2021年1月20日水曜日

私の還暦過去帳(750)

移住の昔話、

1960年初頭はミッショネス州では、日本人では簡単に永住

権の申請をして、セドラのIDカードが貰えたと言う事も有り

ます。ポサダ市でセドラを収得して、ブエノスに出て労働許可
証を取り、堂々と仕事が出来ました。

私もその手を使い、ブエノスで保健所の身体検査のチン検を受
けて、労働許可証を貰った覚えが有ります。

当時のウルグアイは日本人の数も少なく、パラグアイからの
日本人が、もぐり込める場所的なチャンスも少なかったと感じ
ます。
当時のブラジルは親戚、兄弟などの身内の移住者が居た人は、
ブラジルを選んでいましたがそれと、アマンバイ農協などに居
た人が、サンパウロまでの鉄道が有り、ブエノスより、ブラジ
ル圏の中で、仕事をしていた人がかなり多くて、ブラジル転移
住を選択したと感じます。

パラグアイの戦後の移住者が隣国に再移住を開始したのは一応
落ちついてから、1960年頃からと感じます。

1、廻りのパラグアイの状況が見えて来た事。

2、スペイン語の会話も覚えて、子供達が就労期に入り、より
  良き環境と生活条件を考えて、ツングー実の販売も化学
  ペイントの開発と生産が急激に増えて破綻して、トウモロ
  コシの販売価格も、内陸国の河船輸送のコスト高に食われ
  て、実質的な収益が無い、働くほど借金がかさむ農業経営
  に傾いて来た事。

3、短期換金作物の蔬菜栽培も需要が無く、生産過剰となり、
  僅かアスンオン首都近郊において、採算が取れ、かなりの
  収益を出す人が出てきた頃で、数にしたら僅かな人でした。

4、アマンバイ農協で力を入れていた、採卵養鶏が軌道に乗り
  出して、一部の農家での現金収入が増えていたが、現実と
  しての、相対的な比率で転移住が動き出したのが1960
  年に入ってからと見られる。

5、イグアス移住地に入植した人と、膝を交えて真剣にアルゼ
  ンチンで話をした事が有りますが、自分が描いた理想と、
  現実が余りにも差が有り、教育を第一とした今までの教育
  方針とのギャップに、現地での子供達に与える高等教育の
  不安が一番大きかったと話していたのが印象的でした。

以上の様に大雑把に分けて、分類して考査していく過程でも、
隣国アルゼンチンの文化的社会環境と教育環境の整った過程を
踏んだ、アルゼンチン日系2世の社会的進出が理想の住みかと
して感じたと思われる。

かなりの日本人が安定した生活を営み、当時の日本人が、大き
な仕事場としていた、花卉、蔬菜、洗濯屋の三大ビジネスで、
安定的な生活と子弟の教育が出来る環境と、感じていたと思い
ます。

次回に続く、 

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