私の還暦過去帳(735)
移住の昔話、(45)
その夜、話し込んで遅くなりましたが、斎藤氏がチビリコイ
の佐藤氏も満州開拓団の出身者だと話して、自分と同じ満蒙
開拓団に居た事を話してくれました。
パラグワイには政府の移住政策で、終戦後に満州、朝鮮、南
洋からの総計250万人と言われる引揚者達の、余剰人口の
対策として計画移住として立案された要素があり、政府の外
郭団体として、戦後日本政府は海外移住を国策として、移民
移送に実務機関として、1954年1月に公益財団法人日本
海外協会連合が設立され、1963年7月に海外移住事業団
が設立され、計画的に海外からの引揚者や農村の余剰人口を
主に南米に移民として計画的に送り出していましたが、その
移住政策の根本的な誤りは、この団体に政府機関の天下り先
として、警察官僚が主に移住政策を操り始めると言う事にな
り、移住行政が誤った方向へ向かい始めたと言われています。
ドミニカ移民やパラグワイ移住もその影響が強く、多くの
移住者達が困窮して、土地を捨てて再移住して行った事を考
えると、移住の何かも分からない人間が、企画、立案して
移住者募集、送り出しまでしたことは、悲劇の下地があっ
たと感じます。
佐藤氏は満州のロシア国境近くに家族で入植して、終戦間際
に現地出征して、国境警備の部隊に配属され、ロシア軍が
機械化師団の戦車を先頭に雪崩を打って国境を越えて来た時
に、女子供と老人達の移住者達を入植地の国境から逃して、
避難させる為に、部隊が急造爆雷を背中に背負い、戦車に飛
込み、夜間、ロシア軍の野営地に夜襲の万歳突撃をされた方
でした。突撃前に全てのタバコや甘味品を部隊に配布して、
隊長を先頭に部隊全員で万歳を連呼してロシア軍の野営地に
夜間突撃して、手投弾の炸裂とロシア軍の自動小銃の交差す
る中で、生まれたばかりの赤子と妻を考えて、どうしても
最後まで突撃出来なく、命生き永らえて、翌日、夜が明け
て部隊の生き残りの兵士1名と満州の荒野を逃げていたが、
最後はロシア軍に包囲され投降して、シベリアに送られて、
強制労働を3年もして日本に帰還された人でした。
奥さんも赤子を抱いて、背中に荷物を背負い、開拓団の中
に守られて、やっと日本の東北に引き上げて来られて、苦
労してまた家族3人でパラグワイに移住されて来た経歴の
人でした。
私がパラグワイに入り、アマンバイ入植地を振り出しに、
各地を歩き、見て、話しを交わしていた時に、多くの満
州開拓団出身者が居ました。
皆が苦労話を聞かせて下さり、中には自分の農場に家族
で食べきれないほどの米の田圃を2町歩も開墾して開き、
バナナやパパイヤ、オレンジなどを家の周りに植え付け、
マンジョウカの芋畑もあり、養鶏場や、豚を10頭ばか
り飼育して、自分で自家製ハムやソーセイジも作り、自
家用の野菜畑には売るほどの量が栽培されていましたが、
「家族で食べるだけ以上はあるが、自給自足の生活だけ
で満足して居たら、将来の子供達の教育や独立する資金
などを考えたら、不安も残る」と話していました。
この事は、パラグワイやボリビア、ブラジルでも、日本
が高度成長を始めて、人手不足で、南米に移住した日本
人や日系人などを、日本に送り込む労働手配師が入り込む
ようになると、日本で3日間働けば、現地の1ヶ月の収入
になると言う事で、移住地の崩壊、過疎化、日本人会の
消滅、出稼ぎ先から戻らなく、家族の離散などの事態も
起きていました。
時代は刻々と変化して、人間は老いて行き、食料生産の
世界地図も大きく変化した時代を迎えると、移民事業も
崩壊して消えて行き、今ではエンカナシオンから、パラ
ナ河を渡り、ゴルフをしに、ベンツの車でアルゼンチン
のポサダ市に渡る日系人もいる時代になると、全てが過去
消えて、昔話になる移民事業の歴史です。
次回に続く、
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