私の還暦過去帳(742)
移住の昔話、(52)
飛行場から市内のアマンバイ農協の事務所に行くまで、
車はペドロ・ファン・カバリエーロ市内を少し案内して
くれました。
ポンタ・ポラン市のブラジルと国境を境に分かれてい
ますが、国境と言うのも両市の境に草原が広がり、その
真ん中に石にパラグワイとブラジルと書いた国境認識標
があるだけでしたが、その認識標に沿って十字架が立っ
ているので、中にはお花が添えられている十字架もあり、
私は「あの十字架は何の意味があるのですか?」と組合
長に聞くと、国境線の真ん中に死体を置いておくと、両
国の裁判権が無く、ブラジルとパラグワイの警察も手出
しが出来ないと言う事で、昔から殺人の死体を放置して
いたと言う事でした。
私が十字架を数えたのが11個ほどあり、昔は両国の兵
士が喧嘩して殺し合い、死体を国境に放置していたのが
多いと聞いて、驚いていました。
夜になるとパラグワイ側とブラジル側で、夜間照明の街
灯が激しい差があり、ブラジル側は街灯は近代式の水銀
灯が煌々と輝き、明るく町の活気もありましたが、パラ
グワイ側は白熱灯の薄暗い街灯がぼんやりと見えている
だけで、ずいぶんと差がありました。
組合長が事務所を案内してくれ、移住地の説明と、今の
状態を教えて下さいました。
それが終わると、日本から学生実習生が来て視察に回っ
ていると教えてくれ、先日からブラジルから来た農大の
学生移住研究グループの一人が居るから紹介すると言う
事で、夕方入植地から帰って来ると言う事で、楽しみに
なりました。
彼は1年後輩で、大学3年生の時に1年休学して、南米
を視察に歩いていると言う事でした。
彼はその後、大学を卒業すると、アマゾン河の河口の町
べレムの郊外に農園を開いていました。
その夜は移住地の学童達が、ペドロ・ファン・カバリ
エーロ市内の学校に通学するので、寮の様な建物があり、
そこで寝泊りする様に組合長が教えてくれ、農大の視察
学生もそこに泊まっていましたので、彼から各地の状況
を聞けると楽しみにしていました。
移住地の子供が高校に行くようになると、市内にしか
学校がないので、入植地から出て来て、6名ほど共同で
泊まっていましたので、皆が日本語も話すので、いろん
な事を教えてくれました。
夕方になり農大の後輩が帰って来ましたが、彼も大学
で顔見知りであったので、驚き、抱き合って奇遇な
再会を喜んでいました。
彼にアマンバイ農協で会った事で、周りの状況が詳し
く直ぐに分かり、二人で状況判断と、これからの方針
を真剣に話していました。
これは彼が見て来たブラジル視察の対象とするべき
多くの農場や、市場も見てきているので、話は貴重で
した。
その夜、彼がブラジル側にアイスクリームを食べに連
れて行ってくれ、明るい町の広場で、日本人達が夜間
の市場を開いているのを見せてくれました。
入植地で栽培した野菜類と果物類が多く、見事な野菜
が沢山あり、ブラジル人達が買い物に来ていました。
コーヒーの苗木を育てている間に、現金収入で、野菜
類も栽培していると言う事でした。
アイスクリームを食べて夜市場も見て、帰りに国境を
超えてパラグワイ側に入ると、パラグワイの国境警備
兵が衛兵所から私達を見ていたので、彼が用心した
方が良いと言って、ポケットの金を隠していました。
しかし、若い兵士が声を掛けて来ました。
次回に続く、
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