してお茶漬けを始め
たのには驚きました。

手馴れた感じで、『これを食べないとお腹が一杯に成らない・・』と
言って、勿論の事に沢庵と佃煮が並べて有りました。
その人はブエノスで資産家の屋敷に住み込みの運転手として、永年仕
事をしていた様で、そこで知り会った白人のお手伝いさんと結婚した
様でした。

当時はタクシーの運転手をしていましたが、奥さんは彼がお茶漬けを
食べるのは、あたり前のように見ていました。
夫がお茶漬けを食べないと元気が出ないと笑っていましたが、仲の良
い夫婦でした。

アメリカで、中には奥さんが冷蔵庫に沢庵を入れることさえ拒否する
白人のご主人がいます、かろうじて調味料の味噌・醤油だけは文句を
言わないとこぼしている人を知っています。その奥さんは日本食が食
べたくなると外食に出て、日本食レストランに出かけるそうです。

今ではどこでもお寿司も食べられる様になり、味の差は有りますが大
抵の料理は外で食べる事が出来ます。

アメリカ人の様に肉とポテトとサラダでは、私にはとても耐えられま
せん。私も世界中を歩いて、やはり食べたくなるのはお味噌汁とお蕎麦
でした。
『お天道様と米の飯はどこでも付いて回ります』しかし・・、味噌汁は
時々困るときが有りました。無性に豆腐とネギと油揚げが入った熱い
味噌汁が飲みたくて、アルゼンチンの北部のボリビア国境からトラック

で、トマト出荷で出て来る時は、内心はウキウキして運転しながらブエ
ノスまで来ました。荷降ろしが済むと、日本人会の食堂に行き、お刺身
定食でお味噌汁のお代わりをして食べていました。
お腹にたらふく食べた満足の幸福感を得ると、どこと無く幸せな気分と
なった覚えが有ります。
ツーンー!と来る美味しい味噌汁の香りが、私には何よりの好物です。

2012年7月25日水曜日

死の天使を撃て!

第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』


(26)現地人とのトラブル、

しばらく走ってから、日が暮れ出して寒くなり、ジープの日除けのカバー
だけの屋根では風が冷たく、ジャンパーを着て、拳銃を腰の後ろのホルス
ターに入れて夜道を走る用意をしていた。

ルーカスもいつもの肩掛けカバンから、拳銃を鹿皮のなめし皮の包みから
出して、中の弾を確認していた。
用心に後ろの荷台のブローニングのライフルも直ぐ側に引き寄せていた。

いつものロシア人の雑貨屋に『本日牛肉有りーー!』の看板を見て止まり
中に入ろうとしたら、現地人が酒をラッパ飲みしていた。

ジープを止めると、荷台の荷物を見ている男がいた。剥き出しのウイスキ
ーの箱が有り、何やら美味しそうなサラミや缶詰のおつまみが見えていた。

私は中で塊の牛肉を買い、ダンボールに入れて抱えて出てきた。
おまけに貰った筋の固い肉をルーカスの犬に与えて、ジープのエンジンを
掛けようとしたら、一人の男が酔て絡んで来た。

犬が口から肉を離すと身構えて、低く唸り『ぐわ~!』と威嚇していた。
すると男は何を思ったのか、腰に差している、マチェ-テと言う山刀で犬
に切りかかって来た。

犬は荷台から軽く飛び降り、山刀は『カチ-ン』と音をたてて荷台を切っ
ていた。
鋼鉄の火花が飛び、ルーカスが激怒して車から飛び降り身構えていた。
私をかばい、犬とルーカスが男の前に立ち塞がった。

しかし相手は、手慣れた感じで山刀を構えて、喚きながら近かずこうとし
ていたが、ルーカスの手が細かく一振りすると、男は肩を押えて山刀を
『ポロリーー!』と落した。

瞬間ーー!犬が男の足をひと噛みして、パット離れた。アッと言間の事で
有った。重心を失った男は、噛まれた足をかばい横に倒れて唸っていた。

すると他の三人の男達が一斉に酒瓶などを構えて、中には山刀を抜いて構
えた男も居た。危険な事態になり拳銃を確かめて、抜き撃ちの用意をして
いた。

すると店からロシア人の店主が散弾銃を構え、使用人が拳銃を同じく構え
て出て来た。
『うちの店でお客にいちゃもん付けて、酒代をゆするのは止めてくれー!』
と怒鳴った。主人は早くエンジンを掛けて立ち去る様に我々を急がした。

散弾銃に狙われて相手の動きが止り、私は急いで犬とルーカスを呼び、
エンジンを掛けると急発進して店から走り抜けた。

後ろで罵声がして、酒瓶が飛んで来た。
危ない所であったがルーカスは『パラグワイ人は執念深いから注意して・!』
と教えてくれた。
一人が怪我をしていたので少しまずい事になったと感じていた。
しかしその夜は何事も無く農場に帰宅して、ホットしていた。

しかし翌日に仕返しが来た。

2012年7月24日火曜日

私の還暦過去帳、(274)

私のお勧め映画、『3:10toYuma』

今日の私のお勧め映画は『3:10toYuma』と言うウエスタンです。
アメリカ西部の本格的題材を取り上げた、渋い西部劇を久々に見た感
じです。
粗筋は・・、駅馬車強盗のボスを捕まえて、3時10分の列車に乗せる
まで強盗団の追っ手の仲間から逃れて、護送していく話ですが、一人
一人と倒されて行く中で追跡劇が緊張を盛り上げて行きます。

私が好きな西部劇ですが、これまでのマカロニ・ウエスタンなどとは
一線を引いた、映画の中に台詞が多いが、時代考証された画面が違和
感なく、見る者をぐいぐいと引きずり込んで行く。

エルモア・レナードが原作のこの映画は、西部劇の「決断の3時10分」
をリメイクした、新しいタッチの西部劇で、名前も『3:10toYuma』と代
わり新鮮な撮影手法で、映画の最後で、ホテルから駅までの街中走りな
がら、銃撃戦のテンポの速い画面での流れが、銃声の交差する中で、そ
れが緊張と、ハットするショックが、心拍を打つ音と重なりじっと手に
汗を握り絞て見詰める画面となります。

ちゃちな西部劇の銃声と違い、実際に大口径のウェンチエスター・ライ
フルの44口径が発する、私の耳の底に残る銃声と合致して一瞬、46年
前に自分が所持していた同じウェンチエスターの発した銃声がズキーンと
耳によみがえりました。

全米映画興行収入で西部劇「3:10toYuma」が初登場で首位に躍り出た。
9月7日に封切りされて、9日までのほんの僅かな日で初登場1位を得た
が、この事は多くの観客をひきつけて、他の多くの封切り映画を寄せ付け
なかったと感じます。

9月7日から9日までの興行収入は1410万ト゛ル(約16億円)で初登場1位
の堂々たる成績を残した事は、アメリカ人の鑑賞眼でも見ごたえのある
西部劇と感じます。

主演は農夫にクリスチャン・ベイル。そして強盗団のボスにはラッセル・
クロウ。悪党役のラッセル・クロウの演技も渋く、西部劇での表面的な活
劇物としての映画にはしていない、最後の最後で意外な展開をするこの映
画は、是非とも貴方の目で確かめて下さい。

新しい西部劇イメージを作り、西部劇のヒーローのあり方も、少し見方が
変わると思います。

歴史的なアメリカ横断鉄道工事の現場を撮影に取り入れた手法は今回のこ
の映画では、アメリカ西部劇の中でも、中国人達が線路工夫として重労働
の工事現場で働く様を、歴史の現場で見ている様でした。

渋い西部劇映画満足度:100%

上映時間:2時間
アメリカ初公開07年9月7日。
監督:ジェームズ・マンゴールド
原作:エルモア・レナード
主演:クリスチャン・ベイル。
強盗団のボスにはラッセル・クロウ

2012年7月23日月曜日

死の天使を撃て!

第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』

(25)標的の確認、

吉田家ではルーカスもすっかり慣れて、犬も我が家のごとくふるまって
いた。吉田家の農場を管理している現地人の犬も、ルーカスの犬と仲良
しとなり、木陰でのんびりと貰った鹿の骨をかじっていた。

吉田家の家族達と午後のお茶を昨日の残りの芋ヨウカンを切ってお土産
に持ってきた緑茶を入れて食べていた。

のんびりとした昼下がりを、木陰で涼風に吹かれて茶飲み話しに花を咲
かせていたが、そこにヨハンスがジープで飛んで来た。

『モーターのベアリングが、どうもイカレタ様だ~!』と叫んだ。

『修理しないとガリガリと音がでて、ベアリングが干上がってしまった
様だ!』

と話すと、『またで悪いがこれからエンカルまで行ってベアリングを買
ってくるから、後で交換修理を手伝てくれないかー!』と声を掛けて来た。
私は直ぐに快諾していた。

『前に取り替えた経験が有るか・・!』と聞いた。
彼は『一度だけだが父が交換するのを見ていた』と話してくれたので、
私は彼に『それではモーターを外して中のコイル部分を出して、壊れた
ベアリングを抜いておく様に・・、』と言った。

彼にベアリングの取り外し方を教え、万力に挟んでベアリングを割ると
簡単だと言うと、『どうせ捨てる壊れた部品なら、壊して取り外した方が
簡単・・、』と感心して聞いていた。
『私が丁度エンカルに行く用事が有るから、ジープを貸してくれたら私が
買ってくる・・!』
と話すと、二つ返事で『OK~!』してくれた。彼は私にジープのカギを
渡すと、健ちゃんのバイクで、二人乗りして農場に戻って行った。

私はルーカスを誘うと、犬を後ろに乗せてエンカルの町にジープを走らせた。
先ず部品のベアリングを店が閉まるまえに教えられた店で買い入れた。

そしてマリオの店に寄り、そこの雑貨屋で買物するふりをして、ジープに
ルーカスを残して『しばらく待って居る様に・・!』と言って店の中に入
ると、直ぐに奥の住居部分に入って行った。
マリオが飛び出して来た。

陳氏は私が差し出すカメラを受け取ると、『成功したか~!』といきなり
口を開いた。私は黙ってうなずいた。マリオが店の初老の主人を慌てて呼
ぶと、カメラを手に暗室が作られている部屋に案内してくれた。

真っ暗な暗室の赤いルームライトを点けると、直ぐにカメラからフイルム
を出して、現像液に漬けて処理していたので、私は後ろで邪魔にならない
様にして見ていた。
簡単に手馴れた感じで仕事が済んだ。フイルムが乾くまで緊張して待った。
マリオが微かな暗室のライトに透かしてフイルムを覗くと、うめく様に低
い声で、

『こいっだ~!、間違いないーー!』と叫んでいた。

フイルムを店の主人に渡すと、私の肩を固く抱き、『有り難う!感謝しま
す!』と言うと、『鮮明に撮れているから直ぐに私達が捜していた標的と
判明したー!』と言った。

マリオ達は興奮して暗室を出ると、別室に案内してくれ、そこで薄暗くし
た部屋の白壁にフイルムを投影して拡大して、大きく写し出した。

そしてどこからか取り出した写真を並べて画像と比べて見ていたが、
『間違いない~!』それだけ言うと投影機のスイッチを切り、明るくして
窓を開けてくれた。

陳氏がどこからかグラスとシャンペンを持ってきた。
私達の前で栓を『ポ~ン!』と勢い良く開てグラスに注ぐと、私にグラス
を持たせて、『感謝します、有り難うーー!』と言うと、皆が私のグラス
に音をたてて合わせると、『乾杯~!』と言って飲み干した。

それが終ると引出しから封筒を出すと、私に差し出して、
『約束の3000ドルですーー!』と言って渡してくれた。
私は封を切ると中を見た。新しい100ドル札が30枚きちんと入って
いた。

私は手短に今日の話しをすると、『ポンプのモーターのベアリングを買い
に来たので、怪しまれない様に直ぐに帰るから、』と言って明日の修理が
終って町に戻って来たら、テーブルを挟んでこれからの対応を話すと、
約束して了解を得た。

そして『標的がブラジルに近日中に移動する・・』と話していた事も付け
加えていた。

私はマリオに頼んでウイスキーの箱を頼んだ、彼は直ぐに奥から先日飛行
場で買った同じ箱のウイスキーを持って来てくれた。
サラミや缶詰などの、おつまみになる様な食品も付けてくれ、
『今夜は余り飲み過ぎない様にーー!』と声を掛けてくれた。

マリオは嬉しいのか店に出るドアまで見送ってくれ、もう一度私の手を握
り送り出してくれた。
ルーカスは冷たいビールを飲みながら、おつまみの乾し肉をかじってジープ
の上でご機嫌になっていた。

ルーカスの犬も貰った乾し肉を美味そうに食べていたが私を見て、私が手
にする沢山の食べ物の入った袋を見上げていた。

私はやりたかった事を全て今日中に済ませた事に満足して、ジープのエン
ジンを掛け、移住地の奥に戻って行った。

2012年7月22日日曜日

私の還暦過去帳(273)

昔の事です、
かれこれ46年も前になりますが、私が農業移民で移住した
パラグワイから出て、アルゼンチンに住んでいた頃でした。
その頃は日本から来る食品類で、まだその頃にキッコーマン
の輸出用の樽詰め醤油がブエノスに来ていた時代です。

ブエノスの街中で買える醤油は色は同じでも、香りとその味
はやはりイマイチで、特に刺身醤油となると日本からの輸入
品を探していました。
ワサビは簡単に小さな缶入りの粉ワサビが、いくらでも買えま
したが醤油となると、味噌を作った後に樽からにじみ出る
『溜まり』という醤油を使っている方も居ました。
大抵は山形や福島、岩手県などと言う、冬の季節の永い地方の
方が味噌作りを多くしていました。

日本人には米・味噌・醤油という三種の食品は無くてはならな
い生活用品でした。また、それが昔から、現在まで営々として
続いて居ると感じます。米は比較的に簡単にイタリア米などの
短粒米が南米でも買えた様ですが、日本人の移住地では勿論の
事に日本米が豊富に生産された様です。

私がブラジル移民の、最初の移住者達に会った時に聞いた事が
有ります、当時はかなり高齢でブラジルに移住してから、初めて
里帰りに帰国して、私達が乗船していた移民船でブラジルに戻る
途中でした。
笠戸丸で初めてブラジルのサントス港に到着した時に樽に詰めて
持ってきた醤油と味噌が有ったと話してくれました。

1964年の頃の話ですが、その当時はどこでもブラジルでは
味噌、醤油は買えると話していましたが、今からしたら笠戸丸の
話は百年も前です、貿易での物資流通が少ない時代で、当時やっ
と物流が第一次大戦後のアルゼンチンなどの好景気に、日本から
の輸入品が、雑貨を中心に南米に来ていた時代です。

私がアルゼンチンの田舎の町で、そこで会った老齢の婦人が、私が
日本人と知るといきなり『あの粗雑品を作る国から来た人間か!』
と言われて驚いた事が有ります。
第一次大戦戦中、戦後のヨーロッパから輸入が途絶えて、日本か
らの雑貨などの輸入品が増えた時期に日本製を使用して、ヨーロ
ッパ製品と比較した人だと感じました。

それからしたら味噌、醤油の食品は食べてしまったらそれで終わ
りです。輸入も少ない時代です、使い果たした後は何としても味噌
と醤油は自家製を作ったと話してくれました。私もアルゼンチンで
味噌球を丸めて作っていたのを見た事が有ります。そこの奥さんが
作る味噌は素人離れした味と聞いた事が有ります。

ブラジルの田舎での生活も、祖国日本の味を食べるのには、やはり
味噌と醤油が重要な事であったと思います。ブラジルには沢山の
日本人が、またあらゆる県の出身者が広く、沢山、移住して来たお
かげで、味噌、醤油も比較的たやすく手に入れる事が出来た様でし
た。そして味もその出身地の郷土色の強い味噌、醤油だった様です。

私がパラグワイのポンタ・ポランの町でご馳走になった味噌汁は、
『これはサンパウロから来た味噌だ・・』と聞いた覚えが有ります。
当時はまだ鉄道がサンパウロからその町まで運行されていたからです。
『味噌、醤油の交易ロード』と言うべきルートが有ったと思います。

私がアルゼンチンの北部、ボリビア国境で、そこに住んでいた日本人が
戦中戦後に味噌、醤油が途絶して、日本からの輸入品が無くて、ペルー
にハワイで製造された味噌と醤油が来ていたと聞いたことが有ります。
ペルーには昔に、ハワイからの邦人移住者が来た事で、つながりが有っ
たと感じます。
そこのペルーからアンデスの山脈を越えてアルゼンチンまで僅かな量の
味噌と醤油が来ていたと教えてくれました。
45年も前ですがその当時でも、アンデス山脈を越えてくるトラック便
が有り、私も何度か太平洋の魚を食べた事が有ります。

今ではコンテナー運送で世界中にあらゆる物資が流れていますが、内陸
国の海の無いパラグワイでも河川を利用して、川舟がブエノスからコン
テナー運送をして運んで来ているとは、時代が変化した事を感じます。

2012年7月21日土曜日

死の天使を撃て!

第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』


(24)標的を撮影する、

私は少し緊張して、チャンスを狙っていた。
健ちゃんがなめし皮をハンマーで軽く叩いてくれ、型が皮に綺麗に印が
付いて出来あがり、私はポケットのカメラを手に隠してシャッタ-チャ
ンスを捜していた。

ふと人影が消えてしまい、近くでヨハンスと話し声が聞えていた。
直ぐ側にいる事が分ったので私は一策を考えてヨハンスを呼んだ。

印が付いたので切り出すから切れるハサミを頼んだ、そしてボルトを通す
穴を作るために、拳銃の38口径の空の薬莢を持っているか聞いた。
彼はあいにく空の薬莢はないと言ったので、でも拳銃は持っているか聞い
た。

彼は直ぐに部屋から拳銃をもって来て、『では今から空薬莢を作るかーー!』
と言うと空に向けて拳銃を発射しようとしたので、私は大げさな身振りで、
『耳がキンキンするから少し離れた所で撃ってくれー』と言った。

彼は直ぐに納得して発射した。『パーン!』と大きな音がした。
私は必ず人影がもう一度この現場を見ると踏んでいたので、手の中にカメラ
を隠して待ち構えていた。
やはり離れの木陰からこちらを見ていた。

待ち構えていたので冷静に間違いなく写した。
逆光でもなく間違いなく写したと直感した。
そして部屋に入りかけた横顔も一枚写した。

ヨハンスは拳銃から空薬莢を出すと私に渡してくれ、健ちゃんが押えている
なめし皮のボルト穴の痕に薬莢をあてがい、ハンマーで『パーン』と叩いた。
綺麗に打ち出して穴が開き、それを8回も続けて出来上がった。

薄くグリスを塗り、パッキングをこさぎ落した所にピッタリと取り付けて、
ポンプの胴の部分とモーターとをパッキングを挟んでボルトで取りつけた。
一度で成功して、ピッタリと挟まったなめし皮は1ミリの誤差も無かった。

ヨハンスも感心して私の作業を見ていた。
ボルトの通す穴を、空薬莢で開けることには感心していた。
テストする為に呼び水を入れて、空廻りを防いで、エア抜きをしてポンプを
作動させた。
一度で『キュー-ン!』とモターが動き、水が近くの水道の蛇口からほとぼり
出て来た。
圧力計は70パウンドの圧力が掛って、ヨハンスが手を叩いて喜んでいた。
『前の2倍の圧力が出ているーー!』と言った。
ヨハンスが水場で夢中になって仕事をしている間に私は周りを何枚も写した。

健ちゃんと犬は仲良くじゃれて遊んでいたので、誰にも見られる事無く、
家の廻りも写してしまった。

ヨハンスは家畜小屋の水場も、水が出ているか点検してしまうと、
お昼だー!ランチだー!と叫んで私と健ちゃんを呼んでくれた。

彼は感謝の気持ちを込めて握手してくれ、男世帯で何も無いが貴方が持って
きた鹿の肉で、美味しいステーキにするからと言って、部屋に案内してくれた。

彼はワインを直ぐに開けてくれ、グラスに注ぐと皿などを並べてテーブルを
作り、冷蔵庫からチーズや生ハムなどの皿も出して来た。

彼は大きなフライパンにサラダオイルでガーリックを炒めると、鹿の肉を入
れてフタをしてゆっくりと弱い火で焼いていた。トマトの熟れた物にオリー
ブ油と玉ねぎの輪切りをのせたサラダが出てきた。

彼は皿に肉やサラダなどを入れるとパンとワインを盆に載せて、
『ちょっと~!これをお客に届けてくるからーー!』と言って出ていった。

直ぐに戻って来ると、『さあ~!食べようーー』と
私達に声を掛け、グラスを合わせて乾杯して、食事が始まった。

食事しながら、ヨハンスは『佐藤氏の後を父が買ってくれ、私の独立した農場
としてくれた』と教えてくれた。『離れに居るのは父の友人でしばらく滞在し
ているが、もう少ししたらブラジルに行く予定で居る様だ・・』と教えてくれ
た。

彼は婚約者も居て、もうじき結婚もすると話していた。
写真を見せてくれたが、綺麗な女性が笑っていた。
私は全てが完全に成功したと感じた。

裏の畑に通いで働きに来ている現地人が、水のタンクが溢れていると教えに来
てくれた。彼は『あの使用人は父の代から長く働いているーー』と言って、
水を止めに走って出ていった。

食事の後はコーヒーを出してくれ、オレンジをお土産に帰途に付いた。
私はポケットの中のカメラを何度も押えていた。

吉田氏の農場に着いて、私はカメラをマリオに直ぐに届けたい衝動にかられた-!

そのチャンスは直ぐに有った。

2012年7月20日金曜日

私の還暦過去帳(272)

私もここに住み着いて35年が過ぎて、南米時代を含めると
かれこれ人生の半分以上になります、サンフランシスコ郊外に
住んで沢山の人とも知り合い、また仕事の関係でも幅を広げました。

私の様に、この年齢となると多くの人との別れが有ります。

また時代の変革と前進と挫折と様々な過程の分解の道行きで
アメリカの終末精神が生まれ、育ち、また衰えて行くと思います・・、

去年と今年に入り、また多くの友人や、仕事仲間が亡くなりました。
35年以上の付き合いの方も居ました。ふと自分自身を考えると、
その時代に人が生まれ、成長して、家庭を持ち、また一人になり
無の世界に戻るように循環していると感じます。

戦前の昔の時代では南米やアメリカの地で亡くなって、遺骨として
日本に帰国する方も居ました。しかし、多くは現地の住み慣れた
土地に骨を埋めて居る方が殆どです。

かなりの日本人が第二次大戦後にアメリカに、ご主人と移住して
来た方は今では80歳となる方が沢山住んでいます。引退して老人
ホームでの余生を過ごしている方達です。ご主人を亡くして一人住
んでいる方も居ます。

また、全てを処分して日本に帰国して、兄弟の所に最後の永の住み
家を定めた方も沢山居ます、それぞれが運命の流れに逆らう事無く
動いていると私には思います。

現在では若い留学生や日系会社に派遣されて来た駐在員などが
カリフォルニア州にも沢山住んでいますが、住み分けされて、時代
区分され、同じ日本人でも見えない壁と溝で区分されている感じが致
しますが、日本から配遣されて来た人々は日本を永の住処と定め、
いかなる困難も排除して、最後は日本に帰国して行きます。

僅かな人がアメリカに順応して、子供の教育や自分自身のこれから
の人生を賭けて居付いていますが、しかし、そこには日本人の心の
格差と差別に似た溝を感じます。

同じ日本人でも格差と感覚的時代異差の狭間にはまり込んでも、華々
しく活動して動き廻っている人。

教育と年齢的なギャップでアメリカの異国文化のルツボにはまり、
のたうち、苦しみ、最後は溺れて最低の底に沈んで沈殿している若
い人。

異文化を拒否してアメリカに東洋文化の精神を水の中の脂の如く漂
わせてメリケン文化に漂泊の木の葉の様に浮かんで流されている人。

このアメリカの地を永の住処として骨を埋める覚悟を決めて、人生
いたる所に青山有りの心で、のんきな生き方を選んだ人。

人様々な生き方でも、過ごし方でも・・、それぞれの人生、悔いな
く生きる事は人生の花道と感じている人。

若者が老いて年寄りになり、年寄りが老いて死の旅立ちに出る様に、
人生模様の流れが、このアメリカに住んでも目の前を流れて行ます。

ある方は・・、
野辺の送りに、50年も過ごしたカリフォルニアの青空の下で家族だ
けのささやかな別れに、平凡で幸せだった人生を見る様な感じが致し
ます。

その人の今までの道行の豊かさが、家族で歌う賛美歌の様な別れの曲
に込められて居ると思います。

心に染みるその曲の名前は・・、

『千の風になって・・・』

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

あの大きな空を
吹きわたっています

2012年7月19日木曜日

死の天使を撃て!

第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』


(23)標的との遭遇、

その夜は遅くまで皆の寛いだ時間で、美味しい食べ物が並び、私が持参
したお土産にとても喜んでくれた。
楽しい宴会も終りになって酔いが廻った足で、ほとんどの人が円を描い
て炭坑節の踊りの輪に入っていた。

移住船の中での赤道祭の出し物に有ったから、ほとんどの人が知ってい
た。カセットの音頭で楽しく輪になって踊った。
ヨハンスが珍しそうに眺めていたので、その由来を教えてやった。

最後に私は皆の健康と、これからの将来を祝してから、
「乾杯~!」と叫び。「バンザイ~!」と皆と唱和していた。

固く手を握り、肩を抱き合て再会を約し、別れて帰って行った。
ヨハンスとも明日のポンプ修理の約束をしてから別れたが、その前に
材料の薄いなめし皮を頼んでいた。彼はそれを承知して帰って行った。

吉田氏家族とあとかたずけをして、その夜は日本式の風呂に入り、蚊帳
の中でぐっすりと寝ていた。

ルーカスも楽しかったのか寝る前まで、覚えたばかりの日本の曲を鼻歌
で唄っていた。朝までぐっすりと寝ていたので、目を覚ました時はかな
り日が上がり明るかった。
吉田のおやじさんはすでにトマト畑の手入れと水掛けをしていた。
健ちゃんはホンダカブのオートバイを手入れしていた。

エンジンの調子が悪く、先日買った中古エンジンから部品を抜いて取り
替えていた。
オートバイでここに来たら、調子が悪くなり、この移住地の農場に置い
て有ったので、やっと治していると説明してくれた。

ルーカスが居ないので聞いたら、「今朝暗い内に犬を連れて鹿撃ちに
出かけてしまった」と話してくれた。
昨日の宴会の席で、近所の日本人から頼まれて居たようだと話してく
れたが、だいぶ被害が出ていて、つがいの鹿が2匹で植えたばかりの
トウモロコシを食い荒らして困っていた様だ。

朝食を済ませる頃にルーカスが戻って来た。肩には鹿が担がれていた。
内蔵は出して処理してあったが、「もう1匹は日本人の農家に置いて
きた」と話してくれた。2頭とも射止めた様だ、凄腕に驚いていた。

プロの狩猟者の腕を見た感じで、皆も驚いていたが、早速に木の枝に
釣るして、肉におろして今夜の鹿ステーキの肉を作ってしまったので
ヨハンスにもお土産とした。

オートバイ修理が一段落して、皆で、「バタタ・デ・ズルセ」と言う、
芋ヨウカンに似た物を出して切り分け、コーヒーを入れてチーズを挟
んで、お茶の時間とした。

ヨハンスのお土産のステーキ肉は昨夜彼が置いていったアイスボック
スに入れて、芋ヨウカンもチーズの塊と一緒にお土産に入れた。
健ちゃんの操る馬車で、ヨハンスの農場に出かけて行った。

私は忘れずにカメラをポケットに隠したが、どこに入れたか分らない
様な感じであったので、ひとまず安心した。
しばらく走ってから、わき道をかなりジャングルに入って行った。
入口は幅広いゲートを作って有り、奥まで小道が続いていた。

しばらく小道を入った所で、母家と倉庫の廻りに綺麗な新しい鉄条網
で囲ったフエンスが有り、かなりゆったりとして、その中には犬が4匹
ばかりこちらを見ていた。

犬が激しく吼えてヨハンスが家から出てきて「危ないから犬を小屋に
繋ぐから待ってくれーー!」と言って、姿を消した。

直ぐに小走りで鉄条網の仕切りの門を開けて、私達を迎え入れてくれた。
昨日に宴会に連れて来ていた犬だけが、おとなしく後を付いて来ていた。
私にも近寄るとを鼻を私の手に押しつけると、
「ヤー、ヤ-ー!」と言う感じで私の顔を見上げていたので、安心した。

ルーカスと犬は吉田氏の農場に置いて来た。健ちゃんと二人で来ていた
が、その方が良かったと思った、あの犬を見ただけでそう感じていた。

ヨハンスの案内で早速に倉庫の横のポンプ小屋に行った。
彼は昨日私が頼んでいた薄いなめし皮を用意していた。

工具を並べて、ポンプの水上げの部分をモーターから取り外して古い
パッキングをこさぎ落して、なめし皮をピッタリとあてがい軽く、
ハンマーで印を付ける為に叩いていた。
健ちゃんも熱心に覗いて、時々、私の助手として工具を手渡してくれ
た。

その時、近くで誰かが見ている感じがした。ガッチリとした体格の
中年の男で有った。
逆光で顔は全部は見えなかった。
しかし、私は「どきり~!」と心臓がときめいていた。

それはマリオ達が長年捜している標的の人物と直感した。

2012年7月18日水曜日

私の還暦過去帳(271)

今日の二ユースを見ていて驚きました。
なんと・・、子犬が14億円もの遺産を相続したからです。
大富豪の奥さんが残した遺産でした。

それからしたら時代が大きく変化したと思います。私が46年も前
にアルゼンチンの田舎で見た事や、南米各地を歩いて見た当時の犬
や猫の有様からしたら、今ではお犬様、お猫様と言うレベルに達し
ていると感じます。

昔のブエノス・アイレスの都会では、犬を散歩させる専業の人が犬
達を連れて通りを歩いている姿を見ることが出来ましたが、田舎で
は、まだ犬は家族同様に飼われても、逞しい感じが致しました。
私がブエノス郊外の農場で仕事をしていた時期ですが、近くの牧場
に訪ねて行くと、ゲートから中には入る事は出来ませんでした。

必ず犬達が4~5匹がジット座って見詰めて居るからでした。
ゲートに手を触れると、一斉に『ワンワン・・!』とうるさいほど
吼えて騒ぎます、しばらくして家の誰かが出てきて、犬達を
『うるさいー!』と一喝して怒鳴ると、静かになりました。

これはまさに、ゲートを通過する儀式の様でした。しかし、家の方
が近くに居ないと10分でも待たなくてはなりません。犬達も誰か
来て『うるさいー!』と怒鳴るまでは吼えていますので、呼び鈴み
たいな物です、田舎の滅多に訪問者も無い様な牧場ですから、のん
びりしたものでした。

そこの牧場には大きな竹薮があり、トマト栽培に使う支柱に丁度便
利な竹を簡単に切り出すことが出来ました。毎年繁殖して増える竹
を抑制する為にも切り出していましたが、家の側の作業小屋の前に、
解体した牛がぶら下がっていて、犬達に主人がノコで骨をガリガリ
と切り、肉とブツ切りにした塊を分けて与えていました。

牛の皮はまだ脂と血が付いたまま柵に広げて有りましたが、牛をま
るでニワトリを解体する様に、ぶら下げてあるのには驚いていました。
それからしたら、ドック・フードなどはまだ田舎では見られない時で
したので、骨付き肉を貰う犬達が、私達の日本人が考えられない様な
贅沢な塊の、豪快なランチを犬達は食べていたようでした。とても

日本では見る事が出来ない様子でしたが、犬も子牛の様にでかく育
っていました。
犬達が骨をかじっている場所に牛が迷い込んでくると、いきなり牛
の尻尾をガブリと噛んで追い払っていました。
中の一匹の犬は噛付いたままで、イタズラする様にぶら下がって走
っていました。まさに野性味が有る犬達でした。

その犬達も主人が馬車で雨上がりの田舎道を馬車で買い物に出た時に
付いて来ていました。おとなしく、静かに、余所行き顔で・・、道端
でどこかの犬達が吼えても、知らん顔で決して喧嘩などすることは有
りませんが、馬一頭で引く馬車の両側に主人の顔を見ながらゾロゾロ
と仲良く連なって歩いて居ましたが、ウサギなどが草陰から飛び出し
て来て主人が『それー!』と声を掛けると一斉に吼えながら分担して
追跡を開始していました。

一度見た事が有りますが犬達は慣れて、若い元気な犬が一番先に追跡
して、全速で走り、次にバトンタッチして上手に追い詰めていました。
鉄条網の柵も慣れた感じで潜り抜けて、草原を追跡する様は見事でした。

私がブエノス近郊から離れてボリビア国境のサルタ州で農場の仕事を
していた時代に野菜をブエノスにトラックで出荷した帰りに、長旅の
長距離運転に疲れて、サンチヤーゴ・エステーロの砂漠地帯で夜が明
けて、朝霧に濡れた道端の小さな部落で、囲いからヤギ達が犬に追わ
れて一日の放牧に出る様子を見たことが有ります。トラックを停車し
て、道端で焼きたてのトウモロコシのパンを買い、マテ・コシードと

言うお茶を飲みながら、パンにヤギのチーズを挟んで食べていました。
トウモロコシ茎を燃やして焼くパン釜から煙が上がり、それ以外は死
んだような静かな大地でした。
朝焼けの塩が吹いて乾いた乾燥した大地に、どこに生命を養う力があ
るかと思うくらいの荒れた大地でしたが、人間が住み、犬がヤギを追
って放牧に出る姿を見て、トラックに有った食べ残しのアサード
(骨付き焼肉)を犬を呼んで手渡しで渡したら、私の前で座って犬達
が主人から食べる了解を貰うまで、よだれを垂らして待っていた可愛
い姿を思い出します。

その主人には農場で収穫する、バケツに入れて沢山持っていたオレン
ジを両手に持てるだけ上げると、皮袋に入れて喜んでヤギを追って犬
達と消えて行きました。
日干し煉瓦で出来た部落の家が朝日に輝いて、屋根のパームの屋根が
朝露で濡れてしっとりと輝いていました。

遠くでヤギ達の鳴き声がして、牧童が持っている麦焦がしか、トウモ
ロコシを同じ様に焦がして、水筒代わりの皮袋とそれだけが一日、昼
に口に入れる事が出来る食べ物の生活は質素で、とても現代では考え
られない事です。
日本ではペット・フードに費やされる金額が2468億円と聞いて、
それだけでも昔の半砂漠地帯で生きていた原住民の生活を比較して思
い出します。

朝の休憩を終わり、トラックを発進して微かにヤギの群れが立てる土
ほこりが潅木の荒れた大地に風に流れて、私のトラックに遠くで手を
振る牧童の姿を見て、それが朝日の輝きに消えて見えなくなった思い
が、今のように思い出します。

2012年7月17日火曜日

死の天使を撃て!

第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』


(22)ヨハンスとの出会い、

ヨハンスはどこから来たのか日本人が沢山宴会のテーブルの廻りに居る
ので驚いていた。
日頃は静かな農場は、割れる様に歓声とボリュームを最大に上げた、
カセットテープの音楽と、それと子供達の歌声や歓声と混ざり、ドン
ドンと焼かれる美味しそうな焼肉のタレの香ばしい香りが当たり一面
に立ち込めていた。

ヨハンスに何を飲むか誘った。彼は安心して、知った顔が並んで居る
ので宴会の中に入って来た。
私はぜひ彼と懇意にしたくて先ずグラスを渡して酒の注文を聞いた。
彼はウイスキーを見てそれを注文してきたので、残り少ない氷を全部
入れて水割りを勧めた。

彼は大きなグラスに、なみなみと入れた酒を高く上げて日本語で
『乾杯~!』と叫んだ。皆も『ドーッ!』とグラスを合わせて飲んだ。

一気に宴会の席もなごみ、彼もつまみを皿に取ると食べ始め、ここの
集まりで飲んでくれると感じ、腰を据えて飲む様に酒を勧めた。
酒が好きな様で、話しをしながら私と酒を酌み交わしていたので、
直ぐに同じ様な農業の仕事と、世代が同じで話しの話題が合って仲良
くなった。

健ちゃんもヨハンスとは懇意と見えて、親しく話していた。釣りの
話題から狩猟で射止めた鹿の話までして、健ちゃんに親切に色々と教
えている様であった。
彼は酒の氷がなくなったので、『ひとっ走り・・で、家から取って
来る』と話すと、オートバイを走らせて消えて行った。

10分もかからずに今度は古びたジープで戻って来た。車からアイス
ボックスと大きな生ハムの塊やソーセージを入れたカゴを抱えて戻っ
て来た。

アイスボックスには溢れんばかりの氷が有り、彼は生ハムの薄切りを
作ると、チーズに巻いて、つまみを沢山作ってくれた。
ソーセージはルーカスが早速焼き始めた。櫛に刺して、遠火でゆっく
りと焼いていた。

子供達も香ばしい焼ける香りで廻りで出来上がるのを待っていた。
皆が幸福そうな顔で、酒を飲む人や、話しに夢中になっている夫婦、
それぞれが今日の宴会を満喫している感じが私に伝わって来た。

その時、ヨハンスが乗ってきたジープにシエパードの犬が居るのに
気が付いた。耳がピント立ち精悍な感じの犬であった。
私が近寄ろうとすると、ヨハンスは『危ない~!』と注意して、
私の犬を紹介すると教えてくれた。
良く訓練された犬で彼の一声で全て行動していたので驚いた。

彼は犬を側に呼ぶと、先ず私の匂いを嗅がせると、私の手を犬の頭
にのせて、なでる様に言った。
私はゆっくりなでてやると、犬は私の手を舐めて、尻尾を振って
挨拶していた。私は嬉しくなり、今日買ったすじ肉を持って来ると
犬に食べる様に半分分けてやった。
犬はヨハンスの顔を見て、許可が出るとゆっくりと食べ出した。

美味しそうにに食べていたので、それをルーカスの犬も見ていた
から、ルーカスの犬も呼んで与えた、話しが酒の潤滑剤で、世話話
しから収穫の仕方まで、時間が経っのを忘れて話していた。

すると彼は水上げポンプが調子が悪いと話した。パッキングが割れ
て、圧力が掛らず水漏れすると困っていた。

私の得意とする修理で、いっも簡単に修理してしまう技術を持って
いたので、早速に私が点検、修理をしてやると申し込んだ。
ヨハンスは感謝の言葉を言って、『明日の暇な時間に見てくれ』と
私に言った。

私は心の中で『ビック!、チャンス~!』と感じた。パッキングな
ら、なめし皮を切って自分で作れる技能があるから簡単に治せると
思った。
明日が面白くなった。

2012年7月16日月曜日

私の還暦過去帳(270)

アメリカに住んでいると日本食に関連する事が色々有ります。
カリフォルニアに来た当時は、私がアメリカに来て35年も前ですが、
その当時、かなりの数の、一世達が元気で活躍していました。
お会いした時に、昔の食生活の話を聞く事が出来ました。
どこに住んでも、日本から来た人間には日本食が付いて廻る事があたり
前の様でした。特に農業に従事していた日本人達は

工夫して、いかにして調味料を探すか?
どこから材料を集めて加工するか?
無ければ代用品をどのように探すか?
それをいかにして保存するか?

それぞれ、知恵を絞って考えて居たようでした。
当時の1920年から30年代の田舎です、独身の男性達は、ボーデン
グハウスと言う下宿屋で寝起きして、仕事を探し、働いていた様ですが
全て日本食とは限らなかった様です。
コックが中国人で中華料理も食卓に出ていた様です。それを見て学んだ
日本人のコックがアメリカ式日本料理と言う新分野を開拓して、独特の
味と、米と調和するおかずが出来上がったと思います。

下宿屋では朝はコーヒーにべーコンとハムにトーストでの朝食も多かった
様ですが、中国人のコックが居る所では朝食にお粥が食卓に出ていた時も
あった様でした。お粥でしたら、日本人の口にも合いますし、調理するの
も難しくは有りません、日本人が郷里の田舎で雑炊に餅を入れて食べた

様な事が普通でしたので、中国人のコックが日本人が『大根餅』と言う
中国式餅を日本人が喜んで食べる様な物も作って居たようでした。
昔のアメリカの一世達が苦労して食べた日本食が、今では航空貨物で旬の
サンマや、梨や薩摩ミカンなどが運ばれて来て、簡単に普通のアメリカの
スーパーでも買える様に成りました。

現在では今昔の格差が有ります。
今ではスパーでマグロの切り身が、ベトナム産とかフイリッピン産の野生
マグロとして、産地証明付きで売られています。一昔では考えられない事
です。
20年前はハワイ産のカジキマグロなどが安くスパーで特売した時に、塊
で買い、お刺身で食べていました。その時ぐらいです・・、今ではいつで
も食べる事が出来ます。

昔の一世が他州の沿岸部から離れた所で線路工夫や森林伐採などで仕事を
していた当時は、よほどの大病などしないとお粥など炊いて、日本から来
た梅干を出して、海苔の佃煮でも添えて食べることは出来なかった様でし
た。
今ではサンフランシスコ日本町のスパーで、弁当や惣菜の専門コーナーが
有り、菓子類や日本酒も溢れて陳列ケースに並び、それをアメリカ人が買
っている姿を見ると、時代の変革の大きさに驚きます。

そして陳列してあるお寿司のプラスチック・パックから、中の寿司を1個
をチョイと・・・、
『つまみ食い? 万引き?  味見?』
とかして、白人がちょろまかしていると言うことを聞いて、これまた驚き
でした。

2012年7月15日日曜日

死の天使を撃て!

第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』


 (21)日本人移住地での宴会、

その後、私達は馬車に乗ってもう一ヶ所に寄った。
そこは日本人の経営する雑貨屋で、多くの日本食品がおいて有ったから、
顔を出して移住地のニユースも聞いておきたかった。
そこに行けば何でも、話が毎日のごとく入って来るので便利である。
健ちゃんもそこに行くのは好きで、漫画の本を見れるからで、かなりの
数の週刊誌などが、月遅れで日本から来ていた。

私は移住地の奥に行くから、そこを訪ねる昔の友人にお土産としてかな
りの日本食品を買い入れた。皆が喜ぶ物は余り口に出来ない日本食品で
あったからで、ダンボールに入れ切れない様に買った。
ブラジルから来た物や、隣国のアルゼンチンから来た物も有った。佃煮
や、昆布、海産物など皆が目を細めて喜ぶ物を、豊かな懐の金に任せて
買い入れた。

健ちゃんが目を丸くして見ていた。私は彼が欲しそうにしていた日本の
漫画や少年マガジンを買ってやった。
店の横で出来立ての巻き寿司やお稲荷を買うと、ルーカスに試食させる
と喜んで食べていたから、彼の分も買うとルーカスはビールを買って食
べていた。

ルーカスの犬が欲しそうに見ていたので、巻き寿司をやると匂いを嗅い
で、『へへーー!私には食べられませんーー!』と言う感じで鼻の先で
コロがしていたから、犬にはカツサンドを買ってやると、ガツガツと食
べていた。
中の豚カツが美味しいのか前足で押えて、犬でも美味しそうな顔をして
食べていたから笑ってしまった。

吉田家の家族にもお寿司とお稲荷をお土産に買うと帰途についた。
馬車の後ろからルーカスの犬が満腹の感じで付いて来た。
丁度お昼時間で皆が喜んでくれ、私のお土産を開いて食卓を囲んだ。
私は奥さんが作った手打ちうどんをもう一度お腹に入れて、満腹の幸せ
で昼寝をしていた。

日が少しかげてから馬車で出かける事にしたが、吉田のおやじさんと
長男が案内してくれた。馬車の後ろに荷物を載せて、トコトコと走り出
した。

途中、移住地の手前に住んで居る鈴木氏の家にも顔を出して挨拶して、
お土産を置いてきた。主人はあいにく留守であったが奥さんが喜んでく
れ、今夜でも吉田氏の入植地の家に行くと話していたので嬉しかった。

道端のロシア人の雑貨屋で牛肉の新鮮な塊を買い、犬にもすじ肉の塊を
夕食に付けてもらったので、犬が鼻をひくひくさせて喜んで見ていた。
だいぶ遅くなって着いたが昨日に連絡していたから、留守番の現地人が
風呂も沸して、すっかり準備をして待った居た。

荷物をかたずけて私は牛肉を切り始めた。ルーカスも手伝わせて今晩の
すき焼き鍋と、ジンギスカン鍋の用意を始めていたが、健ちゃんが大釜
で御飯を炊いてくれ、持ってきた色々な日本食品を並べて、宴会の用意
をすると、そこに鈴木氏の家族が車でやって来た。

同時に同船者であった田口氏の家族もやって来た。皆はそれぞれお土
産に何か今夜の宴会に口に出来る物を作って持って来ていたので、直
ぐにテーブルは置き場がない様になってしまった。

カセットテープで民謡が流れ、日本酒やビール、私が飛行場で買い入
れたウイスキーなどが並べられ、近所の日本人も呼んで来て盛大な宴
会を開いて居た。

焼肉の匂い、すき焼きの美味しい醤油の香り、皆が大皿に盛られカマ
ボコや巻き寿司、お稲荷さんに目を輝かしてくれたので私は嬉しくな
り、ルーカスは焼肉のジンギスカン鍋でコックをしていた。

犬は横で嬉しそうにおこぼれを貰い、満足の顔で子供達とじゃれてい
た。ここでも日本の清酒で乾杯して、灯油の冷えない冷蔵庫で作った
氷を皆に分けてウイスキーも開けて飲む人や、ビールを片手に焼肉を
食べる人などで宴が進み、吉田氏の奥さんと子供達が車でやって来た。

ミクロと言う町と移住地を結ぶ乗合バスで有った。奥さんがおにぎり
を作り、今夜の長い宴会の兵量を皿に盛り上げて、多いに話も賑やか
になった時にオートバイの音がして、誰かがやって来た。

健ちゃんが隣りの佐藤氏の後を買ったドイツ人だと言った。
私は心の中で『チャンス~!』と思った。若い男で金髪の背が高い好
男子であった。
健ちゃんがその男の手を引いて私に紹介してくれた。
『ヨハンス』と自己紹介して握手して来た。

余りの騒々しさに驚いて見に来た様であった。
日頃、静かなこのジャングルの農場では騒々しくて、大騒ぎの音と
立ち上る焼肉の煙りと匂いが1キロも先までガンガンと響いて居た
様だ。
健ちゃんは私を『移住してくる時、船の中で先生をしていたお兄ち
ゃん』と紹介してくれ、『今はサルタ州で農場の支配人をして居る』
と彼に説明していた。

これが後々まで役に立った。

2012年7月14日土曜日

私の還暦過去帳(269)

かれこれ46年も前になります。
私が南米で農業をしていた時代でした。かなりの数の戦前の1930年代
に移住してきた人たちが、まだ健在で働いていた時代でした。
当時は戦後に、まだ政府計画移住再開がなされていない頃に、親戚や兄弟
を頼って、呼び寄せで移住してきた人達も居ました。

戦後の苦しい生活から逃れて兄弟を頼って来た人の中には、戦争未亡人も
沢山居ました。その頃のアルゼンチンが第二次大戦後の経済的に裕福で、
また、その恩恵で成功者と言われる方が沢山居たからでした。

各世代の、日本とアルゼンチンの格差的な考えと、価値観の相違を対照的
に見る事が出来て、1960年代始めに多くの日本人が戦後の日本に里帰
りして、故郷に錦を飾り、親や兄弟の墓を建て直して、出身校に多額の寄
付をして、オルガンや学用品を揃え、破れた学校の窓ガラスを修理して感
謝されていました。
私が見た人の中で、当時はサルタ州のボリビア国境に近い町で蔬菜栽培を
していた人でした。奥さんは戦後に兄弟を頼ってアルゼンチンに来た戦争
未亡人でした。知人の紹介で白人のワイフと離婚していた戦前の移住者と
結婚して、農場を切り盛りしていた人でしたが、口癖は毎日つぶやく様に、

『こんな所には骨は埋められない・・、早く儲けて日本に帰ろう・・』と
言う事で収穫が終わり、かなりのまとまった現金が出来ると、ブエノス・
アイレスではなく、ボリビアの首都ラパスに一週間程度旅行して、そこで
ドルに交換して一部は日本に送り、他は銀行の貸し金庫に入れて居たよう
です。
日本に帰るということで、家も簡素なもので、全てがその考えに合わせて作
られ、家財道具も殆ど無くて、土地も借地で、ただ『金』と言う主役が人生
の大きな役割と先行きを決めていました。
『故郷に錦を飾る・・』と言う戦前の南米出稼ぎの典型的なタイプでした。

しかし、それと対照的な人も居ました。
かなりサルタ州でも田舎の広大な土地を購入して自分の砦を築いていました。
家の周りはカラタチの生垣で、トゲのある潅木を植えて、日干し煉瓦の土蔵
作りの家はまるで城で、自分の領内に川も流れていました。

自分の理想の農場を作ると言う信念で住んでいる様な方でした。
自分の夢に描いた世界を作ろうと、その地に骨を埋める覚悟で生活されてい
たと思います。
牧場を開いて牛を飼い、果樹のオレンジを植え、トマトを作り、大きな綿畑
を持って、雑貨店を開き、その土地に根ざして、現地人の若い女性と結婚し
て土着化した日本人でした。

その他、ミッショネス州のハルデーン・アメリカと言う町の郊外で、隠遁者
的な生活をしていて、自給自足の生活環境と思います。谷間には家族が食べる
以上の米を植えて、マテ茶を栽培して、現金収入は野菜を栽培して居たよう
でした。
また漂泊の世界漫遊の人生遍歴で居付いた場所がサルタ州のインジオ部落近
くで、そこの女性と同棲して、僅かな畑を耕し、コカの葉に溺れ、昼間から
酒を飲んで、現地人として生きていました。人から聞かれると、
『俺はインジオだ・・、』と答えていたようでした。

『日本などは遠い過去の昔の思い出の地だ・・・』と答えて居たようで、酒
が無い時は絶対に日本人社会には顔を出す事も無く、酔って自尊心など消え
て居る時は、時々、酒場の中で会った日本人には、挨拶ぐらいはしていた様
でした。
46年以上も前です、人様々の生き方と死に方を選択した日本人が、地球の
日本の裏側で住んでいたのです。
事実は奇なり、真実は一つと感じます。

2012年7月13日金曜日

死の天使を撃て!

第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』


(20)ブローニング自動ライフル

吉田氏の長男が朝食後、カロンベーと言う馬車を用意してくれた。
家族で使う、乗用車兼トラックト言う感じの馬、一頭で引く馬車で
あった。軽く大人が4名は乗れて、車輪はタイヤで軽く走れる様に
作ってあった。

エンカルの町は当時はかなりの数の馬車が走っていた。長男の健
ちゃんが操る馬車で町に出かけた。ルーカスの犬は後ろからトコ
トコとついて来た。

ルーカスもエンカルの町は初めてで、興味があるらしくてキョロ
キョロと眺めていた。いつもの皮のカバンを斜めに掛けて、皮の
ツバ広い帽子をちょこんとかぶって、まったく現地人と同じ感じ
で乗っていた。

ゆっくりと走る馬車は眺めは良かった、ちょこんと日除けの覆い
が有り、廻りは何も無い剥き出しで眺めは最高であった。車輪が
タイヤだったので、あまり振動も無くマリオが指定した 場所に
着いた。
健ちゃんはその場所は良く知っていた。

彼が言うにには、『雑貨店兼質屋、古物商兼車とオートバイの
中古店』と言う様な感じの『何でも屋』と話していた。
車の部品も取りあつかい、日本人入植者には広く知られていた。

また、アルゼンチンに転移住する日本人から沢山の機械類や家具
も買って、かなりあくどい仕事もしている感じで有った。
ちょっと下町に入った所に、ゆったりとした敷地に大きな倉庫と
店舗が有った。

表に馬車を止めて雑貨屋の方から入っていった。少し薄暗い店内
で、目が慣れるまでしばらく掛った。店員が直ぐに話し掛けて来
て、マリオが裏で待っていると教えてくれた。
ザッと店内を見回してから、品数が豊富な事に驚いた。

エンカルはかなりパラグワイ政府の貿易自由化で、あちこちの国
からの品物が豊富に並んでいた。アルゼンチンより値段を気にし
ないと豊富な感じだった。
まだ朝早い感じで、お客はあまり居なかつたが、裏に通ずる小道
を案内されて住宅の方に歩いて行った。

犬が居るのか、ルーカスの犬が用心してクンクンと鼻で匂いを探
っていた。健ちゃんは初めてこの奥に入ったと話してくれた。
奥の庭から、マリオが陳氏とニコニコして出てきた。テラスの木
陰の下でテーブルが有り、朝食とコーヒーが準備され、フルーツ
が飾って有った。

マリオはイスを勧めてくれた。 健ちゃんとルーカスはコーヒー
をご馳走になり、ケーキを食べると店を見てくると話して席を外
した。
しばらくして小柄な初老の白人が出てきた。話しに聞いていたこ
の店のユダヤ系のオーナーであった。
品の良い感じがして話すスペイン語もあまり訛りは無かったので、
長い間この土地で仕事をしている感じがした。

彼は奥の事務所に案内してくれ、椅子を勧めて、本題を話し始め
たのであったが、物静かな話しぶりは何か『ドス』の効いた話し
ぶりであった。
彼は机の引出しから小型カメラを出して『これで現場の写真を写
して来てくれ--』と言った。

私はカメラを手にすると扱い方を聞いた。簡単で片手で操作でき
20枚は写せると言った。
そして『標的の画像を捉え、内部の写真を写したらその時点であ
と3000ドルを即金でここで払います』と言った。
話しぶりは人に物を頼む感じの丁寧な物言いであった。

彼はまだフイルムは入っていないと言って、操作の仕方を何度も
私が納得するまで教えてくれた。
カメラは簡単な操作で、どこにでも隠す事が出来る便利な型であ
った。
終ると彼はフイルムを入れて私と握手して、『何か必要なものが
この店に有ったら持って行って良いーー!』と話してくれた。

私は『ただで貰えるか』と聞いた。彼は笑って返事はしなかった。
私は握手をしてカメラをポケットに入れた。
マリオが『宜しく頼むーー!』と声を掛けてくれた。

私は彼等と同席して、一緒の所を見られたくないので一人で店
に戻った。
ルーカスと健ちゃんが目を輝かして質屋の質流れの品を見ていた。
そこにはブローニングの22口径小型ライフルがまだ新品同様で
陳列してあった。

私は拳銃だけしか持っていないので欲しくなった。ほっそりと
して小型で、弾が30発も連射出来るタイプで信頼性が有る
ライフルだった。
見せてもらうとスコープも出して来た。
これも小型の簡単に取り外しが出来るタイプで、弾もマグナム
の強壮弾を4箱も出してくれた。

200発は有り私の射撃競技で貰った拳銃と相互に使える事が
気に入った。私は『これを貰うとーー!』と店員に言った。
直ぐに奥に入り出てくると『どうぞー!、お持ち下さい』と言
った。
ソフトな魚釣り用、つり竿のケースがガンケースとなり私に手
渡してくれた。
これで用意が出来た感じで、後はこまごました雑用品を買い入
れた。お土産に移住者が売り払ったジンギスカン鍋とすき焼き
鍋を格安で貰った。
健ちゃんが欲しがったホンダ.カブのオートバイ部品となる
解体エンジンも買った。

これで全部の今日の用事が済んだ。

2012年7月12日木曜日

私の還暦過去帳(268)

『海外在留邦人年金問題の研究』

今日は日本の総選挙の後での年金問題を見ると、海外在住者
には何も影響があるとは感じられませんでした。
しかし、与党と野党との政治勢力の交代で希望が少しは見え
てきたと思います。

今までは海外などに出て、居住地に不在者届けを出して海外
に出た人は、任意に国民年金に加入していれば年金福祉の継
続は有ります。

しかしながら、永住で海外在住邦人としての地位で住む事に
余儀なくされたならば、2ヵ年の期間が過ぎれば年金脱退
一時金も請求する資格を失います。

しかしながら、日本在住者には、今年の7月6日よりの法令、
『年金時効撤廃特例法』の施行で、過去にさかのぼって
記録訂正時点から、5ヵ年分しか支払いされなかったのが、
戦中、戦後の混乱期までさかのぼって、記録が有効と認定

されれば、未払い金としての一時金や、年金支給額に加算さ
れて年金が支給されると言う、手厚い保護が開始されました。
しかし、海外在住邦人にはその様な特典の恩典も受ける
チャンスも少なく、その詳しい情報さえ届かないので有り
ます。

海外に移住して日本の年金などを忘れていて、たとえ10年
戦中、戦後に日本在住中に仕事をしていても、2ヵ年過ぎれ
ば全てが捨て金として、政府が没収しています。

海外で永の住処を見つけて、そこに日本人の家族を定着する為
に永住しても、帰化した時点で全ての日本人としての基本的な
人権も権利も政府は拒否有りきと言う、原点での思考の出発が
有ります。
日本国の法の下の平等の精神は無視されて、ペルーの大統領を
勤めた人間が、一部法改正前の条項で二重国籍とされ、日本の
国政に参加するために議員として立候補できるのです。

なんと矛盾した日本の法でしょうか?

現時点では帰化したというだけで、日本に50年間住んで、親、
兄弟が居て、居住する自宅もあり、親戚知人も居ても、日本で
養老年金として永年に渡り掛けてきた年金も、海外で帰化の、そ
の時点で全て政府に没収されると言う事は、なんと言う不公平な
法律であるか?

法の平等は無視され、日本の国や政府を暴力的な革命で転覆させ
ると言う集団の幹部の娘は20年以上も無国籍で居て、その夫た
る人物も日本人では無く、しかし日本政府は人権の名目で日本国
籍を与えて何の羞恥心も政治では無く、世界に晒しています。

地を這う様に永きに渡り海外で働き、戦後の余剰人口処理の日本
の過剰人口対策の計画移民した移住者達も、立派な日本人などで
す・・!、
しかし、政府官僚が考える事は、戦前に棄民政策の思考で、
『切捨て御免』としか考えられない様な政策でいかなる請求も退け
られ、全てが泣き寝入りとさせられて居るので有ります。

過去に10ヵ年間、年金を支払い、海外で15年間日本国籍を所持
して、65歳に年金の申請資格がある人さえ、日本から資料を集め
て、日本の社会保険庁に申請請願をしなくてはなりません、なんと
不便で無神経、不親切な年金行政か?

1950年代に移住した人は高齢で生存する方も少なく、その様
な事が有ると言うことさえ知らなくて、全ては闇の中に消されて
しまって居るのです。年金と言う国民が基本的人権の権利として、
義務として収めていた年金の掛け金が、国と言う官僚の操る社会
保険庁と言う組織に全て吸い上げられ、記録は破棄され、消えて、
消されて、未払いとされ、海外在住では棄民の遺棄財産、年金と
して処理され、今に来ています。

多くの声無き人に代わって、この場所を借りて日本政府に対し、
声高く非難と、同じ日本国民としての基本的人権を守る事を、
憲法の条項に照らして擁護し、遂行してください。

この様な事は日本ではラジオや新聞、TV放送、週刊誌や多くの
取材者達の目にも、とまる事無く見過ごされ、無視され、年金行政
の狭間に捨てられているのです。

また、政府は福祉と言う基本的人権の配慮からも、改革しなくて
はならないと、切にお願い致します。

2012年7月11日水曜日

死の天使を撃て!

第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』


(19) 友との飲み会、

何時の間にかテーブルの周りに人が増えて、沢山の昔の知り合いが並んで
いた。
今日はカンニヤ-と言う焼酎ではなく、初めは清酒で乾杯して、それから
はウイスキーを出してカチ割り氷で飲んでいた。

肴はそれぞれ沢山の自家製のサラミやソーセージを焼いたり、生ハムを冷
やして刺身の様にしたり、コンニヤクの刺身を作って持って来ていた。
ナマズの干物や、ぶつ切りのから揚げなど、テーブルに置き場が無いほど
沢山有った。

ルーカスも賑やかな宴会に驚いて見ていたが、皆と仲良く飲んでいた。
宴会も終りになり、お土産を皆に配り、大切に日本から来た醤油を抱えて、
『これは刺身醤油にする』と話して帰って行った。

皆は必ず訪ねて来るようにと、くどい様に言って帰って行ったが、娯楽の
無い世界ではこの様な集まりがどんなにか心豊かな連帯の輪を作っていた。
吉田のおやじの子供達も大きく育って長男は17歳になっていた。

次男も15歳になり、まだ赤子の様だった一番下の、女の子もシャツの胸
がふくらみ、乳房が目立つ感じで、時間が過ぎて行くのが実感として目の
前に有った。

その夜はひさしぶりに、日本式の風呂に入り、蚊帳を釣った部屋で寝た。
板張りの床に布団をひいて、外の虫の鳴声を子守り唄にルーカスと枕を
並べて寝入っていた。

翌朝、目が覚めるとすでにルーカスは起きて、何か仕事を手伝って居る様
だった。
これから朝食を済ませたら、吉田のおやじさんと移住地の一番奥の佐藤さ
んが居た所を隣りのドイツ人が買い取って、そこに誰か住んで居ると言う
話しを聞いたので、確かめ様と思った。

佐藤氏はアルゼンチンに入居地を売り払い、転移住して行った。
直ぐ側は吉田のおやじさんの入居地で、現在は油桐のツングーと言う木を
植林して、少しトマトを植えて、それを現地人に管理させていた。

週に2回は訪ねていると話してくれた。長男がエンカルの町に出るから朝食
が済んだら案内すると言ってくれた。

私は移住地の奥に行く前に、マリオと話しておきたいと感じて、先に長男と
町に行く事にした。
そこは意外な場所で、これからの仕事に役立つ物が手に入った。

2012年7月10日火曜日

私の還暦過去帳(267)

私のお勧め映画、『The Bourne Ultimatum』

私が映画好きになったのは、50年も前の学生時代に、映画監督の家に
住み込み書生で、通算4年近く住んでいたからです。その時に書庫に在
った脚本を暇に任せて読み漁ったり、試写会の招待状などを沢山貰い見
に行きました。

夏休みなど、よく撮影所にアルバイトで付いて行き雑用として、監督の
後ろで、イスやメガホン、脚本などを持たされて映画撮影を見ました。
その様な経歴から、今でも映画にはかなりの思い込みが有ります。

今回の映画は長くシリーズで見た、007のボンド映画を超えたと感じ
る新鮮さのある映画でした。貴方も一度ご覧下さいまして貴方の印象を
確かめて下さい。

邦題名:最後の暗殺者 「The Bourne Ultimatum」
           ボーン・アルティメータム
           最後通告=アルティメイタム

原作:ロバート・ラドラム 「最後の暗殺者」 角川文庫

ボーン・アイデンティティー、ボーン・スプレマシーに続く第3弾の
映画ですが、 この映画の撮影手法がドキュメンタリー・タッチの早い
速度の画面回転で 息をつかせないアクション映画の新手法を作り出し
たと感じます。

007のボンド映画が、アナログ的な活劇漫画の手法と感じる今回の
この 、『The Bourne Ultimatum』の映画は、アメリカの西海岸では、
8月 3日から封切り公開となりまして、早速に期待を込めて鑑賞に行き
ました。

先ず出っ鼻からの息詰まる迫力のアクションが画面に叩きつける様に
釘付けされる事は間違いありません。私もかなりの永い間、アクション
映画を好んで見ましたが、真迫する画面が叩き出す緊張感と、一刻も目
が離せない様な アクションの動きと、映画の台詞の間に叩きつける様な
ビートのある音楽、ドラムを肌で感じる響き、007のボンド映画を見慣
れた目には新鮮な印象と感激が沸いてきました。

私の個人的な鑑賞眼では、最近では一番のアクション映画と感じました。
ハイテク技術を取り入れて,画面の動きがデジタル・コンピユーターの
世界が追いかけ、第三の目が空間で追いかける追跡劇を画面で再生して
見せて居るようでした。

題して・・『I Tハイテク・アクション映画』と言いたいと思います。

傑作「ボーン・アイデンティティ」「ボーン・スプレマシー」に続く、
ボーン・シリーズ 第3弾となる今回の映画は前回を上回るアクション映画
として記録に残ると思います。アクション・シーンの連続ですが、これが
最後まで緊張感を持続させる画面の連続に貢献しているのは、ドキュメン
タリー・タッチのカメラ・ワークが非常に鮮明に編集され、その画面の切
れが無く、瞬時たりとも目を離せない アクションを連続させる編集の力量
も脱帽でした。

アクションの中で、ふと静寂の緊張の時間に流れる音楽が、心にくい響き
で耳に残っています。高く低くドラムの出す響きが、真剣に目を凝らす観
客を、まさに緊張のド真中に投げ込む感じを受けました。
この張り詰めたテンションの上がりぱなしの映画は、私の過去に見た、多く
のアクション映画でも記憶には有りません。

この緊張感を書いた脚本にも敬意を払い、モスクワ・ロンドン・マドリード
モロッコ、 二ユーヨークと転々と変化する各都市の画面の流れが、CIAと
いう巨大な組織の幅広い情報網を感じさせる映画でも有ります。

第3弾で一応ジェイソン・ボーンが何者なのか解決されますが、詳しくは
映画をご覧下さい。貴方もきっと満足して、最後まで息もつかずにご覧に
なると思います。

続編を期待したい映画です。

アクション映画満足度:120%

上映時間:1時間半
米国初公開07年8月3日。

監督:ポール・グリーングラス
脚本:ロバート・ラドラム
   トニー・ギルロイ 、トム・ストッパード、スコット・バーンズ、
ポール・アタナシオ
製作総指揮:ダグ・リーマン、ジェフリー・M・ワイナー 、
      Jeff Kirschenbaum、Donna Langley
製作:パトリック・クロウリー、フランク・マーシャル、
   ポール・サンドバーグ
音楽:ジョン・パウエル
撮影:オリヴァー・ウッド
出演:マット・デイモン、ジュリア・スタイルズ、
   ジョアン・アレン、デヴィッド・ストラザーン、
   パディ・コンシダイン、エドガー・ラミレス

2012年7月9日月曜日

死の天使を撃て!

第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』


(18)移住地で友と再会、

パラナ河を渡ると直ぐにエンカナシオンの街が見えて来た。
郊外の飛行場にアッと言う間に着陸して、滑走して駐機場に止りプロペラを
停止した。直ぐに近くの事務所から係官が出てきた。

マリオと知り合いの感じで挨拶していたが、ルーカスの犬の鑑札を見て直ぐ
に返してくれ、入国と言っても簡単で、セドラと言う身分証明を見せるだけ
であった。荷物検査も無かった。

マリオに係官が近ずいて来ると、「押収品の販売をしているが買わない
かーー!」と話しかけて来た。
ウイスキーとの事で直ぐに6本入りでジョニーウオ-カ-の黒が50ドル
と格安の値段で有ったが。現地の人ではとても払う事が出来ない金額であ
った。
私は1ケースを頼んだ。するとVWの小型バンが迎えに来た。荷物を全移
し替える間に酒を運んで来たので、金を払いバンに乗せて出発した。

飛行場から出て、しばらく走ると横道から耕運機がパタパタとリヤカー
を引いて出てきた。私は一瞬「どきりー」とした。それは南米に日本から
来る時に同船者だった吉田のおやじにそっくりだったからで、私は運転手
に停止を頼んで、大声で

『吉田のおっちゃん~!』と叫んでいた。バンの車が止り、私は車から
降りて走って近寄った。

まぎれも無い吉田のおやじであったので驚いてしまった。
マリオが下りて来て「お前の友人かーー?」と聞いた。私はおやじに抱
きついて『ワーワー!』と叫んでいた。

これからエンカルの町に出かける所であった。
おやじは直ぐに『俺の家に来い~!』とエンジンを止めて、私の荷物を
車から出せと言った。

私はマリオと行動をするより、ここで別れて別行動を選んだ。
ルーカスと犬も車から降りて来てマリオに用心の為にこれからは別行動
をすると言った。
移住地の奥には移住者の車が安全だと言った。マリオもその意味を理解
して、これからは別行動をする事になった。
その事が後で誰も怪しむ事無く行動が出来た要因となった。

吉田のおっちゃんはエンジンを掛けると、来た道を戻り、『ついてこ
い~!』と怒鳴って走り始めた。
直ぐわき道に入り、突き当たりが彼の家で、奥さんと子供達が飛び出し
て来た。マリオに頼んで荷物を全部下ろすと彼の連絡先を聞いた。

彼は名刺を出すと、『ここに居るからーー!』と教えてくれた。
しばらくして落ちついたら顔を出すと言った。マリオと陳氏が運転手
と共に、車でエンカルの町に消えて行った。

私は荷物を家に運び込むと、家族の一人一人と握手して、再会を祝った。
久しぶりの再会で嬉しくなり幸先が良いと感じた。
吉田のおやじは『移住地の奥では現金収入も無く、ここで養鶏と野菜
栽培をしている』と話してくれ、奥地の畑は現地人に任して油桐の木
を管理させていると話してくれた。

それにしても全ての話しも聞く事が出来て、これからの行動に非常に
役に立った。その夜はルーカスも驚く家族パーテイーを開いて、遅く
まで話しが尽きなかった。

2012年7月8日日曜日

私の還暦過去帳(266)


アメリカに住んでいると世界中の料理が食べられます。
それも、本格的な各国の郷土料理です・・、

私がこれは先ず食べた事が無いと感じたのは、エチオピア料理でした。
次男がバークレーの大学に在学していた時代に、訪ねて行き、珍しい
物を食べさせると言う事で、案内されたのが彼の寮から少し離れた場所
でオークランドに有りましたエチオピア・レストランでした。

その周辺はエチオピアからの難民が沢山住んでいると言われる
場所でしたが、それらしき民族衣装を着た人も目にする事が出来
ました。私達夫婦は少し緊張していました。何が出るのか心配で

どんな食材で、
どんな調理で、
どんな味付けか・・?

日頃は毎日のように日本食での生活ですから、興味深々でした。

周りで食べている人を見ていると、手で何か千切って、ソースに浸
して食べています。何かインド・レストランで見た光景を思い出して
居ました。インドのナンに感じが似たパンですが、これが粟を原料で
一度醗酵させた物とか、少しすっぱい感じで、私にはこの味はパンが
腐ったかと言う印象でした。

『何でも食べてみよう・・・!』という言う勇気は有りますが、次男の様
に、まるでエチオピア人の様に慣れた感じで食べる事が出来ませんでした。
それにしても雑多な人種的な混合ですから、中華料理と言っても白人の
コックが調理する中華料理には驚いた事が有ります。

まるでアメリカの中華料理テキストを見ながら料理したと感じるアメリカ
式中華で、まずいより、驚きの方が先でした。
これはネバダ州に旅行して、ホテルの中華レストランで食べた時でした。

私の近所にはアフガニスタン料理を専門で出すレストランが有ります。
その3軒先はインド料理です、それもインドの北部の料理だそうです。

それにベトナム式フランス料理もあるとか・!驚きです、ベトナムは昔に
フランスの植民地でしたので、ベトナム料理の中で、越南米粉麺でフォー
と言う麺と、それは牛肉のシチューと感じる鉢にフランスパンが添えられ
て出て来た事です。私の隣で若いベトナム人の女性が食べていました。
パンをちぎり、スープに浸して食べていました。私も今度試食したいと思
っています。
先日もある私が住んでいます近くのショッピング内で、中東のイラン系の
レストランでしたが、大きな長ナスを、店のバべキユーのグリルで焼いて
いました。
私も、『ぎょー!』として、半分は驚いて見ていました。

まさか・・、これ、長ナスを焼き上げて、皮を剥いて、鰹節の削りかなんか
ドバー!と掛けて醤油で食べたら美味しいだろうと見ていたら、従業員は
笑って私を見ていました。

それにしてもアメリカに長く住んでいますと、これ色々な食べ物に出会います、
一度、シアトルに家族で旅した時に、ポテトをグリルでこんがりと丸焼きして
それを真ん中に切り込みを入れて、これにドバー!とチーズや豆とひき肉を
煮込んだチリー・ビーンズ、ネギの刻み、まだ他にも沢山あった様ですが、

見ただけで、お腹が満腹と感じる食べ物でしたが、アメリカ人はそれに大きな
ホット・ドックを合わせて食べている姿を見て、これではアメリカ人が肥満の
原因を食べていると思いました。

2012年7月7日土曜日

死の天使を撃て!

第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』

 (17)パラグワイへの飛行、

翌日、朝早くタクシーが迎えに来た。
予約してあった知り合いの運転手が迎えに来ていた。後ろのトランクに
荷物を入れると混雑のする上り線の道路を反対に見ながら、モレ-ノの
飛行場に行った。

民間飛行場で旅客機は発着はしては居なかった。
タクシーの中で、ルーカスの犬はおとなしく座って外を見ていた。首輪
には狂犬病の予防注射の鑑札も付けて、毛の短い雑種の中型犬はよそ行
き顔で、犬ながら嬉しそうな顔をしていた。

飛行場に着いて、セスナの駐機場に行くとすでに準備が済んで居て、
マリオが側で何か用意していた。
我々に『コーヒーが入れて有るから、飲んでくれーー』と近くの事務所
を指差した。
荷物を下ろしてタクシーを返した。先ず荷物を飛行機に積み込みして、
それから事務所に犬を連れて行った。

コーヒーの良い香りが外までしていた。テーブルには私が好きなクロワ
ッサンが置いて有り、コーヒーにクリームをたっぷりと入れると、ゆっ
くりと飲んだ。

マリオが入って来て全ての準備が整ったことを知らせてくれて、マリオ
もコーヒーのカップを取ると飲んで居た。
彼もゆっくり飲んで居たが終って、彼は所持していた拳銃のワルサーを
差し出して、陳氏も呼んで彼のポケット拳銃も一緒に私に渡してくれた。

上着を脱いで何も武器を持っていない事を見せてくれた。私も安心した。
私は腰の後ろにいっもと同じホルスターに入れた愛用の拳銃を隠してい
た。ルーカスも私の予備の拳銃をカバンの下に入れていた。

そしてボールペンに仕込んだ毒牙を胸のポケットに差していた。それは
ボールペンの頭をポンと押すと僅かに毒蛇の牙が出てくる様になってい
た。ダブルのペンで黒と赤の2色が出るタイプであったので、普通に黒
インクでは文字が書けた。

ルーカスが細工して私に用心の為に持たせてくれたのでいざと言う時の
為に胸のポケットに仕舞っていた。離陸する前にトイレに行って、用を
済ませて来た。

プロペラがすでに旋回して轟音を出していたので、私達が乗ると直ぐに
ドアを閉めて、マリオがラジオの送受信器を耳に掛けると、管制塔に離
陸の許可を求めた。
直ぐにOKの返事が来て、誘導路を滑走し滑走路に入ると、アッと言う
間に飛び立った。

ぐんぐんと高度を上げて行った。ラプラタ河が濁った大河を見せて流れ
ていた。しばらく飛んで水平飛行に入り、自動操縦に切り替えてマリオ
が、前の席より話し掛けて来た。
『約束どうりの時間に来てくれて感謝します。現場は貴方とルーカスし
か近寄れない様だ、その他の人間は直ぐに怪しまれる、最善の協力をす
るから必ず確信出来る情報を集めて下さい、お願いしますーー!』と
誠意を込めて話し掛けてきた。

陳氏も『是非とも、マリオの願いをかなえてやってくださいーー!』と
言った。
私は『出来るだけ貴方の希望に添いたいと思います、貴方が捜す標的が
目指す場所に住んで居たら、あらためて最終目的の条件を話し合いまし
ょうーー!』と言った。

マリオは黙って握手をして来た。晴れた空は快適な飛行で揺れもしなか
った。ルーカスの犬は床に寝そべって静かにしていた。

単調な飛行はパンパの景色も変わり映えしない様に、のどかに飛んでい
た。眠くなってトロトロと夢心地でまどろんでいた。どのくらい飛んだ
か分らないが、マリオがエンカナシオンが見えて来たと教えてくれた。
緑濃いいジャングルも見えていた。

いよいよパラグワイでの戦いが始まった。

私の還暦過去帳(265)

かなり前になります、私が大きな集合住宅のコンドを管理
していた時代でした。歩道の工事でメキシカンの工事人達
と打ち合わせで、近所のハンバーグ店の外のベンチで待ち
合わせていました。

私は自分の弁当が有りますので、飲み物だけ注文して外の
木陰のベンチに座ってメキシカンのアミーゴを待っていた
時に、近所のテーブルに若い日本人、学生風の男が3名
座って、ハンバーグを食べながら何か話していました。

彼等の2名はタバコを吸って居る様で、時々匂いがしてい
ました。
待つ事少々で、メキシカン達が来て挨拶を交わしてテーブル
に座り、彼らもランチの弁当を開ける者、ハンバーグを注文
する者とで賑やかでした。

しかし近所のテーブルに座る日本人学生風の若い男3名は
食べ終わって、飲み物を前に何か、だべっています・・・!

ー見てみろあのメキが食べるブリートの大きさ・・・!
ー側で話している爺さんはメキには見えないようだが・・?
 でも上手にスペイン語を話して居るから、やはりメキか?
ー見てみろあのメキの刺青を・・!、

何か日本語で我々を品定めをしている様でした。
時々何かゲラー!と笑いながら・・、

ー先日、スケコマシタ女のあれが、まるで巨大なスイカだ・・・!
ー寿司を30個も食べたぜー!
ーまるで馬みたいな女だった・・!

お前ら・・、何を言う・・!、アメリカでは中学生しか見られ
ない様な背丈で・・、タバコを吹かして、いっぱしにエロ話し
なんかしやがって・・、と心で思っていました。

ー見てみろあの爺がドタ靴履いて、あれはだいぶくたびれた
 ジジイだ・・、
ーあれで何しているのか・・、可哀想に・・!

要らんおせっかいです・・、いつものへそ曲がりの、意地悪
ジイサンの根性がムラムラと湧いて来ました。
若い学生風がイスに座って通路に足を出していました。

どー!と話が沸いてゲタゲタを笑う姿と、よー・・・!と
尻伸ばしで話す言葉が絡み合い、けた糞悪い感じでトサカに来
ていました。

アミーゴが食べた後のゴミを捨てに行く様子で、投げ出していた
学生風の若い男の足の先を踏み付けました。
ギーイ!と悲鳴がして、

ージジイ・・・、何する・・!足踏みやがってー!
 (これ日本語で怒鳴って来た)

ーてめえが足を出していたから踏んだんだぞー!どこが悪い・・!
 (これも日本語で・・!反論する。)

ーゲー!・・・・・・・・?

3人ともへこんで、シーン!です・・、側でメキシカンが見てい
ます。

ーお前達が話していた事をメキシカンに話そうかー!
 (これ日本語です)

その頃には学生風の若い日本人はだいぶ、ちじみ上がっている感
じでした。
一人の若い男は、もうガタガタと足が振るえています。

それもそのはず・・、腕はその若い男の足ぐらい有りそうな
ゴリラの様な感じのアミーゴで、セメント仕事で鍛えた身体は、
私が見ても逞しい感じの男でした。

それに意地悪ジジイさんの目付きと、話しぶりは土方の親分の感
じですからあたり前です・・、
学生風が萎縮してオタオタするのも分かります。

散々、いじめて、ランチ食後のお遊びでした。
たまに日本人の若者を見ますが、こんな日本人の若者ばかりでは
有りませんからご安心下さい。

2012年7月5日木曜日

死の天使を撃て!

第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』


(15)ユダヤ老人の話し、

私は外に出て、タクシーを拾った。
ルーカスも連れてパラグワイ行きの買物をして歩いた。宮本旅行社に寄り、
先ず本と野菜の種を買った。
ここでは旅行業務の他、色々な日本関係の物をあつかっていた。

それから金城雑貨店に寄り、日本船から仕入れたキッコーマンの輸出用樽
から小分けしたワイン瓶入り醤油を10本と一升瓶入りの特級の日本酒を
四本買った。それで全てが済んで、ルーカスのアパートに帰って来た。

荷物を下ろしてランチに出かけた。日本人会近くのイタリアン、レストラ
ンであった。
ルーカスも初めてで喜んでいた。彼にはアサードの焼肉を、私はいつもの
魚を頼んでいた。
食事も半ばを終った頃に友達のユダヤ人の老人がやって来たので、挨拶し
てルーカスを紹介した。食事をしながら奥地の農業の現状を教えていたが、
興味があるのか真剣に聞いていた。

食後は外のテラスの道路端のテーブルに移動して話しこんでいたが、いつ
ものコーヒーとコニャックを頼んで3人で午後の一時を楽しんでいた。
するとひょっこりとマリオがやって来た。私は彼をユダヤ人の老人に紹介
した。

意外な展開となった。
老人は直ぐにマリオを同じユダヤ民族の人間と感じた様であった。同じ
民族の血が引きつけるのかもしれなかった。同じ外国からの移民で言葉は
スペイン語を話しているが、アルゼンチンのこの様な場所でお互いに顔を
合わせて話し始めることは珍しいと思った。
老人がマリオに聞いた。
『貴方はどこからこの国に来たのか-ー』『イギリス連邦のある国から』
と言って答えていた。
私はマリオが用心していると感じた。老人はしばらく普通のありきたりの
話しをしていたが、突然にシャツの腕をまくり、死の刺青をマリオに見せ
た。
マリオは一瞬どきりと飛び上がる様な感じで、老人をまじまじと見詰めて
いた。
老人が『私にはウソは言わないでくれーー!』と言った。
『私はこの日本人青年が、正直で実直な百姓だから年齢や民族を超えて仲
良く友達で話している』とマリオに言った。

『私はワルシャワの街を追われて、ポーランドからアウシュビッツの収容
所に送られた数少ない生還者で、それまで幾度となく生死の狭間をさまよ
い、人がウソをつき、だまして、陥れて、利用しようとするのを身体で体
験して、心に刻んで学んだので、いまお前が心に考えて思っている事が私
には感じる事が出来る・・!』とマリオに突き付けた。

その言葉はかなりの気迫が有った。マリオはたじたじとして、うろたえて
いた。老人の目を逃れてコーヒーカップを見詰めて下を向いていた。
老人はゆっくりと『私に話してくれないかーー!』とマリオに訊ねた。

私はふと考えて『お邪魔な様だからーー席を外す』と言った。
老人は『そうしてくれーー!』と答え、腕時計を見て、私に『少し歩いた
所に、雑貨屋があるからそこでミルクとオレンジを買って来てくれないか』
と聞いたので、喜んで引き受けた。

老人はポケットから金を出すと私の手に握らせて、
『10分ばかりして来てくれーー、』と言った。ルーカスと二人でゆっく
りと歩き出した。
振り返ると老人とマリオが額が着く様な近さで何か真剣な言葉を交わして
いる感じが、かなり離れた所まで来た私にも感じた。
何を話しているかは、まったく分からないが、その後マリオが意外な行動
をしたので何か有った事だけは確かと思った。
10分間ぐらいの時間が私にはとても長く感じた。 



(16)依頼の標的捜査の用意、

私とルーカスが戻った時は、マリオはもう居なかった。
老人は私から買物を受け取ると、中からオレンジを出してくれた。
皮を剥きながら老人はゆっくりと話し始めた。

『私は個人的には復讐とか報復での殺し合いは認められないーー!』

『殺し合いはお互いに不信感と憎悪の感情のみ育てて、何も建設的な未
来と、将来を作る物ではない・・!。しかしそれが集団となった民族的
な解釈からすると、絶対に許せない事になってしまう様だ。イスラエル
の建国からあまり時間は経ってはいないが建国したからこそ、それが
出来るのかもしれないー!』と言った。

『貴方は日本人だ、しかしマリオの心を善意に解釈すれば彼が捜して
いる標的は人類の敵だ、人間がしてはいけない事を人間に対して行
なった。
 貴方も協力してくれないかーー!』私は考えて直ぐには答えが出な
かった。

標的が何をしたのか、何を戦争中にユダヤ人に対して行なったかーー!
その事を聞こうか?

それとも聞いて、一生涯忘れる事無く、心を悩まし続けるかーー!。
私は悩んだ。確かにユダヤ民族に対して、個々のユダヤ人や家族に対
して残虐な行為をした事は間違い無いと感じた。

それだからこそ、マリオが執念となって捜し、追いかけ、その人間を
標的として抹殺し様としている感じがひしひしと伝わって来た。
老人はオレンジを食べ終わると口を開いた。
『パラグワイに行って目標のターゲットを捜して、本当に住んで居る
のか、確かに本人かを確認してからそれからの事だがーー!』そう話
すと腕時計を見ていた。

そこにタクシーが止まりマリオが降りて来た。彼は私達のテーブルに
来ると、先ず老人に軽く会釈をすると、『貴方の言う様に、人に命が
けな物事を頼む時に、信用してお互いの信頼がなければ、誰も本気で
は動いてはくれないー!』と

彼は話すと、私の方を向いて、『これが報酬の前金3000ドルで
す・・、今まで一度も標的に接近して写真などの確認するものを撮っ
た事が無いから、それを画像で捉えたらまた3000ドル払います』
と言った。
多額の現金である、私も『どきり~!』として、封筒に入ったドル
の現金を手にしていた。中には百ドル紙幣で、きっちりと30枚入
っていた。

私は何も訊ねる事無く黙って手を差し出した。そのくらいの調査な
ら休暇の期間に出来ると感じた。それよりパラグワイの昔の仲間を
訪ねて行けることが嬉しかった。 ルーカスも暇な時期だから、何も
心配ないと言ってくれた。

マリオにルーカスの犬も乗せられるか聞いた。
『狂犬病の予防注射を受けていたら、何も心配は無い、パラグワイ
入国は簡単だ』と話してくれた。
利口なルーカスの犬を是非連れて行きたいと思っていた。

飛行機で飛ぶので、搭乗している時間が短いので、問題は無いと感
じたが一応マリオに念を押していた。マリオは直ぐに『何も心配は
無いーー!』と答え、明日は時間を守ってくれと念を押してきた。

彼は老人の方を向くとおもむろに『私は日本人青年を信用して、前
金を払いこれからの物事の解決の糸口を託した。私は彼がどこに住
んで居るか、殆ど何も掴んではいないし、過去の事も知らない、
しかしお互いがそれを受け入れて、信用しなくてはこんな事は頼め
ないー!』と老人に言った。

老人は静かに、『私は今まで多くの人間と会いすれ違ってきたが、
この日本人青年は信頼出来ると心から思うーー!』と言ってくれた。
私はパラグワイでの現地調査を請け負う事で老人の信頼に答えたい
と感じた。

私からマリオに握手の手を差し出して『明日の朝、8時の時間は
守りますーー』と言った。 私は老人と握手をすると再会を約して
別れた。

ルーカスとタクシーを拾うとアパートに帰って来た。ルーカスの
犬が喜んで迎えてくれ、私は駐車場に行くと管理人を尋ね、かな
りの金を握らせて管理人事務所横の日陰の安全な場所に移動して
良いか訊ねた。管理人は喜んで、引き受けてくれた。

そして『しばらく休暇で遊んで来ると言った-ー』トラックの
カギを渡して、それからアバスト市場の仲買事務所に行き、
『休暇はパラグワイの日本人移住地を訪ねる-ー』と話して、
8日間の予定で行くと伝えておいた。

これで明日の全ての用意が出来た。

2012年7月4日水曜日

私の還暦過去帳(264)

アメリカに住み始めて35年も過ぎました。

アメリカが豊かで、豊富な資源と各地に入り混じった人種的な形態とが
醸し出すアメリカ特有の階級制度と感じる貧富の差が、各所で感じられ
、また自分の目で見ることが出来ました。
今でも、かなりのホームレスと言う方々が、サンフランシスコの町では
溢れている地域が有ります。

老若男女を問いません、私が自分の目で見た限りでは中年過ぎが一番多
かったと思います。テレビの放送で聞いた事が有りますが、意外と多い
のはベトナム戦争などに参戦した復員軍人が多く含まれている事です。
私の町にもサンフランシスコへの通勤電車、バート駅に住み着いて居る
ホームレスです、近くにはショッピングセンターも有りますので、それ

と給食などのサービスも有るようですから、食べる事は心配ないと思い
ます。寒い冬に、氷点下に温度が下がる時は、避難所のセンターが開い
ていて、そこに収容して寒さから保護している様ですが、1年前ごろか
らしたら、当地では殆どホームレス者を見なくなりました。
貧困といっても中南米からのヒスパニック系の不法入国者の貧困状態は
我々が感じるほどの深刻さは無いと感じます。

メキシコのユカタン半島近くから来ていた若い男は、カタコトの英語で
したが、彼等の郷里では、田舎社会の貧困レベルからしたら、かなりの
裕福層に入ると話していました。家を2軒所有して、毎月300ドル以
上は送金していると話して、現在はコーヒーの農場を2ヘクタールほど
開いていると言っていましたが、アメリカでの生活レベルの違いと感じ
ます。
彼等の不法入国者が推定で1200万人とも言われる社会で、年金生活
者の貧困もアメリカ社会では多く見られます。アメリカ人は生活をエン
ジョイする事は上手ですが、貯金をして、引退までに老後の蓄えをする

方も沢山居ますが、またそれに反して、政府の老齢年金だけで生活して
いる方が沢山居ます。僅かな命金という預金を持って、ランチサービス
を受けて、日常生活では、1ドルショップという、日本で言えば・・・、
『100円ショップ店』です。
私もどんな物を売っているか覗いた事が有りますが、かなりの年寄りが、
僅かな買い物をしていました。ジガイモ1個、ニンジン2本、ソセージ
2本とか、必要最低限の買い物です、ポケットから計算機を出して集計
して、金額を確かめているようでした。

アメリカと言う豊かな国が、弱者切捨ての理論を持つ人が多い事は知ら
れて居ます。『彼等が努力しなかったから貧乏なのだ・・』と言う理論
を直接聞かされた時に、アメリカでは働いても、働いても、貧困層から
脱出できない階層が沢山住んでいます。一度、TVドキュメンタリーで見
た時に、かなりショックを受けました。
それは貧困のレンベルが違う事です。

私が46年前に南米のアルゼンチン奥地でインジオの部落で見た貧困は、
私が心に感じる貧困で、彼等にしたら貧困の意義が違うと感じました。
私が知り合いのインジオの母親に荷物を渡すように委託されて、部落を
訪ねて行くと、息子が働く農場の支配人と言う事で、歓迎してくれまし
た。僅かな金額と食料品でしたが、焚き火の前に座るように接待され、
焚き火の灰の中から出してきた卵を割って、木の葉に載せて、塩を添え
て食べるように勧めてくれました。

生活用品は僅かな食器と衣類が壁に掛けてあるだけの小屋でしたが、素
焼きの軒下に下げた水瓶からひんやりと冷えた水をグラスに入れて、飲
むように勧めてくれ、私が農場で生産するオレンジの実を持って来てい
ましたので、その中の熟れて美味しそうなオレンジを両手で揉んで、柔
らかくすると、それもオレンジの先を切ってその中の果樹のジュースを
吸う様にと、これも勧めてくれました。

何かと気を掛けてくれる母親の気持ちを感じて、凄く豊かな心を感じま
した。物資的な豊かさより、その時に心の豊かさが、より多く勝ると感
じた日でした。
彼等が感じる豊かさは、都会の金銭的な社会環境での豊かさより、時には
その金よりも砂糖や食料油、塩などを直接貰う方が喜んでいた様でした。
近所に店らしき物も無くて、貨幣価値は意味がなさなかったのです。

あの時に受けた私の心のショックは大きかったと思います。人間の幸せ
と家庭の幸福とは、社会で金持ちといわれる階層が、心豊かで全てが幸
福という環境に有るのか?43年近く前に、アフリカのモザンビークで
見た戦争難民の貧困状態が目に焼き付いています、現在でも世界の最貧
国というレベルです。
当時はもっと酷いポルトガル軍と民族解放戦線と内戦状態の時でした。
悲惨と言う言葉が、どの様な意味か理解させられた気持ちが致しました。

現代の格差、階級社会での勝ち組と負け組との段差を測る測定器は何かと、
つい・・・、考える事が有ります。

2012年7月3日火曜日

死の天使を撃て!

第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』


(13)消音拳銃ワルサーPPk

私は覚悟を決め、まな板の鯉となった。
ガタガタして見苦しい態度を見せるより、ふてぶてしい態度でマリオに
当たった。

私はトーストをバリバリと食べて、
「こなんまずいパンは食べた事がないーー!ましなクロワッサンなど
近所で買って来たら!」と、なじった。

マリオはどぎまぎしていた様だ、
「パンが古過ぎて固くて、味も素っ気もないーー!」と、もう一度言う
と、「陳ーー!近所のパン屋で買ってこい~!」と怒鳴った。

陳氏が上着を取り、財布を確かめてドアから出ていった。チャンスが来
た。先ほど殺気を感じた時、マリオが流し目を近くの机の引出しに注い
だ所を見逃さなかった。

確か何かあそこの中に凶器を隠しているに違いない、拳銃かナイフか手
近な隠し場所だ。
私はコーヒーにミルクをたっぷりと入れてカップを手にマリオの前に座
りなおした。
私が今度は少し質問するから答えてくれとマリオに言った。
無言でうなずいて了承してくれた。

標的は今も同じ場所に住んでいるのかーー!

銃は何を使用するのかーー!

一発で仕損じたならーー、二度のチャンスは有るのかーー!

現場からの逃走は誰が手助けして呉れるかーー!

3万ドルもの現金を一度に貰っても携帯出来ないから、海外逃走の為の
手引きや、飛行機の切符の手配はどうするかー!

最後の土壇場で標的が気が付いて逃亡してしまったら、少しは金を払
うのかーー!

200m以上離れた模型の家の射撃練習場は有るのかーー!

私はこれだけの事をマリオに突き付けた。彼はメモ用紙に書いていた。
書き終わると『フ-ッ~!』と溜め息を付き、コーヒーを飲み干した。

『何も答えられないのなら今日は帰るーーー!』と席を立った。
マリオは慌てて引き止めた。

陳氏が居ないのでこれ幸いーー!、押し退けてもドアから出ようとした。
マリオの顔色が変わり、私の襟を掴んで掛った。

ひょいと彼の手をかわして、合気道の要領で、利き腕の手の平を親指で
押して腕を捻って曲げた。

『ひ~!』と言う悲鳴がして両膝を床に付いてもがいていた。
私は左手を伸ばして机の引出しを開け中を見た。一瞬どきりとした。

そこには消音器を付けたワルサーPPkが有った。
拳銃のガンブルーはすれて片側はひかり、かなり使いなれた感じが見た
だけで分かった。
私はその拳銃を片手にして弾が装填されているか確かめた。

弾は装填され、安全装置を掛けて有った。私はマリオを突き放して床に
転がした。
そしてゆっくりと彼の顔に狙いを付けて言った。
『静かにしろ~!陳氏が帰って来るまでここで待てーー!』と命令した。

マリオは消音器を付けた拳銃の恐ろしさを知って居る様で,この日本人
の若者なら簡単に撃ちかねないと、感じている様だ。

確かその時点では私に凄い殺気が出ていた様だ。
マリオの顔面が蒼白になり、身体を固くしているのが私にも感じた。

私は電話の受話器を取り、ルーカス兄の仕事場の靴屋に電話した。
直ぐに出て来た。
ルーカスも側に居ると電話で教えてくれ、今日はこの店に遊びに来て
いると話してくれた。

ルーカスを呼び手短く出来事を話して助けを求めた。
彼はブエノスの地理には詳しくはなかったので、兄に頼んでラジオ・
タクシーを呼んで来る様にして貰った。

道と通りの番号を二度繰り返して教えた。ルーカスに最後に念を押し
て、『トラックから俺の恋人ちゃんも忘れずに持って来てくれー!』
と言った。

ルーカスが笑っていた。陳氏がそろそろ戻って来る頃と思った。 


(14)標的の抹殺交渉、

電話を置いて、窓の外を見るとそこに陳氏が紙袋を持って歩いて来る
のが見えた。
ドアのベルが鳴って私が開けてやらないので自分でカギを開けて入っ
て来た。

私が拳銃を持っているので、一瞬、『ギクリーー!』と身体をこわば
らせていたが、私がイスを進めると安心した様に座り、紙袋からでき
立てのクロワッサンを皿に出した。
マリオもイスに座り私の様子を伺っていた。
私は陳氏に『しばらくはこのマリオの拳銃は預っておくと話した。』
陳氏のポケット小型拳銃は弾を全部抜いて返した。

私はコーヒーをもう一度入れ直して、クロワッサンとコーヒーにミルク
をたっぷりと入れると、ゆっくりと食べ始めた。

私は陳氏に先ほどマリオが書いた私の質問を見せた。
彼も溜め息をついて何も答えなかった。
私は念を押して言った。『私は自分の命を守る時は抵抗して、反撃し
てどんなことをしても、たとえ人殺しをしても生き残る手段を探す』と
話した。

マリオがどんな事情で一人の人間の命を抹殺しようとするのか私には
計り知れない事だが、それなりの信念で行動していると感じたが、私は
いがみ合い、猜疑心を前提での交渉は出来ないと話した。

マリオもうなずいて聞いていた。せっかくの休暇をこんな事に使いた
くは無かった。しかし何か同情心が少し湧いてきた。マリオと陳氏に
私は提案した。

『貴方達が希望して抹殺しょうとしても、肝心の標的が住んでいるか、
 可能性も調べて見なくては何も話しの土俵にも乗れない』と言った。

マリオがうなずいて聞いていた。休みの間にパラグワイの現場を見て、
それから肝心の話しをして具体化する前、標的が実在するのか確証を
掴む事で話しは落ちついて決まった。

その時、ドアのベルが鳴って誰か来た様だった。
私はル-カスが来たと感じ、やはり彼が来た様だ。
私がドアを開けて中に招き入れた。ルーカスはしばらくは落ちつかな
い態度をしていたが、いつもの皮の肩掛けのカバンを持って来ていた。

私は彼をマリオと陳氏に紹介した。私は彼が現在もサルタのジャングル
で狩猟をしていて、軍隊時代は狙撃手で部隊一の射撃の名手であった事
を教えた。
マリオの顔色が変わった。私は一度、みんなでパラグワイに出かけて現
場を見て決め様と誘った。

了承され、明日の朝にセスナの軽飛行機で行く事に話しがまとまった。
私は話しが壊れても、3000ドルの報酬は欲しいと申し入れた。
それは受け入れられ、モレ-ノの飛行場から明日の朝8時に飛ぶ事が決
まり、私は知り合いの移住船の同船者達を尋ねて行く事を考えていた。

お土産を買いに出かけて行こうと思っていた。
マリオに弾を抜いた拳銃を返し、私はルーカスが持って来た自分の拳銃
をベルトに差して言った。
イザと言う時はこれを使うと明言した。緊張の中にも話しが決まった。

2012年7月2日月曜日

私の還暦過去帳(263)

子供の頃、夏の夜は縁台で、近所の古老の話を聞くのが楽しみ
でした。
その頃はまだTVも無くて、ラジオが唯一の娯楽で、NHKの
喉自慢の放送時間となるとラジオの前で良く聞いていました。
その当時は60年も前ですから日露戦争で出征した人がまだ生
きていました。

今からすると百年も前の話になります、古老が戦場でロシア軍
の当時発明されて実用化された機関銃に最初に対峙した時の話
をしてくれました。子供心に緊張と驚きと、戦場の悲惨さを覗
いた思いがいたしました。

日露戦争とは、明治37年(1904年)2月の開戦から翌明治
38年(1905年)8月のポーツマス講和会議までの18ヶ月
にわたり、日本とロシアとの間で戦われた戦争を言いますが、そ
の戦いに出征した兵士も1950年頃は、70歳以上の方が沢山
居ました。最初の戦いは小銃と大砲の戦いで、機関銃などが

戦場の最前線で出現して、突撃する兵士をなぎ倒す事が有ると、
戦場の戦いが大きく変わったと話していました。
友人の祖父でしたが、夏の縁台で昔話に聞かせてくれた事は、今
でも鮮明に覚えています。塹壕から飛び出して銃剣をかざして、
ロシア軍の陣地にあともう少しと言う時に、初めて機関銃で掃射
されて、何人もの兵士がなぎ倒されたと言っていました。

友人の祖父が話してくれた緊張は肌で感じたほどでした。しかし、
前もって士官から聞かされていた事で、瞬時に戦場から人影が消
えたと言っていました。全部の兵士が戦場の原野に伏せてどこに
人影が有るのかも分からない様で、頭の上に銃弾が飛び交い、ま
ったく動く事も侭成らないほどで、銃弾が途切れると、微かに負
傷者のうめき声がして、戦場の風に流れて聞こえていたと言って
いました。

近代戦の悲惨な始まりと思います、友軍の援護の砲撃が有り、負
傷者を引きずりながら逃げ帰ったと言っていましたが、とても映
画などが勇ましく見せる場面など、戦場ではどこにも無いと言っ
ていました。
現在ではイラク紛争の戦いで、完全防弾チョッキを着ての戦いで
も、多くの若者が一瞬に路肩で炸裂する爆弾で尊い命を無くして
います。

私が個人的に感じる事ですが・・・・、

戦争を無くす事。
人類のいがみ合いを無くす事。
宗教や信条の融和を図る事。
これなくして世界の平和は訪れないと思います。

2012年7月1日日曜日

死の天使を撃て!

第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』

(11)誘惑の供与

かなり酔って来て、テーブルの賑やかさは久しぶりの寛ぎとなった。
サルタの農場では毎日が激しい労働で、稼いだ金も使う事がなかっ
た。言葉を返すと使う場所さえ無かった。

食事はタダ、車はトラックであったが使い放題、燃料もドラム缶か
ら使い放題、金が出ることは無かった。
女を抱きたかったら、声さえ掛ければインジオの若いまだ17歳ぐら
いの、彼女達に言わせると、「結婚適齢期」だそうで、直ぐにデート
が出来た。
私も若かった時代で、金にも困る事もなく、インジオの若い女性から
見たら、同じ黒髪で顔付きも殆ど同じ感じがする、日本人の真面目な
働き者が独身でいたら興味があるのは私だけは無かった。

彼女達も私以上に興味を示していた。そんな事で男女の事に関して
は困る事は無かった。
しかしここのクラブは飛び切りの上玉が居て、こちらが気押されする
ほどの綺麗どころが居たから、それとまったく雰囲気がそこらの飲み
屋の感じのバーとは、比較が出来ない様な高級感が有り、バンドの生
演奏もその事を盛り上げていた。

程よく飲んで騒いで、小柄な金髪の若い女を側に寄せて、ダンスをし
ていた。陳氏も踊っていた。
だいぶ遅くなって陳氏が小声で「そろそろ外に出ようか」と誘って来
た。
マリオと言った中年の男もうなずいていた。
マリオが「これから俺の家で飲みなおす」と言って、若い女を連れて
私達を呼んだ。 私も陳氏も若い白人の女を連れて外に出た。

そこには高級車が待っていた。マリオが慣れたそぶりで女を抱きかか
える様にして乗りこみ、私達を手招きして呼んでくれた。

どこをどう走ったかは覚えてはいなかった。しかし高級住宅街のどこ
かで降りて部屋数の多い家で、脇に女を抱いてレコードを掛けて静かに
飲んで居た。
気がついたら陳氏もマリオも居なかった。窓が開いていたがそれを閉め
ると、側に金髪の女を引き寄せて胸に手を入れた。

大きな乳房が身体に似合わずブラジャーの中で小さく収まっていた。
邪魔な物を取り去り後は自由になったふくらみが、手の中で収まらない
大きさに膨れていた。
私はそれからは、若い男の奔放な本能を押える事が出来ずに、金髪の女
を身体の下に押さえ込んでいた。翌朝までの時間が凄く短い時間に感じ
た。
トロトロと寝て居た様だ、目が覚めた時は女は居なかった。
シャワーを浴びて外に出ると、着替えの下着が置いて有った。
着替えて廊下に出ると美味しいコーヒーの香りがして来た。音楽も聞え
ていた。

タンゴのリズムがして、そこにマリオと陳氏が居た。
イスを進めてくれ、コーヒーを注いでくれた。
果物とトーストにジャムを付けて出してくれ、昨夜のことなど何も無か
った様にして話を始めた。 


(12)抹殺の依頼、

私はコーヒーカップを手に庭を眺めていた。
小さな庭でも綺麗な花壇が作られて、季節の花が咲き乱れていた。

私は話しを遮り綺麗な花の名前を聞いた。ランの一種と教えてくれた。
その時、フトー! 父親の言葉を思い出していた。

『飲ませ、食わせ、抱かして、掴ませる時は注意してあたれ』と父が南米
に出かける時に、送別会の席で教えてくれた事を思い出していた。

今逃げ出すと必ずトラブルを巻き起こすと感じた。テーブルに戻り座りな
おすと、コーヒーを再度注ぎ多すと真剣に話しを聞くふりをして聞いてい
た。マリオが主導で話しをして来た。

『端的に言うと、一人の人間をこの地上から抹殺したい、幾多の怨念を晴
らす為に!』と言葉短く言った。

私は彼の言葉を遮り『難しい事や、理屈は要らないーー!』と語気を強め
て言った。
『そなん事には巻き込まれたくは無い』と言ってマリオの顔を見た。
側で陳氏が黙って見ていた。

しかし、無言の圧力が有った。

陳氏は『私では出来ないことだ、やれるのは貴方だけだ。』と言った。
『是非お願したいーー!』と、もう一度口を挟んだ。

話し方は丁重で真面目に頼んでいる感じで、私も興味が少し湧いてきて、
『抹殺の標的の名前やその前歴は聞きたくないが、場所はどこかーー!』
と聞いた。

マリオがゆっくりと話し始めた。

『場所はパラグワイとブラジルとアルゼンチンのパラナ河三角地帯の
国境付近で、現場はパラグワイ日本人の入植地域でアルトパラナから
少しイグアスの方に上がった場所だ。多分そこに今も住んで居ると思
うーー!』と彼は答えた。

『それだから射撃の腕が上手で、日本語を話し、百姓の強烈な個性を持
っている日に焼けて、筋骨隆々たる若者でなければ現場に近ずくことは
出来ない、誰もその条件を持っている人間は居ない、だいぶ捜したが一
人も居なかった。』とそう話すと私ににじり寄って来て、

『その標的にわたしの家族も親戚も全部殺されたから・・、そして幾多
の同胞がそいつの為に死んでいった。』

彼の目が潤んで泣きそうな顔になっていた。

私は言葉少なくーー、『ただの復讐ならご免こうむる・・!』ときっぱ
りと言い切った。

彼はハンカチで目頭を拭くと、『貴方は若いから・・、そしてアジア人
で、ユダヤ人の歴史も、迫害の歴史も、流浪の歴史も、何も教えては貰
う事無く日本を出て、南米の人種のルツボの中に入って来た人だ。』

彼は少し私を責める様に話して来た。

少し本では読んだ事は有るが、どこか遠い所の出来事で、私には関係な
いと言う心が強かった。
それと言うのも私の家系はお寺が先祖で、長男しか家を継がないから、
後は普通の一般市民としてサラリーマンとして生きて来たのであるが、

教えは『慈悲の心で、施しと寛容の精神』を祖母の時代から教えられて
いた。
『三つ子の心、百までも・・!』で、それを捨てることは出来なかった。

『復讐が復讐を呼び、殺し合う事が有意義か、未来の糧になるのか、
疑問が湧いてきた。』

江戸時代の敵討ちの免許状を持っての時代ではない、私は何を根拠で
抹殺ーー!暗殺ーー!するのかマリオに問いただした。

彼は黙ってしまった。

しばらく無言の時間が流れた。
その無言の時間は殺気となって私に感じた。

この家を承諾なしに出るとなれば、私の命にも関る事になると、その場
の雰囲気を肌で感じた。