2011年9月30日金曜日

私の還暦過去帳(63)

  たかが寿司、されど寿司なりーー、
  たかが刺身、されど刺身なりーー、
  
祖国を遠く離れて、恋しき思いは故郷の山河や、親兄弟
  ばかりでは有りません、思いきり食べたい物も有ります、
  時代はかわれど、思いは同じーー、死ぬ前に思い切り
  寿司を食べたいと言って亡くなった人も居ますーー、
  
今日のお話は約45年前のお話です。
(上)
今日は早く起きて太陽が顔を出す前に畑の見回りに行き、農場のクリス
マスから正月にかけて働く人間もいないガランとした小屋の前を通ると、
犬がのんびりと道に寝ている。
出稼ぎのインジオ達がクリスマスの前から田舎に帰って、農場の食堂も
三名のボリビアから来たインジオが居るだけで静かだ。

南米の正月は真夏で暑い盛りで、日本のような正月のイメージは余りな
いが、正月にはエンバルカションの町の近郊の日本人が集まり、新年会
をするのが決まりである。
今年は私が新年会の幹事を受け持ったので、今日は何だか忙しくなりそ
うな一日である。
先ずは食道でコーヒーをコップに一杯もらうと、ミルクを入れてゆっく
りと飲んだ。

出口の所にぶら下げってあるバナナを一本取ると、食べながら歩き出し
た。
一人のインジオが飛び出して来て何時に町に出るか聞いた。
「8時だーー!」と言うと、町まで乗せてくれと言った。
トラックをスタートさせる前にふと思いつき、庭の赤い花を5本ばかり
切り取り、町へと出発した。
途中、川の近くで、前に強盗に襲われた時に一味の犬を射殺して埋めた、
石を盛り上げて作った墓に花を添え、廻りの草を取り綺麗に掃除した。

トラックの荷台に乗っているインジオ達が黙ってジッーと見ている。
かまわず全部終らせるとトラックをスタートさせた。
暑い太陽の下、乾き切った土道から砂埃が舞い上がった。
ジャングルの細い道をしばらく走っていると、一本の倒木が道を塞いで
いた。
三人のインジオ達が降りて来て、マチェーテで枝を切り始めた。

トラックから斧を持って行くと、一人が手際よく半分に切り取り道から
押し出した。
インジオ達は汗を拭いもせず、アッと言う間に片付けてしまった。
ヤレヤレ自分でやらなくて済んだと思う間もなく町に着いた。
町外れの雑貨屋でビールを買った。「さあ~!今日は正月だーー!」
まず冷たいビールで前祝をした。

ビールを貰ったインジオ達は嬉しそうに廻し飲みをしている、今日は何
をするのかと聞くと、何も無いーー、ただ休みだから町に出て来たとの
事である。
三人と別れて、大城氏の洗濯屋に行った。
今日の新年会の会場である。そこにはバケーションでブエノス.アイレ
スから来ている健ちゃんこと、吉田健一氏が待っていた。

彼はブエノスの大洋漁業の経営する「マグロの家」と言うレストランの
板前である。
大城氏と知り合ったのは二年前、ボリビアからヒッチハイクでトラック
に乗ってこの町に来た時、この小さな町でトラックが止まり行く所が無
く、ブラリと入って来たのが初めてである。
彼は「包丁一本、さらしに巻いて」の歌にあるような人生で、中学卒業
と同時に、板前の修業に出て20歳でアメリカに渡り、メキシコ、ペル
ー、チリー、ボリビアを経てアルゼンチンに来た渡り人生である。

彼がブエノス.アイレスから月桂冠の特級6本、4本の1升ビン入りの
富士の銘水の瓶詰、輸出用の樽入りキッコーマンの醤油一樽を持って来
てくれた。
これは全部私の注文で、港で日本船から買って来た物である。
今日は8家族くらいは集まる予定で、新年会のご馳走は各自持参、そし
て幹事が考えて作る特別御馳走とで、半分ずつと言う割合で毎年作って
いる。

健ちゃんがニヤリとして店から出て来ると、「あとは、魚が着くだけだ
ーー!」と言った。
アントニオのトラックはタルタガールの町を出発したと電話が有ったの
で、あと一時間で着く様子だ。
チリーの太平洋の港町からアンデスの山をマグロが超えて来る。
ドライアイスを詰めた茶箱に大城氏の知り合いのチリー在住の大原氏の
世話で、アントニオのトラックに魚を載せて貰った。

真夏の太陽がジリジリと朝の冷気を溶かしている。
健ちゃんが「暑くなりそうだ、今日は刺身と寿司で驚かせてやろうーー」
と言うと、ニヤリとした。
日本米は隣りのパラグワイから、坂梨氏が日本人移住地から集めた米を、
モチ米と共に分けてもらった。
今日の為に三ヶ月も前から用意している。
この新年会で刺身のトロを腹が緩くなる程食べさせてやろうと考えた時、
大城氏は「やめとけ~!」と言っていたが、今では一番熱心に協力して
くれる。

この秘密は大城夫妻、健ちゃん、そして私の四名しか知らない。
大城氏の洗濯屋の隣りの前がレストラン、裏が小さなホテルのロベルト
の店にも今日はレストランが休みなので、一部調理場を貸してくれると
の話しもついている。

隣りのレストランのポーチのテーブルに座り、ゆっくりと通りを見てい
ると、健ちゃんがコーヒーを持ってきた。一口飲んだ所で町の中を通り
抜ける道に土埃りが遠く見えて来た。

ゆっくりと、スピードをおとして、ジーゼルエンジンの音を響かせてア
ントニオのトラックが止まった。
アントニオがゆっくりとトラックから降りて来ると、「予定どおりだ。
約束の魚は間違いなく持ってきた」と言って、大型の茶箱で作ったアイ
スボックスをロベルトの調理場に運び込んだ。
中にはギッシリと魚とドライアイスが詰まっている。
健ちゃんがアントニオの朝食を出した。

私が入れたコーヒーを飲み終えるとポケットの金を押さえて、ニコニコ
して出て行った。
健ちゃんはもう箱から魚を出して用意を始めた。大城氏の裏庭で煙りが
上がり、大釜で御飯を炊いて、その横でアサード(アルゼンチン風バー
ベキュー)の用意を大城氏の奥さんが始めた。
大城家の広い裏庭のパテイオと広間が新年会の会場である。健ちゃんは
運び込まれた箱から手際良く魚を次々と出して調理している。
その見事な包丁さばき、プロの板前の仕事を見せられた。

魚の大鯛二尾は姿造りの刺身として大皿に踊っている。
金城氏が一月二日に、80歳の誕生日なので、丁度良いお祝いの一品だ。
健ちゃんは、マグロは特上のトロが沢山あると言ってご機嫌である。
その時、一番乗りで鈴木氏夫妻が重箱を抱えて「何かヘルプする事は有
りませんかーー」と、調理場に入って来た。
入って来るなり、『ワ~!』と唸り声、そして奥さんのーーー、『アー!
アー!アー!』と声にならない言葉で喉を詰まらせている。
    
この話の続きは次回(下)を楽しみに~!
40年前、南米での田舎町であった正月の一大事件です!

2011年9月29日木曜日

私の還暦過去帳(62)

ある時、農場で沢山のトラブルが起きた事が有ります、毎日罠をしかけ
てビスカッチャと言うウサギと狸の合いの子の様な動物を捕って、食料
にしていました。

週に二度ほど捕まえると、これで肉は心配有りませんでした。
それが全部盗まれていました。

それからトマト畑の盗難が凄く多くなりまして、誰か専門で盗んで居る
事が分り、インヂオに捜させましたが、直ぐに犬を連れた、若い男と言
う事を知らしてくれました。

ジャングルでは犬はレーダーとして、あらゆる事に第3の目を持って行
動しているのと同じです。プロの仕業です、賢い犬の様で、此方がどん
なに上手く隠していても直ぐに捜して無くなっています。生活が掛って
いますので、インヂオに行動のパターンを捜させて、大体どこから入っ
て来るか見当をつけて見張る事にしました。

私は高性能のライフルを用意して、それにはスコープも付いていて、か
なりの遠距離から撃てます。炎天下のトマト畑の近くの茂みに隠れてい
ました。
昼休みは、2時間は休みですから、畑に誰も居ませんので見張るのは真
剣です、私もいいかげんくたびれた時です、犬があたりを用心しながら
出てきました。

首を上げて、匂いを捜しています。耳も立てて音を探している事が分り
ます。150mは有りますので犬には分りません、その後に若い男が出
てきました。
ジャングルと畑の境です、男はトマトをドンドンと袋に入れています、
かなりの量です、トマトの値が出て町で直接売ればかなりの値段になり
ます。茂みの中で私はライフルの安全装置を外して、いっでも撃てる様
にしました。

スコープの中の+のサイトに犬の前足の心臓部分を狙いを付けて警告の
為に犬を撃つ事にしました。
ここからでは犬を撃つ事は簡単な事です、6倍のスコープで覗く目標は
手が届く様に見えます。犬がいなければ男は何も出来ません、側の犬が

撃たれる事は、あきらかに脅しと言う事が相手に分ります。犬ではなく
て、「お前を撃つ事が出来るぞ~!」と言う意思を分らせる事が出来ま
す。犬が立ち止まって男を見ている時、ライフルを撃ちました。
「ガ―ン~!」と言う音と同時に、犬が男の前にもんどり打って倒れて
行きました。

それだけで後は静まり返ったジャングルの中で木霊が長く鳴っていまし
たが、男が伏せた畑の畦のすれすれに、もう一発撃ちました。
畑の土から土煙が上がり、後はシーンとして何も動く物は無く、音も聞
こえませんでした。

後でインヂオに偵察に行かせたら、血だまりの土があったと、その他は
何も無かったと言って来ました。
それからは、ピタリとトラブルが止まり、何事も無く仕事が出来る様に
なりました。

たしかに犬は男が持って逃げた様です、何も捜しても有りませんでした
が、捨てられたトマトが入った袋だけが畑に残されていましたが、ライ
フルを撃った後に、ふと見上げた空の青さが今でも思い出されます。

生きると言う事に激しい環境の世界で、自然だけは何も変らずに動いて
いる思いを心に感じた日でした。

2011年9月28日水曜日

私の還暦過去帳(61)

だいぶ昔の事です、36年ぐらい前でした。
リオ、デ、ジャネイロからアルゼンチンのブエノス、アイレスまで国際
バスが走っていました。

3日近く掛ります、サンパウロから乗車していました。バスは沢山の人
が乗車しては、又降りて行きます。運転手は見習いを入れて3名いまし
た。
舗装道路ではかなりのスピードで走ります、たしか、レジストロと言う
日本人がお茶を栽培している所を過ぎて、夜道をかなり走った所でした。

朝早く、ほのぼのと明けてきて空がまだ薄赤く染まっている頃でしたが、
トイレ休憩で10分間と言って停車しました。
店はまだ開いていなくて、バス停の事務所だけが開いていました。
私はバスのトイレは汚いので、そこの事務所の横に有る、トイレに入り

ましたが、そこで掃除をしている人がどうも東洋人で、掃除もブラジル
人とは思えない、きちんと整理されて、たいした事もないありふれたバ
ス停のトイレでしたが、何か違う感じでした。
水道の蛇口も綺麗に磨かれて、入り口の横には花も咲いており、管理人
の人柄が感じさせられる所でした。

町外れの長距離バスのバス停にしては、余り見かけない綺麗なバス停と
感じましたが、トイレを済ましてバスに戻ると運転手がタイヤを見て騒
いでいます、釘が刺さっていると話しています、タイヤの交換をするか
ら、最低30分は停まっていると乗客に言って交換作業を始めました。

そうする内にコーヒーショップも開いて、ぞろぞろとお店に入って行き
ました。
乗客は「それではここで朝食とするか~!」と話しています、私はトイ
レを掃除していた東洋人が気になり、サンパウロの友人に貰った日本の
週刊誌や、月刊誌を全部読み終えていましたので、バスからそれを抱え
て、トイレのゴミ箱まで持って行きました。

年配のその人はまだ掃除を続けていましたので、目立つ様に雑誌を「ド
ン~!」とゴミ箱の横の台に置いて、大声で、「誰かこんな日本語の本
を読む人がバス停にくればいいのだが―ー」と言って、置いてきました。
私も朝食を注文して、先にコーヒーを飲んでいました。
窓から見ていましたら、その年配の管理人が掃除道具を横に置いて本を
めくっています、やはり日本人の方だと感じました。

運転手は乗客がほとんどお店で食事や、コーヒーを飲み出したので、
「1時間の休憩です―!」と告げると自分もコーヒーを注文してテーブ
ルに座ってしまいました。
早めに朝食を済ませて、管理人が本を抱えて消えた事務所の裏に散歩に
行きました。

少し歩くと林のような木がありそこに、こじんまりとした人家が有り、
畑も綺麗に野菜が作られていて、廻りではニワトリが囲いの中で餌を食
べていました。
どこか日本の田舎の感じがする風景で、畑には大根も植えられている事
が分りました。

畑のそばで管理人が、その方の奥さんらしき人に本を見せています、覗
き込む様に見ていますので、私は何か安心した気持ちでした。
こんな見も知らない土地で、のどかな日本的な風景を感じて、幸せそう
な老夫婦を見て、心安らぐ感じを受けてバスまで戻りました、どこに住
んでも、生活しても生の営みは、平和の安らぎが有れば、お金では買え
られない何物かが有ると心に感じました。

のどかに時を告げるニワトリや、老夫妻の足元のじゃれる猫達を遠くに
眺めて、ここまでにたどり着く長い道のりを思うと、人それぞれに歩ん
だ長い道のりを、「人生、幸せとはーー、」出発したバスの中で考えて
いました。

このバスもまた人生の縮図だとーー、誰か退屈しのぎにギターを弾き始
めて、その曲を聞きながら眠ってしまいました。

2011年9月26日月曜日

私の還暦過去帳(60)

昔、若い頃でしたが農場での仕事は、蔬菜と果樹の栽培仕事でした。

農場での仕事は収穫の忙しい時は1週間で、2~3日しか寝られない時
も有ります。しかし暇な時はのんびりと魚釣りにでも行ける時間が有り
ました。日本人ですので、良く魚は食べました。

私が居た農場の近所に住んで居たインジオは森に住んでいる、狩猟が得
意のマタッコ族、漁師をして河の近くでトウモロコシやカボチャなどを
作って生活しているチャワンコ族、荒野や、山岳地帯にヤギや羊の牧
畜などで暮らすトーバ族、などが居ましたが、独特の生活様式が有り
ました。

チャワンコ族は魚捕りが得意で良く、100キロも有る大きなナマズを
捕獲していました。
一度畑で仕事をしていたら、遠くで二人が何か棒をかついで来ます、近
くに来て驚きました、何と・・大ナマズでした。

両側でかついでいたインジオは重そうで、100キロは有ると言います、
買わないかと言って見せてくれました。
日本人はカマボコの材料にします、早速近所の日本人と話して買う事に
しました。

インジオのおばさんを呼んで来て、早速カマボコの製造です、なれたも
のでおばさんは頭を切り捨て、身を骨から分けると手回しのひき肉機で
メンチにかけます、二度ほど機械を通して、それから臼に入れて、澱粉
粉を混ぜて杵で突いてモチの様に綺麗に均したすり身を、竹の型に入れ

て蒸したり、揚げカマボコにします。勿論さつま揚げや、チーズカマボ
コなど加工して保存しておきます。冷蔵庫は灯油の余り冷えない物で、
夕食時に一度氷を取ると、翌日までは次ぎが出来ません、出来上がると
近所に配ります。配っておくと次ぎに又、誰かカマボコ造った時に貰え
ます。揚げカマボコは人気の有るカマボコで誰でも、喜んで食べていま
した。

手伝いに来たおばさんは魚の大きな頭はスープにして食べていた様です、
手間賃を払い、カマボコを持たせて帰って行きました。

カマボコを切って、酒の肴で夕風に吹かれて、カンニヤーと言われる砂
糖きびから製造した焼酎を飲みながら一杯飲む酒の美味しかった事、ナ
マズの身を沢山入れた、トマトや、玉ねぎ、ジャガイモなどとの煮込み
も、酒の後の美味い食べ物でした、変化のない食材でしたが、工夫して
食べていました。

懐かしい思い出です。

2011年9月25日日曜日

私の還暦過去帳(59)

私がワンダーと言う女性と知り合ったのは、次男がバークレー大学に在
校していた時でした、友人で一度家に連れて来たからです、彼女は次男
より三歳ほど年上で、その当時は働きながら、大学に通っていました。

彼女の人生はかなり厳しい人生の道程で、母親との折り合いが悪くて高
校卒業の翌日には東部の田舎から、サンフランシスコに居た兄をたよっ
て着替えを入れたバックを一つ持って、グレーハウンドバスで出て来ま
した。

最初は兄の家で寝起きして、レストランのウエイトレスをしていたそう
です、二ヵ年ほど仕事をして、お金を貯めて、一部屋を借りて共同生活
を始めて、コンピユーター学校に通い始め、頑張ってプログラーマー
の仕事を取り、その当時成長期のPCの会社で激務をこなして、かなり

の蓄えを作り、きちんと5時で終る会社に転職して、大学に通い始めた
そうです。その時すでに26歳でコミニテイーカレッジで、優秀な成績
で北カリフォルニアで一人、特待生の奨学金を貰い、授業料免除の恩典
でのバークレー大学に転入学を果したそうです。彼女はベジタリアンで

菜食主義をキチンと守って生活しています、か細い身体で、どこにこん
な情熱があるのかと言うような感じで、つつましい生活をしながら、ジ
ーパンと運動靴の化粧無しの顔でした。

バークレー大学で二ヵ年勉強して卒業して、エール大学から大学院の特
待生、授業料免除、生活費も補助が出る一人に選ばれて、大学院に入学
しました。

何一つ無駄無く、つつましい生活で勿論、車も持っていません、バーク
レー大学卒業の時に、次男がお祝いをしてやりました。
勿論、私達も一緒に食事に行きました。
彼女の希望で日本食でした、野菜てんぷらと、あげだし豆腐、海苔巻の
カッパ巻き、アボガド巻きでした。

美味しそうに食べてくれて、食後はケーキ屋でお祝いのケーキを食べて
別れましたが、実の母親は離婚して複雑な様でした。
一度も話しは聞きませんでしたが、次男が少し話してくれましたので、
いくらかは知る事が出来ました。

去年の夏はインドのヒマラヤの近くの農村地帯の奥地で、一番近い電気
のある町まで、歩いて3時間も掛ると話していました。
そこで農村調査をして、3ヶ月も居たそうです、月に一度、買い物と、
メールを受け取り、インターネットでの連絡で、それと、予備のパソコ
ンの電池を充電して、4時間掛って登り坂を越えて村にたどり着くと話
していました。

毎日、薄く焼いたパンと、野菜カレーが主食の現地食で、たまにヨーグ
ルトや、ヤギのチーズが口に出来る辺ぴな場所での研究調査です、現在
はエール大学の寮に住んで居ますが、今年も6月から同じ場所に行くそ
うです、インドの酷暑の現地で、マラリアや、アメバー赤痢などに掛ら

ない様に祈っています。これまで一歩、一歩と這い登って来て、エール
の寮に入るまでは、猫が最大の家族で、その猫は次男が預かっています、
寮はペット禁止なので、アパートに住んで居る次男が現在飼っています
が、現在、彼女が次男のアパートに居る猫を訪ねて来ているそうですが、

明日は又、大学に帰ると電話で話していました。来年は卒業です、イン
ドの大学で助教授として仕事を二ヵ年する事が決まっています、その傍
ら現地での研究も続けると話していました。
それが全部済む頃は彼女は何歳になっているかと、ふとーー、思う事が

有ります。アメリカに遊学に来て、こずかいふんだんーー、幸せ一杯ー
ー、沢山のボーイフレンドを作り、高級車を乗り回して、親から貰った
クレジットカードで、何でも買う事が出来るドラ娘、茶ぱつの髪でーー。

これ~日本人と、ふと疑問が湧く事があります、人それぞれですが、こん
なアメリカ人も居る事を知って下さい、素敵な彼女の笑顔を見せられな
いのが残念ですーー。

2011年9月24日土曜日

私の還暦過去帳(58)

46年も昔になります、
その当時は私はアルゼンチンの奥地で農業をしていました。
トマトの収穫も山を越えて、やっと一息ついた時でした。

それと言うのは、ブエノス、アイレスに近い場所での出荷が始まったの
です、距離的、コスト的、野菜ですから鮮度も大切です、全部負けてし
まいますので、そこでバトンタッチして、近所の市場のみ出荷します。
しかし狭い市場ですので殆どがトマト、ケチャップの工場行きです、私
の農場は最後まで残り、出荷していました。

有る時、町のバーでケチャップ工場の支配人と話しをして、一箱、15
キロが120ペソで引き取ると話しが決まりました。
朝早く、使用人に40箱ばかりトラックに積み込みをさせて町に買い物
がてら、配達する事にして、出かけて行きました。
町外れの国道から、私道を100mぐらい入った所に小さな工場があり
ました。

事務所に着くと、支配人が出てきて、「80ペソしか買えない」と言い
ます、「かち~ン!」とトサカに来ましたが、他ではもう収穫していま
せん、近所の出荷状況を良く知っていますので、「120ペソと話しが
決まって、納得できないーー」とごねます、あたり前ですーー、使用人
がトラックからすでに10箱ばかり降ろし始めています、直ぐに中止さ
せて、もう一度交渉しました。

中々しぶとい返事ですーー、「ダメーー!」「そうかい~!」大声で使
用人に声を掛け、トマトを又、積み戻しさせました。
慌て出したのは支配人です、いっもの古い日本人では直ぐにあきらめて
置いて行くのにと、考えていたと思います。その手には乗りませんーー、
細い目をもっと細くしてーー、「ジロリ~!」相手の目を見て、無言
のままーー、トラックのエンジンを掛けて工場を出ました。
国道の入り口の前で車を止めると、使用人に声を掛けて10箱ばかり
捨てさせました。

真っ赤に熟れたトマトです、ケチャップにすれば最高に美味しい物が出
来たはずです、支配人と従業員が奥の工場の前で見ています、トラック
を前後に移動させて、タイヤでトマトペーストを作りましたが、もった
いなそうにインジオが欲しそうに見ています、夫婦もので、子供も二名
連れています、背中にカゴを背負って、わずかな買物が入っていますの
で、町からの帰りみたいです。

車を止めて、「欲しいか~?」「シーーー!!!セニョ~ル!!」使用
人に言って、一箱ずつ夫婦の頭の上に乗せてやり、空箱は必ずもってこ
いよーー、と念を押してくれてやりました。
新品の出荷箱を作るには150ペソ、その保証金は100ぺソですから、
念を押したのはあたり前です、「町外れの雑貨屋に夕方まで居るから、」
と声を掛けておきました。

工場の支配人は、私がいっも座席の下には散弾銃、ベルトの後ろには使
いなれた拳銃を持っている事を知っています、決してトラックには近ず
きません、支配人の弟達とつい最近酒を飲みながら、拳銃の標的射撃を
して、6個のビールの詮を5m離れて全部、アッと言う間にはじき飛ば
してしまった、凄腕の射撃を知っているからです、町外れの雑貨屋で腰

を落ちつけて、残ったトマトをどうするか考えていましたがーー、
この際、最後ですから配る事にしました。
ドイツ人の肉屋、ソーセージが美味しいお店です。車を止めて、使用人
が二箱店に置きました。
すると奥さんが飛んで来て、もっとくれですーー、「あいよ~!」3箱
追加です、トマトソースを作るそうです、何とーー、お土産は、ソーセ
ージが2キロぐらい、ワインが二本でした。

駅前の露天のボリビア人のおばさんに捕まり、安く売ってくれです「あ
いよ~!」ここでも大判ぶるまい、一箱80ペソです、喜んで、三箱買
ってくれました。
いっも美味しいパンを出してくれる、パン屋の女将さんに、ここも二箱
です、お返しはチーズパンでした。

小さな町です、友人の家などアッと言う間に配ってしまい、町外れの雑
貨屋でビールを飲んでいましたら、まだ残っているトマトを欲しそうに
見ているインジオに、少しずつ配ってしまい、木陰でトマトの空き箱を
ベットにして、昼寝をしていました。

目が覚めると、空箱が6個とナマズの干物が少しトラックに置いて有り
ます、さっきトマトをやったインジオが空箱を余計にもって来たのです
ーー、家に有った物をもって来たと思います。空箱を返品すると400
ペソの保証金を返してくれます。「ありがたや~!」です。夕方になり
まして、帰る頃には、空箱も全部帰って来て、余計に15個ほど有りま
した。

お土産や貰いもので差し引、ほとんど損にはなりませんでした。
しかしーー、工場ではトマトが入らなかったので、用意していた仕事が
出来ずに大事だった様です、私の知らない事ですーー。

それからは、一度決めた値段は必ず払ってくれました。
それから、私のことを純粋日本人、サムライと言ってくれました。

2011年9月23日金曜日

私の還暦過去帳(57)

ここ数年、この様な話を聞く事が有りました。

それは、戦後アメリカに通称、戦争花嫁と呼ばれて来た方々です。
第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争などでの、アメリカ兵との
結婚での移住者です。

中には軍属などのアメリカ政府機関に働いていた人もいます。
その中のある婦人は第二次大戦後直ぐに、ご主人とアメリカに渡り、
苦労の末に子供二名を育て上げて、やっとホットした時に、ご主人

を心臓 麻痺での病で亡くして、自分はパートでの仕事で自活しな
がら、孫の成長を楽しみにしていた時に、ガンの病に侵されている
事を知り、それも、後僅かな日々と知ると、年老いた母親に頼んで、
死出の旅立ちの白装束を送ってもらったそうです。

母親は娘の為に、自宅の裏庭に成っている、小梅の中の種で作った
数珠を自分で作り、それも付けて送って来たそう ですが、最後は
手術も拒否して、延命処置も断り、後数日と言う時に、身体を綺麗
にふいてもらい、白装束に着替えて、手には母親の数珠を持ち、
東の空に両手を合わせて、両親の為に祈り、感謝を捧げたそうです。

両手を二人の子供に握られて、孫達が見守る中で、眠る様に亡く
なったそうですが、その淡々とした死に様は、自分の人生を全うし
た安らぎが有ったと、その女性を知る人が話していました。

遠く太平洋を渡り、カリフォルニアの土地で生涯を閉じたその方の
ご冥福を深くお祈りして、御世の旅立ちの心安らかなるものに、
祝福を送りたいと思います。    

「心安らかなる者、平和なる者、約束の地を得ん」            
       =合掌=

2011年9月21日水曜日

私の還暦過去帳(56)

私は人間の貧困は2つ有ると思います、それはーー、

 心貧しく、他人や廻りの人々を省みる事が出来ない人々です。
 自分を中心に社会が動いていると言う妄想と、被害者意識で、
 ねたみと反抗と羨望の心で物事を見ている人です。
 
 その様な人が少し財産を作っても、預金通帳の数字が増えるのを
 眺めるだけで、それが楽しみで生きている人を知っています。

 心豊かとは、いっも他人の心となり、廻りの人々の心の痛みを
 感じて、分かち合い慰め合い、自分の心と、財力を施すと言う
 慈悲の心を持っている人だと思います。

その様な人は猫や犬などにも救いの手を差し伸べて、いっも命の大切さ
を身体で表現します、行動ですーー、それから地球環境などの森林資源
の保護や、海洋生物などの保護にも熱心です、全てがその人の親からの
教育と、それを下地とした理解の賜物です。

その様な人は新しい医学の臓器移植のドーナーとして登録して、命の再
生を理解して、啓蒙運動もしています。

親の教育が子供に与える大きさは計り知れません、子供の心を作り、育
て、理解する力を作ります。
その様な心を親から育てられ、理解する心を持った人が現在の社会では
少なくなったと感じます。

あるアメリカに来た留学生は20年以上も昔ですが、潜水マリーンスポ
ーツが好きで、数の子昆布と言う、ニシンが昆布に産みつけた卵の貴重
な海洋資源を乱獲して、お土産屋や、それが嵩じて日本に輸出までする
様に成り、ニシンが激減してアメリカ政府は規制するまでになりました。

日本で消費されるウニもそうです、昔は海のごみと言われたものが潜水
捕獲の大量の輸出で、これも激減して、規制が始まっています。

タラの水産資源もそうです、タラコの珍味の原料として、乱獲され全て
が稀少海洋生物としての保護が必要になっています、

日本人が好む、本マグロと言う、200キロ近くなるマグロなどは全て
飛行機での輸送で生で氷詰めで送られています。
その内、数の子昆布とウニを扱っていた人を少し知っていますがやはり
口に出る言葉は、「金にしたらいくら儲かる」と言う、その言葉だけで
す。

他人を省みる余裕などは有りません、いっも同業者を疑り、ねたみ競争
して、自分の心貧しさも自然の尊さも微塵も分ってはいません。

日本のグルメと言う通を喜ばす食材を破壊と撃滅に近い方法で収穫、捕
獲してそれを金に変えて送り続けています。
また、それを何のためらいも無く、「金を出せば食える」と言う心貧し
き発想で消費されています、

これからの日本の消費の原点はまず教育が原点ではないかと近頃感じて
きました。
日本の農産物の国内生産は38%を切ったと言う事ですが、
「食」と言う命の源を、外国の「食」の植民地として支配されて行くの
では無いかと思います、悲しい事ですーー、

2011年9月20日火曜日

私の還暦過去帳(55)

47年ほど前になりますーー。私の若い時のエピソードです。

昔の話ですが、パラグワイに行った時です。友人が住んで居た近くには、
沢山のドイツ系の移住者が住んで居ました。
大統領もドイツ系の2世で、かなりの勢力がありました。

友人の家の近くに、ドイツ人の家族が住んで居まして、直ぐに仲良しに
なり、そこの娘さんとも話しをする様になりました。
19歳ぐらいで、金髪で中々の美人でしたが、親の農作業を手伝うので、
肩幅も大きく、胸も若い私が「どきん~!」とするような感じのグラマ
ーでした。

毎朝の乳絞りもして、バターやチーズも加工していたみたいです。一度
土曜日の夜、ダンスパーテイにも近所の三人の男女の若者と行きました
が、彼女の胸に抱かれて踊るのは私ぐらいで、下手なダンスを上手く
リードしてくれました。

時々、彼女がぎゅ~と私を抱いてターンしてくれますが、胸圧が掛るの
には驚きました。若い時です、ダンスが終った時には、シャツがびっし
ょりでした。
それと言うのも彼女のくびれた腰や、はち切れんばかりのお尻など刺激が
強過ぎたのも有りました。

一度などは、ジルバを踊ってスカートがふんわりですーー。彼女のぴっ
ちり密着した下着が「チラリ~!」です。
私の胸はドキドキーー、おたおたーーと高鳴り、それを隠そうとがぶ飲
みした、ビールがこれーーいけなかった思います。

「きゆ~」と効いたビールにフラフラになりまして、すっかり彼女の世話
になり、車に乗せられて友人の家に帰って来たのもうつろでした。

彼女は小型トラックを運転して、その夜は帰って来たそうですが、ずっと
帰り着くまで彼女の腰を抱いていたそうです。
あきれた事でしたが、翌朝目が覚めてその事を友人から聞かされて、近所
の彼女の家に謝りに行きましたが、すると丁度、豚を解体してソセージを
作る所でした。

彼女が一人で、豚の前で準備しています。すでに両足は縛られて転がされ
ていました。タライを準備して、肉きり包丁で、いよいよ「ブスリーー」
です。
豚は「ヒーーーー」と絶叫しています。彼女は平気で、金タライを前に豚
の首に包丁を入れました。豚の最後の絶叫が「ブーーーーヒ~!」と泣く
と、グイとえぐって血液を出します。少し塩を入れてかき混ぜて、ゼラチ
ンの様に固まり、後でそれを原料にソセージを作るそうです。

彼女の大きなお尻がどん~と豚の胴の上に乗り、血を絞り出します。見て
いる私は、少しドキドキして来ました。
それが済むと、あお向けにして、お腹を切れる包丁で「スーー」と切って
内臓を掻き出します。

その頃になると胸が「グ~ッ!」と何かこみ上げてきて、ビールをがぶ飲
みした以上に変な気分で、臓物をより分けている彼女の後ろ背中を見て、
狩猟民族の子孫だとつくずく感じました。

それからしたら、私などは定住稲作民族の末裔だとはっきり覚り、沢庵でお
茶ずけを食べるのが好きな者は、到底彼女などは手を出してはいけないと思
いました。

もしこの事が無かったら、私は彼女にイカレテ、腑抜けになりーー、結婚
などと言う悲劇になっていたと思います、 そして、彼女の巨大な胸に抱か
れてーー、その先を思うと~!今では笑いがこみ上げて来ますが、あの時
の豚ちゃんの悲鳴が私の心に正常な感覚を冷静に取り戻させたのだと思い
ます。
でも、彼女の作ったソセージは美味しかったですーー。

2011年9月18日日曜日

私の還暦過去帳(54)

私はいっも疑問を感じる事が有ります。
それはグルメとか言う食通の話です。舌が肥えているとか、食通に
通じているとか、これ人様々です。

今日は昔会ったインジオの歳寄りの話ですーー。
農場での仕事が少し暇になり、酷使したトラックを修理に出した時でした。
クラッチの分解修理で、町の修理屋に預けていました。
農場から歩いて町まで行く事になりました。13キロは有りまして、半日
は掛ります。
それと言うのもゆっくりと途中見物しながら行きますからーー、たいした
場所は有りません。しかし、昔のトラックも通らなかった時代の道を歩い
て行きます。
私は初めてその時、歩いて行きました。 農場で仕事をしている息子を訪ね
て来ていた、歳寄りのインジオが案内してくれると言うので、彼と町まで
歩く気になったのです。

町の近くの河の直ぐ側に住んで居ます。彼は無口で、黙々と歩きます。
時々立ち止まって木の名前や、草花の名前を教えてくれました。

手には狩猟に使う、弓と矢を持っています。しかし、弓の弦は外して有り
ますので、杖をついて歩いている様です。矢は二本しか持っていません。

矢じりは鉄木を15cmぐらい鋭く尖らせた物です。木と言っても、
「斧が折れる木」と言う鉄木です。一度見た事が有りますが、野豚の胴を
「ブスリー!」と右から左に突き通っていたのを見た事が有りますが、
水には浮かびません、直ぐに沈んでしまいます。

それと水の中でも百年は腐らないと聞きました。 河の近くを歩いていく
うちに、足跡を見っけて教えてくれましたが、これは若い鹿の足跡、これ
は野豚と、それから蟻食いの大きな足跡、彼は何でも知っていました。

肩には皮の小さなカバンを斜めのベルトで掛けて、持っています。
時々、コカの葉を出して噛んでいます。アルゼンチンの北部地方やボリ
ビアではコカの葉は合法で買えます。

タバコと同じでお店で売っていますが、税金がばっちりと付いてかなりの
値段です。 河の流れに出て、水を飲む事になりましたが、彼は水の上に
口を付けて日が当っている所の、水をすする様に飲みますーー。

決して「がぶ~!」と手ですくっては飲みません。全てが生活の知恵です。

河の流れが緩くなった場所で、ジーッと浅瀬を見ていましたが、手早く
弓に弦を張ると、矢をつがえて微かな水の波紋を見ていましたが、
「ツウンー」と軽い音がして、すると魚の頭に矢が刺さって、白い腹を
出して浮かび上がって来ました。

手早くナイフでさばいてしまいましたが、手つきの早い事、驚きでした
が、すると、カバンから少しの岩塩をビンから出すと、石の上で細かく
潰して、近くの岸辺から少し、水セリを取って来て石ですりつぶして、
魚の身に塗ります。

手近な枯れ木を集めて、火を起してそれを焼き始めました。
お昼のランチだそうです。かなり大きな鯉の様な感じの魚でした。

私にご馳走してくれると言う事で、楽しみに焼けるのを見ていました。
彼は「ガジェツタ」と言われる、日保ちするパンをカバンから出すと

焚き火で暖めて、柔らかくして半分に切り、先ほど細かく擦リ潰した
塩をほんの少しと、自家製のオリーブオイルを混ぜて、そこにガーリ
ックのひとかけらを潰すと、岩のくぼみで混ぜ合わせてパンに漬けて
食べる様に勧めてくれました。

皿も何も有りません。パンをちぎりながら、オリーブ油に漬けて食べ
ます。魚も焼きあがり、木の葉の上に乗せて出してくれました。

ほのかな水セリの香りで、こんがりと焼けた魚が美味しい事ーー。
手でちぎって食べます。魚を一口、パンをオリーブ油に漬けて一口、
素手で指先で食べますが、少しも違和感は有りません。

水セリをオリーブ油に浸して口に噛み締める新鮮さーー。
自然の供宴です。彼は食べる前に自然の神に感謝して、神々に感謝の
言葉を掛けていました。

自然を相手に逆らわない生き方、自然を生活と人生に取り入れてリズ
ムとして生きている人生ーーー。

機械文明、貨幣社会、現代の競争社会からの生き方が、一口食べるご
とに、疑問として湧いて来ました。

この食べ物はーー、自然を利用して命を養う事かとーー、酒も無し、
飲み物は河の水のみーー、食べ終わって、河の水で手を洗い、水面に
口をつけて水を啜り飲み、満足感に浸っていました。
これは人生の満足感の感じでも有りました。

豪華なレストランで食べる食事より、心満足の食べ物でした。

いっも思い出します、グルメとは何ぞやーーー!!口先だけで話す、
グルメとは何ぞやーー!!

「神々に感謝を込めて祈りながら、自然の食べ物を神から恵んで貰う」
と言ったインジオが忘れられません。

都会に住む、現代社会人の幸せとはーー。今でも時々考える事が有り
ます。

2011年9月17日土曜日

私の還暦過去帳(53)

前回(52)の続きです。生きる為に、生き残る行為をして男は戦わな
くてはならない時が有りますーー。

犬は必死にカバンを引きずっている。女の声が聞こえる。犬を励まして
いる。

私は犬をめがけて撃った。「ドーン」と言う音がして、土ぼこりが消え
るまで何も見えない、暗くなりかけた荷台の下でじっとしていた。
すると突然、「ヒー!」と言う泣き声ともつかない女の声が聞こえた。
見ると、犬は両足を伸ばしたままベルトを口にして横たわっている。ヤ
ブの中で女が「タシャ、タシャ、」と激しく犬を呼ぶ声がする。すると、
犬は尾をゆっくりと振って答えている。そのうち女のーー、「おいで、

おいでーー、タシャ」と言う泣き声につられるように足をゆっくりと動
かし始めた。しかし、横たはったままでの動きは、何か走っているよう
にも見えた。空を切る足の動きは、私にはもの悲しく切なく、女の泣き
声がいっそう辛いものにした。しかし、犬の動きは必死に走っているよ
うに見え、それからだんだんと、ゆっくりした動きになり、何時の間に
か前足の動きが止まり、後ろ足だけが、かすかに動いている。

その時、ヤブの中から女の姿が見え、それを止めようとする男の影がか
らまった。女は引きずられるように男に連れ戻された。
女の絶叫に近い『タシャ~!』と呼ぶ声がした、犬の尾がゆっくりと、
2~3度動くと、まったく静かになった。ピクリともしなくなった。
私は犬がカバンをくわえたまま、ポッンと横になって死んでいる姿を見
るのが辛くてなった。

私は女がカバンを取りに来ていたら撃っていただろうかと考えた。
ジャングルは、アッと言う間もなく暗くなり、静かになった。
何も見えない、暗い静かな夜が何もかも消してしまった。
ガンをかまえたまま、トラックの荷台の下でじっと砂の中に
横たわっていた。
しばらくすると、唇がヒリヒリするのに気が付いた。

トラックのエンジンが冷えてきたのか、少々寒くなって来た。私はトラ
ックの運転席にある救急箱を取り、エンジンをスタートさせた。
トラックの下は急に賑やかになり、単調なアイドリングの音が静けさを
吹き消した。
救急箱から取り出したアルコールで唇を拭いた。
少々血が出ている、ポケットの中に少し残っていたコカの葉をゆっくり
とかみ出した。

エンジンとマフラーの熱気が顔に伝わってくる。今日のこの時間では誰
も通ることはない。この道で夜を明かすことを決めた。
とても夜道を運転して残り4キロぐらい走る気持ちにはなれなかった。
その前に、トラックの直ぐ近くに転がっているMIカービンを地面を這
ったまま取りに行った。荷台の下の工具箱の中にある、シートを引きず
り出し、砂の中で二丁のガンを手に、シートにくるまって単調なアイド
リングの音を聞いていた。

夜に入り、ジャングルに風が吹き出して、木々の枝が女の泣き声のよう
に鳴り出した。いつの間にか、昨日の荷造り作業の疲れからか、コカの
葉を口に入れたままで眠っていた。
朝はすぐ近くにあった。トロトロと、まどろんだような気がしたーー。
近くでオウム達の群れが飛んで行く、かすかに空が朝焼けの色で染まり
始めている、荷台の下から這い出してエンジンを止めた。

朝日の中で、砂の中に犬が一匹、カバンを枕に寝ているように見える、
男が落としいったカービンを用心深く構えながら、犬に近ずいて行った。
白と黒のブチの雑種の小型犬であった。首のまわりに少々血が出ている。
目を閉じて寝ているようであった。
私は女の『タシャ-ー!』と言う絶叫をを思い出した。
カバンを取り中を見た。

銃の弾倉が3個、缶詰、地図、アルゼンチンのペソとドルの現金が入っ
たプラスチックの袋があった。カバンをかたずけると、冷たくなった犬
の死体を両手に川岸へ下りて行った。ゆっくりと水の中に横たえた。
そして、急にノドの渇きを覚え、コカをかんだ口をゆすいで冷たい水を
飲んだ、犬の首のまわりの血を洗い流し、岩の上に横たえた。
トラックに戻り、マチェーテを手に取り、野生のバナナの葉を切り取っ
た。

犬の死体をバナナの葉でくるみ、川岸の岩の上の平たな所にあるくぼみ
に入れ、そして、まわりにある石をかなりの時間をかけて積み上げた。
気がついて終った時は、石はかなりの高さになっていた。
朝日は熱帯の太陽の力を持って輝き始めている。今日の生命が躍動始め
ている、ギラギラとした太陽の下で、トラックの下のシートや、銃をか
たずけ、エンジンをスタートさせ、ラジオのスイッチを入れると、イン
デイオの歌うこの地方の聖歌が流れている。

物悲しく、ドラムとギターのリズムで、トラックの窓の下には昨日の男
と女の足跡が砂にくっきりと見える。シートの席の上のカバンと男が落
としていった銃が昨日のドラマを思いださせる。
ラジオからはーー、『母なる大地よ、天なる父よ、今日も我らに恵みを
与えたまえーー』と歌っている。私はギアをバックに入れ道に出した。
砂埃がゆっくりと舞い上がった。

 (今回の作品は、99年度、羅府新報に応募した作品からです。)

2011年9月16日金曜日

私の還暦過去帳(52)

貴方は銃を持って人を撃ち、傷つけ、生き物を殺した事がありますか?

生きると言う事は、時には命をかけて、戦って生き残る事を勝ち取らね
ばなりません。

今日のこの話は、生残る為に用意した武器を持って生への執着を持って
戦い、人を撃ち、傷つけ、そして誰かが愛していたものを殺した、慙愧
の念を心の中より引きずり出して書いたものです。

夕方の涼しい風が、アルゼンチンのブエノスアイレスから1700キロ
も上がったボリビア国境地帯のジャングルの木々の中を通り始め、ブル
ドーザーで押しただけの山路をトラックで走りだした。

南回帰線より100キロも内側に入ったボリビア国境に近い町、車で走
れば2、3分で通り過ぎてしまう、エンバルカションの町より12キロ
は山に入った農場の戻るためである。
町での雑用と明日の月末の給料をインデイオの労働者に支払うための現
金を銀行へ、ボスの代りに取りに行って、帰途についたのは太陽もだい
ぶ西に下りてからだった。

町で一ヶ所だけの日本人の洗濯屋をしている大城さんの奥さんより貰っ
たチキンのローストを、ハンドルを握りながら食べていた。
現金を持っているので、夜道を走るのは物騒なので、大城さんに夕食を
食べる様にと、さかんに言われたが、次にすると断って町を出てから
30分ぐらいダラダラと続く小道のカーブを曲がって、やっと川の流れ
が見える農場まであと4キロぐらいの所であった。

カーブを曲がると、突然、鋭い銃声が一発、それと同時に手に持って口
に入れかけたチキンの足が吹き飛んだ。唇がジーンとしびれた様になり、
フロントガラスに肉片とソースがべチャリと飛び散った。

片手運転のトラックは左側の川岸の方向へ少々傾きながら走って止まり、
ペッタリとシートにへばり付いて、気が静まるのを待った。

弾は右から左へ、開け放した窓をカスリもせずに通り抜けたらしかった。
チキンを食べる前まで、昨日の夜遅くまでトマトの荷作リパッキングの
作業で少々疲れたのか、眠くなりかけた目を開けさせるためにコカの葉
をかんでいたので、なにか頭の中はピーンといやに落ちついている気が
した。
遠くでかすかな音がしたーー。ゆっくりと右のサイドミラーをシートの
上から寝たままで見ると、チラリと人影が見え、二人ぐらいか、そして
左のミラーにも、もう一人、ピストルを手にしているのがチラリと見え
た。
ゆっくりと用心深く、近ずいて来る足音が聞こえる。もう一度右を見る
と男と若い女で、男の手にカービンらしい小型のライフルが見えた。
今、逃げたら必ず撃たれると考えて、こうなったらいちかバチか、銀行
に行く時には必ず自分もピストルを持って行くので、逆に、食らいつい
てやろうと決心した。

金を入れているカバンより、小型のブラジル製のレボルバーをホルスタ
ーより取り出して、ハンマーを上げて身構えた。

足音は二つ、右からだ、そして足音が止まり、かすかにドアにさわる音
がした。「弾が当たったらしい、ガラスに肉片が飛んでいる、死んだか
な、」と言う声と同時に、カチッとドアのラッチを開ける音がした。

私は思い切リ足でドアを勢い良く蹴った。ガ-ンと金属のぶつかリ合う
音、同時に私のピストルの発射音、ドサーッと人間が倒れる音、私は
シートから飛び起きて、倒れた男の影に向けてもう一発撃った。
男の黒い影がギャ-ッと声を出した。

当たったかと思う間もなく、左側で走り去る足音、左の窓から手だけ出
してメクラ撃ちで二発、ダブル.アクションで撃った。

一発がトラックの荷台の横板でもかすったのか、バチャーンとすごい音
を出した。
シートにへばりつきながらサイドミラーを見ると、男が転がる様に走っ
て逃げる様子がチラリと見え、開い右側のドアから二の人影が助け合う
ようにして、逃げる姿を見た。

今だと思い、いっもトラックのシートの下に入れて有るマチェーテと、
単発の散弾銃、二十発入りのベルトをつかむと、トラックの下にもぐり
込んだ。

エンジンとマフラーの熱気が伝わって来る、まず散弾を一発、中折れの
単発銃に装填して、右側の男が倒れた方向に向けて銃口を向けたが、
そこにはだらりと片手を落とした男をかばいながら、女がその男を引き
ずる様に近くのヤブの中に入る所であった。

よく見ると、トラックの直ぐ近くに軍用のMIカービンが一丁、かなり
近い所に、小型のザック型のカバンが一つ転がっている。

私は威嚇のために二人が消えたヤブの中へ散弾を一発撃った。
狭いトラックの下で撃った音は「ド~ン」と、物凄く、また土ぼこりで
前が見えなくなる様にまきあがった。

遠くの林の中までエコーが響き、シーンとそのあと静かになるまでの短
い時間、どこかで犬の吼える声を聞いたような気がした。
しばらくトラックの下で様子を見ていたが、今の威嚇が効いたのか、静
まりかえっている、トラックの下より手を出して、荷台の横板を下ろし
た。
ガターンと大きな音がして横板が落ち、これでバリケードが出来た。
砂地の地面に銃を構えて、ピストルの空薬莢を出し弾をつめ替え、その
後、目線をヤブの方に向けると、小型の犬がゆっくりと、用心深くトラ
ックの方を見ながら、転がったカバンの方に近ずいて来る。

かすかに女の声が犬に何か命令しているようだ、犬はカバンを目指して
駆け寄ると、カバンのベルトをくわえてヤブの方向に引きずり出した。

私は慌てて中折れを開け、次の弾を入れた。今度は鹿弾を入れた。犬を
地面に伏せたまま、ゆっくりと狙った。

次回はこの話の結末を書いて終りにします.

2011年9月14日水曜日

私の還暦過去帳(51)

そろそろ46年前になります。

私が仕事をしていた農場で、ある時、農場から離れた所にあるオレンジ畑
の収穫に泊まりがけで出かけました。

10人ほどの現地人を連れて、トラックで出かけて小屋に泊まっていました
が、それぞれ好きな所に陣取って、夜は楽しくキヤンプ生活で食事も色々
な現地食が出されて、バナナの料理には少し驚いていました。

調理用のバナナは種類が違います、揚げて蜂蜜を付けたお菓子に近い食べ
物は気に入りまして、良く食べていました。

ある日、若い夫婦者のワイフが毎朝に何か特別な飲み物をコップで飲んで
います。私が側を通ると直ぐに隠してしまいます。

私は内心、「けしからん~!、俺に内緒で何か美味しい物を飲んでいる様
だが――!」と思っていました。
それが毎日ですから、ある日、側を通ると「ぽい~!」と取り上げて
「ガ~ぶっと」飲みました。
何も美味しくもない、煎じ薬のような味です。空のコップを返して「よく
こんな物を毎日飲んでいるな~!」と言って畑に出ました。

そのお昼でした、皆が私の顔を見てクスクス笑いますーー。

男達は笑いを我慢するのがつらいらしくて、私の前には出てきません。

ちょい~!何かおかしい様子で、はてな?? どうも、あのお茶らしき物
を飲んでから、様子がおかしくなってしまったので、いっも飲んでいた若
い女性を捉まえて、「お前は何を飲んでいたのか~!!」「教えなかった
ら、首だー!」と脅しました。

まだ20歳なるか、ならない若い女性です。  

真っ赤な顔をして―ー、  もじもじーーして、下を向いてーー、  
消え入る様な小さな声で、「避妊の為の煎じ薬ですーー。あれをした後
に飲むと、妊娠しないのですーー」私は飛び上がりー!、まさに
「ギヤ~! ひえ~!」と叫んでいました。

胃の中が――むかむかして来まして、まさに晴天の霹靂です。

男が飲んで何の効果があるかーー、それより衝撃が胃を直撃しています。
「まいった~!」 その日のお昼のランチはとうとう食べられませんで
した。

あたり前ですーー。でもインカ時代からの薬草で作っていると話しを
聞きました。
確かに効果があるとーー!、 それにしても、毎日飲んでいた女性に
も驚きでした。

「あの後に飲むと効果が有り、妊娠しない――!」ま~いった~! 
それでは毎夜のお仕事で、毎朝のお決りのお薬とは、その当時若かっ
た私もショックでした。

その夜は酒を買って来て皆とーーー!、それ~!飲め~!唄え~!
踊れ~!と、どんちゃん騒ぎをして、したたかに飲んで例の彼女に
抱き付いダンスをしましたがーー、皆が「ぎゃ~!」と、おおは
しゃぎーー、それで、一件落着でした。

彼女の福与かで見事なお尻を「ぎゅ~!」と抱いて踊った思いでは、
私の青春の忘れられない、1ページです。

2011年9月12日月曜日

私の還暦過去帳(50)

この嘆願書は前に総理大臣に送ったものです、

      内閣総理大臣に対する嘆願書、

      内閣総理大臣、小泉 純一郎殿、

閣下に対しまして、嘆願の心を込めて一筆差し上げます。日本国の出生
届けの条項において海外での出生届けを在外公館でする場合、特に南米
の奥地に入植した移住者などが、昔、入植した南米パラグワイなどで、
主用永年作物の販売不振、短期換金作物、野菜などの市場閉鎖で赤貧洗
うが如き生活をしていた移住者が、公館での手数料も払う事が出来ず、

又、公館までの交通費も事欠く状態での窮状の時、それに日本から持っ
てきた衣類は全て換金か、したて直して子供服に改造して、着て行く物
も無いような状態で、作業服と地下足袋での生活をしていた時の子供の
出生で、期限の3ヶ月を過ぎてもどうする事も出来ずに、両親共に、日
本人で有りながら、又パスポートも所持していながら、公館での出生届
けを断念した人達が居ると言う事を知って下さい。

その方々はその後、パラグワイから隣国アルゼンチンに再移住して、生
活の基礎を探し出して、子供が20歳になり、日本に仕事に行く時にな
り、始めて本人がその事を知って、大使館での嘆願も無視されて、日本
国籍を申請出来る条件を持ちながら、本来ならば成人の暁に、国籍の選
択も出来るチャンスも持ちながら、貧困の為に日本国の法の平等の恩恵

も受けられず、日本国のパスポートを発給してもらえなかった人が居る
と言う事を認識して下さい。日本赤軍リーダーの幹部の娘は、28年間
ものあいだ、無国籍で居た者が日本国籍を貰えて、地を這う様に仕事を
して来た日本人の移住者の子供は無視されると言う矛盾は納得行きませ
ん。母親は乳の不足を何とかしなくてはと、その子供の為にミルク瓶 一

回分の粉ミルクを借りる為に、夜道を2キロも歩いて行ったそうです。
米も一日一食で、後はマンジョウカのイモを豚のラードを取った油粕で
食していたのを知っています。醤油も買えず、岩塩を瓶で潰して塩汁の
野菜スープを飲んで育てられた子供にも、日本国憲法の法の下での平等
では同じだと確信するもので有ります。願がわくばこの様な生い立ちの

日本人を無下に嘆願を門前払いしない様に、閣下の大臣通達にて、在外
公館での国籍法に有る、特別の理由の中に法の解釈の一部として認めて
下さいます様に、切に伏してお願い申し上げます。
そのような子供が現在、日本の3Kと言はれる仕事をして、日本の産業
を支えています。閣下のご理解と日本国憲法にも温情と、法の正義が有
る事を世に知らしめて下さい。
重ねて宜しくお願い申し上げます。

2011年9月11日日曜日

私の還暦過去帳(49)

かれこれ、30年ほど前になります。

 私がその頃は視力も良くて、かなり標的射撃に凝っていた頃でした。
良く近所の射撃場に週末は出かけて、大型ライフルで100mの射場で
のんびりと射撃を楽しんでいました。かなり時間を掛けて撃ちますので

長く同じベンチで撃つ横の人とも仲良くなりまして、休憩時間では楽
しく話しをする事も有りました。大型ライフルは狩猟のシーズン前は
 練習の為に来て撃つ人が沢山居ました。アメリカでは大型の狩猟動物
が沢山居ますので、アラスカまで遠出してガイド付きでハンテングする

人がかなりいます、しかしその様なハントはかなりの金額が掛りますの
で金持ちの趣味です、ヘラジカは一頭の狩猟許可が1000ドルと聞き
ましたので、昔ですが驚いた事があります、しかし1000キロもなる
大型の獲物ですから、一人では簡単には狩猟に出掛ける事は出来ません

 ので、ガイドを雇い、奥地に飛ぶ飛行機やキャンプの準備をする人やら
でかなりの人数となり、その様な条件をこなせる人ですから、かなり裕福
でなければ出来ません。時々会っていた人でしたが年配の白人でした。
彼は大型のライフルでも象撃銃を持って来ていました。現在は象の狩猟

は出来ませんが、昔、おじいちゃんがアフリカで使った物だそうでした
ので、かなり古い英国製の単発の45口径の、どでかいライフルでした。
弾は手詰で、自分で作ると話していましたが、銃身は余り長くはありま
せんでしたが、かなりずっしりした重みが有り、貫禄十分で凝った彫刻

も入れて有りました。そのライフルを撃たしてくれると言う事で私は
生まれて初めて、象撃銃を一度だけ撃ちました。100mの狙いを
付けて撃ちましたが、『どか~ん!』と物凄い音でした。
肩が『ドス~ン!』とショックを受けて、『いててーー!』となり、

少し恐怖を感じたほどでしたので、かなりのショックです。しかし
大きな標的の紙でしたが、かなり良い所に命中していて、初めてでは
たいしたものだと誉めてくれ、『やれやれーー!』でした。
標的交換の少し長い休憩時間に彼がコーヒーを勧めてくれ、交換しな

い私達は後ろに下がって、木陰で話していた所が彼が『私は戦時中は
沖縄近海で空母の対空機関砲の射手をしていた』と話してくれました。
神風特攻機が攻撃してくるのを体験したと話していましたが、低く
海面スレスレに雷撃機を操縦して空母の飛行甲板の横に有る、エレベ

-ター目掛けて海面の波しぶきを浴びる様に低く、操縦している若い
パイロットをハッキリと見たそうです、白いマフラーが印象に残って
忘れられないと言っていましたが、重い機体の雷撃機の最後の突入
の瞬間まで見ていて、激しい衝撃と爆風で銃座に叩きつけられて気絶

したと話していました。幸いにカスリ傷ぐらいで助かり、しかし
甲板の飛行エレベータ付近に居た者は全員戦死したと話していました。
射撃が終って帰宅する時に彼は『戦争なんか若者の命を無駄に捨てる
様なものだーー!絶対にーー、絶対に起してはならない』と話して

握手して別れました。帰宅してシャツを脱いで肩を見たら青アザが出来
ていましたので、そのショックがかなり酷いものであったと感じます。

2011年9月10日土曜日

私の還暦過去帳(48)

私は終戦で台湾から引き上げて来ました。

九州の福岡に引き上げて来るまで、まず九州弁は話せませんでした。
それから引き上げて来る時に一番高価で、良い物を持って帰りましたの
で、それが物資不足の時に田舎では、ねたみの元でした。
散々いじめられて強くなって行きました。

そんなわけで、ハングリー精神が心に生きています。
「米の飯と、お天道様はついて廻る、」正解ですーー。
現在は帰化もして、パスポートはアメリカです。墓も造りまして、永の
住処としての場所も持っています。何の心の迷いも有りません。
淡々と生活して、悔いの無い時間を過ごしています。

今までの時間と、過去の行き方を振返っても何の悔やみも湧いて来ませ
ん。それだけ自分の人生を一生懸命生きて来たと思います。三人の子供
を連れてアメリカに移住して来て、子供の将来に掛けて頑張って来まし
たが、私はあくまで土台作りです。それも成し遂げたと思います。

2003年5月11日、母の日でしたが、次男から電話が有りまして、18
日の日曜日に、大学と、大学院の卒業式総代で主席スピーチをすると話
してくれました。
ワイフとそれを聞いた時に、「ジーン!」とこみ上げて来るものが有り
ました。

バークレーを出てから、大工の見習いをしながら、奨学金を貰える大学
を二ヵ年捜して、特待生での授業料免除での大学院生活を始めて、生活
費はスクールローンと夏休みでの仕事で賄い、二年目はローンを取らな
かったと言っていました。

夏休みの間、大工の仕事で稼ぎローンの二年目は銀行に返したと話して
いましたが、そんな生活をしていながら、学位の最終、口頭審査での試
験を、四人もの審査官での、二時間の質問にも答え切ったと言った息子
の声に、これまでに積み上げた自分の研究成果が実ったと言う自信が現
れていました。

35年前にサンフランシスコの飛行場で国際線の出口から、オムツを付
けて、ヨチヨチと出てきて、「パパ~!」と声を掛けてくれた次男が目
に焼き付いて忘れられません。
親にも迷惑掛けずに、アメリカ流に自分で仕事をして、これまでたどり
着いた次男を思って、電話の前で涙が込み上げてきました。

私のアンリカーン.ドリームが実現したのです。
私は子供にチャンスのみ与えて、育てました。
子供達は自立心と言う二本の足で立ち、歩いています。
60近くで子供に貰った中古パソコンで始めたインターネットですが、
お祝いのメールを打つ、キーボードにこれまでの苦労が全て消えて行く
様でした。

ひとそれぞれ、行く道は違えどもーー、人間たどり着く所は、皆同じで
す。悔いの無い人生、これこそ自分に一番幸せな生き方では無いかと思
います。
これから眠りに付きますが、明日の朝に永遠に目が覚めなくともこれま
での自分に生き方には何も悔いは有りません。
後わずかになった我人生ですが、好きな有機野菜栽培でもしながら淡々
と過ごして行きたいと思っています。

2011年9月9日金曜日

私の還暦過去帳(47)

私が昔、アルゼンチンの奥地に住んで居た所は、南回帰線から、100
キロも中に入っていましたが、夏の野菜栽培は、ほんの少しの種類しか
出来ませんでした。

真夏の一番暑い時期は、青野菜は河の岸辺に出来る水セリでした。
覆いをして、沢山水を掛けてやっと栽培する事が出来まして、野菜栽培
の時期は冬の期間でした。

真夏の暑い時期に水せりを現地人から買って、昼のランチに食べるのに、
売りに来るのが朝早い時間で、それから水に入れてぐったりしない様に、
気を付けていました。

コップに挿して、好きなだけ取って食べます。オリーブ油とレモン醤油
での、たれに付けて食べます。あっさりととして、沢山のビタミンが有
り貴重な夏の食べ物でした。
インヂオも良く食べていた様です。夏は40℃も温度が上がりますと
11時には仕事を止めて、昼休みに入ります。真夏では3時頃まで昼休
みです。昼寝していました。

家の壁はアドベと言われる、日干しレンガです日本の土蔵と感じが同じ
です。屋根は椰子の木を真中で割って、芯をくりぬいて、竹の屋根の様
に互いに組んで屋根を葺きます。百年もの長い間、腐らないと言ってい
ました。

椰子の木の下は、土をかぶせて断熱の役目をしています。二重です。
40℃以上に気温が上がると、窓を閉めて、土間に水を撒いて家の中で
ジットしていました。

42℃近くなると、鳥も飛びません。暑くて底の薄い靴では歩けません。
鉄の部分は一切触る事は出来ません。直ぐに火傷をします。

外に駐車しておいたトラックのボンネットで一度卵をポンと落としたら、
「ジーーッ」と言って目玉焼きが出来たのには驚きました。
電気も有りませんので、勿論クーラーも有りません。でも土蔵作りの家
ですので、中に入ると「ひんやり~!」です。
暑い時間帯はブヨも、蚊も飛びません、しかしーー、

家の外の掘建て小屋便所の、深く掘られた便壷の中でブヨが隠れて居ま
す。刺されると痛痒い、しびれる様な感じで、そこが数日は赤く腫れて、
酷い熱を出すことも有ります。特にアレルギーの人は悲惨です。そこが
膿んで崩れます。最初に来た時に、しみじみと話しをしてくれましたー
ー。
「このブヨに刺されて、免疫が出来るまでは、どんなに苦しくても我慢
して下さい、お願しますーー。二ヶ月は辛抱ですーー、それが出来ない
と、ここでは住めません、」

刺される一番の酷い所は、まぶた、唇、です。それから女性は便所でや
られ得る事が有るそうですが、あそこですーー!
まぶたでは直ぐに目が開かない様になります。酷いものです。私はなれ
るまでは、まぶた唇には必ず防虫クリームは欠かさず塗っていました。

なれてもその習慣は取れませんで、塗り続けていました。
奥地に居る間は、現地の葉巻をくわえていました。
外に居る時だけです、防虫効果はバッグンです。肺には煙は吸いこまず
に、くわえているだけでした。

手の甲は刺されて、刺されてーー、刺され尽くして、真っ黒になるほど
でした。野球のグローブの様になりまして、箸を持ってご飯を食べる事
が出来ずに、スプーンで食べていました。

そうする内に有る時期から刺されても、赤くもならず、かゆみもほとん
ど感じず、黒くポッンと斑点が出来るだけで済む様になり、免疫が出来
てブヨなど考えなくなりまして、都会からお客が来て便所などで刺され
ると、悲鳴を上げて、大騒ぎをしていました。

便所に入る時は、まず新聞紙などをねじって火を付けて、便壷に投げこ
みます。それから少し間を置いて入ります。火と煙で、ブヨは死ぬか逃
げ出して、しばらくは安心して用を済ませる事が出来ました。

しかし都会からの訪問者はその要領が分らず、一度に沢山の新聞紙や、
トウモロコシの皮などに火を付けて投げこみ、便所を燃やしてしまうほ
どで、大騒ぎをした事が有ります、

一般的な女性の訪問者の服装です。

スカートの下にズボンをはきます、足首も隠れるような長い物です。勿
論長袖シャツです。手袋をして、顔には防虫クリームを塗り、スッポリ
と網のベールを頭からかぶって、車か、訪問した家から帰るまで外に出
ません。トイレも家の中に便所を作って有る家で用を済ませる事にして
いました。

野菜の仲買人がサファリールックでカッコ良く何も知らずに尋ねて来て、
悲鳴を上げて、30分もしない内に刺された所を冷やしながら車で猛ス
ピードで町に帰って行った事を見たことが有ります。

都会人などとは何とヒヨワな事かとーー、現地人や、インジオはここで
営々と生活して来たのですから、夏の日が暮れて、涼風がジャングルの
木々をなびかせてる頃、インジオ達が竹笛を吹いて唄っていた曲を思い
出します。

「母なる大地よーー、天なる父よーー、今日も我らに恵みをあたえたま
えーー、恵みの大地よーー、豊かな実りを神に感謝してーー、永久の命
を恵み賜えーー」

2011年9月7日水曜日

私の還暦過去帳(46)

 
 事実は小説より奇なりです。

世に言います、「骨董ニユース」は、皆様いかに考えますか。私が百年
もの前の昔話しでしたが、日本から来た若い人に話した所が、まず驚い
た事に言葉の前に「うそ~!」とのことでした。

その話はアメリカでは西部の決闘として有名な「OK牧場の決闘」の話
でした。
私もその話を20年ほど前に聞いた時には信じられませんでした。

なんと~!、その「OK牧場の決闘」を全部物陰から目撃していた日本
人が居たと言う事でした。
後で知りましたが、当世の若い人は、ほんと~!=うそ~!との言葉が
口から出るとの事で、その若い日本人はその事は、全部ハリウッドの映
画物語と思って居た様です。
しかしーー、なんと~!、全部事実の物語です。
その事を教えると又、「うそ~!」との大声ですーー。

目撃者となった日本人は何と~! 明治の初めにアメリカの西部にやっ
て来て、初めは金鉱捜しでアリゾナの砂漠地帯で仕事をしていた様です
が、しかし金、銀は見つからず、彼が捜して掘り当てたのは、優良な飲
料水だったそうです。
しかし頭の良かった彼が考えたのは、鉱山にその飲料水をタルに詰めて
配達、販売する事でした。

それが上手く行きまして、立派なビジネスとして成り立った様で、その
時町に来ていた彼が、町外れの「OK牧場」で決闘があると言う事を知
り、その一部始終を目撃したそうで、彼は1920年代の始めにロサン
ゼルスで亡くなったそうですーー。

20年ほど以前にロサンゼルスの羅府新報、(創刊1903年)、TE
L(213)629-2231での紙上に詳しく報道されていましたの
で、真実は間違いないと確信しました。

2011年9月6日火曜日

私の還暦過去帳(45)

貴方は奇跡を信じますか、このお話は前回(44)の続きです。

ある所まで来ると、そこから先は誰も歩いた足跡が無かったそうです。
爆死した死骸が腐りかけて、そこから先は水溜りと最悪な地雷原の様子
を見せた土地で、そこに座り込んでしまい、追いかけて来る兵士から身
を隠していたそうですが、その時爆死した人の身の近くに砕けた仏像の

一部が有って、それを手に取り必死に祈ったそうですが、子供の声を聞
き付けて足跡を探して、その足跡を伝って来た兵士が発見して、今にも
銃を構えて、狙いを付けて溜まり水に半身浸かって隠れて居る場所を探
して、少し離れた所からポルポト兵士がまさに撃とうとしたところ、仏
陀に祈った奇跡が起りました。

カンボジアから難民でアメリカに来て、英語を覚えてアメリカ社会に溶
け込んで仕事をしていた夫婦ですが、真の仏教徒らしくその態度から感
じられました。
彼は最後と感じて、ポルポト兵士が狙いを付けて、まさに撃つ瞬間、妻
と子供に覆い被さって、泥水に伏せたそうです。

「バ~ン!」と銃声がして、背中に背負っていた荷物に弾が命中して、
パラパラと降り出した大粒の雨の中で、これで最後と観念して、ドロの
塊を手にポルポト兵士に投げつけたそうです。
すると、そのドロの塊を除け様として、兵士がバランスを崩して足を滑
らせて、銃を片手に草むらに転んだ瞬間ーー、「ドカ~ン!」と地雷を
踏んだのか大爆発が起きて、半身が吹き飛んでしまった。

雨は激しく降り出して、雷も鳴り出して、激しい雨のしぶきで視界も近
くがぼんやりしか見えなくなり、そっと身を起してタイ側の国境の方を
見ると、そこに誰か手招きする人影が有り、正面ではなく右側の木立の
ジャングルの外れで直ぐ側でした。

土砂降りの雨の中、泥水があふれて、ぬかるみの荒地を左に子供、右手
にワイフの手を引き、死に物狂いで歩き出したら、人影がゆっくりとう
なずいて、佇んで居るような感じで、それをめがけてがむしゃらに歩き、
たどり着いて見ると、そこには何も無くーー、見廻すとタイ側の方向
に通じる道が遠くに微かに見えて、地雷原を乗り切り、生き長らえた事
を知ったそうです。

安心して、ワイフの手を離したら、そこから仏像の破片がポロリと落ち
たそうで、全然自分が握り締めていたとは信じられ無かったと話してく
れました。
綺麗に洗って泥を落としてポケットにしまい、それからは肌身放さず、
アメリカに難民として移住して来てからも、一度も肌から放したことが
無いと言っていました。

彼は仕事が終り、別れの時にその仏像の石片を手に私と握手して、「貴
方が心平和で、幸せな人生で有ります様にーー」と、祈ってくれました。
お互いに合掌して別れましたが、彼が今も元気で平和な家庭をこのアメ
リカでいとなんで居ると信じていますーー。

2011年9月5日月曜日

私の還暦過去帳(44)

だいぶ昔の事でした。

アメリカには沢山の難民が住んでいます。サンフランシスコの近くフリ
モントの近くには、アフガン難民が2万人以上も集団で住んでいます。
アメリカで一番多くまとまって住んで居る所と言われて居ます。日本で
は年間数えるだけの難民しか受け入れてはいません。それだけアメリカ
では寛大な移民政策が取られているからです。私はアフガンの友人の結
婚式にも招待されて行った事が有ります。

レーガン大統領が政権を持って居た頃に、難民でアメリカに入国した沢
山のアジアからの難民達が、英語を覚えなければ生活保護を切られてし
まう法律が出来て、英語を学び、職業訓練を受けてアメリカ社会に入っ
て行きました。

私の仕事は不動産管理の仕事です。お客の不動産のレントハウス、アパ
ート、オフイスビルなど、それからお歳寄りの家の管理もしています。
何でも屋です。直ぐやる課の課長ですがーー、器用な性質で何でもこな
します。中国人のレントハウスでの仕事でした。

テナントが出ていき、残した家財の不用品や、ゴミのかたずけを頼んだ
所が、カンボジア人の夫婦が仕事でやって来ました。家主との契約で私
が管理しているので、全てを私が見ていました。使える物と、捨てる物
に分けて、トラックに積み込み家の中をかたずけ行きました。

お昼のランチになって、私は夫婦とお昼ご飯の弁当を食べる事になりま
したが、弁当を開いて、手を合わせて、「イタダキマス~!」と声を出
して食べ始めると、彼等も同じく手を合わせて、何か言って食べ始めま
した。

同じお米のお昼ご飯の弁当です。彼等はスプーンで、丸い重ねた弁当入
れを広げて食べ始めましたが、何か美味しい匂いがします。鳥肉をカレ
ーで煮たような感じの食べ物でした。それをご飯と食べていました。あ
らかた食事が終ってから、お互いに下手な英語で話しに夢中になってい
ました。

お互いに仏教徒で、そんな話しから、「仏陀を信じているかーー、」と
聞いて来ました。私が「少しはーー!」と話すと、彼は「私は心から信
じている、」と言うと、小さな石のカケラを見せてくれました。真中に
穴が開けられて、皮ひもで首に掛けていましたが、両手で挿むと、それ
を拝む様にして見せてくれました。

それから彼がどうして、この石を身に付ける様になったか話してくれま
した。夫妻はカンボジアを、ポルポト政府の兵士に追われてタイまで逃
げて来たと話してくれました。

途中で沢山の人が国境を越えられず捕まって殺されていったと、話して
いましたが、奥さんがタイ語が上手く話せて、前に木材をタイに運んで
いた事で知り合いが沢山いて、逃げる手引きをしてくれた様です。しか
し全ての全財産をドルと貴金属に換えてわずかな食料を持って国境近く
まで逃れて来たそうですが、すでにその時は、ポルポト兵士が、逃げ道

に地雷を敷設して、安全な抜け道は無くなって、夫婦と二歳の子供は先
に逃げた人の足跡を探しながら、奥さんが子供を、主人が荷物を背負っ
て一歩、一歩とジャングルを歩いて来たそうですが、途中でポルポト兵
士に捕まり、後ろ手に縛られて頭からビニールの袋をかぶせられて、窒
息死している無残な死骸を沢山見たそうです。中には、首を切り落とさ
れたり、激しい拷問を加えた死体も見たと涙ながらに話してくれました。

逃げてくる人々の財産が目的と、それと知的なインテリー達が死の迫害
を逃れて来るのを摘発する為に、ポルポト兵士は情け容赦無く殺して居
たそうで、彼等もあとわずかな距離で国境に近くなった時にポルポト兵
士に発見されて、追跡を受ける様になり、死を覚悟して地雷の埋まった
場所を歩いて行ったと言う事でした。

この話しの続きは次回に致します。
壮絶な話しでしたーー。

2011年9月3日土曜日

私の還暦過去帳(43)

かれこれ46年ほどになりますが、かなり古い話です。しかし私が書か
ないと、この様なインターネットには言葉では残せませんので、書いて
おきます。その話しは私がアルゼンチンのブエノス、アイレスに滞在し
て、農業をしながら普通の生活を郊外の町でしていた時の事です。

バック、パッカーと言われる、放浪者での旅では有りませんでした。
生活を土地と言う大地に根ざして仕事をしていた時代で、現地の人に
色々話しを聞いて、1920年から30年頃の話しの物語を聞く事が
出来ました。その方はアルゼンチンに日本帝国海軍の親善訪問での

航海でブエノスに来た水兵でした。私も覚えが有りますが1965年
頃に同じ戦後の自衛隊の練習艦隊がブエノスに来た時です。多くの
水兵が郊外のチーグレと言う歓楽花街が有る場所に沢山来ていました。
男が要求する生理的な要望として来ていた様です。その帝国海軍の方

もただの一兵卒としての任務として、親善訪問での航海に水兵として参
加していたと思います、幾人かの仲間の水兵と時代も違いますが、郊外
の同じ様な歓楽花街に遊びに来ていた様です、しかし彼は無類の酒好き
でワインをしこたま飲んで、かなりの溺酔状態に近かった様で、慣れな

いワインでかなり悪酔い状態だったと推察されます。仲間に遅れて駅に
たどり着いた所が、運悪く反対側のまったく別方向に行く長距離列車
に乗りこんでしまい、ブエノスの街に戻る汽車と信じて、安心して
乗っていた様で、ブエノスの駅は終点で港の直ぐ側でしたので、酔い

もあって終点に着いたら、歩いても港に帰ることが出来る事から信じて
安心して寝込んでしまったと思われます。しかし彼の悲劇はそこから
始まったのでした。目が覚めて起きた所は見も知らないパンパの大草原
の田舎の駅、言葉も全然分らなくて、金も無く、連絡しようにもその

方法も思い浮かばず、連絡する住所や地名さえまったく知らない所に
水兵服姿のままで放り出されてしまい、その衝撃は計り知れない事と思
ます。しばらくは茫然として放心して、活路を捜して居たようですが、
何しろ言葉が一言も話せず、どちらの方向がブエノスかも分らず、ただ

浮浪者同然にして歩いて居た様です。おそらく空腹とやつれ切った姿で
居た所を、ある婦人が若い水兵姿の東洋人を見つけて自分の農場に連れ
て行き面倒を見て、住居と食事が出来る様にし、仕事も与えて生活が成
りたつ様にした様です。近所には誰も東洋人も居ない場所ですから意思

の疎通も無かった様ですが、しかし彼は救われた恩義と帝国練習親善艦
隊はとうの昔にアルゼンチンを離れ、祖国に帰還してしまい、その事を
考え溺酔して、脱船者として、脱走水兵の汚名を着てしまったと覚悟し
たのか、真面目に農夫としてそこで仕事をして言葉も覚えて、かなりの

年月を過ごしてから日本人と交流する様になって、初めてその事を明か
した様です。その様にして一生をアルゼンチンの大地で過ごした方が居
ると言う事を歴史の中でほんの僅かなページですが、残しておきたいと
思い書いたしだいです。

2011年9月1日木曜日

私の還暦過去帳(42)

私もアメリカに住みついて早、35年の歳月が流れました。

子供がアメリカでの成長を楽しみに頑張って来ましたが、のびのびと育
つ姿を見て、励みになった事を覚えています。
三人の子供達にはスポーツをさせまして、特にスイミングは兄弟で通算
6ヵ年以上も泳いでいました。

始めたばかりの時、一番下の次男が何かまじめな顔をして、食後のひと
ときに、私に何か話が有ると言って来ました。
何か深刻そうで、子供にしては悩んだ顔をしていましたが、まだ8歳ぐ
らいの歳だったと思います。

「俺のおちんこは、アメリカ人のおちんこと型が違うーー!」

私は直ぐに感ずきまして、割礼をしているアメリカ人の男子のあそこを
見て、比べて、驚いてショックを受けたものと思われます。
無理無い事で、「はは~んーー!」です。
大人並みに先が、松茸並みにちゃんと出来上がっているからです。
「よしや~!」教えてやる事にしました。

日本人は産まれた時にやらないからと、「割礼」の仕方を教えて、その
意味も教えてやりました。

今からでもやりたかったら、直ぐにやってやるよと、話すと少し乗り気
の様子ーー、「でも痛い様だよーー!」と話すと、ビビッテーー、おど
おどしています。

ちょいーー、こんな風にと、次男のおちんこの先の皮を「ぎゅ~!」と
力を入れて引っ張り、伸びきった所の根元の皮をここから切れるはさみ
で、「チョン~!」と切ってしまうと指で実演ですーー。

次男はガタガタふるえています。「大きくなって切るのは痛そうだ、そ
れでも切るかいーー?」と話しますと、べそかいています。
「おしっこもしばらくは、立って出来ないよ」と言うと、「もうーーい
いよ~!」と言うと、ダダダーーっと走って逃げて行きました。

アメリカ人の若い女性もこの事を知らずに、日本人のあそこは全部奇形
だと話した馬鹿がいるそうです。(笑)
多分、アメリカ人と、日本人を試して、比較してーー、ちょい~!ーー
馬鹿な思い込みをしたと感じます。
所変れば、あそこも変ると言うお話でしたーー。

35歳にもなった息子達の子供時代を思い出します。