2020年12月31日木曜日

私の還暦過去帳(732)

移住の昔話、(42)

その夜、日本人会宿泊所のベッドに入ってから、買ったばかり

の拳銃を見ていました。ブラジル製のレボルバーで10㎝の

銃身、弾が小さいので弾倉は8発でした。

弾も少し貰っていたので、空いた写真フイルムの筒に入れて

トランクに入れていました。

シーンと静かな部屋で護身用に手に入れた拳銃が何か心の奥に

自信と勇気が湧いてきた感じでしたが、しかし、銃器を手に

する時に、戒めをしてくれた方がいましたので、その方を思

い出していました。

その方は戦争中は実戦の戦いも幾度となく潜り、生き延びて

来られた方でしたので、その戒めは心に刻んで残って居ま

した。

銃器は最後の最後まで見極めて使用して、安易に使うことは

慎むべき。命の危険の時は躊躇せずに発砲して必ず相手を倒す

という目的で使う事、相手が銃器を持って至近距離で一人で

いる時は、弾倉の弾を全弾使い切っても相手を倒すと言う事で

銃器を使う事、不意打ちで撃たれて、相手がどこにいるのか分

からない時は身を安全に隠して、相手にこちらも銃器を持って

居る事を応戦して知らせて、相手の出方を慎重に確かめて行動

して、予備の弾を持っていたら、弾倉に弾を詰め替えて、補充

して、必ず用心して相手の動きを見る事などを、彼の実戦の戦い

で学んだ事を私に教授してくれましたが、その戒めを聞いてい

なかったら、私の銃器を持つ事に大きな違いがあったと感じて

いました。

南米に移住すると言う事が分かっていたので、郷里に帰郷した

時に、隣のご主人は戦時中は中野学校を出て、南方のマレーシ

アで、イギリス諜報機関の摘発の仕事をしていた人で、柔道、

空手、剣道、逮捕術などの段を合わせると、凄い段を持って居

た方でしたが、その方が拳銃の扱い方、隠し方、射撃の方法

など詳しく教えてくれ、空気銃で照準やあらゆる射撃の方法を

教えてくれましたが、実戦での戦いで学び、相手を撃って、生

き延びて来られた方の教えは貴重でした。

その教えは南米生活で幾多にも役に立ち、身を守り、生き延

びる事に大きな助けになっていたと感じていました。 彼は

マレーシアの原住民の様な色黒い小柄で、目立たない人でしたが、

私達が何人でも一度に襲い掛かっても、簡単に投げ飛ばしてしまい、

棒切れ一本でも持つと、絶対に近寄れない凄腕の人でした。

終戦後はマレーシアで英国諜報機関の摘発でスパイの家を取り囲

んだ時に、抵抗され、撃ち合いになり、相手が無線で情報を緊急

送信始めたので、軽機関銃で家を掃射して、スパイのグループを

全員掃討したので、戦後、戦犯でモンテンルパの刑務所で服役して

いた人でした。

夜も更けて自分の拳銃を手に持ち、撃鉄を上げて天井を向けて狙い

、深呼吸をして空撃ちで引き金を引くと、ピーンと乾いた音が響き

これからの人生出発の号砲の様な感じに聞こえていました。

次回に続く、





2020年12月30日水曜日

私の還暦過去帳(731)

 移住の昔話、(41)

今日は隈部氏の4男の農場まで、自分一人で訪ねる事にし

ていました。

国道24号線のへネラル・ロドリゲスの町に近い所に農園

がありましたが、その当時は牧場と農場が多くあり、蔬菜

花卉の近郊栽培農家の日本人が多く居ました。

隈部氏からバスの番号と降りる停留所の名前を紙に書いて

貰っていたので一人で日本人会宿泊所からレテーロの停

車場から電車で行きましたが、降りてバス停が分からない

時は、駅前の洗濯屋に聞けば教えてくれると言う事を聞い

ていたので気が楽でした。

初めての郊外に行く電車に一人で乗車しましたが、日本と

違って物売が来て、ギターの音楽を演奏して金銭を貰

う人、ジプシーの様な人の物乞いも居ました。

ホセ・C・パスの電車の駅前に、洗濯屋があり、チントレリ

ア・東京と日本語の名前の洗濯屋で、バス停を聞くと、店の

斜め前に停車すると言う事で、バスは40分程度の間隔で来

るので、待っていなさいと言う事で、ご主人が大型のプレ

ス・アイロンを掛けているのを見ていました。

ご主人が「奇麗な日本語を話すので、貴方は花卉実習生で

日本から来たか・・」と聞いたので、隈部氏を訪ねて行

くと言うと、「あの人は家族で昔にパラグワイから来た

人だ」と言っていたので、私はこれからパラグワイに単身

移住する者だと言うと、内にもパラグワイから転住して来

た若者が見習いで働いて居る」と言うと、奥の方に、声を

掛けて、若者を呼んでいました。

彼は戦後の移住者で家族でアルゼンチンに再移住してきて、

家族は花卉栽培をしているが、私は3男で、温室仕事が嫌

いなので、家を出て今は住み込みで、ここで働いて居ると

話していましたが、フラム移住地からの出身だと言う事で

したが、仕事を覚えたら結婚して独立したいと言う事を

話していました。

私がアマンバイの農協に行くと言うと、彼はジョンソン耕

地の入植者を知っていると話して、彼等はアフリカ丸で日

本から移住して来て、サントス港下船で、4日ばかりも掛

けて薪を炊いて走る機関車でサントスから入植地に来た人

達だ」と教えてくれました。

バスが来るまで少し話し込んでいましたが、別れ際に、パ

ラグワイでコーヒーは霜が降りるので無理だと話して、ジョ

ンソン耕地のコーヒー農園も大霜にやられて殆ど成木が枯れ

て、一度破産した状態だったと説明してくれました。

バスが来たので、そこで会話が終わりましたが、バスの中で

下車するまでその話を考えていました。

隈部氏の4男の農場のバス停は、24号線国道のKm標識が

バス停になっていて、運転手が指さして、この先に日本人が

沢山住んでいると教えてくれましたので、直ぐに農場が分か

り、隈部氏ご夫妻が迎えてくれました。

息子さんの奥さんは日本の郷里、熊本から呼び寄せで、アル

ゼンチンに移住して来た方でしたが、すでに2児の母親で、

郷里熊本は周りが全部山ばかりで、ここは2時間車で走って

もパンパンの草原だと笑っていました。

郊外に出ると地平線に一直線の道路が消えて、アルゼンチン

広大さが肌で感じる様で、昔は植林の林の森も無く、広大

なパンパの草原がルハンを過ぎれば広がっていました。

ランチをご馳走になり、車で近所の日系農家の農場を見学

に歩き、その豊かさと、規模の大きさに驚いていました。

帰りは車で降りた駅前まで送って頂きましたが、隈部氏が、

「パラグワイと比較して、ここでは原始林伐採から始めな

くても良く、井戸を掘れば良質な地下水が得られ、四季の

変化があり、気候も恵まれて居る」と隈部氏が話した事が、

いつまでも頭に残って居ました。

その夜、拓大の南米視察の学生達、3名と夕食を食べまし

たが、ブラジルのアマゾンで護身用に買った拳銃を売りた

いと見せられましたが、日本には持ち帰れないので、これ

からパラグワイに移住して行くのであれば買って下さいと

言われて、小型で扱い安く、22口径の弾がどこでも買え

るので、安い値段に引かれて買い取りましたが、その拳銃

は私が南米滞在の間は私の護身用として私と共に身近にあ

りました。

次回に続く、





2020年12月29日火曜日

私の還暦過去帳(730)

 移住の昔話、(40)

アバスト市場に行き、仲買の金城氏から、アルゼンチンの

青果の流れを学んだ事は、私にはこれからの人生の方針を

決める根本的な出来事になりました。

農業は工場やオフイスに就職して働くのとは大きな異差が

あり、ましてアルゼンチンの人口の約半分近い人口がブエ

ノス州に集中している人口形態では、消費人口が密集して

200km以内の衛星都市にも、アバスト市場から毎日の

様に定期便のトラックで運送され、金城氏が話していたの

ですが、良い物はまず、ブエノス市内の高級レストランや

一流ホテルの食材も需要が多量にあり、そこに引き取られ

と言う事で、豊かな近郊農業で日系人が営農が成功して、

再投資して、牧場や植林など豊かな未来ある生活をしてい

る実態を、翌日の隈部氏の族の農園に行き、それを現実

に目にすると、昨日パラグワイから再移住の下見に来てい

る斎藤氏、折本氏両名の話を聞いていたので、自分は何を

しなければならないか!、自分の目標は何か・・、それと

目標に向かう計画はどの様にすればよいか、ただ人に使わ

れてオフイスや工場で働く事と根本的に違い、アフリカ丸

に乗船して居て、サントス港で下船した人は日本にビジネ

スで里帰りしていた人で、その人が話していた事を思い出

していました。

彼は日系旅行社で長きに働き、若い時は楽しく興味もあり、

自分もエンジョイして旅をして、気が付いた時に周りを見

回すと、自分はアパートに住んで、独身で財産らしき物は

自分の自家用車だけで、考えて結婚して輸入雑貨の店を開き

店は奥さんに任せて、自分はセールスで歩き、ビジネスを

成功させ、再投資は管理人を雇い、柑橘類の農園を持って、

将来は果樹農園を広げて永年作を中心に伸びて行く計画だ

と話していました。

その様な話を聞いていたので、これからどこに腰を据えて

自分の青春と若い力と、情熱を注ぐ事で築き上げる農園

経営は、これから家族を養い、子供を教育して、次の世代

まで営々と続く基盤の農園になるので、考えも慎重でした。


隈部氏が「幾ら生産しても、販路が無ければ作物は無価値

で、タダ働きになるのと同じで、営農資金が無駄になり、

それと1回の収穫に、10ヶ月も家族で営々と働き、その

時間的損失も金には代えられない貴重な時となる」と言う

話には、心にグサリと刺さる物がありました。

実際にパラグワイの営農が破綻して、ゼロになる前に、再

転住をする事を実行している人の行動と、真実の話には、

学問では教えてくれない、実地の学びでした。

その夜、私はじっくりと、これまで聞いた話をまとめて、

これから何をしなくてはならないか、一度限りの人生時間

を最大に有効に使う事を真剣に考えて、中々眠りに就く事

が出来ませんでした。

次回に続く、





2020年12月28日月曜日

私の還暦過去帳(729)

 移住の昔話、(39)

翌朝目が覚めて日本人会宿泊所の周りを散歩して歩いて来

ました。カフェー屋で皆が朝食らしき物を 食べているので、

見るとブエノスではメディアルーナと言う、クロワッサンの

パンと、コーヒーか、ミルクコーヒーで食べている人が多

くいました。

大きなお椀ぐらいあるコーヒー茶碗に、給仕がコーヒーと

ミルクのポットを両手に持って、好きなだけの分量を注文

に応じて入れていました。

早朝でまだ食欲が無いので、見るだけでしたが、通りは

全部一方通行で、朝のラッシュアワーが始っていました。

隈部氏が迎えに来て、朝のコーヒーは飲んだかというの

で、まだだと言うと、近くに美味しいコーヒーが飲める所

があると言う事で、ぶらぶらと歩いて見物しながら行きま

したが、ブエノスが南米のパリと言われるのが分かりま

した。

まだ石畳とレンガ造りの建物が並び、その当時の格式の

あるレストランや、カフェーなどはネクタイをしていな

いと入店を断られ、店によってはネクタイが無い人に、店

がこれを使って下さいと、出して来ていました。

隈部氏と行ったカフェー屋は、もちろんの事にネクタイが

必要な店で、イスは革張りで、豪華な調度品が飾られ、格式

ある店で、隈部氏がネクタイを締めて背広が必要と言った

事の意味が分かりました。

昔のブエノスを知る者には、現在のブエノス市内には大きな

貧民街があり、近隣諸国から流れ込んだ経済難民に等しい

人が、ゴミを漁るのを見ると、今では違和感があります。


ボッカの港町にも行き、ここは昔のヨーロッパからの移民

の上陸港だった場所で、イタリア人の町として、タンゴの

リズムが聞こえて来るカンティーナの店がある場所でした。

この町にも沖縄県人の洗濯屋があり、戦前の昔から、沖縄

からペルーや、ブラジル、アルゼンチンに移住して来て、

生活の基礎を作り繁栄している姿を見た感じでした。

私が訪ねて行ったパラグワイとブラジル国境からマットグ

ロッソ州に入った町で沖縄県人が、ブラジルのノロエステ

線、ソロカバナ線の工事敷設労働者として昔に働いた子孫

が居て、沖縄ソバが食べられた事にはお驚きでした。

市内を見て、地下鉄でアバスト中央市場に行きましたが、昼

過ぎで雑踏の混雑は在りませんでしたが、広大な広さがあ

り、どの様な蔬菜類が入荷しているのが分かり、隈部氏が

沖縄県人の市場仲買人を紹介してくれ、一緒にランチを食

べましたが、そこで出されたサラダが、タンポポの葉のサ

ラダには驚きましたが、食用で食べ慣れると、その苦みが癖

になると聞いて、私も食べていました。

仲買の金城氏が私にアルゼンチンの青果取引の概略を説明

してくれ、ボリビア国境のサルタ州、フフイ州からもバナ

ナや熱帯果樹が入荷して、冬のシーズンのピーマンやトマ

ト、ナスなどは全部、北部州から入荷すると説明してくれ

ました。

今ではアバスト青果市場は、首都ブエノスに人口が増え、

都市が拡大して、今では郊外に大きな中央市場が移転して

開かれていて、アバスト市場はショッピングセンターに代

わっています。

金城氏はブラジルからはトマトなど青果がリオグランデ、

ド・スールからトラックで来ると言う事でしたが、パラグ

ワイからは殆ど、ブエノス市場には来ることが無いと話し

いました。

長年の経験がある金城氏の青果取引の話には私には知る事

が沢山あり、有難い話でした。

このアバスト市場に来て、消費人口が首都ブエノスには多く

あり、ブエノス・アイレス州にアルゼンチン人口の5割近い

人間が住んでいると言う事を聞いて、驚くと同時に、金持ち

の上流層が集まり、教育、文化などの欧米社会と繋がりが

あり、消費文化もA-アルゼンチン、B-ブラジル、C-チリーと

ABCの順序で並んでいると聞いて、驚くと同時に、首都に集

まる蔬菜、青果の多くは、ブエノスから近郊衛星都市にトラ

ックで運ばれて行くと聞いて、ブエノス近郊農家の繁栄

分かり、私には今日の見学が、今後の人生目標に最大の収穫

でした。

次回に続く、




私の還暦過去帳(728)

 移住の昔話、(38)

その夜、皆とレストランから宿泊所に戻ってから、パラグ

ワイからアルゼンチンに再転住を計画して、視察に来てい

る、斎藤氏,折本氏と、パラグワイの日本人移住者の現状

聞いていました。

最初にエンカナシオン郊外に入植して、輸出製品になる油桐,

現地ではトングーと言うペイントの原料になる永年作を植え

付け、その間にトマトやスイカなどの現金作物を植え付けて

生産していたが、油桐の製品も石油化学製品が安価に大量に

生産される様になると、販路が全く無くなり、近郊野菜栽培

も直ぐに生産過剰になり、エンカナシオンの町に日本人が

行商に野菜類を持って売り歩くようになり、販路が無く、パ

ラグワイと言う国自体が、人口が少なく、自給自足の様な国

の市場形態では、営農すればジリ貧となり、日本から持って

来た営農資金も無くなり、最後の手段でアルゼンチンの再

移住を考えて、視察に来たと話を聞いて、今まで私が夢見て

たパラグワイと全く違い、隈部氏が「まず現地を見て、歩

いて、比較検討して、実際の現実の世界を見なくてはなら

ない・・」という言葉を思い出していました。

恩師に「過去を見て、現在を考えて、将来を予測する事が

賢者の思考だ。」と教えられた事を思い出していました。

折本氏が「妻の実家の家族も両親がブラジルに再移住して、

子供達の1人はブエノスで仕事をしていて、一人は私と結婚

して、希望を持ってパラグワイに来たけれど、資金も時間も、

将来の夢もパラグワイの大地に吸い取られ、消えてしまっ

た。」と彼が話したのを聞いた時は少しショックでした。

斎藤氏は満州開拓団の引揚者で、戦後、政府計画移民の斡旋

でパラグワイに再移住して来た方でした。

彼は営農が破綻して、老齢になり先を考えて娘がブエノス

で仕事を始めたので、再移住を家族で話し合い、視察に来た

人でした。

パラグワイのイグワス移住地から来ていた七海氏の家族は

現地で、入植したイグワス移住地に入り、遅れた現地の教育

情勢と、移住地の教育が直ぐに望めないので、子供の将来

を考えて、パラグワイで子供に良い教育は無理と判断して

子供達の将来を考えて、日本に帰国を考えてブエノスま

で来たが、ブエノスの首都は教育の質も良く、自分が

理想とした営農も出来ると言う事を感じてその頃は郊外

の土地も安くて、土地を探していた頃で、私には南米

上陸初日から、自分の将来に直接掛かりあう事柄の重大

さに身が引き締まる感じでした。

その夜、ベッドに入り、今日の出来事を考えていました

が、自分は多くの人の話を聞いて、その体験談を比較す

る時間と、これから旅に出てその実態を自分の目で確か

めることが出来て、その上に自分の将来の方針を決める

事が出来る時間的余裕もあることを感じていました。

明日からは自分の運命を決める旅が始まるということで、

しばらく寝付く事が出来ませんでした。

次回に続く、



2020年12月26日土曜日

私の還暦過去帳(727)

 移住の昔話、(37)

その夜のアフリカ丸の夕食が少し豪華でした。

今回、航海の最後になる夕食で、皆でビールで乾杯していました。

明日は皆がそれぞれの目的に目指して散って行く事が分かっ

ていたので、その感慨も深い物でした。

ボリビアのラパスに行く者、疑似トラコーマの為にサント

スを迂回してブラジル内陸のマットグロッソ州から入国す

る者、私の様にパラグワイに単身移住する者、親戚の呼び

寄せでアルゼンチンに行く者、日系企業にブエノスで就職

する者、花卉実習生で入国する者、アルゼンチンからの祖

国訪問者などが残っていました。

全部合わせても食卓に並ぶのは1テーブルだけで、寂しい

物でした。

その夜は飲んだビールに少し酔い、昨夜余り眠れなかった

ので、早めに荷物の整理も終わり安心して寝ていました。

翌朝、早朝に目が覚めて甲板に出ると沖合にモンテビデオ

の町影が微かに見えて、海の色が変色して、ラプラタ河

の河口に到着した事が分かりました。

船員さんがアルゼンチン領海に入れば、日本に電報を

送れなくなるので、早めにブエノス到着の電報を出す

希望者は電信室に申し込む様に教えてくれたので、家に

「無事ブエノス到着す、これからパラグワイに向かう」と

打電しておきました。

日本船からの電報は国内料金扱いで、間違いなく実家

に届いていました。

私の船内荷物は船で作った木箱とトランクで身軽で、長

い航海で寝たベッドを整理して、ラプラタ上陸の全ての

準備が出来ていました。

船は水先案内人が乗船すると、濁ったラプラタ河を遡上

して、昼頃にはラプラタ港に到着して接岸しましたが、船

は早めにランチを出してくれ、税関の検査も船内で終わり、

荷物も移住者だと言う事で簡単でした。

船倉荷物も船の岸壁にトラックが来て直接積み込まれて、

殆ど検査なしでした。

短時間に全てが済んで、船員さん達に見送られて、岸壁に

待っていた小型バスに皆が乗り込むとすぐに出発して、

ブエノスの日本人会宿泊所に向かいました。

ラプラタ港の海軍施設の横を通過して広い道を1時間ほど走

りブエノス市内に入り、レンガ造りの建物が並ぶ市街地を

通過して、日本人会館の前に到着して、そこで明日の出迎

えの約束をして隈部氏ご夫妻や、ミゲール氏達は迎えの車

で自宅に戻り、実習生達も、出迎えの受け入れ先の家族に

迎えられて去って行き、ブラジル行きの数名は飛行機の関係

でタクシーでホテルに行き、残った者はボリビア行きとパ

ラグワイ行きの私達2名でした。

荷物もトラックから降ろされて各自に配分され、残った荷

物はボリビア行きの彼の茶箱3個、私のドラム缶と茶箱1個

でした。

荷物類は全部日本人会宿泊施設の倉庫に入れられ、汽車が

出発まで保管されるので、それが終わると出迎えていた移住

事業団の係も帰って行き、急に寂しくなりましたが、宿泊の

割り当てられた部屋に行くと、日本人の先客がいて自己紹介

をしてくれ、会館の内部と、近所の店やレストランなどを紹介

してくれました。

会館の日本食のレストランは値段が高いので、皆は近所のイ

タリア人の大衆レストランで食べていました。

その時の宿泊者は当時のメモ帳を見ると、日本人の拓大南米

学生視察者が3名、パラグワイからのイグワス移住地から家族

で来た1家族、同じくパラグワイからアルゼンチン転住で

下見に視察に来ていた2名でした。

船からトランクと私が作った木箱だけで部屋にそれをかたずけて、

宿泊施設のホールで皆と自己紹介して話をしていましたが、直ぐ

に私が作った木箱はパラグワイから来ていた家族に事情を聞いて

差し上げていました。

その夜は皆と、近くのイタリアの大衆レストランに夕食を食べ

に出ていましたが、並んでテーブルに座り、皆で同じテーブルを

囲み、注文の仕方、食べ方などを教えて頂きました。

スープはお代わり自由で、ワインは1本ボトルが出され、飲んだ

だけ請求されると言う大らかさ、焼き肉も、魚の唐揚げも美味し

く、量が多くてパンも焼き立ての熱い物が出て、そのパンも2個

までは無料でした。

そのレストランは私がアルゼンチンに滞在していた間は、バスに

乗っても長く食べに来ていたレストランになりました。

その時、パラグワイからアルゼンチン転住を考えて視察に来てい

た2名に食事のテーブルで話を聞き、宿泊所に帰ってからも夜が更

けても話し込んでいました。

それはパラグワイの、その現実の実情を身を持って体験して来た方

の真実の話を聞くことが出来たからです。

その2名の方とは、それ以降、亡くなられるまでお付き合いがあり、

その家族とは今でも56年の歳月を経てもお付き合いがあります。

次回に続く、












私の還暦過去帳(726)

 移住の昔話、(36)

海を見ながら私は真剣に将来の事を考えていました。

私は18歳と3カ月で東京に出る私に、お守りとして5円玉

を持たせてくれましたが、その後、私は実家に合計で3カ月も

生涯で戻る事はありませんでした。

その5円玉を手に握り締めて朝日に突き出して「やるぞー!」

吠えていました。

これからは自分の肉体と精神力、忍耐力だけが南米に生きて

行く力だと考えていました。

朝食が終わると、船員さんがポルトアレグレの沖合を航海して

いると話していましたが、明日はウルグワイのモンテビデオ

沖を通過してラプラタ河に入ると教えてくれました。

ブエノス港はストが解決しないのでラプラタ港停泊になり、

下船したらバスでブエノスの日本人会宿泊所に行く予定だと

知らされ、荷物もトラックで同時に運ばれて来ることになり

ました。

パラグワイ行きの国際列車も、ストの影響で、今週は中止に

なり、来週に出発することも知らされ、5日間ほど出発まで

首都のブエノス滞在が決まりました。

朝食後に隈部夫妻とこれからの日程を詳しく、詳細に紙に

書いて計画していましたが、ブエノスに詳しい隈部氏の立案

で、初日はブエノス市内見物と、アバスト中央市場などを見

して、2日目は隈部氏の4男の農園に行き、周りの日本人

農家と農場を見ることが決まり、3日目も同じくブエノス周

辺の日本人が多く住んでいる花卉栽培と蔬菜農園を見学に行

く事が決まり、4日目はパラグワイに持って行く荷物と隈部

氏に預ける荷物を分けて荷作りする様にして、5日目は朝か

移住事業団の係と駅に行きパラグワイ行きに荷物を預ける

事まで係が立ち会うので、それが済んでから、隈部氏が交渉

して2男宅に荷物を3個運ぶと言う事が決まりました。

国際列車は午後に出発するので、身軽に歩けて、荷物が無い

で気が楽で、バックサック1個で身軽に各地を歩ける様

にしていました。

そのことが私が多くの専門書や、種子類、工具などを何も

失くす事無く、南米生活を始める事に繋がりました。隈部

ご夫妻には今でも私の若い前途を案じて、自分の南米生活

の長き経験から忠告してくれた事に感謝しています。祖国

訪問の帰りに隈部夫妻に巡り会った事は、私の南米での有

意義な生活と、これからの将来に無駄な人生時間を使う事

無く、的確な目標を与えて下さったと今でも思っています。

私が横浜の移住斡旋所に居た時に、荷物を詰めていたとき、

1本のドラム缶を購入したので隙間が沢山あるので、近く

で移住者相手の店で、南米ではその頃、農作業で地下足袋

を使うので、買って持って行けば、重宝して、高く売れる

と言う事で、20足ばかり隙間に日本人が一番多く買うサ

イズを買い、入れて来た物がありました。

隈部氏に聞くと、日本人会の宿泊所に移住者から日本から

持って来た物を買いたい人が来るので、その時に売れば良

いと勧めてくれましたが、これが高く売れて、これからの

行動資金になり、大きな利益になりました。

その夜、ミゲールが何か法律問題で困った時は手助け出来

るので訪ねて来るように、親切に住所を書いてくれました

が、後でパラグワイからブエノスに戻り、労働許可証を取

るときにお世話になりましたが、彼の親切には今でも覚え

ています。

多くの方に出会い、親切に忠告をして下さり、他国で一人

旅に旅立つ私には貴重な、大きなプレゼントでした。

明日はラプラタ港到着になり、その準備を少ない荷物なが

ら始めていました。

次回に続く、


2020年12月24日木曜日

私の還暦過去帳(725)

 移住の昔話、(35)

昨夜は隈部氏の言葉を考え込んで、よく眠れなく、早朝の

甲板に出て、これからの人生の行く先を考えていました。

大西洋の海風は強く、娯楽室の椅子に座り限られた人生の

この先の計画を考えていましたが、私の荷物はドラム缶と

茶箱、トランクの3個で身軽でした。

隈部氏が、パラグワイ行きはチャカリータ駅から出るのだ

が、2男が近くでクリニング屋を開業しているので、荷物は

そこに置いても問題ないと言ってくれたのを考えていま

した。

ブエノス港到着は直ぐ目の前です。ストで遅れてもラプラ

港も側で時間的にはさほど掛かることは無いと考えて

いましたが、日本から持って来たバックサックがあるので、

それを背中に、パラグワイ全土、アルゼンチンも見たい所

は自分の目で見ておきたいと心に感じていました。

何も見もせずに、自分の将来の計画も、予測も、特にこの

南米では政治情勢と、インフレとそれに加えて世界情勢判断

が自分の生き方を決める最重要になると思いました。

海を眺めていると、終戦で家族と台湾の港町、基隆から引き

揚げ船で一番良い洋服、一番良い靴、一番好きな帽子、背中

にリックを背負い、肩から水筒を下げて、引揚の輸送船に

急なタラップを登り乗船したことを思い出していました。

難民と同じ格好で、全ての家財道具なども、最後までお手伝

として働いていた台湾、高砂族の家族に残して来たので、

最後に輸送船に乗船するまで、高砂族の家族が食料などを

運んで来ていましたので、台湾では家族が食料に困る事は

在りませんでしたが、輸送船の食料は赤飯だと思っていた

ら、高粱飯で赤く染まり、台湾の蓬莱米を引揚船に乗船す

るまで食べていたので、食べられませんでした。

両親が苦労して台湾に築き上げた生活基盤も財産も、職も、

家財も全て無くして着た切りでの引揚で、最初から郷里で

スタートした事を考えれば、自分はまだ若く、夢があり、

大きな南米と言う希望の大地に、夢を築くことが出来る幸

せさを持っていました。

引き揚げて来て、郷里の福岡県の大牟田市に祖父の家が有

ったので炭鉱町に育ち、台湾は標準語を話していたので、

九州弁が話せなく「お前はチャンコロか‥」といじめられ、

殴られて強くなり、度胸もあり、喧嘩も強く、子供の頃か

ら、いつかこんな日本から南米に移住して大農園を持つ夢

がありました。

戦後の食糧難で食べる物も苦労していた母親を見ていたの

で、食べると言う基本に苦労する反発も心にあり、配給の

固パンをかじり、生芋をかじり、川で採って来たザリガニ

やシジミ、小魚などを子供仲間で採って来て食べ、バッタや

罠で捕ったスズメなどを焼いて皆で食べた事を思い出して、

母親の「こんな狭い日本で食べる事に困る様な生活ではな

く、子供達は世界に出て人生一度しか無いから、好きな様

に海外に出て生きて行きなさい、」と言う言葉をいつも心

に秘めていました。

それで三人居る姉弟の2人の内、姉は50年以上も昔にドイ

ツに移住して今では帰化してドイツ人として骨を埋める

事で住んでいて、私は世界を歩き、3カ国で永住権を取り、

アメリカに帰化して、ここに骨を埋める覚悟で住んでい

ますし、去年は郷里の里に埋葬している両親の遺骨も

アメリカに持ち帰り、我が家族はアメリカの大地に生き

て、子孫を繁栄させたいと願っています。

次回に続く、






2020年12月23日水曜日

私の還暦過去帳(724)

移住の昔話、(34)

翌朝、船のエンジンが始動して、サントス出航の準備が始まり、
朝食もそこそこに甲板に出て見ていました。
白い船体のイタリア船が側の波止場に停泊して、大勢の船客が
下船しているようで、早朝に接岸した様でした。
イタリア・フランス・スペイン・ポルトガルの港に寄港して
ブラジルに到着しているのでアフリカ丸と比較にならない様な
多数の船客が居る様でした。
甲板でブエノス下船の引退した弁護士のミゲールが話してくれ
ましたが、サントスからブエノスにも寄港すると教えてくれ、
日本船と比較できない様な沢山の移民が乗船して居ると説明
してくれました。
しかし、ブエノスでは今はストライキで港が閉鎖されているので、
イタリア船もブエノス港は避けてラプラタ港に行くかもしれない
と教えてくれました。
サントス港は私の青春に大きな印象を与えてくれた港でした。
ガスライターが取り持つ縁で、マリアと知り会い、これからの
人生航路に良い経験になりましたが、彼女から貰った十字架は
お守りとして、それから長く私と南米生活を共にしていました。

アフリカ丸はサントス港からは僅かな人の見送りだけで、入江
を外洋に向けてゆっくり動き出しました。
サントス海岸を今度は右側に見て、沖合に出ると、まずは船の
ゴミを沖合に外洋投棄していました。
波間にサントス港が見えなくなると、良質な積み荷の枠木を貰い
荷物入れの木箱をトランクから大工道具を出して作っていました。

ランチ時間を挟んで夕方までには出来上がり、ブエノスに上陸
して、ブエノス日本人会の宿泊施設に滞在して時に、パラグワイ
の移住地からブエノス郊外に転住して、宿泊して土地を探してい
る方にその木箱は、ブエノスにパラグワイの荷物を整理して来た
ので、増えた荷物の入れる物が無いと言うので、プレゼントして
いましたが、長く使用してくれ、15年ほどしてブエノスを訪問
した時に、モレーノ近くの農園で、その時は温室栽培の花卉栽培
をされていましたが、奥様が貴方に頂いた木箱はまだ使っています
と見せてくださった時は、驚きと同時に、丁重に作っていた木箱
が、いまだに使われていたのには、嬉しかった覚えがあります。

私達独身者は荷物も少なく、下船する用意も洗濯物をこれからの
長い旅の用意に洗う事ぐらいで簡単でした。
その夜、夕食も終わり皆でこれからのブエノス下船してからの行
動を話していた時に、隈部氏が、「パラグワイに行く国際列車は
荷物の中身が抜かれ、盗難も多く、移民が持ってくる荷物は特に
狙われて被害にあうので、それと日本人などはパラグワイに行く
ので、荷抜きされても現地に入植して初めて気が付くことが多く、
過去にも貴重な道具類、台所用品の鍋や食器類まで盗まれていた」

と教えてくれましたが、私がアマンバイ農協に行くと言う事を
知っているので、その時、隈部氏ご夫妻が揃って、「若い貴方の人
生を賭ける場所か、まず見て来たからにしたら良い」と勧めてくれ
「アマンバイ農協とフラムやチャベス、アルトパラナ、イグワス移
住地も全部見て、それから首都のアスンション郊外の日本人の近
郊農業を見てからでも遅くはないと強く勧めてくれました。

今回、ブエノス上陸したら、首都ブエノスアイレス近郊農業も見て
比較したら、次の人生の生き方も決めることが出来るとも、勧めて
くれ、比較と言う対象を持つことは人生の方針を決める一番重要な
指針だと言う事を夫妻で強く私に教えてくれました。

隈部氏が「我々家族が、パラグワイに最初に入植して、営々と築き上
げた農場を捨ててまでアルゼンチンに再移住した事は、その意味が
分かるか!!、と聞かれて、少し呆然として考えていました。

そして、隈部氏が「人生は一度、若い時代も一度、若い気力がある
時も一度、夢を大きく膨らませて物事に取り組める時も1度、
人生の夢も衰え、身体も衰え、精神的にも衰えが直ぐに来る事を
考えれば、今は何をしなくてはならないか、貴方が良くこれからの
人生を考えて決めなさい!」と論されて下さいました。

私はその夜、隈部氏の言葉で寝ることが出来ませんでした。

次回に続く。








2020年12月22日火曜日

私の還暦過去帳(723)

 移住の昔話、(33)

ポルトガルの魚料理は、ここサントス港では新鮮な魚が手

に入るのと、それとポルトガル系の人も多く、長い伝統の

味だと感じていました。

マリアにこのレストランを紹介して貰ったことは私には嬉

しい事でした。皿からはみ出す様な大きな唐揚げの魚には

驚きましたが、ゆっくりと食べて食後のコーヒーも飲んで、

マリアと寛いでサントス港最後の夜を過ごしていました。

レストランを出てのんびりと街中を歩いて、昨夜のバールに

行き、外のテラスでタバコなどを吸っていましたが、マリア

ガスライターを今日はハンドバックから取り出して、火を

付けてくれました。

そこで片言ながらマリアと話していましたが、その当時は

婚約すれば恋人と旅行や泊まりに来ても問題なく、彼女の

隣の部屋の友達も婚約している恋人が泊まりに来て、今夜も

泊まっていると言う事で、昨日飲んでダンスしていたバール

に行き、彼女からステップを習い少し上達したサンバを

彼女と踊って楽しんでいました。

今夜は酔っていなくても彼女の腰やプリプリしたお尻を

触ってリズムに乗っていましたが、側で踊っているブラ

ジル人カップルなどはもっと過激なポーズで二人で踊り

ふざけていました。

彼女も私も楽しい時間で、明日は私がサントス港を離れる

と言う事もあり、今夜限りのマリアとの有限の時間が貴重

で、マリアも明日は仕事で、あと僅かででお別れという時

になり、夜も更けて踊り場を暗く落として音楽もスローに

変わり、皆が暗がりで抱き合い踊っている様子に代わると

マリアが無言で抱きしめてくれ、明日は仕事で見送れ無い

ので、今夜がお別れだと言って、強く抱き、キスをしてくれ、

無言で私の手を自分の左胸に当て、乳房の間からネックレス

になった十字架を取り出すと貴方のこれからの旅と、人生に

神のご加護があるように、十字架にキスをして私の手に握ら

せてくれました。

その後に、波止場近くの彼女のアパートまで送って行き、入口

の前で、彼女を強く抱きしめてキスをして別れました。

私がしばらく歩いて振り返ると、マリアがまだアパートの前で

立っていたので、手を振るとガスライターの炎がポッと点いて

それをマリアが振っていました。

次回に続く、

あと数日すればブエノス到着になり、その後は一人でパラ

グワイまで汽車に乗り、行かなければなりません、どれだけ

日数が掛かるか未定ですが、パラグワイまでの国際列車も

週に2回だけで、パラグワイと国境のポサダまで行き、それ

から渡船でパラナ河を渡り、列車を乗り換えて首都アスンシ

ョンまで行き、川船でコンセッション・パラグワイまで行き、

そこからトラックか、乗り合いバスでアマンバイ農協がある

ブラジル国境まで長い距離と行程でした。

アマンバイ農協の歴史をこれからの参考に学んで下されば

これからの私の話が理解出来ると感じます。