2021年1月7日木曜日

私の還暦過去帳(737)

 移住の昔話、(47

翌朝、早く起きて全ての身支度を済ませると、近くのカフ

ェー屋に行きに、朝食を食べて帰ると移住事業団の職員

が来ていました。

2世の話す日本語で、今朝の予定を説明してくれましたが、

簡単で、手配していた小型トラックが来て、私の荷物を積

み込むと、そのトラックに係と同乗して駅まで行きました。

駅に到着すると、係が全部世話をして荷物をパラグワイま

で小荷物で汽車に積み込む様にしてくれ、その引き換え券

を私に渡して、私のバックサックを見て、「夜間の置き引

きの窃盗に注意して下さい」と言うと握手して、そこで係

は帰って行きました。

隈部氏と話が付いていたので、荷物受け渡しの窓口に立って

いたら、直ぐに隈部氏が来て、係が帰った様だと言って、先

程の荷物係に交渉に行き、直ぐに戻って来ると、係が私の

荷物の3個を台車に載せて戻って来ると、表の荷物積み込み

場まで運んでくれました。

隈部氏が小声て、「アルゼンチンは何でも少しの袖の下で上

手く動くと」と話していましたが、そこには隈部氏が手配した

駅から配達の小型トラックが待っていて、それに積み込むと

私達も乗り込み、直ぐに発車して、2男宅の洗濯屋に直行

しました。

車中で、隈部氏が、「汽車を来週にすると係に行って、少し

握らせたら、直ぐに納得して来週の日付に書き換えてくれた

ので、来週に、もし荷物を持ってパラグワイに行くとすれば

この伝票を見せればまた受け付けてくれる」と話していま

した。

全て隈部氏のアルゼンチンを知り尽くした行動には、感謝

して居ました。これで何も失くすことも無く、身軽で、旅

に出る事も出来て、荷物も安全に隈部氏の2男宅に置くこ

とが出来て、午後の汽車に乗車することが出来ると感じ

ていました。

汽車の出発まで時間が有ったので、ランチもご馳走になり

聞くと2男の奥さんは、パラグワイのフラム移住地から

来た方だと言う事で、びっくりしていました。

食事時間に奥さんが話してくれたのですが、パラグワイ

の市が狭く、パラグワイからブエノス港までの貨物船賃

とブエノス港から日本の横浜までの船賃と同じだと言う事

で、とてもパラグワイ国内で生産された輸出農産物が、

運賃的にも採算が合わないと教えてくれました。

パラグワイの首都アスンシオンまではブエノスから5千

トンの貨物船が遡上して航海出来るほどだと教えてくれ

ましたが、その当時はパラグワイには船舶も無く、殆ど

アルゼンチンの海運が占めていていると言う事でした。

汽車の時間になり、お礼を言って隈部氏と駅まで戻りま

したが、発車間際に、お礼を包んで渡そうとすると、こ

れは貴方の餞別だと言って隈部氏は私の手に押し戻して、

握手して「これから貴方がパラグワイを知ると言う事で、

人生がより良い選択が出来れば、私も満足だ」と言って

くれ、「いつか貴方もこれからの若い将来ある青年達に、

多くのチャンスを与えなさい」と言う言葉には、感激と

心にジーンと来るお言葉でした。

この言葉を終生、心に刻み、昔に移住された先輩達の

格言としています。

汽車はチャカリータ駅を出発してしばらく走ると、広大

なパンパの大草原の海原を航海する様に列車は走って行

きました。

バックサックは、荷台の棚に鎖で鍵をして縛り、売店で

買ったパンや、菓子やリンゴなどは座席の下に入れてい

ました。

列車は古いイギリス製の客車で、3等の椅子は板張りで、

満席の列車の乗客が、マテ茶を魔法瓶からお湯を入れて

ストローで飲んでいる姿にびっくりして見ていました。

行くけども、行けどもパンパの大草原は変化も無く、昔

は植林の森も無く、地平線に消える広大な牧場ばかりで

した。

次回に続く、



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