2014年12月20日土曜日

私の還暦過去帳(566)


人種と人間関係の危険性、

世界を股にかけて出て行くと、この世界の5大陸で必ず出会い、
遭遇して考えさせられる事は人間関係です。
世界の人口の半分は中国人とインド人が占めています。
私も人生の3分の2を海外で生活して感じる事は、中国人たち
の華人ネットワークです。
親戚、知人、同郷、名前、宗教、出身の階層、大学教育のレベル、
政治の序列、金持ちか否か、これはすごい連帯と、共同と連鎖に
関係いたします。
彼等は『軍事力を使わない、世界侵略です』パワーは連帯と、
そこから捻出される資金力です。
彼等の輪に入っても、ビジネスの範囲、その彼等の活動範囲が
あれば、そこに入り込むことは困難と時には危険さえあります。

これを忘れてはいけません、命の危険さえ出てくることがあり
ます。
そんなことも知らない韓国人が、彼等のビジネスに踏み込んで、
すべて身包みはがされ、罠に落とし込まれ、何も残らないよう
なダメージで、彼らがコネと資金と裏社会の連帯で、韓国人を
消し去っていました。
これはインド人も同じです、ユダヤ系も力があります。アラブ
系も資金力があり、日本人がビジネスを新たに始めても直ぐに、
もっと数倍の規模と資金力で、その上と、もっと組織的に真似
されて、叩き潰されて居るのを見たことがあります。

貴方が世界に足を踏み出す時は、必ずそのようなことも頭に入
れて行動してください。

2014年12月11日木曜日

私の還暦過去帳(565)


インドの仏陀ガヤでの出会い、
この世のシステムから逃れて、自分の夢を一生で一度でも
良いから試したい、実行したいと考えて旅に出た人と会った
事があります。
私がインドで仏教巡礼に歩いていた時に、仏陀ガヤの近くの...
ホテルで出会いました。
 

彼は大学卒業するとIT産業に 就職して、わき目もふらずに、
毎日、満員電車に揺られて通勤して、夜は残業で頑張ったと
言う事で、9年近い間に、ワンルームマンションも買い、貯金
も人の倍以上は貯めたと話していました。
 

自社株も貰い、IT産業の先を見て、その会社の株を買い、
それでも投資の3倍以上は返りが有ったとか話していましたが、

満たされない願望で、このまま行けば、何も外の世界を体験する
事無く、人生を老いて行く感じがして、会社から関連会社に行く
事を命じられた事で、そこを区切りに会社を辞めて、旅に出たと
話していました。
台湾、香港、シンガポール、タイ、インドと歩きたかった場所を
見て、歩いて来たと話していましたが、ベトナムに行った時に、
サイゴンの飛行場から市内に行くバス内で同席したベトナム人の
女性がいて、仕事で時々日本にも出張すると話していたようでした。

彼女はベトナム難民で両親たちがオーストラリアに難民で受け入
れられ、難民定住して、そこで育った様で、英語もベトナム語も
バイリンガルの女性で、同じ仕事で、プログラムのエンジニーア
として、興味があったので、サイゴン滞在中に何度か会って食事
をしたり、彼女が街中を案内してくれ、楽しく過ごしたと話して
いましたが、彼女は祖父達の見舞いに訪れて居たようで、また
オーストラリアに帰って行ったと話していましたが、2ヶ月した
ら日本に出張があるので東京で再会する約束もしたと話していま
した。
彼は自分が決断して仕事を辞め、旅に出なかったら彼女とは絶対
に会うチャンスも無く、別の世界を見ることもなく、新鮮な旅の
感激も味合う事もなかったと話していました。

人生一度しかない時間を、試して見る事も必要だと彼は話してい
ましたが、彼女と最後に分かれる時に話してくれた、オーストラ
リアの生活に大きく引かれて、インドを歩いたら彼女が住んでい
るシドニーを訪ねると話していました。

彼はデジカメの映像を見せてくれましたが、可愛いアオザイ姿の
彼女が笑っていました。私が彼女は若いけれど歳は幾つですか,
と聞くと、彼女は27歳で白人との離婚歴があると話していまし
たが、私には彼女の年齢にも精神年齢も、満足していると言って
いました。
彼は彼女と同じ仏教徒だから、お土産に白檀の仏像を探している
と話していました。そのホテルで短い間の付き合いでしたが、旅
の開放感と満たされた希望で、彼が別れに、日本でのサラリーマ
ン生活が僅かな間に夢の様に感じると話していました。

2014年12月1日月曜日

私の還暦過去帳(564)


私の人生で印象に残る方が居ます。

彼は海外飛躍を決めて、その自分が定住する場所を探して歩いてい
ました。
彼の哲学は単純で、明快でした。
彼は昔、集団就職で当時春先に運転されていた臨時の列車で東北から
東京に中学卒業すると同時に就職して来た若者でした。
その当時、彼は手に職を持つ事を考えて、板前修業に料亭の下働きから
始めた様でした。彼は何処かの大使館のガーデンパーテイに下働きで行
き、そこで華やかな外人達の宴会を見て、日本語が話せる係りに、『海外
で言葉が話せなくても、腕に自信があれば何処でも雇ってくれ、永住権
も簡単だ』と言われて、彼は3男で全く自由の身で、親からも『お前の
世話は出来ないので、自分で生きて行け』と言われていた様でした。
 

彼は板前修業を積んで、こつこつと貯めた貯金と親方が暖簾分けという
開業資金で、まとまった金額をボーナスとして彼がそこを辞める時に
貰った様でした。
彼はそこを辞めてまず、彼は南米に行きたいので、南米の貴国大使館

のコックの下働きに入り、そこで洋食やテーブル飾りなどの基礎を習い、
食事のマナーなども覚えたと話していました。

そこで居た2ヵ年近くで、洋食のフランス料理やテーブルマナーや飾り
なども全部覚え、スペイン語の簡単な会話も努力して覚えた様でした。
彼はそこを辞めて旅に出る時には、大使館のコックとしての信用状も、
南米に来たら働ける様に、仕事の紹介状も貰っていた様でした。


彼はそこで貯めた資金も足して、パスポートと包丁一式晒しに巻いて、
金はトラベル小切手に代えてロスから入国して、見たかったデズニー
ランドを見物してから、メキシコから歩き出した様でした。

彼と会った時はアルゼンチンのブエノスで1965年当時、大洋漁業が
開いていた和食レストランの『マグロの家』と言う所で働いていました。
そこに来るまでに何処か南米の日本大使館に働いたり、チリの首都で
レストランで働いたりしていたと言う事でしたが、彼は若い時に一度
ヨーロッパも見て、経験したいという事で、ブエノスからイタリアに
渡ると話していました。

彼が『包丁一本晒しに巻いて』、と言う人生経験も中学卒には、十分
過ぎる人生だと話していた事が印象に残っています。