私の還暦過去帳(733)
移住の昔話、(43)
昨日は隈部氏の4男の農場に行き、一日で多くの事を学び
ました。
貴方は異国に移住すると選択する時に、今は簡単に安易に
インターネットで多くの情報と、安易な誘いの甘言があ
ると私は感じますが、貴方はどの様に判断されますか・・?
貴方の判断能力の、その対象物となる物も無くて、安易な
誘いに乗り、洗脳されて、何とかなると言う思いで移住し
て、自分のこれまで蓄えた資金や、人生の貴重な時間まで
失い、果ては心まで傷付き、精神的な取返しもつかない事の
事態までなっている方を知っていますが、それも全て自己
責任です。
比較という対象物が有って、初めて自己批判も多角的批判も
出来て、これからの将来の指針の判断も出来ると感じます。
私は自分の将来を掛けて、今日はブエノス郊外の近郊農業
を隈部氏が案内してくれると言う事で、2男が洗濯屋を
チャカリータ駅近くで開いていると言う事で、駅前で待
ち合わせして、2男の店に顔を出して、荷物を預ける事
で話をしてから、日本人が多く営農しているモレーノに
行きました。
戦前の昔から、アバスト市場に近く、道も良いので日本人
の近郊花卉栽培、蔬菜栽培などの農場が沢山ありましたので、
私には良い見学となり、何よりも知ると言う事の大切な基本
を学んだと感じていました。
パラグワイから家族で出て来て、今は土地を探していた
七海氏もモレーノ日本人会の裏で土地を見つけたと聞いた
のでそれも見学する予定で、バス停から直ぐで日本人会館
裏で直ぐに分かり、見学させて頂きました。
七海氏の奥さんは日本で教職の仕事も経験があるので、日本
人会の日本語の先生の仕事も丁度あるようで、日本人会館
の管理も七海氏が請け負う事で上手く話が決まった様で
した。
七海氏は最初は日本に帰国するつもりでブエノスまで
出て来て、私と同じくブエノス近郊農業を視察して、大
きくパラグワイと比較してその差があり、自分の人生の
時間と、日本から持参してきた営農資金と、これからの
自分達家族の夢と希望を考えれば、七海氏が選択した事は
ブエノスに腰を据えて農場を開く事も、日本に帰国する
選択より、将来を考えて決めたと私は感じていました。
私の予測した将来を決める決定的は決断は、パラグワイ
のラ・コルメナの戦後開かれた、第2、ラ・コルメナ入植
地に農場を開かれた家族を訪ねた時に、そこの奥さんが、
「事前に、この土地と、入植するパラグワイを見に来て、
視察していたならば、私達は決して自分の人生を賭けて
この第2、ラ・コルメナ入植地には移住して来なかった。」
と言う言葉を聞いた時には、心に大きな衝撃がありました。
これも私が学生時代に、農村実習で各地を歩いて、自分の目で
確かめる習慣が有ったので、それと卒業前に1961年に開通
した知多半島の112kmの知多半島用水路が通り、名古屋や
関西方面の蔬菜や青果類の近郊栽培の開発が募集されていたので、
それまで知多半島は水源が無く、蔬菜栽培には不適格の地として
知られていましたが、私も開発に関わった教授からの勧めもあり、
下見を兼ねて視察に歩きまわりましたが、その時は入植者が温室
のビニールトンネル栽培を始めていましたが、昔からの地の人に
歩いていた時に聞いた所が、その当時、伊勢湾台風で大被害をこ
うむり壊滅的な農作物被害と人的被害も出ていたので、その人が
「温室があの小高い丘の上まで吹き飛ばされて全滅の被害が出た」
と教えてくれましたので、台風の通り道の知多半島は熟考して
取止めして、南米の広大な農地にあこがれて南米移住を決めて
いました。
私の同期生2名は、当時の八郎潟干拓入所募集で、応募して大規模
稲作を日本で初めて実行しましたが、今はすでに両名とも故人
となっています。
「自分の人生は、自分の意志と粘り強い精神力と洞察力が、健全な
人生の道筋を決める決定的な要素だ‥ 」という恩師の言葉を心に噛み
しめていました。
次回に続く、
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