2021年1月29日金曜日

私の還暦過去帳(758)

 移住の昔話,(68)

1964年過ぎると、パラグアイからの転移住者がブエノス

で仕事をする姿が、かしこに見られる様になりました。

当時、ブエノス市内ではかなりの日本人洗濯屋が開業してい

ました。それと近郊蔬菜栽培が戦前から盛んで、人手を欲し

がっていました。同じ様に花の栽培では日本人も、花市場

でかなりの勢力がありました。

温室栽培の花の生育はかなりの人手を取り、手間の掛る

作業です、夏の暑い日に温室での作業はキツイ労働となり、

それをこなす勤勉な労働者として、花栽培技術の収得もか

ねて、パラグアイからの転住者が就労していました。

子供がその仕事に就労して、パラグアイにまだ両親が住ん

で居るのを利用して、鉄木を温室用枠木としてパラグアイ

で切り出して、製材してアルゼンチンの川船を利用して

パラナ河を下り、ラプラタ河を降りてブエノス近くのテ

ィーグレ河口の入江の製材屋まで運び、そこで温室用に

製品化して、パラグアイから出て来た家族と、かなりの数

の温室を初めから建てた家族を知っています。

先発隊として言葉と南米の習慣が分る子供が露払いと

なった様です。その事はラ・コルメナからの移住者も

同じ様にして、洗濯屋を開業して居ました。

兄弟二人で2軒も開いていましてた。

両親と下の兄弟二人は温室栽培をして、かなりのカー

ネーシオンとバラを切り出していましたが、パラグ

アイ転移住が成功した家族と感じました。

細かい事例で見て見ると、家族の団結と結束した家族

労働力が大きな成果を生み出した原動力と感じました。

銀行にも融資を頼めず、タノモシ講の仲間金融から

の信用貸しでの資金を元手に、多くのパラグアイから

の転住者がスタートしてアルゼンチンに根を張って

行ったと感じます。

後には移住事業団からの融資も受けられる様になり

ましたが、中にはその資金を借りて80年台に入り、

日本へ家族を置いて出稼ぎに出て、日本でかなりの

資金を貯めて、家族を全部呼び寄せてアルゼンチン

の借入れ金を半ば踏み倒した人も知っています。

80年を境にしてアルゼンチン成功者とそれで無い

人が出稼ぎと言う日本行きを選択し出したと感じ

ます。

アルゼンチンに再移住して来た日本人は一番、数的

にはパラグアイからです。ボリビアからも沖縄県人

を頼って来ていました。

沖縄県人の粘り強さ、団結力などは、琉球魂と言う

感じの力が有りましたが、ブエノス市内で洗濯屋を

開業している7割は沖縄県人の人が占めていました。

団結力が強くて、当時1960年には、ブエノス市

内には沖縄県人会館が有りました。

通称沖連と称していましたが、村人会なども有りま

して、親戚などが固まって力合わせてタノモシ講を

作り、仲間金融を盛んに行なっていました。

ボリビアには沖縄県人の入植地も有ったほどですか

ら、同郷を頼ってブエノスに来た人が沢山居ました。

しかし数ではパラグアイには全然かないませんで

した。

ペルーから、2世などが来ていたのを知っています。

数にしたらほんの僅かです。そのペルー二世も沖縄

県人が多くて、それからブラジルに技術者移住を

した高学歴の技術者の若者が、アルゼンチンの会社

に仕事を見つけてブエノスに来ていた人と会った事

が有ります。


転住と言ってもかなりの日本人がそれぞれの個人の

夢と希望を賭けてアルゼンチンに来ていました。

アルゼンチンに来ている転住者の家族持ちは、パラ

グアイ出身者が一番多かったと思います。

この流れが変わったのは1980年に入り、日本が

高度成長の経済発展で、就労人口の減少で、単純労

働者の大きな不足が表面化して来て、政府と企業が

苦肉の策で考えたのが、南米からの日系人を労働者

として呼び寄せする事でした。


これが開始されると根本的に、アルゼンチン、ブラ

ジル、パラグアイなどの集団移住地から、日本に向

けて逆流が開始されたのであります。

次回に続く、

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