2012年4月30日月曜日

『ゲバラのゲリラ残党を討てー!』

ゲバラ残党ゲリラ追跡の思いで(2) 

この物語は事実を題材にしていますが、小説と割り切って読んで
下さい、今ではGoogleマップでのインターネットで 現場を鮮明
に見る事が出来ます。
『ポインタ・23” 11’58、51”S 64 09’48,93”W
 高度314mから見ると農場の全景とベルメッホ河がボリビアから
 流れ出している事が目視できます』

イザベラは妹が追跡に同行したいと言う事を無理に止めなかった。
私に近寄ると、「もしも良かったら同行させてやって下さい」と
話すと、「私の代わりに是非お願したい-ー」と言って、用心の
為に姉は自分のバックから、小型ベレッタの手のひらに入る
感じの25口径の自動拳銃を妹のズボンのポケットに押し込んだ。

予備の弾もプラスチックの箱に入れて持たせていた。
私は断る事も出来ずに、「ついて来ても面倒は見れないよ~!」
と断ると、さっさと馬で来た道を戻り始めたが、彼女はあっと
言う間に、ラバを上手く操りながら追いかけて来た。

河も私以上に上手く渡って来たので内心えらい、じゃじゃ馬が
付いて来たと感じたが、一見、男の感じがするシャツを着ている
ので、遠目には男であった。

農場に帰り、早速にインジオの凄腕のハンターで、兵役の時代は
部隊一の狙撃手で、射撃大会では何度も優勝を獲得して表彰され
、この近所のジャングルは全てどこに水場が有る事も知っている
ルーカスを連れて来た。

事情を話すと全部知っていたので後は簡単であった。
追跡の全てを任すと話すと、「それではーー!」と言って
持って行く物を全部書き出した。数は少ないがかなりの量の
飲料水が一番の荷物であった。

河岸は行かず、山越えして先回りして追い付くと策を練っていた。
私は全て任して、口は出さなかった。素人では危険な追跡は
無理な事は知っていたからで、ヘタをすれば命まで亡くす事が
有る危険は良く知っていた。
彼は馬と荷物の係をもう一人雇うと言ったが、直ぐにそれも賛成
して彼が呼んで来た。

「森の事は、森の住民に聞けーー」ですから、彼が今回は
ボスであった。ルイスと言う中年のインジオで、彼の親友で
いっもコンビを組んで仕事をしていた。
私も良く知っているインジオで、おとなしい無口の男であった。

ルーカスは「暗くなるまでに山の麓まで行きたいーー」と言って、
直ぐに用意をしてしまい、ライフルを皮袋のケースに入れ
馬を用意して、ラバに荷物を乗せてしまった。
最後にもう一度積荷の点検をすると、すたすたと馬を動かして
歩き始めた。
私とベアトリスも馬とラバで付いて歩き始めた。
ルイスもラバに乗って後を追ってきた。
 次回をお楽しみに、

2012年4月29日日曜日

私の還暦過去帳(237)

だいぶ前ですが、私が引退を決めていた歳になった時でした。
私が思い、考えて計画していた事は余り沢山では有りませんが、心安ら
かに、自分の残りの人生を有意義に過ごせればと感じて居ました。

私は若い頃から沢山の異国の地を踏み、訪ね、さ迷い、人に会い語らい、
数々の人とすれ違ってきました。
今で言う、バックパッカーと言う感じの方と沢山46年も昔ですが会い
ました。 それぞれの考えで、行動して歩いていた人達です。

昔は飛行機などの移動は金銭的にかなり厳しい時代で、高額な飛行機代
など、とても無銭旅行者には無理な時代でした。汽車と船が主要な交通
手段で旅行していた時代ですが、内陸では長距離バスも、かなり主要な
路線で走っていました。

アルゼンチン奥地の、ボリビア国境から2時間ほど降りてきて、当時の
国際列車と言っても、古ぼけた戦前のイギリスで製造された客車でした。
3等は木のベンチで、1等は革張りで、天井などはかなりの飾りがある
優雅な電球も付いていました。その様な列車を駅で見ました。今では

アルゼンチン国鉄も民間に売却され、廃止され、昔の面影も勢いも全て
無くして、5年前にアルゼンチンを訪ねた時は廃線の如き線路がパンパ
の草原を横切っていました。
現在の長距離列車はツクマンまでしかないと聞きましたが、寂しい限り
ですが、バス路線はかなり田舎の小さな町まで、網の目の様に伸びてい
たのには驚きました。

それと、国道が46年前と同じ対面交通での2車線で5号線の国道も同
じ様な車の流れでした。複線になっていた道路はブエノスの近郊だけで、
私が46年前にボリビア国境から、トラックを運転して来た道と同じで
した。私が拾ったヒッチハイカーは白人のドイツ人だったと思います。

道端のトラック・ストップのレストランとガソリン・スタンドが兼用で
営業していた田舎の店でしたが、ポツーンと道端に立っていました。
2時間ばかり走った町まで乗せてくれと聞いてきましたので、相棒の運
転手の一人は後ろの寝台で寝ていましたので、乗せることにして走り出
しました。

無口な金髪の若い男性でしたが、私が東洋人でしたので、興味があるら
しく話しかけて来て、お互いに下手なスペイン語で会話していました。
彼の両親は戦争で亡くなり、祖父に育てられ、その祖父も亡くなると旅
に出たと話してくれました。パンパの大草原を走りながら、ドイツから
来た若者と言葉を交わす奇遇を感じていました。

私が訪ねた言葉が『旅をしていて、人生が楽しいか?』と言う質問に帰
ってきた答えが、『今は有意義で楽しくて、生きがいを見るが、歳を取
り、老人となっては、悲惨かもしれない』と言う言葉を聞いて、一瞬、
『ドキリー!』とした感じを受けました。
その時、私が思い出した日本人が居たからでした。

その人は旅で漂泊の人生を送り、50歳近くなりインジオの女性と僅か
な畑を耕して、自給自足の様な生活をしていた人を知っていたからでし
た。コカの葉に溺れ、アル中の如く酒を飲み、無気力な生活で満足して
生きている人でした。人それぞれの道行きですが、遠い異国の空に、
自分を見失い生きている人生の人間を、ドイツ人のヒッチハイカーの若
者の言葉で、ギユー!と心に感じ、考えさせられました。

引退時期になって、ふと思い出してその事を思うと、昔の事ながら、お
そらくは今では生きては居ない人と思いながら、人生の選択が自分の人
生の生き方と重ねると、何とも言葉に表す事が出来ない事を感じました。

今の世の中で、現代社会の若者が自分の指針を探す事も無く、フリーター
と言う仕事で、人生を生きなくてはならない考えを持った人が多くなっ
た事は、時代が繰り返すと、思うことが有ります。

私が住んでいる町に、メキシコでも貧しいユカタン半島近くから来たメ
キシコ人の不法労働者が毎朝道端に並んで仕事を探しています。真剣な
眼差しをした若い彼等がバスを乗り継ぎ、アメリカに到達して国境のフ
ェンスを乗り越え、砂漠を歩き、メキシコ国境から800kmは北に上
がったサンフランシスコ郊外の道端で仕事を探し、働き、家族を養う為
に旅した行程はいかなる情熱の人生の旅かふと考えていました。

人生の生きがい、その道行の先を、彼等がいかなる情熱で行動したか一
度、聞きたいと思いました。

『ゲバラのゲリラ残党を討てー!』

『ゲバラのゲリラ残党を討てー!』

ゲバラ残党ゲリラ追跡の思いで(1) 

今日から連載します物語は、実際に起きた事件をもとに、私が
46年前の農場支配人時代に、見聞きして、体験した事を題材に
書いたものです。一部事実と相異する事もあります、話を聞いた事
などからの、薄れた記憶からの書出しですら、単に小説の話と
割りきって読んで下さい。

朝早く、外の動きが気になりベッドから起きだしてきた。
まだ薄く星が瞬いていた頃で、寒い外気の空気が
身を引き締めて、眠気を吹き飛ばしが、私が外に
部屋から出ると直ぐに、使用人達のインジオが声を
掛けて来た。

「川向こうの農家がゲリラに襲われた~!」
「倉庫を破られて、かなりの食料品などを奪われ、
 山の方に逃げて行った。」
「農場主が撃たれて、重体で病院に担ぎ込まれた。」

直ぐに数々の情報が入ってきた。
私の知り合いの友人で支配人をしていて、昨年独立して
農場を開いたばかりの、努力家の若者であった。
たしか婚約者が居た様であったので、朝食が済むと河を
渡って訪ねることにした。

トラックターのエンジンを始動して、仕事の準備を済ませると、
一日の仕事の手配をして、インジオ組頭に指図すると、
私は馬小屋に行き、小型のカービンライフルを手に馬に
またがって出発したが、馬はなれたもので河の浅瀬を
巧みに歩いて向こう岸に着いた。

20分ぐらい歩いて彼の農場に到着したが、そこには
悲しみの空気が漂い、インジオの使用人達も仕事に
手がつかない様でたたずんでいた。
ドアを叩くと、中から婚約者のイザべラが出て来て、赤く
目をはらした顔で話し始めた。

「朝方の夜明け前に襲われた。倉庫を破られて、医療品
 と保存食が主に盗まれた。ゲリラは7人で、直ぐに主人は
 オランの病院に運び込んだ。しかし右胸を打ち抜かれて
 重体で、しばらく病院に滞在する為に荷物を取りに来た
 所だ」と話してくれた。

国境警備兵が追跡を開始したと話していたが、「ボリビア国境
を超えられると、追跡が出来ないので無理かもーーー!」
と話して、悔しそうに唇を噛んでいた。
私はその時、ムラムラと復讐の思いが心に湧いてきた。
「今度は逃がさない・・・!」そう考えてイザベラに伝えた。

その時、部屋の奥から婚約者の妹が出てきた。
ベアトリスと言って、手を差し出してきた。
「私も参加して追跡するからーー」と話して、炊事は任して・・、
連れて行ってくれたら役にたつからと、頼んで来た。
私は「女性は無理だーー!、撃ち合いになるかもーー!」と言うと

部屋に戻ると、小型のブロウニング22口径ライフルを持って
来ると。家の横に植えて有るオレンジの実を、5発連射して、
5個のオレンジを打ち落とした。私はギョッとして見詰めて
いると、すたすたと歩いて、馬小屋からラバを引いてきた。
部屋から僅かな荷物を持って来ると、乗せて用意始めた。
 次回に続く、

私の還暦過去帳(236)

私もアメリカに住み付いて、かれこれ35年が経ちました。

前に区切りの30年でしたが、丁度、私が引退の準備を始めた
年で、11月と12月で、だいぶ永い付き合いのお客が引退
して、アパートを売却して引越して行きました。

また、ご主人が亡くなり、奥さんは一時間ほど離れた所で
仕事をしていましたが、私が管理していました。62歳で年金
受給資格を得て、自宅を売却して、これも引退して引越して
行きました。おかげで12月からは月曜日が3時間ぐらいで

仕事が終わる様になりまして、かなりの雑用を平日に、こなす
事が出来るぐらい、何人か亡くなって行きました。どれも永い
付き合いで仕事をしていましたので、同じ時期に引退となり、
また歳を取り、病を得て亡くなりました。

わざわざ、私に会いに来て握手して、ハグをして『永年の間、
私の不動産管理を有難うー!』と声を掛けてくれました。
また、手紙と、いくらかの金額の小切手を同封して、感謝の
気持ちを伝えてくれたオーナーも居ました。

同じオフイスビルを25年も管理していて、その間にどれだけ
の数のテナントが移り変わりして行ったか、思い出せない数
となっています。オフイスビルの裏の空き地に、ホームレスが
住み付いて、『直ぐに引っ越すから、警察に言わないでくれ』

と頼まれた事も有ります。野良猫が住み付いて子供を生み、
育てた庭の茂み・・、思い出の多い建物が沢山有りました。
土曜日に見回りに行っていた、オフイスの前を良く歩いていた
老人も、もう長く見ることは有りません。犬を連れてゆっくり

と歩道を歩く姿は今でも思い出します。だいぶ離れたトレラー
ハウス・パークからの住人と思いました。今でも引退した老人
が、かなり住んでいます。道路を挟んで向かい側の電気会社
の倉庫の前のケヤキの木が大きく育ち、一抱えも大きくなり、

自然のサイクルが人間達の生き様を数える暦として立っている
感じを受けます。すでに今年も全ての葉が落ちて立ち枯れの
冬の景色となっています。

2012年4月28日土曜日

私の還暦過去帳(235)

旅に出て・・・、

旅先でフト・・、心休まるお茶の時間が時々欲しくなりました。
お茶といってもペルーではコカ茶が多かった感じです。乾燥したコカ葉を
容器に入れて熱湯を注ぎ、しばらくして飲みます。勿論の事に砂糖を入れる
人も多く居ます。飲み慣れるとクセになるお茶です。

クスコではこれを高山病の予防になると沢山飲んでいた人も居ました。
朝はコーヒーかコカ茶か、どちらかが置いて有りましたが、私はコーヒーを
朝食に飲んで最後にコカ茶を1杯飲んでいました。

ペルーから南に降りてチリに入るとマテ茶を見ました。
壷に似た容器にマテ茶を入れて、そこに熱湯を入れてストローで吸って飲む
やり方です。魔法瓶を側に何度も注ぎ足して飲んでいましたが、これがアル
ゼンチンに入ると、バスの中でもどこでも店先でも飲んで居ます。

それがパラグワイに入るともっと多様なマテ茶の感じでした。
ウスで突いた薬草を混ぜて、冷水で飲んでいました。中には薬草ばかりと
感じるマテ茶でしたが、一度ローカルのバスに乗って3時間ほど離れた田舎
の日本人移住地を訪ねたら、途中、運転手と車掌が先ずバスターミナルを

出て、しばらく走ると、道端に停車して側の店で何か買い入れていますので
バスの窓から見ていたら、それはマテ茶に入れる薬草の様でした。
マテ茶専用の何種類かの薬草らしき物が生の物、乾燥したものと並んで
居ましたが、私が見て分かったのがミントの葉の様なものがありました。

店先の側には小さなウスが置いてあり、若い女性がそこで何かトントンと潰し
ているようでした。それにしても日本の御茶屋の感じです、見ている間に何台
か車も停まりすばやく指定の物を買って行く様でした。
ポットに氷水を入れている様で現地でテレレというマテの飲み物と感じました。

日本人移住地に着いて、宿に荷物を置いて散歩に出たら、お店の前で日本
人の夫婦が仲良くマテ茶を飲み回していました。
私達が挨拶すると側のイスを勧められしばらく話しこんでいました。
近所の道路にはのんびりとニワトリが放し飼いで歩いて餌を探していました。
静かな田舎の農村の移住地を訪ねて、どこか日本の田舎の風景を思い出し
ました。
生活に根ざして生活と切り離せないお茶です、私が学生時代に下宿先が同じ
だった長野県の出身者でしたが、何とか言うと小まめにお茶を入れて、田舎
の実家から送ってきた漬物を出して、『お茶飲んでくれ・・!』と誘ってく
れました。自家製の味噌の中に入れた、山ごぼうやニンジン、時にはショウ
ガも入れていました。
沢山の野菜を出して来て、おばあちゃんが作ったという干し柿なども食べた
記憶があります。日本人は移住してもお茶の習慣は無くなりません、必ず時
間となると、『お茶の時間だよー!』と呼んでくれました。
これが無いと元気が出ないと言ってお茶を飲んでいましたが、時にはマテ・
コシードと言う沸騰したお湯にマテ茶を入れて、お砂糖を入れて飲むお茶も
ありました。
アルゼンチンの田舎を走るバスの中で、オバサン連中が座席を挟んでマテ茶
を廻し飲みをしていました。その時に魔法瓶に入れたお湯が無くなり、停車
した休憩所でお湯を買って入れているのが見えました。

何人か並んでいましたので時間が掛かり、運転手に早く乗るように催促され
ていました。しかしおばさん達はゆっくりと話しながらバスまで戻ります、
歩きながらすでに新しい茶葉に交換したボンベを持って、飲みながら、話し
ながら戻って来ました。
我々の神経では考えられないのんびりとした事です、バスに戻りイスに座る
と袋から何か出して食べていました。バスが走り出してのんびりと会話しな
がらマテ茶を飲む姿を見ながら、アルゼンチンの大パンパの草原を走るバス
も、これも旅の風情と感じていました。

2012年4月26日木曜日

私の還暦過去帳(234)


餅つきのことを思い出すと、頭に浮かぶ出来事が有ります。
そろそろ46年も前になります・・・、

パラグワイから出て来てアルゼンチンでの初めての正月を
迎える時期でした。誰となく『正月ぐらいは餅が無くては困る』
と言い出していました。餅と言っても、もち米とそれを蒸して、
搗く臼と杵が必要でした。

もち米は誰かがアルゼンチンに出て来る時に、もち米は直ぐには
買えないからと持って来ていた物でした。パラグワイの移住地の
自分の家で栽培生産して、精米して売れるかもししれないと
かなりの量を持ち込んでいましたので、その方にお金を払い、分
けて貰いました。
現金が無いのでかなりのお年玉となり、正月を過ごす金が出来た
と話していました。しかし我々も貴重なもち米を買うことが出来
まして早速に杵と臼を探す事になりました。それもパラグワイで
自家製の手作りで、高知出身の方がジャングルの開墾した時に、

切り出した材木から良質な大木を残していて、それで日本から持っ
て来ていたノミ、槌、カンナなど一式で、削り出して近所で欲しい
人に注文製作をしていました。そこにパラグワイに帰る人に頼んで
製作してもらい、アルゼンチンのポサダまで出して、そこからトラ
ック便でブエノスまで送ってもらう事になりました。

仲間で金を出し合いまして、現金を持たせてパラグワイから臼と杵
を取り寄せました。ブエノスのトラック便の営業所に届きまして、
それを受け取りに行き、皆で餅つきとなりました。それぞれ小豆で
の餡を作る人、大豆を炒って黄な粉を作る人、それぞれ分担して餅
つきの日となりました。

日曜日の朝早くから、薪を集め、もち米を洗い、かまどを作り、賑
やかに大人も子供達も来て大騒ぎでした。酒も出され、アサードの
焼肉を焚き火の側で焼いて、まるで近所の日本人達のお祭りとなり
ました。もち米が蒸かされ、お米が蒸される香りが子供の頃を思い
出して懐かしく感じました。

しかし、真夏の太陽は暑く、ビールを灯油で冷やす冷蔵庫でしたの
で余り冷たくはありませんでした。当時のブエノス郊外では、まだ
電気が来ていない所が沢山有りました。食事時間とそのあと僅かな
時間、自家発電の明かりでTVを見たり、台所仕事をしていた頃で
した。
楽しみは近所の日本人が集まり、楽しい語らいと酒を入れての宴会
でした。餅つきはその絶好の集まりとなっていました。お互いが作
った正月料理を持ち寄り、、自分の畑で作った『ごぼう』や日本種
のキューり、コン二ヤクなど、懐かしい食べ物がテーブルに並び、
配られ、交換されました。餡子餅や黄な粉餅など、子供が喜ぶ餅も
沢山作られて、時間を忘れて騒いでいました。

今から思うと一番楽しい時期だったと思います、貧しかったが、心
豊かな希望とこれからの将来を目指して頑張っていた時代です、
しかしながら、出稼ぎブームが起きると、それも全てが崩壊して、
子供達は育ってしまい、日本に行ったまま帰ってはこず、当時の親
も現在では数えるほどしか生きては居ません、時代が変わり、変化
して、過去に流れる時の速さが身に染みて感じます。

日本語学校で歓声を上げて騒いでいた子供達・・、
その時代も現在では、アルゼンチンの移住地や日本人が住み着いた
地域では出稼ぎ現象で無くなり、餅つきなど忘れられて行くと感じ
ます。

2012年4月25日水曜日

私の還暦過去帳(233)

今日のお勧め映画は『APOCALYPTO 』

映画の題名『Apocalypto』とはギリシャ語で・・、
「新しい始まりとか 」「覆いをとること、明らかにすること」
言う意味だそうですが、日本人にとって発音が難しいと感じま
す。

06年12/8全米公開スタートした映画『Apocalypto』を初日に
鑑賞に行きました。
かなりの前宣伝が有りましたので、興味が有り私もメキシコの
ユカタン半島で現地撮影された、スペイン人侵略前のマヤの世
界の物語に、だいぶ興味が有り初日鑑賞を狙っていました。

幸いに金曜日が初日でしたので、夕食の後に観に行く事が出
来ました。雨が降る中でしたが、かなりの観客で満員でした。
熱帯雨林で繰り広がれるドラマはリアルで、1500年当時
のマヤの世界の有様が現代の世界に再現された感じでした。

熱帯雨林のユカタンで、マヤ文明の中に平和に暮らす部族が
悲劇的な捕獲に遇い、奴隷として連行される中での、夫婦愛と
人間性を絡めた親子関係、マヤのピラミッドを頂点とした群集
シーンも壮大で暴力、残忍、非情、愛、ユーモアを織り交ぜた
画面が成功していると感じます。昔の黒曜石を使ったナイフ使
用の時代ですが、場面のリアル感は印象に残ります。

スペイン人による征服前のマヤ人達の愛と冒険活劇のドラマで
すが、リアル感が連続して緊張を高め、画面を見詰めていました。
音楽の中に、低く高く、ジャングルにこだまして響き渡る様な
ドラムをベースにした、バックサウンド・ミュージックが画面に
効いて、緊張を盛り上げています。

映画の中で全編に渡り追跡と、それに追われる者、追う者との
格闘と命を掛けた戦い、熱帯雨林の中での、さまざまな場面で
ユカタンの自然がジャングル・ドラマ画面として緑濃い流れを
見せ付けてくれます。

今回の特徴は台詞はマヤ語で、現地の俳優やインディオのエキ
ストラを採用して撮影されたローカル色濃い内容です。
全て字幕での台詞言葉理解となりますが、まったく違和感が
感じられる事なく、見ていました。

この映画の特徴はユカタン、マヤ文明のピラミッドの歴史とそれ
にまつわる当時の政治的な宗教儀式の有様。残酷な人間の生贄
とされるシーンを織り交ぜて、どぎつく描かれていますので、
気が小さな人、子供の鑑賞はお勧め出来ません。

撮影はLos Tuxtlas地区のカテマコ市近郊の自然公園を中心と
して撮影され、キャストや100人ほどのエキストラも全てメキシ
コ人達が協力して完成された。完成までにハリケーンや雨、天候
不順などに苦しめられ撮影されたと言う事です。
また多くのユカタンに生息する野生動物も集められ、画面に登場
してリアル感を出している。

お勧め度は成人向き:100%
映画配給はディズニー
上映時間、2時間18分
監督:Mel Gibson’s

2012年4月24日火曜日

私の還暦過去帳(232)

私が子供の頃でしたが、かれこれ60年近く前になると思います。
外地から引き上げて来て、郷里の大牟田に住んでいた頃でした。

家の襖の中張りに新聞が張ってあり、それが大阪朝日と言う名前
の新聞でした。漆喰の壁にもベタリと貼り付けて有り、シナ事変
の記事が載っていた新聞でした。

黄色く変色して、かなり読みつらい感じでしたが、狭い物居れの
中で興味が有り、シナ事変の戦闘の様子などを読んでいました。
当時私が住んでいた家は御爺さんの時代からの家で築75年は経
過していましたので、柱などは当時の家の4倍も有る大きな柱で
した。
大工さんが建て直すときは、柱を削りまた使えると話していまし
た。 私が18歳で家を出るまで住んでいた所です、父が暮れに、
襖の修理をして、襖紙の張替えをした時に、余り変色もしてい
ない朝日新聞の古い記事の破片が沢山出てきて、漢字の活字もひ
らがなのルビが付いて、読みつらいものでした。

同じく46年前に、アルゼンチンでの当時の「ラプラタ時報」
「亜国日報」などのタブロイド版の新聞も同じく、ひらがなの
ルビが付いていました。 古い活字を使っていたと感じます。

私が子供時代を過ごした家も売却され、かなり以前に台風の被害
ですでに無く、10年ぐらい前に一度訪ねたら、周りもすでに全
部変わっていました。
夏には周りの田んぼでカエルがゲロゲロと鳴いていたのが懐かし
く思い出されます。

朝日新聞は今ではインターネットでしか見られませんが、楽しみで
毎日かかさずに見ています。 私はパソコンの表紙にはしていませ
んが、先ず開けて見る新聞は産経新聞です。
でも配達の新聞、英字を1社、邦字新聞1社、インターネットで2
社の記事を毎日読みますので、比較が分り、取材の重点ポイントが
掴めます。

2012年4月23日月曜日

私の還暦過去帳(231)


私がパラグワイから出て、アルゼンチンの首都ブエノスに出てきた
時でした。その時、初めてジプシーの集団に会いました。
彼等は街頭で、何か演奏して女性が踊り、男が演技をして小銭
を稼いでいました。芸達者な感じを受けて、私も若いジプシー女

が永いスカートをひらめかせて、妖艶な感じで踊る様を見ていました。
日本では、先ず見られる光景ではなかったので、真剣な目で見て
いたら、子供がカゴを差し出して、小銭を要求していました。
いくらかのバラ銭を投げ入れ、見ていたら、小金を持った感じの背広

を着た中年の男が、お札をヒラヒラさして、手にかざすと、ジプシー女
が近寄って、腰をくねらせて、その前でダンスを見せ付けていました。
中年の男がお札を胸に挟むと、観衆から喝采が上がり、あちこちで
お札を手にかざして呼んでいました。しばらくすると若いジプシー女の
胸の周りは、かなりのお札が挟まれて、人気が有る事が知れました。

それからしばらくして、ブエノス郊外で野菜栽培を始めた時に、田舎の
小さな町ですが、何かのお祭りの時に、ジプシー家族がトラックと古びた
バスで来ていました。トラックにはポニーの子馬とアルパカの様な動物を
乗せていました。家族はバスの中を、まるでキャンピング・カーの様に
して中が改造してあり、そこに住んで居るようでした。私の農場から直
ぐ離れた場所でキャンプを張っていたから、私は通りながら観察してい
ました。

挨拶すると、にこやかに挨拶を返してくれ、女性は永い黒髪でどこと無
くアジア系の感じが致しましたが、話す言葉はスペイン語を上手に話して
いましたので、長くアルゼンチンに住んでいると感じました。

小さな水溜り脇の、農道の側でキャンプしていましたが、家畜はそこの
僅かな草原につないで草を食べさせて、女性は近所のユーカリの並木
から拾ってきた薪で、3脚の鉄の枠に、お鍋を提げて炊飯していました
が、側の農場の柵にはウサギが吊るされ、調理される所でした。

バスの屋根には、フカフカの羽布団と感じる物が日光に干してあり、洗濯
物も、同じく農場の柵に色とりどりに並んで生活の匂いが漂っていました。
先日までは何も変哲もない、田舎の草が生い茂る農道でしたが、洗濯
物だけで人間の活気が感じられ、酒の入ったグラスを側にギターを弾いて
居る若い男を見ると、別世界の人間と感じることが有りました。

朝早くポニーの子馬と、箱カメラを担いで、町まで歩いて行く姿を見まし
たが、私の農場の横を通り過ぎる時に挨拶して、手を振ってくれたのを
覚えています。夕方暗くなる頃に、買物をしたのか、パンが袋から覗いて
居るのが見られ、ポニーを急がして歩く姿を見ました。

夜になり、かなり離れていたのですが、かすかにジプシー音楽が聞こえ
てパンパンからの風に載って流れて来ていました。チラチラと焚き火の、
ほのかな瞬きが風で揺れるのが見え、日頃はシーンと静まり返っている
草原に、月明かりでバスとトラックの陰が、遠くに黒く見えていました。
そして、日本では経験する事ができない、ジプシー音楽をワインを飲み
ながら聞いていました。

あれから46年も経過した年月では、今はジプシーも田舎では僅かしか
居ないと聞きました。

2012年4月22日日曜日

私の還暦過去帳(230)

今日のお勧め映画は・・・、

『007/カジノ・ロワイヤル』 のアクション映画です。

今回の007は今までの007映画からしたら、まったく変革した。
そして前回の作品からしたら、まったく台本から変えて、革新的
な表現とスクリーンに映し出される画面撮影の綺麗さ、豪華な衣装
など、本命のアクション・シーンにしても、まさに本当に息を呑む
と言う感じの場面の連続でした。

今までの前作品の3~4本は、どこと無く味付けを変えた場面が多
かったのでしたが、特に『コミック的アクション』と酷評していた
映画評論家も居た位ですから、中には子供向け活劇と思われてもお
かしくは無いシーンが見られましたが、今度はいやはや・・・、

流血の場面もリアルに撮影してあり、息を詰めて見詰めるシーンの
連続で、いささかドキーンとする場面が有り、前回とはまったく違
うと言う印象をそこで、ガチーン!と頭に受けた感じでした。
私はジェームズ・ボンドの007映画は、第一回作品か見たと思
います、学生時代映画監督の家に住み込み書生として合計4ヵ年

近く住んでいたからです、主人の監督が石原裕次郎などの日活アク
ション映画を専門で撮影していたから、それで招待試写会などの
招待券を貰い、輸入洋画配給会社の試写会などに、背広などを着て
見に行った事が何度も有ります。
後で『どんな映画だったか・・・?』と質問が有りましたので、
いつも真剣に見ていました。教えてもらったポイントとなる映画の
要点を外さず見ていました。

今回の作品は、ジェームズ・ボンドを演じるダニエル・クレイグは、
これまでのロジャー・ムーアやピアース・ブロスナンが上品で英国
紳士の気品を持たせたスパイ役から、なんとなく野性味を持った、
ドスが効いた、ロシアKGBの殺し屋とも感じる、顔や筋骨隆々た
る体格は、今回の映画を一味違った味付けにしていると感じました。
特にブルーアイの澄んだ瞳が無骨な感じを和らげている感じです。

今回の映画は1953年に発表された原作に、忠実に原点に戻り、
ジェームズ・ボンドの活躍を作者が考えていた作品にしたと思います。

今回の作品には小細工した小道具類など、コミック的な要素を取り外
して、元来の原作に忠実なアクション・シーンを重点に配置して、
ガン・バトル・シーンなどもリアルで、また階段を格闘しながら山刀
を避けてアクションの中でもつれ、殴り合い、切り合い、緊迫の実演
さながらのシーンは、ドキドキの場面でした。

派手なアクション・シーンに身体を画面いっぱいに貼り付けて、叩き
出す緊張と、興奮は、今までの前回の作品からすると、かなりマンネ
リ化した以前の作品を根本から覆えすと思います、そして・・・、
『007/カジノ・ロワイヤル』という緊迫した、カードゲームの緊張
は見ていて、カジノの凄さを実感として画面に見た感じでした。

映画の最後に言う、ジェームズ・ボンドの切り口上が、しびれる感
じです。
乞う、ご期待の続編と言いたい所です・・・、

お勧め度、100点、

映画開始前には必ずトイレは忘れずに・・、
2時半近くの上映時間がありますから!

『007/Casino Royale』 上映時間、144分
06年 イギリス、チェコ、ドイツ、アメリカ合作
ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント配給

2012年4月21日土曜日

私の還暦過去帳(229)

私が南米に居た当時は田舎の道路は余り良いとは言えませんでした。
46年前で、かなり酷い道路も有りました。
私も南米にいた時代に、かなりあちこちと歩きましたが、特に

私が利用した道路でブラジルのサンパウロから、アルゼンチン
のブエノスまで、パラグワイの首都アスンションから、アルゼンチン
のブエノスまで、これは長距離ですが、バスに乗車した事が有ります。

ボリビア国境からブエノスまで車を走らせた事も何度も有りますが、
当時の舗装は貧弱で、かなり痛んだ路面が有りました。
砂利道で、飛び石の危険が有り、トラックの前方にはかなりの重装備
の防御がしてあり、酷い道では前のフロント・ガラス全体にベニアの
板を張ってあり、ほんの僅かな視野の隙間が開けて有りました。

まるで銃眼の様に、僅かに穴が開いており、そこから外が見えていま
した。特にアルゼンチンのコリエンテの場所を走る時は、湿地帯が、か
なり広く続いていますので、水鳥の生息地として、こちらが
『ぎょー!』と感じるほどに沢山の水鳥達が水辺に生息しているのを、
道路から簡単に見る事が出来ました。

アスンションからの国道11号線だったと記憶しています。ラプラタ河
の沿線を走りますので、河の増水期にはかなり広い潅水した草原が見渡
す限り広がって、牛が浅い水に浸かって草を食べているのを見ました。
一直線にどこまでも・・、どこまでも・・・!パンパの大草原と陸の

海原と感じる大陸の広さです、道路が陽炎の中に消えて行き、また陽炎
の中に次の道が歪んで見えてくる状態でした。
当時はまだベンツの小型ボンネット型バスでしたが、単調なエンジンの

音を響かせて走る中で、何千と言う鳥達がエンジンの音に驚いて飛び立
つ様は壮観でした。バスは前のフロントガラスには、金網のネットを張
ってガラスの破損防止をして有りました。
時々すれ違う大型トラックは全て、鳥の衝突防止がしてあり、轟音です
れ違う大型車の特徴でした。

46年以上も昔ですから、今からしたら自然がまだ沢山残っていた時代
です。パラグワイもまだジャングルがうっそうと、太古からの自然のま
まで残っていた時代です、現在では殆どが切り開かれて大豆畑や小麦畑

になってしまいましたが、パラナ河支流は当時は魚が産卵期に、手掴む
事が出来たと言うくらい、押し寄せて来た事を聞きましたが、今ではそ
の面影も無いと言う事ですが、それだけ様変わりしたようです。

『時代は遠くなりにけり・・・』と言う事ですが、
『自然も同じく遠くなりにけり』と感じます。

2012年4月19日木曜日

私の還暦過去帳(228)

私が46年前にアルゼンチン北部で蔬菜農場の支配人をしていた時代
でした。主な作物はトマトとピーマンでしたが、その畑の畝の間の土
寄せや、草取りにラバの労力が必要でした。

ラバは馬とロバを交配して作ったので、小型ですが、かなりの忍耐を
持ち、農耕用としては、貴重な働き者でした。
当時の農場では2頭のラバを飼っていました。朝早くスキを付けた農
具を引っ張って仕事に出ます。朝は必ず自分からスキを付ける装備を
前に立って待ちます。農場ではインジオの農場労務者が専門でラバの
世話と、畑仕事をこなしていました。
賢いラバで、昼時になると仕事を止めてランチの飼料を貰わないと
動きません、それと5時ごろには仕事を止めて、畑から自分でスキ

を付けたままで、さっさと囲いに帰って来ます。暑い日などはスキを
ラバから外すと、近所の川岸に下りて水浴びしていました。
ラバも永い間、農場で同じ仕事をしていたので、かなりの熟練した仕事
をしていました。

トマトとトマトの間隔が1mぐらい有りましたので、そこをラバが草取
りスキを付けた農具を引いて歩きますが、忍耐と根気の要る仕事でした。
忙しい時は、家畜の飼料用のトウモロコシを大きな袋で買い、ラバ達に
食べさしていました。      一日、炎天下の過酷な仕事をします

ので、彼等に対してのご馳走になったと感じます。農場の見回りに出
て、畑の点検と水掛の水路を清掃管理して農道を歩いていた時に、ラバ
が背中を汗で光らして歩いて来ていました。その後ろをインジオが、
急ぎ足で付いて来ていましたので、声を掛けますと、時間だそうで 、

ラバの尻をいくら叩いても動かなくて、あきらめて帰ると言う事でした。
笑ってしまい、それも時間が正確なので驚いていました。
私がトウモロコシなどを与えるものですから、ラバは私を覚えていて、
農作業が終わると放し飼いをしますので、勝手に自分で餌を探して

生きていますが、時々私が仕事をしていると、どこからか現れて餌を
ねだっていました。岩塩やトウモロコシなどを農場の隅で与えますので
かなり遠く、15kmぐらい離れた所で、道端でひよっこりと会って驚
いていましたが、翌日はちゃんと農場の近くの岸辺に居ました。

片方の耳の先が切れていますので直ぐに分りまして、放し飼いの時は
近所のラバと群れて生活しているようでしたが、その中からも見分ける事
が出来ました。私がエンバルカションの町を離れる時に、駅裏の草原に
群れていましたが、私が大声で呼ぶと、大きな耳をパタパタして私を
見詰めていたのを思い出します。

2012年4月18日水曜日

私の還暦過去帳(227)

これはオバマ大統領が就任した時の、私の個人的な思いです。


アメリカの良心は死なず・・、

アメリカの選挙結果が出た。

民主党の大勝利。

これでアメリカの政治姿勢が大きく変化すると、多くの人が
話している・・・、

この結果、ヒラリー・クリントン上院議員が2年後の
大統領選挙に出る確率が大きくなった。

アメリカが大きく、うねり始めた。

改革と革新の波が、底辺のアメリカ人の中から
突き上げる様に、こだましている。

アメリカよ!自助自戒の力が失われてはいなかった。

変われ、替われ、代われ、人も組織も、法律も・・・、

帰れ、帰れ、帰って来い・・!
若い兵士達よ・・、

無駄にイラクの戦場で死ぬことなかれ・・!
戦場で散ることなかれ・・!

嗚呼・・、

母親はあんな砂漠の戦場で死ぬ為に
貴方を生んだのではない・・、

ブッシュの為に死ぬことなかれ・・!

星条旗は正義の戦いに、きらめく為に翻える・・、
星条旗は戦死した兵士の棺に、かけるものでは無い・・、

貴方達兵士が祖国アメリカの土を踏み、家族と再会のキス
をして、自由アメリカの為に力合わせ、幸せを掴み・・、

神から与えられた人生と寿命を生き抜くために
多くの市民が祈って、一票を投じたのだ・・・、

神よ、兵士達の無事の帰還を助け給え・・、
神よ、イラクの市民に平和の鐘を響かせ給え・・、

2012年4月17日火曜日

私の還暦過去帳(226)

46年も前になります・・、
パラグワイを出て、アルゼンチンのブエノス・アイレスの町に来た
時でした。街中にかなりの馬車が走っていたので、少々驚きました
が、その当時の東京は丁度、東京オリンピックで賑やかで、成長が
激しくて、どこでも工事中の有様でした。

しかし、どこにも馬車などは残っては居なかったのでしたが、
ブエノスの市街で一番先に目が行ったのは、ごみ収集の馬車でした。
道は石畳の昔の道を、かなり大型の馬車を2頭の馬が引いていまして、
ごみ収集人の掛け声で、馬車が動いていますので関心して見ていま
した。

ごみ収集人が『バモー!』と声を出すと、『パカパカ』と歩き、口笛
を『ピー!』と短く鳴らすと、ストン!と止まって動かず待っていま
した。
その間にごみ収集人が、ごみを馬車の中に投げ込んでいました。
完全自動の操作です、上手く考えて調教したと関心して見ていました。
八百屋の前で野菜くずを、大きなカゴで出してくると、慣れたもので、

馬の食料と捨てる物に分類してあり、食べる餌の所は馬車の下のカゴ
に入れていました。誰が考えたか知りませんが、排気ガス無し、運転
手無し、完全自動運転の馬車でした。
しかし、一度馬が道の真ん中で、『ぶりぶり』と大きなウンチを出し
て居たのには笑ってしまいました。

同じく牛乳配達馬車も有る事に気が付きました。それは1頭だての
小型の馬車でしたが、綺麗な看板を書いた保冷のコンテナーが有り
配達人が同じく声を掛けると、馬が一頭でパカパカと歩いていました。
ブエノスの当時の牛乳の瓶はガラスで1リットル入りでした。それを
配達しているようでしたが慣れたもので、カゴに6本ぐらい配達人

が瓶を持って家々の戸口を廻っているようでした。永年、馬と人間の
コンビで仕事をしている様で、慣れて意気がぴったりでした。
馬が配達人を見ながら、道を一頭でゆっくりと歩く様は、のどかな感じ
でした。それと同じくパン屋の配達も馬車を使用しているのを見ました。
どこと無く、昔のヨーロッパの習慣を持ちこんだと感じます。

5年前にアルゼンチンを訪問して、ブエノス市街で一台の馬車とも遇う
事は無く、また郊外の田舎でも見ることは有りませんでした。訪ねた
田舎で聞いたら、『あんな馬車は田舎でも禁止だよ・・、誰も乗らな
いし、危険で、とても乗っては居られないと、』近所では昔に、事故
でトラックと衝突して馬も人間も死亡したと言っていました。

田舎でも車が増えすぎて、とてもそんな悠長な事は出来無い様でした。

2012年4月16日月曜日

私の還暦過去帳(225)

父親達の星条旗

昔でしたが、封切したばかりの映画を見に行きました。
『Flags of Our Fathers』の名前でしたが、監督は渋い画面を捉
えて、この映画の『なにを意味するか』を迫っています。
クリント・イーストウッド監督の作品は、今回も見てからの印象
が後から時間が経っても、また心感じる物が有ります。

政治が戦場での激戦の最中に、若者達の命を左右する命令を
出して、また生き残った若者を利用して政治に絡ませる役目を
命令して、強制して、彼等が苦悩して悩み、真実を心に秘めて
心痛める事を描いていますが、また、実写の様な戦闘場面が
凄惨でリアルに描いて有ります。

この映画は2部作でアメリカ側と日本側から撮影され題材も異なる
角度から見て、描いているが、日本側の視点で撮影された映画で
は『硫黄島からの手紙』と題名が付けられている。
クリント・イーストウッド監督の今回の映画での主題が、映画配給

会社のサイトでのコメントは『戦争は正義か悪かと描いているが、
人生も戦争もそういうものではない』と話している。
戦争に翻弄される、戦争の悲惨さを世に問いかけている作品となっ
て居るが、アメリカ軍が日本領土を最初に攻撃した場所での戦いの

激戦の様子をリアルに記録映画的な白黒映画の基調が有り、画面
の逼迫性を感じるものである。

私が記憶している、ビルさんという方はアメリカ海兵隊員として、
硫黄島の戦闘に参加された方でしたが、彼から硫黄島の激戦の話を
直接聞きましたが、映画を見てからその実際の戦闘と映画の画面の
狭間が消えて居た事でした。彼の戦闘の話は、まるで映画と一致して、

彼は硫黄島でも一番の激戦であった、すり鉢山のふもとの海岸に第一
波の強襲部隊として参加したそうです。上陸舟艇で海岸の砂浜に接岸
すると、直ぐに激しい射撃がすり鉢山から有ったそうです。砂浜に伏
せたとたん、「ガツーン」と激しい衝撃を鉄兜に受けて、そのまま失
神してしまったそうですが幸いに弾は貫通せずに「べこりー!」とひ
 
しゃげて砂浜にのびてしまったそうです。幸いに直ぐ側に看護兵が居
たので、そのまま引きずられて、乗ってきた上陸舟艇で沖合いの病院
船に連れて行かれましたが、幸いにコブが出来ただけで、命には別状
無いとの事ですぐに、第一波が苦戦との事で、第二波の攻撃部隊に参
加して、自分の部隊に戻ったそうです。その時は橋頭堡を築き、部隊
 
は100mぐらい内陸部に入った、砂丘の下に隠れていたそうです。
彼はブロウニング自動ライフルの射手として、味方の歩兵の援護射撃
をしていた様ですが、弾倉を撃ち終わって砂丘の淵から弾倉を入れ替
えて立ち上がったとたん、腹部を撃ち抜かれて砂丘の下に転げ落ちて
のびていたそうです。そこでも彼に幸運の女神が微笑んで、なんとー!
 
そこには看護兵が激しい銃弾を避けて、負傷者を看護していたそうで、
直ぐに上陸舟艇に担ぎ込まれて、手当てを受けながら病院船に運ばれ
て腹部の切開手術を受けて腹部重傷ながら命を取りとめて、本国に送
還されたそうです。

彼が話してくれましたが、上陸したアメリカ海兵師団第4、第5師
団は戦闘消耗率が75%に達したと言っていました。
サイパンではわずか20%の消耗率で有ったことを考えるといかに激
しい戦いであったか分ります。彼は勇敢に戦って玉砕した日本兵に敬
意を払い、祈っていました。
 
戦闘開始時に日本軍、2万1千の守備隊で、7万5千の上陸部隊
を迎え撃ち、2万5851名の死傷者を与えて戦闘は終りました。

お互いの激戦での多くの死傷者には、それぞれの物語を秘めていると
感じます。傷ついて後に心に残っている真実の物語をこの映画が晒け
出していると感じます。


2012年4月14日土曜日

私の還暦過去帳(224)

18年目のジンクス。

だいぶ前ですが、この数字を意識して心に感じるようになり
ました。

私がこの18年と言う数のジンクスを信じる様に成ったのは
かなり前の事でした。私が18年前に始めて身近な人が
このジンクスで、涙を絞っているのを見て感じたからでした。

18年前は私が最後の造園工事をした年です。その後は不動
産管理の仕事に本格的に変えて行き、ダンプ・トラックや機
械なども全て売り払った時期でした。

ある日、私が造園した庭の管理と植え込みした、松などの手
入で訪ねたら、主人がワイフと別居すると話して来ましたの
で、驚いて黙って聞いていました。

私の感じでは『夫婦喧嘩は犬も食わぬ!』と言うので、まあ
そん事かと思っていました。しかしそれが発端で後は、
ズーーー、 と完全に切れるまで突き進んで行った様でした。

しばらくして、やつれた奥さんが自分では動かせない鉢の手
助けを頼んできましたので、そこでしばらく話す事が出来まし
た。 やはり、原因は浮気? から来る駆け落ち・・・!見たい
な感じでしたが、それは当人同士の問題で私は聞き役で、慰め
になればと聞いていました。彼女には子供が居なかったのでし

たが、彼女が話してくれた事は、学生時代からの付き合いで
18年間も連れ添って居たと言うことでしたので驚きました。
それで彼女の口では『逃げて行った。捨てられた。』と涙して
話していました。
彼女は広東語を話す中国人でしたがアメリカーン・スクールを
卒業していますので英語は完全でした。

私はその話を聞いていて、直ぐに思い出したのは30年前に、
アメリカに来て直ぐに聞いた話でしたが、やはり奥さんはフイ
リピン人で、その奥さんを捨てて、日本人の女性と逃げたと言
う話でした。 両方とも逃げて行った先は日本人の女性で、どち
らも上手く行っているようです。その時も聞いた話が18年で
す・・・、ジンクス?

フイリピン人女性には子供も2名居たと聞きましたが、男性が
逃げた先が遠い所で、しばらくして、その後は消息不明に成り
ました。
南米でも聞いた話でしたが、パラグワイの移住地から出てきて
アルゼンチンのブエノス郊外で花屋を開き、温室も沢山建設し
て、生活も安定した時期に、ご主人がパラグワイからお手伝い
さんとして来ていた、一回りも若い女性と出来てしまい、夜逃
げ同然で二人でブラジルに逃げ、それから日本に帰国してしま
ったと聞いた事が有ります。
詳しい話は聞かなかったのでしたが、本当の話しと聞きました。

移住して来る時に見合い結婚でパラグワイに来て、18年目に
破局が来たと聞いた覚えが有ります。
お解かりですかこの話し、かなりのジンクスとして当たる事が
ありますから!それと私が思うには、男の浮気心が18年目に
噴出すのかも知れません。
あー!恐ろしや・・・、

2012年4月13日金曜日

私の還暦過去帳(223)

40キロもある巨大ネズミの話し、

46年も前の事でした。
昔の事ですが、アルゼンチンのブエノス近郊で野菜栽培をしていた時代で
した。当時のブエノス郊外の田舎では馬車が良く走っていました。
特に冬の時期に雨が降ると、ぬかるみの土道で、泥んこ道では、なくては
ならない交通手段でした。

雨が2~3日も降りまして、畑の中に入れない状態で僅かにあぜ道の
近くのレタスを収穫して箱に入れておきました。それを、わざわざ馬車で
町から取りに来ていた人が、馬車の後ろに何か箱を積んで居て、中に
小動物が動いていました。まだ子供でレタスの切れ端をあげると、良く
食べてくれました。

町から来ていた人は自分の農場では沢山食用に飼っていると話していまし
たが、名前は『カピバラ』と言ってネズミの親玉とか言っていました。
大きくなると1mも有り、40kg近くもなると話していましたが、私が見
た子供はまだ子猫ぐらいで、可愛いい感じでしたが、どことなくネズミの感
じがしていました。

今度訪ねてきたら見せてあげると話していましたので、町に出た帰りに
町外れの小さな農場に寄りましたがニワトリも飼っていて、前の道端に
卵や野菜など並べて小さな雑貨店も開いている様でした。
裏に廻ると小屋が有りまして私がトマトの空き箱に入れて来た野菜くず
を抱えて囲いに近かずいたら、『どドド・・・!』と言う感じでカピバラ
が群れで出て来ました。

私は一瞬『ギョー!』として足を止めてすくみました。何か悪い夢を見て
いる感じで、巨大なネズミが私をじっと見詰めていますので、足がすくん
で少し膝が震えていました。中には1mはありそうな巨大な豚とネズミと
の合いの子と感じるのも居ました。彼等は私が抱えている野菜くずが欲し
い感じで、ますます近くに寄ってきます。

私は彼等に、よってたかって食い殺されるのかとドキドキと心臓が高鳴り
いつもの『矢でも鉄砲でも持って来いー!』の勢いも有りませんでした。
何せ・・、数が沢山居ますし、なんとなく顔つきがドブネズミの親玉と言う
感じで、雨上がりのドロにまみれて『ドス!』の効いた顔で、ずらりと並
んで私を囲む様にしていますので、振るえがまさに『ガタガター!』と言う
感じでした。

中でも一番の大きな巨大な胴体の親分風の一匹が、『やいやい・・早く餌を
くれよー!』と言うばかりに、私に『ズズズ・・・』と近寄りまして、箱
からこぼれんばかりの野菜くずを狙って足元ににじり寄りました。
私はそれまでで・・・・、
『ヒヤー!』と叫ぶと箱ごと彼等の前に投げ出して泡食って逃げました。
後ろで見ていた家の主人が笑いこけていました。

それで懲りまして、餌は絶対に囲いの中ではやらない事にしました。
それにしても、豚みたいに太ったドブネズミの親玉の様な感じのカピバラ
には驚かされるものです。
貴方は見たことが有りますか?

Hydrochaeris hydrochaeris ネズミ目(げっ歯目)カピバラ科

哺乳類の中で最も種の数が多いげっ歯目なかで、カピバラは最大の種です。
年に何度も出産をするものもいて、水生、陸生、あるいは地下の巣穴にす
むなど、さまざまな環境に生息します。主に、つがいや家族で生活します。

生息地  南アメリカの河岸や湖岸
体格  体長:1m
体重:45kg程

観察のポイント  足に水かきがついているため、走りは不器用なものの
泳ぎはうまく、数分間も水中にもぐることができます。体はまるく、茶色
の剛毛がまばらにはえていることも特徴です。  ほとんどのげっ歯は巣を
つくる中、カピバラは岸辺に直接仔を産みます。

2012年4月12日木曜日

私の還暦過去帳(222)

国籍問題と向井亜紀女史への裁判所判決。
これは私の個人的な主観で書いていますのでご了承下さい。

この問題を定義して考える前に、向井女史の経歴を読んで下さい。
以下のホーム・ページに全容の経歴が示されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%91%E4%BA%95%E4%BA%9C%E7%B4%80

現在の日本国の官僚が率先して世論形成し、社会的な世論として
定着させる大きな役割を果たしている、政府の行政指導と言うべ
き指針は、

『日本の常識は、世界の非常識』と言われる事がある。 また・・、
『官僚の常識は、世間の非常識』と言われる事がある。

この事は現在広く、深く、幅広い年齢での常識的な思考で捉えら
れているが、最近の『代理出産』の出生届問題での判決で広く知れ
渡った。

東京高裁判決趣意書
『向井亜紀女史と高田延彦氏夫妻の代理出産での、出生届け受付
 拒否での受理しなかった東京都品川区長の処分取り消しを求めた
 即時抗告の高裁判決で、東京家裁判決を取り消して、出生届けを
 受理する様に品川区に命じた。』

戸籍掲載が許可されなければ、日本国籍を認められないという事
である。
現代は変わり、変化してその時代のスピードも日々変わっている。

生殖医療もまた格段の進歩と、その関連する法整備も進んでいるが、
しかし・・、
日本での国内法での解釈は真に貧困的思考での法務省の行政指導で
の指針は、『日本の常識は、世界の非常識』と言われる所以である。

現在の世界情勢は医療関係を見ても政府が示す貧困的思考の現実を
示している。

アメリカ合衆国、ネバダ州での州裁判所の確定判決をも否定する、
またそれを承認しようとしなかった東京家裁の下級審判決も、夫妻
の提出先の品川区からの相談を政府の法務省がいかなる前例基準で
判断したかは、官僚の思考は分らないが

『法務省の判断基準での行政指導で品川区が、向井亜紀女史を母親と
 は認定しなかった事を、東京家裁の下級審でもそれを追認しただ
 けであった』

日本国憲法の福祉と人間の幸せを理念とした法の精神も反した法務官僚
の指導は官僚が国民の公僕としての、国家が国民に対して『どれだけ
の福祉と幸せ』を与えられるかと言う基本的な理念の喪失からと思われる。

それからしたら東京高裁、南敏文裁判長の判決は、日本国憲法の道理と
理念を持ち、常識的な現代を見て、生殖医療の現実を見極めた、極めて
妥当な判決と感じられる。

判決文より、
『夫妻と双子には血縁関係があり、親子と認めるネバダ州の裁判所命令が
 確定している。日本で夫妻の子と認定されないと、双子は法律的に受け
 入れる国が無い状態が続く。子の福祉を優先し、ネバダ州の確定判決を
 承認しても公序良俗に反しない。』

しかし・・・、
品川区は、法務省の意向で最高裁に上告した。
法務省の思考は真に持って、

『日本の常識は、世界の非常識』と言われる事がある。 また・・、
『官僚の常識は、世間の非常識』と言われる事がある。

世間が言う様に、まさにその通りである。

2012年4月11日水曜日

私の還暦過去帳(221)


私が時々、家でおならを『ぷ~!』と出したら・・、まずはワイフが、

ーなによ・・・!何か言いなさい!  (答) ごめんなさいー!
ーいやね・・!下品よ!!       (答) はい・・・、(しゅーん)
ーア~臭い・・、          (答) ・・・・・・・・!
ーガスが良く出るわね!ぷーと!   (答) (沈黙)出る物はしかたない!

しかし・・、こんな夫婦の言葉など吹き飛ばす、千倍も強烈なガス・・・、
それは:
    スカンクの一撃です。いや・・一発です!

私が37年前にアメリカに来て、最初に経験したのは車に乗っていて、
どこからか、ぷーんと匂って来た強烈な香り、これがスカンクの最後屁
でした。

車に轢かれて『ペタンー!』とつぶれた姿で強烈な匂いを発散していた
からでした。それには驚きと・・、匂いの強烈さが、鼻腔の中がギヤー!
と叫びたくなる感じでした。

カリフォルニアは大抵の所にはスカンクが住んでいます、住宅地の近くで
でも、ごみ漁り、ごみ缶を狙って来ます。私が一度、集合住宅の管理
で、場所はかなり郊外で、裏は藪がある林でしたが、そこの近くにごみの
集積所があり、住民はそこに運んでいました。生ごみと資源リサイクルの
かなり大きな集積所でした。ある時私が仕事で集合住宅を訪ねたら、

住人が血相を変えて飛んで来ました。そして『スカンクにやられたー!』
と話すと、シャツを脱ぎ捨てて、ホースの水で身体に付いた匂い洗って
いましたが、とてもではない匂いでした。それはごみを捨てに行って、
ごみ缶の蓋を開けたら、中に居たスカンクにいきなり一発かまされた様
でした。直ぐにアニマル・コントロールの係官がトラックで来ました。

私は捕獲するかと思って見ていましたら、いきなり腰の拳銃を抜くと、
ごみの蓋を少し開けて『パカーン!』と一発鉛弾をプレゼントしていまし
た。それには驚いて見ていましたが、係官は用心して『死んだ振りをして
いるかも知れないから・・』と言うと、もう一度、トドメの二発目をプレ
ゼントです。それから永い棒でプラスチックの袋に入れて終わりでした。
それにしても強烈な匂いはその後1週間も漂っていました。

私の知り合いの方の家で、犬に追われたスカンクが窓から家の中に飛
び込んで来て、今度は家に2匹居る猫との格闘となり、その結果で猫に
特大のスカンク最後屁を『ブチュー!』と発射して大事となりました。

住人は一週間も家に帰る事が出来ずに、モテル泊りとなり、その間に専門
業者が来て、家中を洗浄して、匂いを中和して何とか住める様にしたと話
していました。猫も瀕死に近い状態でしばらくはペット病院に入院してい
たと聞きましたが、スカンクのあの強烈な屁と言うのか知りませんが、
『ブチュー!』
には、こればかりは、いくら経験しても慣れません。

2012年4月10日火曜日

私の還暦過去帳(220)


私が子供を連れて、事業の全てを捨てて、完済まじかな自宅も
売り払い、全てを賭けて移住を決心した最大の動機は教育でした。

2ヶ月間、37年前に、もう一度白紙で移住に適する場所探しで
したが、ブラジルもアルゼンチンもカナダも、オーストラリアも
当時の 環境では私の心を満足させる環境では有りませんでした。

家族5人、生まれて間もない次男も含めて、これからの骨を埋め
る場所探しでは『至る所に青山あり・・』しかし、子育ての出来
る良い環境とはどこかと思いました。自分の人生も、これからの
残りの人生を子育てと、我が充実した人生を思うと、気候的に

カリフォルニアと感じまた、これからの永い将来の子供達の生活
環境と教育環境の合致した場所とは・・・?と考えていたら、
やはりアメリカのカリフォルニアが当時は最高と考え、また私が
条件としていた考えが全て重なり合い、日本との時間的な距離、
将来的な経済成長の過去10年間の伸び率などを密かに調べてい
ました。

37年前は住宅価格も安くて、5万ドルも出せばサンフランシスコ
郊外では、250坪で一軒家が購入できました。今では平均が60
万ドルはしますので、若い人達はかなり無理な価格となり、
サンフランシスコ沿岸地帯は伸び率が顕著で、今でも全米一の成長
をしており、近所のAntiochや、Brentwoodなどは
過去5ヵ年で成長が凄まじく、人口も4万4千人もの人口増加とな
りました。

当時のカリフォルニアの教育は、予算的にかなり裕福で、全ての教
材が無料で配布され、知能指数が高い生徒は、飛び級で上のクラス
か、特別優秀な生徒を集めて学習させていました。

日本ではとても認められない学習指導で長男も娘も次男も恩恵に与
りまして、長男は高校生で大学でクラスを取る事が認められて、単
位を修得していました。それは後で大学入学して自分の選考科目の
単位として認定されていたようでした。おかげで大学では自活する
糧を得るために働く時間を沢山取れまして、また、自立心と言う
アメリカでの習いで、学資ローンとアルバイトで自分で稼いで卒業
して行きました。

私が移住したパラグワイで見た、メノニータのドイツ人家族の母国
語での学習を見習いまして、子供達に日本語教育も上手く行き、
高校生となり私の子供達は徴兵登録を自分から進んで登録していま
した。 学校で毎日、クラス全員で唱和する『星条旗に誓う』の言葉
も、英語やスペイン語、日本語でも言える様になっていました。

国旗、国歌と言う、己の心情と相反する移民感情の狭間で、子供が
自分でアメリカの教育の中で悟り、自覚して進んで参加して成長し
て行った過程で、アメリカの教育の原点を知りました。

アメリカの清教徒達が東海岸から西に幌馬車で何ヶ月も掛かり、移動
していた中で、バイブルが子供の教科書で、法律で有り、道徳の指数
で有り、また宗教としての心の癒される聖書で有ったと思います。

30年ほど前に、85歳ぐらいの一人暮らしの女性が、僅かな年金で
暮らしていましたが、私が管理していた貸家の隣でしたので、良く手
助けしていました。彼女の両親が1860年頃のアイルランドからの
移民で、当時のぼろぼろになった聖書を見せてくれました。

彼女の父が、サザン・パシフイック、レールの鉄道会社で仕事をして、
ネバダ州で永く生活していたようでしたが、学校に通うのに馬で5k
mぐらい歩き、皆勤賞で『星条旗と1ドルの銀貨』を貰ったと見せて
くれました。
ある時、彼女が『星条旗と聖書』を私に見せて、これは私の両親が与
えてくれた宝だと話した時に、彼女の精神のバック・ボーンの重さを
知りました。

今でも彼女がクリスマスにプレゼントしてくれた1ドルの小切手を
大事に持っています。夏は冷たいコップ一杯の水、冬は熱い一杯の紅茶
でしたたが、夏の間は私が栽培した有機野菜を喜んでくれた笑顔を忘れ
ません。そして・・、7月4日の独立記念日にコップ一杯の水を持って
来て、アメリカの国歌を唄って聞かしてくれた思い出は、今でも心に
深く残っています。

2012年4月8日日曜日

私の還暦過去帳(219)

国歌斉唱と国旗掲揚。

私はインターネットの二ユースを見ていて、絶句した。

東京地裁は「入学式や卒業式で、教職員は国旗に向かって起立し
て国歌斉唱する義務はない。」という判決を下した。
そして、原告1人当たり3万円の賠償も認めました。

その裁判官の判決理由にはもつと驚きました。
「通達は不当な強制に当たり、憲法が認める思想・良心の自由を侵し、
教育基本法にも違反する」という理由です。

これは、都立学校の教職員ら401人が、東京都教育委員会の通達は違
法だとして、都と都教委を相手取り、通達に従う義務がないことの確認
や損害賠償を求めた訴訟の判決です。

私は37年前に長男が小学校に入学した時にまず感じたのは、日教組の
組合の影響が長男が入学した学校では酷かったと思います。
校長一人が奮戦して対抗していた感じでした。

先生達の言う事は、先生も労働者でそれ以外の事は関与出来ないという
事でした。父兄は先生が子供の指導と、教育の主導権を握っているので、
言いなりになっていました。
私一人で対抗して反対しました。

まず、全ての毎月の月謝などの受け渡しは銀行振り込みだけにすると
PTAで決まりました。父兄は反対できなかったのでした。先生の取り
巻きPTAメンバーが採決を強行して決定しましたので、銀行に行って
面会して、なぜ振込みだけとなったのかと聞くと、『銀行としては新規
に開いた支店の預金獲得の為に、先生にお願いした』と聞きました。

しかし組合の学校代表はまったく反対に『子供が持参したお金を無くす
から・・』と言う事で、嘘を言っていました。

私は一人だけ校長に持参していました。毎月です。

その時に組合の代表の女性が同席して、『貴方はなぜ持参するのか?
銀行に振り込む様にと』話してきましたので、私は先日、銀行幹部と
直接話した事を『貴方は理由を話す事と違がうのではないか!』とい
うと、大慌てに逃げて行きました。
近所の理髪店では先生達が銀行から、『袖の下』を貰って強行したと
もっぱらの噂でした。

当時の日教組の先生方に教えられた子供達が現在の今の先生達です。
当然に理論的な価値観がずれていると感じます。中には教育の情熱に
溢れた人も沢山居ます。教育の原点を考えると、労働者としての前に
『教育の師』としての自覚が必要と感じました。

入学式や卒業式などのセレモニーで、全員が起立して国歌を斉唱する
のは、どこの国でも当然のことだと思います。アメリカでは民主主義
の世界ですが、学校では毎日、星条旗に誓う言葉をクラスで全員で唱
えます。野球の開会式でも毎回国旗掲揚と見物客が国歌を唱和します。
学校でも違和感も無く、各種の式典では国歌、国旗の掲揚です。

もしも、それに反対すれば父兄の評価で直ぐに先生は解雇されると思
います。地域の教育委員会での地元住民の公聴会で反対され、解雇決
議が出れば、その様な先生は学校で仕事をするチャンスは無いと思い
ます。しかしながら日本では先生達の一部の、日教組と呼ばれた組織
が、昔は大きな力で動いていたからでした。

『日教組が戦後の教育を駄目にし、現在の堕落した社会にしたのです』

と、同期の教職を執った学友が60歳での退職理由で話していました。
彼は神奈川県で教職の仕事をしていましたが、大学卒業と同時に働き出
して、定年まで居ました。

『学級崩壊だよー!、私は社会主義にかぶれた仲間の教師が学校指導を
牛耳る事を永年見てきたが、その根本の中の一つが、それに含まれてい
る』と話を聞いた時には、一瞬驚きと、心からの疑問が湧いてきました。

人間が人間を教えて・・、
人間が人間を裁くという・・、根本の中に、教え、裁く人間の価値観と
その主観がいかなる教育での形成となったか?私はまず原点としての思
考の再評価をして見なくてはならないと感じます。

私は37年前に子供達の為に移住を決心して行動に移した時に、当時の
日本の教育体制がいつか、30年後や40年後には大きなマイナス要因
として残ると感じていましたので、現在の日本の教育環境から来る、混
沌とした教育指導の在り方が昨日の判決となった要因でも有ると感じま
した。

以下の文章は過去に、フリーメールに掲載した文です。
すでに私が昔に目にした事が、現実の日本の教育からの結果がその様な
私の目にした光景となって、他国では日本の国家、国旗としての礼儀さ
え出来ない学校教育となった居る事を感じました。

私の還暦過去帳より、

だいぶ昔になります、かれこれ30年ぐらい前になると思います、子供
が 少年野球のクラブに参加して、良く試合に出ていました。
たしか夏休みの時で、ワイフが忙しくて私が子供を試合に連れて行きま
したが、その時は夏休みで、短期アメリカ親善訪問の子供達が試合に招
待されて来ていました。

小さな少年野球の球場です、かなりの人が来ていました。多くは付き添
いの父兄で、まずはアメリカ国旗の入場でした。その時私の目に付いた
のが東洋人のグループでした。話声から韓国人のグループと日本人のグ
ループが近くに座って居ましたが、たいした人数では有りませんが、
中学生ぐらいの子供達です、賑やかに子供のバンドのマーチに合わせて

行進が始まり子供達が並んで入場してきまして、アメリカ人の親は一斉
に立ち上がり、子供達を歓迎していました。先頭はボーイスカウトの制
服を着た少年がアメリカの星条旗を掲げて歩いていました。アメリカ人
達の親は一斉に起立して、国旗に敬意を表して、胸に手を当てる人、
姿勢を正して注目する人、普通のアメリカでならの風景が有りました。

しかし私はその中で、日本人のグループがざわざわして、中にはベンチ
に座ったままの子供も居ます。付き添いの先生は知らん顔で、何か隣り
の日本人と話しながら、プログラムの紙をのぞいて、それを話して居る
ような感じです、近くのアメリカ人が、『ジロリ~!』と見ているのが
分りました。それと言うのも、隣りの韓国人のグループは先生が直ぐに

直立の姿勢をすると、野球帽子を取り、胸に手を当てて行進してくる生
徒達に敬意を表していたからで、廻りの韓国人の子供達も先生に見習い
、直立して行進を見ていました。私は一瞬戸惑いを覚え、悲しくなりま
した。
そのあとの星条旗の掲揚の時も同じ感じで、子供達は『何をしているの
だー』と言う感じが有りました。まったく国旗に対して、何も礼儀とそ
の国家の象徴の国旗に敬意を表す事も習ってはいない、教育も受けては
いないと感じました。

韓国人の子供のグループは最後まで、先生の元で、爽やかな感じのマナ
ーで国旗に敬意を表して、先生と子供の統一された礼儀がありました。
その頃、日本では教職員組合の勢力が強くて、中には国旗掲揚まで拒否
して、国歌斉唱も否定していた学校が有ると日本の報道に有りました。

入学式に国旗掲揚、国歌斉唱も出来ずに、式が混乱して取り止めになっ
た学校もあったと報道されていました。先生が拒否して、子供達にもそ
の様な、指導があったと言われ、その様に国家権力と対抗する事が民主
化の手本だと感じている、間違った先生が大手を振っていると報道され
ていました。

その様な報道を裏打ちするような事が現実に目の前で起きて、私は言葉
を無くして、茫然としていました。私の子供はアメリカに来て、まだ言
葉が分らない時、校長先生が日系2世の先生を担任としてくれ、英語が
分らない長男に日本語で『星条旗に誓う』と言う言葉を教えてくれまし
た。
それから直ぐに英語も分かる様になってから、学校で英語で、スペイン
語で同じく『星条旗に誓う』の言葉を言える様になっていました。
そして国旗に対して敬意を示し、一つの国旗の下でアメリカ人として、
力合わせる事を学んで居た様です、アメリカ人が『日本人の国旗に対す
る、日本での学校教育はどんなか』と聞かれて、返答に詰まり答えられ


ませんでした。私もその様な教育を義務教育期間に教えられた事は覚え
ては居ません。私の時代は終戦後まだ日時が、さほど経ってはいなかっ
たからも知れませんが、愛国心は『国敗れて山河有り』の中で強く持っ
た事が有りました。

それは戦争に従軍して復員して来た先生が、時折話す言葉で、国と言う
存在を強く印象付けられていました。戦地で亡くなられた方がこれから
の日本を憂いて『戦争が終り日本が平和になったら、お前は教員だから
将来の日本の為に、子供達にはたとえ国敗れても、大和魂を持つ子供を
育てろー-!』と言いのこして亡くなったと先生が話してくれました。

国を変え、国を向上し、未来に向けた魂を持つ日本人を育てたいと言
っていた先生でした。当時の学校は、窓ガラスは割れ何も無い部屋でし
たが、先生が同じ学徒出征の学友が、神風特別攻撃隊で出撃する前に、
遺言として送ってくれた手紙を読んだ時に、教室の多くの生徒が涙し
て聞いていました。

家族を思い、両親を思い、仲間の戦友や友達を思い、国を憂いて、祖
国日本の将来を夢見て、死んで行った人がいる事を知り、たとえ政治
体制が全体主義であれ、社会主義であれ、民主主義社会であれ、その
生まれ育った祖国を思う心の情熱が愛国心と私は子供心に感じました。

私はその先生に今でも感謝しています、この歳になっても日本人とし
ての大和魂を持ち続けています、アメリカに暮らす昔の戦前の一世が、
日本国旗を額に入れて、客間に飾って手を合わせて祖国の繁栄と安静を
願っていた事は、アメリカだけではなく南米の各地でも目にしました。
その様な人々を覚えていたので、当時出合った若い先生と、生徒達に
心悲しい思いをしました。

日本人の愛国心とはーー!祖国日本を思う心とは--!その時、日本の
学校教育に疑問を持ったしだいです。 これからの若い日本人の子供達
が世界で羽ばたき、日本を支え、繁栄させる為にも、これからの日本の
教育に期待しています。

2012年4月7日土曜日

私の還暦過去帳(218)



旅立ち・・・、 昔の事でしたが、

昨日の午後に仕事で訪ねたら、先日訪ねた時に
並木を散歩していた方が亡くなっていた。

家族に見守られて、眠る様に息絶えたと息子が
話していたが・・、
かれこれ25年近い付き合いであった。

寂しくなっていく、秋の空に舞い落ちる木の葉の様に・・、
息子とかたくハグをして、肩を抱いて涙をこらえていた。

先日、親子が歩いていた道は、落ち葉が散り始めていて、
少し色付いた葉が、風に舞っていた。

別れに車から見た並木が涙でゆがんで見えていた。

2012年4月6日金曜日

私の還暦過去帳(217)

訪日していつも感じることは、食べ物が繊細な事です。
これは日本人の口が食材、器、飾り付け、季節感など多くの要因
を細やかな心で、合わせ盛る事を要求していると感じます。

ホテルの朝食にしても、バイキング方式ですが、並んで居る漬物
にしても、佃煮にしてもかなり凝った物が並んで居ますし、まず、
ご飯が美味しい事は良く分かります。 おかゆにしても、程よく煮
てあり、硬からず、柔らからず白ご飯を食べて、おかゆをもう一杯
たべました。

いつもは自宅での朝食は、豆乳とバナナとトーストで、フルーツが
付くのが決まりですが、そんな物はとても食べてはいられません、
ナメコの佃煮と昆布と椎茸の佃煮風の煮物は絶品で、ついつい、
ご飯のお代わりでした。

食べ終わって緑茶を飲んで感じたのは『美味しかった!』の一言で
した。満腹感は心豊かになります。元気一杯で羽田から6月に開港
したばかりの北九州の飛行場まで飛びまして九州に入りました。
早くて簡単で、ゲートを出てその前が市内行きの急行バスの停留場
でした。

母を訪ねて行きましたが、元気で90歳とは思えない感じで老人ホー
ム仲間の一番元気者と教えて下さり安心しました。
母も自分で『この調子では長生きするかもしれないよー!』と自分
で話すのですから、これまた安心の言葉で安堵していました。

また仲間の世話や、裁縫なども手助けして、服修理などの事もして
あげると説明を受けて、これも安心したしだいです。
母が元気な間は、アメリカからでも訪ねて行かなければと感じたし
だいですが、別れはしっかりと母を抱きしめて来ましたが、その胸
の温かさは心に染みました。小倉駅からは余り待つ事無く、

そこからは熊本まで鹿児島本線を降りて特急で行きましたが、電車
の乗り心地は快適で、冷房の効いた車内でうとうとしている間に熊
本に到着いたしました。
いとこが迎えに来てくれ、そのまま病院を訪ねて別れをしてきました。
帰りに僅かな時間で本屋に寄り、少し買いたい本を、お土産を出した
カバンの空きに6冊ほど入れておきました。

その夜はいとこの招待で料亭で、会席膳のご馳走になりました。
久しぶりに馬刺身のトロを食べましたが、これは珍味で、ネギと生姜
、ニンニクなどをおろした物で食べますが、アメリカでは絶対に口に
出来ない食べ物です。昔、桜鍋と言って馬肉を食べた思いでは有り
ますが、馬刺しのトロなどは初めてでした。私の友人も熊本を訪ねた
時に旅館で食べて、お土産に買って帰ったと言うくらいの珍味でした。

しかしながらアメリカでは9月7日に馬の食肉処理禁止法が下院で可決
され、上院で可決されると、日本などには一切輸出できない事になり、
その賛成多数で可決されたという裏には、動物愛護団体の支持を受け
た議員の活動が、畜産団体の反対を押し切ったと言う事です。
これは馬を食肉用に売買い、譲渡、出荷の全て禁止する法律で、

アメリカでこれが成立すると馬肉はペット・フードにしか加工出来な
くなります。ペットが食べても良くて、人間様は一切禁止と言うおか
しな法律となりますが、牛やニワトリ、豚は食用に良いが馬は禁止
という、少し頭をひねる法です。貴方はいかに考えますか?

馬はペットで愛玩動物とか・・・!

上質な馬刺しがこれで消えるのは、ちょいー!おかしいと思います。
うらめしや~!

2012年4月5日木曜日

私の還暦過去帳(216)

6年ほど前でした。
しばらくぶりに日本を訪ねていました。郷里訪問と仲間のOFF会
の出席の為でした。5日に帰宅して週末を自宅で過ごしています。
今日で私の仕事も正常に戻りました。
引退まじかで、だいぶ仕事を減らしていますので、かなり仕事の
時間的余裕がありますので楽です。

日本滞在中に一番関心して見たのは、田町駅近くのホテルの9階の
窓から朝6時過ぎに目が覚めて、下の歩道を見ていたら、永い行列
が歩いていました。
デモ行進と勘ぐりましたが、いちおう全員がバックサックか、肩か
ら作業カバンを斜めにかっいで持っています。
格好は皆さん作業着で、運動靴が多かった様でした。

私は朝のシャワーを急いで浴びると、ロビーにある、朝食のバフェー
を食べる為に降りて行きました。しかし少し時間的に余裕が有りまし
たので、外に出て歩道を見ていました。
外を掃除していたホテルの係員が教えてくれたのですが、近所の
マンション工事現場に行く作業員の行列と教えてくれました。

42階とか、もっと他に建設現場が有ると言っていましたが、巨大
な高層建築の建設現場に働く労働者がこれだけ居るとは信じられませ
んでした。パーキングが少ないので皆さんが電車で通勤してくる様で
した。電車が吐き出す作業員全員が並んで、ゾロゾロと歩くのですか
ら、それは壮観です。

ホテルの係員が教えてくれたのですが、沢山の南米からの出稼ぎ労働者
が働いて居ると言っていました。確かに私の見ている前でスペイン語で
会話しながら歩いている若い日系人のグループも見ました。
底辺の労働者として、日本の建築産業の土台を支えていると感じました。

羽田から飛んで、北九州市の6月に開港した飛行場から急行バスで小倉
市内のモノレール乗り場近くで下車して、駅まで歩いていたら、
道を尋ねた警備員が若い女性で、カタコトの日本語でダンプトラック
の誘導をしていました。
カタコトの日本語でモノレールの乗り場を教えてくれたので、ポルト
ガル語と感じましたので、『ムイト・オブリガード!』と言うと、満面
の笑顔で答えてくれました。目が澄んだ青色でしたから日系の混血と感
じましたが、こんな田舎の現場で仕事をしている出稼ぎ労働者が居ると
思うと、日本の社会が、変化と改革の中に居ると肌で感じました。

2012年4月4日水曜日

私の還暦過去帳(215)

別れの散歩・・・!

かなり昔の事でした。

ある日の午後に、私が不動産管理で永年働いていた
家の奥さんが自分で、全ての医療装置を取り外して、
また、希望して、
薬も・・、
全ての酸素チユーブも・・、
栄養補給のチユーブも・・、
少し口に出来る、流動食も・・、
すべをを放棄して、死ぬのを待っている。

息子が抱きかかえて、車椅子に乗せて、愛犬を連れて、

家の前の歩道をゆっくりと、茂った並木の下を歩いていた。
その顔は安らかな・・、幸せな・・表情であった。
両側に息子と、娘が二人歩いていた。

遠くで見ていたが、私は涙が出て仕方がなかった。
息子も母が来週まではもたないと涙していた。

87歳の母親の小さな背中が輝いて見えていた。

2012年4月3日火曜日

私の還暦過去帳(214)

思い出の夜の旅路、
近頃、私は夜遅くなると、フラフラと徘徊するごとく旅に出ます。
窓の外に虫の声を聞きながら、深夜の静かな中を歩き出しますが、片手で
パソコンを操作してGoogleマップを開いて、行きたい所や、昔に歩い
た場所を探して旅して探します。昨夜からはパラグワイのエンカナシオンと
アルゼンチンのポサダの町を歩いていました。

なんと、50mまでズームでアップできますので、エンカルとポサダの間の
橋の上を走る車まではっきりと識別出来ます。濁ったパラナ河の流れが聞こ
えて 来そうな感じでした。昔の移住地に行く道路を伝って行くと、移住地
の区画 がはっきりと現れて、しばらくはジーンと感激の思い出が湧いて来
ました。
なんという時代の変化か!50m上空をヘリで飛んでいる感じで見ていまし
た。 まるで道路を走る大型トラックの轟音まで聞こえて来る感じでした。
パソコンのマウスを操作するだけで、まるで道の上空を飛んでいる錯覚です。

50mという距離感覚は何か錯覚が『時代と時』との格差を飛び越えて、
夢と 感じる時点からの『魂』だけが空中に遊泳して、さ迷っている感じも
しました。
シーンとした部屋の中で、ポツーンとパソコンの前に座る自分が、スクリー
ンの中に遊離して、さ迷い歩いている錯覚も覚えます。
何か風の音も、河の流れの音も、エンカルの町の騒音も、道を走る車の音
も、全てが擬音として耳に聞こえてくる感じです。

Googleマップで、アルゼンチン、サルタ州のオランとエンバルカションの
町を見ていました。エンバルカションの町は私が46年前に住んでいた町
です、 そしたら、なんとー・・! はっきりと私が仕事をしていた農場が
見えました。
ズームで、一杯に拡大したら、かすかに住んでいた場所あたりに、まだ家
屋 が見えました。ジーン!として、衛星画像の精度のすばらしさを実感し
ていました。しかしその地域は1kmまでしかズームを上げる事は出来ま
せんでしたが感激の一瞬でした。
言葉では言えない感動でした。
もう一度元気な時に訪ねて行きたいと思いました。

周りは大きく変化して、畑が増えて、エンバルカションの町の周辺では開発
が進んだ様で、町が46年前からしたら、4倍ぐらいに大きくなっていた感
じで、私が居た農場の近所では、トマトの植え付け後は永年作物を植えると
言っていた場所には緑濃いい感じで、果樹が植えて有ると感じました。

それからパラグワイのチャコ地方の開発も進んで居る様で、リオ・ベルメッ
ホの河の近くが開発されて大豆畑となっている感じがしました。

エンバルカションの町のかなり離れた所でしたが、1000町歩はある感
じの、広大な畑を見つけました。様変わりした様子も見ることが出来まし
た。 私が居た時代は独身で、青春に燃え、がむしゃらに目的に突き進んでい
た時です、 今度行くときは、リオ・ベルメッホ河で静かに釣りでもして時間
を過ごしたいと思います。

2012年4月2日月曜日

私の還暦過去帳(213)

アメリカに戦後渡って来た女性を,当時の世間では『戦争花嫁』と呼んだ。
アメリカ政府の戦時強制収容所から出て、一般社会に日系人が復帰して
活動を開始した時期とも合っている。
アメリカの日系社会では強制収用所から出征した日系兵士や、ハワイは
強制収用は無かったが、限られた島からの制限された中からの出征でし
た。

彼等の日系兵士は駐留米軍に同行して戦後処理の重要な役割を占めてい
た。アメリカの限られた地域社会の排他的な日系社会から出てきた日系
兵士と、その環境で教育を受けて日本語で育った多くの日系人の兵士で
した。彼等が日本駐留中に結婚した日本人女性は約1300名に上ると
言われ、その他、非日系人と結婚した女性も当時はかなりの数になりま
した。
1952年の講和条約発効で日本占領終了後も、かなりの数の日系人と
結婚する日本人女性がいましたがその様な流れを経て、アメリカに移住し
てきた日本人女性は否応無くアメリカの日系社会の中で生活を始めたので
した。
カリフォルニアなどは、地域として日系人が集中する場所に近い所に住む
事になり、あらゆる生活の中で日系人社会から、はみ出して住んでいた
日本人女性には白人社会の壁が存在して、言葉換えると、人種差別 と言う
環境的な地域的格差と、アメリカ日系人の排他的な社会との板ばさみを感
じていたと思います。
まったく白人社会に埋没して、日本語さえ忘れて、50年と言う半世紀の
流れを白人のご主人と生活して現在に至るまで、淡々と過ごして来て、ご
主人が亡くなると、その50年と言う過去の時間を全て捨てて、日本に帰
国する方、日本に帰るべき郷里の親兄弟の永き時間の隔たりで音信不通と
なり、帰るべき家もなく、老人ホームでの人生終末の時間を過ごしている

方など、また子供が無かった人、子供に囲まれて生活して、孫などと賑や
かに生活している方、日系2世と結婚した日本人女性、その他白人や黒人
またヒスパニック系と結婚した日本人女性、アメリカでも南部や東部での
生活者、カリフォルニアやネバダ州など西部での生活者、ハワイなどまた、
南太平洋の島でグァム、サイパンなどので生活者とは地域的な差が多く有
ります。
終戦後の日本占領時期に結婚してアメリカに来た人、また朝鮮戦争時代に
結婚した人、ベトナム戦争時に日本に駐留する米軍兵士と結婚した人、
様々な過程と、人それぞれの運命と絡み、アメリカの広大な場所に散って、
現在は歳で身体衰えてアメリカの土となる人、子供無く、老人ホームで静か
に余生を過ごす人、ご主人と引退者ホームに住み、仲良く旅行して歩いて

いる方、それぞれの人生が私の周りで見られます、人生一度の生き様は人
それぞれですが、最近、私が見た方ですが、戦後日本からカリフォルニア
に来て、ご 主人も見送り、癌に倒れて、淡々と元気な時に友人を自宅に

呼び、別れをし て、感謝のメッセージを子供達や、親戚友人達に読み上げ
てお別れのグラス を交わして、しばらくして亡くなり、子供達に囲まれ青
い芝生に掘られた墓穴 に埋められた最後を見ると、『人生とは・・・!』
と心感じるものです。

2012年4月1日日曜日

私の還暦過去帳(212)


旅に出ると言うことは自分の人生を旅の途中で考え、思い、
悟り、反省してこれからの人生の将来を見つめる事になる
チャンスを掴む事になる時が有ります。

私が家庭を持っても、家族で良く旅に出かけて行きました。
カリフォルニアからカナダまでドライブした事も有ります。
一日で、1500kmも運転してアリゾナ州までバンの車
で家族で交代で運転して行きました。

南米時代の旅はまだ独身時代で、多くが一人旅で歩いて
居ましたが、当時の南米の田舎町では、よくぞこなん所と
思う所に住み着いて居る人が居ました。
人はそれぞれの運命の道を歩むと言われますが、私もそう
感じます、アルゼンチン北部の日系人という社会も無い様

な場所で、どこにも日本食というその材料も購入する店も
無い様な町で、ポツーンと住んでいる日本人が居ましたが、
何か人生の悟りを得て、隠遁者のごとく祖国日本から縁を
切り、アルゼンチンの土に成る覚悟の人でしたが、驚く言葉

使いが、だいぶ忘れかかった日本語でしたがはっきりとした
標準語で、日本の戦後復興からの立ち直りの様を喜び、また
時代の変化の流れで、自分が現在日本からの情報で知った
1960年当時の日本と、戦前の自分が住んだ田舎の農村の

姿を思い比較して、当時の短波NHK国際放送を聞く情報と、
雑誌や本で知る日本の現状を比較しての話でしたが、今で
思えば一世の心意気と心情の結晶を感じました。
同じアルゼンチン北部のサルタ州オランの町、郊外で会った
女性でしたが、ミスXXXと日本で言われた美人コンテストで
優勝した方と言われていました。良くこなん場所に住み、生活

して、人わびしい里に結婚して呼び寄せられて来たかと言う事
を感じました。まさにその時ほど人様々、人生の人それぞれの
道の奇遇さを感じた事は有りません、小高い丘の上に建つ家の
応接間からは一望に広がる柑橘類の農園が見え、青い空が

輝き、南米の広大な台地の広がりが感じられる所でしたが、耳
に響く音は風の音だけでした。今でも忘れる事は出来ませんが
オレンジの緑濃いく茂る葉の波が、見渡す限り広がる風景を見
ていた横顔の何か寂しげな感じが、私の心に残っています。

その女性には当時、子供は居なかった様でしたが人生の生き方
には何が幸せかは、その人の心に有ると今では思います。