2020年1月1日水曜日

私の還暦過去帳(607)

新年明けましておめでとう御座います。
2020年も皆様に良き年で有ります様に願っています。
私も歳を重ねてこれまで健康に、何も事故も、怪我もすることなくこれまで生きて来た事を思い出すと、感慨無量の境地になります。
私も単身、南米のパラグワイに移住してからはや56年を過ぎようとしていますが、南米の正月は真夏で、暑い元旦のお屠蘇も、最初は戸惑いましたが、その当時は日本食料品などはブエノスアイレスの港に寄港する日本船に買い出しに出ていました。
当時の日本語新聞、亜国日報、ラプラタ時報などに日本船の寄港する日時が出ていましたので、そこで日本酒、昆布、沢庵、缶詰、タバコなどを買い、蒲鉾もブエノスの日本人が作る、ソーセージの様に作ってあり、保存が出来る蒲鉾でした。
その様な日本食品を田舎の奥地に持って行くと皆で喜ばれて、特に日本産の輸出用キッコマン醤油は貴重品で、田舎の農家を訪ねると、灯油で稼働する冷蔵庫にワインの瓶に詰めて入れてありました。
正月の欠かせない餅は、その当時パラグワイ入植の日本人農家が糯米を作っていたので、前もって注文しておくと、パラグワイからアルゼンチンまで配達されて来ました。
パラグワイの国境を越えて、アルゼンチンのミッショネス州、ポサダに運ばれて、そこから長距離トラックで首都ブエノスまで来ていましたが、その努力と労力を考えると大変でしたが、それでも餅を突いて、お鏡を作り、伸し餅やアンコロ餅などを作り、皆で集まり食べて居ました。
餅を突く、臼も殆どは日本の田舎で作った事がある方が、農耕の片手間でパラグワイの原生林から木材を切り出して、1年乾燥で寝かせて、それから臼を作り、アルゼンチンに運んで来ていました。
一部はブラジルにも運ばれていましたが、その様な物資のルートは、日本米粳米、黒豆、小豆、味噌、醤油、アルゼンチンの南極に近い寒い海から、昆布やスルメイカ、岩ノリなどが生産加工されてパラグワイやボリビア、ブラジルまで運ばれていました。
55年昔の韓国人移住者達は、外貨を持ち出せずに、全ての財産を韓国海苔に代えて、移住地から海苔を背中に背負い、南米各地の日本人移住地を行商して歩いて、また都会の日本人家庭を訪れて海苔を売っていました。55年昔のその当時の韓国人達は日本語が話せる人達ばかりで、遠くはアマゾン河の中流のマナオスまで来ていたと聞いたことがあります。
現金に換えて、ブラジルの移住地に帰る時には、外国タバコやブラジルで良く売れるコンチネンタルと言うタバコなどに代えて、韓国人達はそこで往復交易をして、現金の資本を掴むと、移住地を放棄して都会に出て商売を始めていました。
1964年当時の首都ブエノスアイレスには、韓国人が200人以下の僅かな数ですが、彼等が始めたのは毛糸の機械編みで、これで大きく儲けて居たのを覚えています。今では韓国人の人口は2万5千人以上も首都ブエノスに住んでいますが、日本人はバブル経済の人手不足で、南米で1ヵ月の収入が日本では2日で稼げる事に、大勢の日本人や日系人が労働者として日本に出稼ぎに行き、二度と戻って来ませんでしたので、地方の日本人会などは人が居なくなり消滅した所もあります。
全て時代の変遷が昔の出来事となり、歴史が遠き過去の忘却の彼方に消え去り、日本からの賀状が45日も掛かり、南米の奥地の移住地に配達されていたことが、今ではインターネットのおかげで、スカイプなどで無料で家族や友人知人と話が出来る世の中になり、携帯でメールを送受信が出来る事も時代を感じます。
NHKの紅白歌合戦もNHK国際放送の短波ラジオで聞いていた時代が、今は衛星テレビで南米でも瞬時で見れる事は、時代の変化を実感として体感しています。