2021年1月30日土曜日

私の還暦過去帳(759)

 移住の昔話、(69)


パラグアイの移住者がアスンシオン近郊に再移住して蔬菜栽培

や産卵養鶏を始めてかなりの成功を収めて、安定経営に向けた

生活を始めた人も出てくる様になりました。

時期的には1960年始めと感じます、養鶏ではアマンバイ農

協からもアスンシオン市場に卵が来ていました。当時の採取品

質不安定な採卵では、日本人の本格的な養鶏に太刀打ちする事

は難しくて、市場を独占して行きました。


蔬菜栽培は、サラダ菜とトマトが主流でしたが、トマトの投機

的な栽培は、直ぐに過剰生産と、値段の暴落などに阻まれて一

部の儲けた人を除いて、アルゼンチンに移動した人も出て来ま

した。

エンカルからのパラグアイ国内の再移住も、限定的で限られて

いて、日本より小型トラックや耕運機などを持参して来て、かな

りの就労家族労力が有った人が、早く安定経営と生活をパラグ

アイで掴んで居た感じがします。

それ以外の移住者との格差が1965年からははっきりと分れ

て、新車のトラックを買う購買力を持つ人も現れて居た頃です。

当時のフランス植民地、アルジェリアから独立を嫌った、フラ

ンス人、入植者がアルゼンチン、フォルモッサ州に再移住をし

て来た時期が有ります。

アルジェーと気候的に同じで、当時のアルゼンチンで残された

最後の未開の土地でした。しかし、当時のフランス政府の政治

的、経済的、社会的に組織された再移住はフランス政府が2百

以上も長く、植民地政策の経験と実績とに裏打ちされた、

持続的、かつ効果的に組織化された行政が動いていたと感じ

ます。

植民地政策でも現地にフランス語を根ずかせて、公用語として

のフランス語を定め、その土地に経済的、政治的に浸透させる

力を見ていましたので、その格差と移住する人間の扱いに大き

な差が有る事を感じました。

植民地開発に囚人を送り込み、南米ギアナなどはフランス政府

の収奪的な開発が有り、外人部隊を創設して、植民地戦争など

に大きな力を発揮させた事も良く知られています。

パラグアイの国内再移住も一段落した時期は1965年前後と

感じられます。
ピラポ、フラム、ラパス、フジ、サンタロサ、チャべスなどから

エンカナシオン市を拠点にして、首都アスンシオンにエンカル市

から、またポサダ、ロサリオ、ブエノス、ラプラタなどとアル

ゼンチンへ、エンカルから出ていった人が多数と感じます。


アマンバイ農協の移住者達が歩いた道は、キャピタンバードの奥

地から、アスンシオン、サンパウロ、ブエノスの都市と分れたと

感じられます。

国境を隔ててブラジルの町が有り、夕方から自分で収穫した作物

を市場で売っていた事が普通でしたので、ポルトガル語には違和

感が無かったと感じます、ブラジル経済の影響が大きく、目がブ

ラジルのサンパウロなどに向いていて、大きな日本町などが有

り、サンパウロ市内や近郊などの日系人や同郷の移住者の縁故

が強かったと感じられます。


ボリビアのサンフアン移住地の例を見ても、ラ・コルメナと余り

差は無く、呼び寄せ、単身、花嫁などサンファンの地を踏んだ全

移住者の内千六百二十五人の名前が記録されていますが、現在そ

のうち、現在移住地に残るのは約二割だという事です。

フランス人、入植者がアルゼンチン、フォルモッサ州に再移住を

して来た時期が有りますが、アルジェーと気候的に同じで、比較

的広大な土地をフランス政府の援助で取得していたが、2~3年

ぐらいで殆どのフランス人がブエノスに出て、フォルモッサ州に

は支配人を置いて、管理させ、殆どはアルジェーの生活と同じ様

に、都市生活をしたと聞きました。

それだけ農業経営に余裕が有り、資金的にも裕福さが有って、フ

ランス政府の持続的、効果的なバックアップがなされたと感じま

す。それに対して比較する対象物としては不適切と言う人がいま

が、それは当を得た答えと感じます。


しかし比べて見ると!、日本政府の移住事業団のトップが警察官

僚の天下りの温床であり、硬直した縦割り指令の、命令下で動い

ていた警察官僚の指導で、農業の実態も、経験も、移住の理論的

研究も、現地での実質的な経験と、その体験的な発想も無い人

が動かしていたと言う事は内部的に詳しい人の話を総合して、

れまでの移住政策の失敗なども総合して、比較考査すると、

それにフランス政府の現実の再移住政策の実行過程を比較する

と、日本移住政策が当時の官僚の中に戦前の棄民政策の頭で

の解釈で、戦後の外地引揚者などに対応する『余剰人口対策』

の一環として、遂行した感じが有ると話していた人を忘れる事

は出来ません。

次回に続く、

2021年1月29日金曜日

私の還暦過去帳(758)

 移住の昔話,(68)

1964年過ぎると、パラグアイからの転移住者がブエノス

で仕事をする姿が、かしこに見られる様になりました。

当時、ブエノス市内ではかなりの日本人洗濯屋が開業してい

ました。それと近郊蔬菜栽培が戦前から盛んで、人手を欲し

がっていました。同じ様に花の栽培では日本人も、花市場

でかなりの勢力がありました。

温室栽培の花の生育はかなりの人手を取り、手間の掛る

作業です、夏の暑い日に温室での作業はキツイ労働となり、

それをこなす勤勉な労働者として、花栽培技術の収得もか

ねて、パラグアイからの転住者が就労していました。

子供がその仕事に就労して、パラグアイにまだ両親が住ん

で居るのを利用して、鉄木を温室用枠木としてパラグアイ

で切り出して、製材してアルゼンチンの川船を利用して

パラナ河を下り、ラプラタ河を降りてブエノス近くのテ

ィーグレ河口の入江の製材屋まで運び、そこで温室用に

製品化して、パラグアイから出て来た家族と、かなりの数

の温室を初めから建てた家族を知っています。

先発隊として言葉と南米の習慣が分る子供が露払いと

なった様です。その事はラ・コルメナからの移住者も

同じ様にして、洗濯屋を開業して居ました。

兄弟二人で2軒も開いていましてた。

両親と下の兄弟二人は温室栽培をして、かなりのカー

ネーシオンとバラを切り出していましたが、パラグ

アイ転移住が成功した家族と感じました。

細かい事例で見て見ると、家族の団結と結束した家族

労働力が大きな成果を生み出した原動力と感じました。

銀行にも融資を頼めず、タノモシ講の仲間金融から

の信用貸しでの資金を元手に、多くのパラグアイから

の転住者がスタートしてアルゼンチンに根を張って

行ったと感じます。

後には移住事業団からの融資も受けられる様になり

ましたが、中にはその資金を借りて80年台に入り、

日本へ家族を置いて出稼ぎに出て、日本でかなりの

資金を貯めて、家族を全部呼び寄せてアルゼンチン

の借入れ金を半ば踏み倒した人も知っています。

80年を境にしてアルゼンチン成功者とそれで無い

人が出稼ぎと言う日本行きを選択し出したと感じ

ます。

アルゼンチンに再移住して来た日本人は一番、数的

にはパラグアイからです。ボリビアからも沖縄県人

を頼って来ていました。

沖縄県人の粘り強さ、団結力などは、琉球魂と言う

感じの力が有りましたが、ブエノス市内で洗濯屋を

開業している7割は沖縄県人の人が占めていました。

団結力が強くて、当時1960年には、ブエノス市

内には沖縄県人会館が有りました。

通称沖連と称していましたが、村人会なども有りま

して、親戚などが固まって力合わせてタノモシ講を

作り、仲間金融を盛んに行なっていました。

ボリビアには沖縄県人の入植地も有ったほどですか

ら、同郷を頼ってブエノスに来た人が沢山居ました。

しかし数ではパラグアイには全然かないませんで

した。

ペルーから、2世などが来ていたのを知っています。

数にしたらほんの僅かです。そのペルー二世も沖縄

県人が多くて、それからブラジルに技術者移住を

した高学歴の技術者の若者が、アルゼンチンの会社

に仕事を見つけてブエノスに来ていた人と会った事

が有ります。


転住と言ってもかなりの日本人がそれぞれの個人の

夢と希望を賭けてアルゼンチンに来ていました。

アルゼンチンに来ている転住者の家族持ちは、パラ

グアイ出身者が一番多かったと思います。

この流れが変わったのは1980年に入り、日本が

高度成長の経済発展で、就労人口の減少で、単純労

働者の大きな不足が表面化して来て、政府と企業が

苦肉の策で考えたのが、南米からの日系人を労働者

として呼び寄せする事でした。


これが開始されると根本的に、アルゼンチン、ブラ

ジル、パラグアイなどの集団移住地から、日本に向

けて逆流が開始されたのであります。

次回に続く、

私の還暦過去帳(757)

 移住の昔話,(67)

エンカナシオンの町にある、ペンション滝本は便利な宿

でした。

移住地の情報が生で入って来るので、それと、ここに泊

まってアルゼンチンに入国する用意や、電話連絡も出来

ていました。移住地に入植している人は電話など持って

いる人は皆無でしたので、伝言も残して置けて、連絡な

ども移住地に託せるので、人が人を呼び、移住者には

便利な宿になっていました。

そこで聞いた事ですが、斎藤氏の農場は買い手があり、

売れた様だと聞きましたが、後で聞いた事は、その金が

アルゼンチンに引っ越し費用となり、アルゼンチンでの

当座の生活費になった様です。

折本氏の自宅を訪ねる前に、アルゼンチンから帰って来

た人が、移住地に行く乗り合いの小型バスを降りて、

宅まで歩いていたら、後ろを着けられていたオートバイ

に乗ったお男に拳銃を突き付けられ、有り金を奪われた

と言う情報がありました。

小型バスに乗車する停留所から尾行されて、降りた所で

原生林の道を歩いていた時に襲われた様だと言う事で

私も用心していました。

折本氏はロシア人の入植地にある土地を購入して、農場

を開いていました。

フラム移住地に行く街道から降りて2kmばかり入った

所にあると言う事で、地図を書いて持っていたので安心

でした。小型バスはその当時、殆どがVWのワゴーン車

で停留所から他の乗客と相乗りで出発しましたが、用心

にオートバイの若い男が近くに居るか見ていました。

送り狼は日本人が目当ての様で、小型バスを付けて来て

襲う様なので、バックサックの隠しに入れた拳銃を腰に

差して隠していました。

道中は土道をかなりのスピードで飛ばして行きましたが、

途中、バスの後ろを見ると、オートバイが離れて付いて

来て居ました。20分ばかり走ってからコロニア・

ルーソーと運転手に話していたので、停止してくれ

下車して歩き始めました。

街道から200mばかり歩いた所で、微かにオート

バイのエンジン音が聞こえて来ました。

バスの中から見た同じオートバイで、送り狼だと感

て身構えて、バックサックをずらして、腰の拳銃を

直ぐに抜ける様にしていました。

オートバイのエンジン音が高くなり、かなりのスピー

ドで走って来るのが見えて、私は道脇の40cmぐら

いの木の後ろに隠れ用心していましたが、相手も私が

急に隠れたので、そのまま直進して行き、20mほど

離れた所で停止して私を見ていたので、腰から拳銃を

抜いて相手に見える様にして構えると、相手は直ぐに

エンジンを吹かして消えて行きました。

やれやれで、拳銃を1発も撃つことなく、送り狼を追い

払い歩いて行くと、子供達がいるので、折本宅は知って

居るかと聞くと、その中の一人が日本語で「爺ちゃんが

居るよ!」と言って手招きして走って行きました。

折本宅は直ぐそばでしたが、日本人の農場らしく、奇麗

に手入れされた畑と、家が有りました。

折本氏のメモを示すと、連絡も有った様で歓迎してくれ

まず農場を案内してくれましたが、ツングーの木は成木

になり見事でした。

私は心にぐっと来るものがあり、これまで努力をして、育

て、時間と営農資金をつぎ込み、何も報いが無い事はショ

ックでした。

移住事業団の営農指導も全て裏目に出て、ツングーの永年

作1本にして植え付けた人達は悲劇でした。

この事は日本では二ユースにもならなく、営農資金に貸し

付けが有ったぐらいでした。

折本氏の奥さんも両親がブラジルに転住する時に、折本氏

と結婚してパラグワイに残ったという事でした。

折本氏の隣は戦後ロシアからドイツに逃げて、親戚を頼り

パらグワイに移住して来たロシア人家族でした。

その当時、スターリン独裁政治からの難民でした。

私が珍しい日本から来た移民だという事で、お茶に呼ばれ

ましたが、自家製の黒パンを切って、バターを塗って出さ

れた一切れを食べ、味が違うので、聞くと、何とー!

『自家製の豚脂肪のラードでした。』

豚の脂身を釜で炒る様にして、製造したラードで、脂を採

ったカスは、カリカリにしてそれも食していましたが、彼等

が今まで生きて来た生活は、日本人以上の貧しい生活では

なかったかと感じていました。

彼等は苦労してレンガを焼き、丸太を二人で挽く鋸で、製材

して家を建て、牛を飼い、ミルクを絞り、バターやチーズを

作り、豚を飼育してハムやソーセージを作り、馬車を手作り

して農耕や輸送に使い、開拓精神を見せているロシア人が、

『ここパラグワイは自分で努力して働けば、自分と家族の物

になり、豊かな生活を積み上げる事が出来る、共産社会では

農民は農奴だ』と言ったロシア人に深く考えて居ました。

次回に続く、









2021年1月27日水曜日

私の還暦過去帳(756)

 移住の昔話,(66)

エンカナシオンの町に戻り、ペンション滝本に泊まって

いました。

これから日本人会宿泊所でお会いした、折本氏と斎藤氏を

訪ねる事でした。

リオネグロ州方面のアルゼンチン南に降りて視察してい

るので、今だ帰宅していないと考えていましたが、奥さん

と子供、折本氏の両親が居ると言う事で、ツングー(油桐)

の木を日本の白桃の木を育てる技術で、周りのドイツ人

が驚く様な育成をしていたのを見たいと考えていました。

ツングーも、ペイントの化学製品が普及すると、アッと言う

間に破綻して売り物にも出来ずに、今では放置してあると言う

事でしたが、営農資金を使い、ツングーの永年作を植え付け、

育てて、収穫できる時期になると全く売れなくなると言う悲劇

になり、移住者の苦労は計り知れない物と感じていました。


それから、学生時代に四国の山奥の平家の落ち武者の地と言わ

れる、松山まで歩いて4時間ばかりで出れるという山奥の農家を

訪ねた事がありますが、冬場は3時に谷間の家は日が暮れると言

う山奥でした。

私が訪ねた時は段々畑を増築する石を砕く音が響いていました。

そこからパラグワイに移住して来て居る、農家を訪ねる事も計画

していました。

四国の山奥の農家を訪ねた時は1日に1本の、ボンネット式の定期

バスがあり、終点で泊まり、翌朝高知に戻ると言うバスでした。

米作は生産量は僅かで、粟と蕎麦が主で、朝は囲炉裏の側で、蕎麦

がきをして朝食にしていました。

蕎麦粉を椀に入れ、熱湯を注いで、練り餅状にして夕食の残りの

煮物などと食べていました。

冬は関西方面に出稼ぎに出て、移住もその頃は盛んで、ブラジルや

パラグワイに移住者募集の張り紙が役場にありました。

移住前の四国の農家と移住後のパラグワイのピラポーで営農され

ていた同じ農家を訪ねた事がありますが、まず驚いた事は、稲穂が

垂れる田圃が2町歩もあったことです。

山林労働者をしていたので、必要な土地だけ開墾して、原始林は

むやみに伐採しなくて、保存してありました。

家の周りには野菜畑とマンジョウカや、バナナにオレンジ、パパイヤ

などが植えてあり、カボチャやトウモロコシを植えて、豚の飼料と

して、養豚もしていました。

完全な自給自足体制が出来て、天井の梁にはハムの塊がぶら下げて

あり、ドイツ人から学んだソーセージ作りもしていました。

主人が話してくれた事は、四国の山奥の生活より豊かな、家族揃い

生活できて、もち米の生産で現金収入もあり、ドイツ人やロシア人

達の生き方も学んで、パラグワイに住めば都の生活をしていると

言う事でしたが、将来はレンガ造りの家を建てたいと話していました。


ささやかな生活が出来る環境を手にして、四国の山奥暮らしの、冬場

は関西方面に家族と別れて出稼ぎに出ていた頃を考えると、今の生活

が心も安定して幸せだと言う気分で、上を見れば切りが無く、欲を

出せば気分も焦る様になると言う話に、ドイツ人やロシア人達が、

ここを貧しいながら、自分の城に替えようと努力をしている姿に似て

居ると感じていました。

主人がこのパラグワイでは子供の時代に芽が出て、成長して、花が

咲く様になるという希望があると、話していた事には感激していま

した。

次回に続く、







2021年1月26日火曜日

私の還暦過去帳(755)

 移住の昔話,(65)

パラグワイのアマンバイ農協で出会った農大の後輩と

各地を視察して歩きましたが、彼はラ・コルメナ移住地

の歴史も知り、現在の移住者達の困難な状況も理解して

いました。

1946年と1947年に空が暗くなるような、バッタ

の襲来に殆どの農作物が全滅した事は、以前に隈部氏か

ら聞いていましたが、現地で残って居る農家の日本人が

その時の状況をどこから飛んできたか、どのような被害

が出たか、自分の畑で指さしながら話してくれた事は、

ショックでした。

その他、大霜の被害、130kmと首都のアスンションま

で、舗装道路が’完成したのが1965年という事で、それ

からトラックでの近郊野菜栽培品などが輸送も出来る様に

なったと言う事でしたが、大きな苦労を背負って、その当

時のラ・コルメナ移住地に住んでいた農家の方達の努力に

は深く頭が下がる様でした。

その後、後輩とアスンションンに戻り、私はエンカナシオン

に行き、後輩はブラジルに戻り、研修実習生としてサンパ

ウロに行くと言う事で別れましたが、彼に次に会ったのは

1976年、ブラジルのアマゾン河の下流の町、べレムの

郊外にピメンタ(胡椒)栽培の傍ら、ビジネスを開いて

居ました。

別れの時に彼と、これからのお互いの健闘を称えて握手

して別れた時を思い出して、抱き合って再会を祝していま

した。すでに同期生の3分の2は亡くなり、全てが忘却の

彼方に消え様としている過去の出来事を、少しは書き残して

記録にしたいと考えています。

アスンションから、エンカナシオンまでのバスの中で、

年配の邦人と同乗しましたが、ラ・コルメナ出身で、その

当時、フラム移住地に再移住していた方の様でした。

長いバスの時間に言葉少なく、「自分で選んだ人生を今更

悔やんでも何もならない、これからの人生を有効に生かして

この地球に生まれて来た事を記念とする農場をパラグワイ

の大地に刻み、私の次の世代に残したい」という話でした。

今ではフラム移住地は広大な農場が広がり、大豆畑の地平線

までの広がりを見る事が出来ますが、8年ほど昔に訪れた時

に、「私の農場の大豆収穫量は500トンの河船一隻分は

あります。」と淡々と話していましたが、時代の変遷は多く

の社会構造まで変化して、世界の食料生産地図も塗り替えら

れて、パラナ河には橋が架かり、インターネット網が完備し

て、ホテルの部屋でスカイプで日本と1時間でも話せて、衛星

テレビも、自宅で日本のTV番組を茶の間でコーヒーで飲み

ながら見れる時代になり、大きく時代が変化したと実感する

世の中になり、移住の根本から変化して来たと感じています。

次回に続く、

2021年1月25日月曜日

私の還暦過去帳(754)

 移住の昔話,(64)

開拓などは原始林のジャングルに入って、人力で昔は

伐採、開墾していました。

今の人達に1日でも、熱帯のジャングルで汗が噴き出

る身体に塩を舐めながら、斧や二人挽きの鋸を使い、

大木を伐採して、枝を払い枯れるのを待ち、野焼きを

して、ジャングルを焼き払い、燃え残った木々を寄せ

焼きして、農地を開いていました。

渡しも今では生き残った数少ない、ジャングルの開墾

経験者になりましたが、

私の今まで歩いた人生の道筋から思うとーー!

時間とは二度と戻っては来ない人生の大切な時、
時間とは自分に神から与えられた、未来の空間、
時間とは己が安住の地を探す大切な夢の空間、
時間とは金でも買えない、新しく作る事が出来ない空間、
時間とは己が産まれて死ぬまでの一瞬の宇宙の空間、
時間とは自分から追いかけて夢にして手にする空間、
時間とは異国に夢として転がっているかもしれない空間、
時間とは日本になく異国の灼熱の砂漠にあるかも知れない空間、


私が農場でジャングルを開拓するのに、インジオと森に入り、巨木を相手に切り倒し、伐採の木の根を掘り起こし、ジャングル にポッカリと開いた空間から夜に入
り、昼間の激しい労働の 休息に身体休めて、夜空を見上げ、満天の星空を見上げていたら、廻りのジャングルの梢の先に、人工衛星が流れ星の様に動いてい るのを見て、当時、最高レベルの技術の結晶が飛んでいる感じがしました。

しかし、ジャングルでは古代からの、そのままでの人力で原始林 に立ち向かい、畑に変えて行く根気の労働で、自分と言うその時点の人生を考えていました。電気もガスも水道も、近くには水も無いような生活で自分と言う人生を考え、鍛え、未来
を考えましたが、その考えると言う過程で心が強く、自己鍛錬となった感じがしました。大陸性の夜、冷え込む気候で、焚き火の側で火酒をコップに握りしめて、宇宙まで続くような暗黒の空に吸い込まれるような恐怖を感じながら、ポツンと考えていました。

その時、私が心に感じた詩が有ります。
 『灰とダイヤモンド』です。

燃え盛る炎が燃えあがる松明のごとく君から吹き出る時、
君の身は自由なれど、それを知らずー!
あるいは君の手から全て失われたともそれを知らずー!

私は詩の言葉を噛み締めて、自分が己の人生の時間を原始林のジャングルで試している修練を感じ、二度と帰ることが無い空間に居ると思いました。

私は今までの体験と過去の遍歴と経験から、

燃え盛る炎が自分から吹き出る時、身を焦がす灼熱の思いに身を投じ、燃え尽きて青春のダイアモンドを手にしたと思います。

人生一度の長い道ですが、時間と言う空間は一瞬です。
貴方も人生の迷いがあったなら、一度、異国の太陽に照らされそこの水を飲み、食べ物を貪り、そこの大地をさまよい、自分の今までの生きざまを振り返り、反省して見詰め、過去を捨て、未来を掴む事を目指して歩いてみようではありませか?

迷いと、混迷と、未来を欠いた心の人は是非とも旅に出てみて 下さいと私は言いたい。
昔から、『犬も歩けば棒に当たるー!』と、人間では、まして 若者で有れば未来と言う輝きの人生が当たると思います。

次回に続く

2021年1月24日日曜日

私の還暦過去帳(753)

 移住の昔話,(63)  

人曰く、「移民は棄民、移住は人減らしの方策、移民は金

儲けの一旗揚げる方策、金を稼げば日本に送金し、外貨を

日本に持ち帰る鵜と同じ、移住関連の役所は、政府の天下り

の役人の受け皿、移住地選定は役人の海外旅行、移住地視察

は名目だけで予算の消化と大名旅行、移住地の土地購入は

政府の予算消化の方策、石ころだけのドミニカ移住地で、

ろくな作物も収穫できない農地で、飢えて豚の飼料の青バ

ナナも茹でて食べればお腹が膨れるが、役人も食べさして

見たい」とか話していたドミニカからのアルゼンチンに

再移住者達から聞いた言葉でした。

パラグアイでは移住者が戦前と戦後に別れて入植した所は

1ヶ所でした。ラ・コルメナ移住地で戦前に入植した人達

は戦争中は隣国に転住することが難しく、移動が困難でした。

定期的に警察所に出頭して、住居確認と人員確認を受けて

いた様でした。

その事はアルゼンチンでも、郊外に住んでいた人が話して

くれましたが、パラグアイと同じ様に警察所に顔を出して、

挨拶するだけで帰宅していた様でした。

しかし、終戦間際になると、殆ど1ヶ月に一度ぐらいにな

っていた様で、行かなくても何も言われる事はなかったそ

うです。

戦前の移住者が隣国に再移住して行った原因も調べる事も

余り無くて、戦後、第2コルメナ移住地が造成され、移住

者が移住事業団からの、戦後の余剰人口の調整の為に移住

が再開された感じでした。

戦後の移住再開でも戦前の入植者の脱耕した根本的な原因

は調査されずに、再開されたと感じました。

それは第2移住地を訪ねて、戦後移住してきた方を訪ねて、

膝を交えて話をする機会が有りました。

戦前のコルメナ最初の移住者と直接アルゼンチンで話して、

その問題点を探り、どのような問題点が戦前と戦後で一致

するか、比較した事が有ります。

1・経済的環境の日本的な感覚からした、誤算的な見方と

  その事実的な経済的生活困窮から来る不満の一致。

2・教育環境の不備と子供に掛ける将来の不安。 

3・パラグアイ国に対しての発展と経済的な予測が、農業 

 経営から見て、予測が貧困的なネガテイブな自給自足的

 な経営を強いられる経営形態を直ぐに改善出来ない予測。

4・事業団の係員が話した、ばら色のパラグアイの予測と、

  将来が不安と混迷から、体験と現実から学んだ自己の

  予測が隣国再移住と言う結論に達した事。

具体的な言葉として戦後の移住者達が私に話した事は、

『前もってコルメナとパラグアイ移住地を見ていたら、こん

な所にには移住して来る事は無かった。』と言う多くの人の

言葉でした。

今さら日本の財産も整理して来たので、おめおめと負け

犬の様に日本には帰国は出来ないと言う根性が出来ていま

した。

答えとして、隣国に転住する費用とチャンスが有れば再移

住を考えている人が居たと言う事です。

この事を総体として、現在のラ・コルメナを見ると、日本

人と、日系人総合の人口総数を見ると、自然増加を考えな

くても、いかに沢山の日本人がコルメナから出て行ったか

を知ることが出来ます。

次回に続く、  

2021年1月22日金曜日

私の還暦過去帳(752)

 移住の昔話、(62)

パラグアイ移住のからの転住者をアルゼンチンで見ると、

その中には当然私も1960年代の単身移住者として、

その数に入りますが,多くのパラグアイからのて転移住者

がブエノス郊外で、蔬菜栽培、花の温室栽培、洗濯屋な

どの三代日系人職種に携わり、中には壮健な小数の人が、

日本漁船に乗り組み現地採用として仕事をしていました。


魚業関連では当時の大手水産会社が、当時、唯一に魚が

自然死していると言われた、南極に近い大西洋での豊富

な漁場での操業で、日本からの交替要員の経費節約の関

係からも、当時多くのパラグアイからの転移住者が給料

の良さに引かれて応募した職場でした。

その他ほんの僅かな人が、アルゼンチンの辺ぴな田舎で、

当時アルゼンチンでは食料とはされていない馬を馬肉に

する為に、馬を買い集めていた人も居ました。

日本では当時食生活の変化でソセージの需要を充たす為

に、安い単価の馬肉使うソセージを製造する為に、その

仲買の仕事をしていたような人も居ました。

しかし殆どはブエノス近郊での蔬菜、花、洗濯屋などで

仕事をして、タノモシ講での仲間金融で資金を得て、独

立して行きましたが、80年台に情勢が急変して、日本

出稼ぎブームからは全てが一変して行き、私が仕事をし

ていた郊外の小さな町では10家族ぐらい居た日本人が

現在では僅か半分の5家族となっています。

その内に現在でも出稼ぎに出ている家族は2軒有り、そ

の衰退ぶりが、日本人会の消滅、日本語学校の廃校など

大きな影響が有ります。

パラグアイから出てから、その後の人の流れと動きを見

てみたいと思います。

パラグアイ移住者の動きをラ・コルメナ移住時代からの

転住先を見てみると、一番多いのがやはりアルゼンチン

です、スペイン語が共通の言語であり、ラプラタ河の本

流と支流の関係で、鉄道もチャカリータ駅までの直行便

がパラグアイと繋いでおり、関連性としては、かなり引

きつける魅力も大きいと感じます。

当時は移住者は殆どがブエノス下船かラプラタ下船のど

っちかで、ブエノス市内の日本人会館の宿泊所で泊まり、

休憩と荷物の受け渡しで2~3泊してから汽車で、パラ

グアイに向けて出発して行きました。

荷物が河船に乗せ変えられ、エンカナシオンの町まで運ば

れたと言う事を聞いた事が有りますが、初期の移住者達が

利用した事が記録に残って居ます。


パラグアイとアルゼンチンとは共通の言語と河と鉄道と

道路で繋がり連帯する多くの事が有ります。

1964年にポサダからバスでブエノスまでで乗車した事

がありますが、道路も比較的良く、途中からはパン・アメリ

カンハイウエーの工事中でしたが、途中、高速道路が利用

でき快適な旅でした。

貨物輸送も毎日定期便がポサダとブエノス間をトラックが

結んでおり、転移住者が家族を連れて、荷物を担いで行く

としても無理なコースではなく、比較的楽に行けたと感じ

ます。

この事がパらグワイから、戦前、戦後の移住者達が

アルゼンチンに再移住をして来た根本の理由では

ないかと考えます。

次回に続く、