2024年1月17日水曜日

私の還暦過去帳(788)

 私のトヨタ、ランドクルーザーの思い出。

私は60年昔に南米のパラグワイ国にアマンバイ農協の世話で単身移住した者で、その当時、ブラジルでは、トヨタのランクルを製造していましたが、農協で使用していた車もランクルでした。
町から移住地に行くのに、道が豪雨で流され、川床の路をランクルで走りましたが、川床のボコボコ悪路で、計器類は全部吹き飛んでいました。エンジンだけが調子よく、悪路を走ってくれましたが、訪ねた移住地の農家が『よく訪ねてくれたという事で、貴重な鳥の糞コーヒーを飲ませてくれました。』
広大なコーヒー園に住む鳥が熟れた一番良いコーヒーの実を食べて、巣の下に糞と捨てるので、これを丹念に拾い、手で炒り、手回しコーヒー挽で粉にして、泉の水で入れたコーヒーが生涯に幾多に飲んだコーヒーの中で忘れられない味でした。
アルゼンチンのミッショネス州を旅していた時に、雨で未舗装の赤土の道路が続く、ハルデーン・アメリカの町に近い所で小型乗り合いバスが悪路で停止していた時に、ジャングルの路から、ランクルがジーゼルエンジンを響かせて走って来ました。その時の感激は忘れません。
運転手はブラジル人で、ブラジル製のランクルで、メルセデス・ベンツのジーゼルエンジンを載せてあると言っていましたが、カスタム改造のキャブの空気取り入れ口は屋根の高さにしてあり、1mの水の深さでも走ると話していましたが、タイアにはチエーンを着けて、走り去って行きましたが、その当時、チリの陸軍もランクルを使用していました。

私がチリから、サンペドロ・デ・アタカマを経由して、アルゼンチンのフフイ州までアンデス山脈を越えてバスで越えて行きましたが、アルゼンチン国境の広大な入国検査場の駐車場にランクルが駐車していた時は、懐かしさと、この様な所でランクルに会うという事に、ジーンと胸をうつ物が有りました。
アフリカに旅をしていた時です、南アフリカでレンタカーを借りて、アフリカの波状地形のヨハネスブルグに行く道路の頂上ですれ違ったランクルを見て感激したことがあります。南アフリカの白人運転手が、『アフリカの道路には、これが一番信頼出来ると』聞いた時は誇りに感じました。
モザンビークの首都のマプトに行った時は、ポルトガル植民地軍とモザンビーク解放戦線の戦いの最中でしたが、ドイツのユニモグとランクルが使われていました。
当時、夜間外出禁止令で、夜の11時過ぎては警告無しで射殺されていた時代で、兵士が乗って巡回をしていたのを見ていました。私はアメリカに48年住んでいますが、これまでにトヨタの小型トラック、ハイラックスのタコマの4代目を乗っていますが、そろそろ累計は150万マイルで、ランクルは所持した事はありませんが、これまで運転した事があり、何も思い残す事はありません。

2023年12月11日月曜日

私の還暦過去帳(787)

 光陰矢のごとし・・、

高齢期シニアになり、月日が経つのが早く感じられ、過去の忘却の事

柄にふとー!思い出す事が在ります。

アメリカに家族で移住して来て、家族より早くアメリカに来て、住む

家や用意をしていたのですが、それも用意出来てワイフと子供3人を

サンフランススコ国際飛行場に迎えに行き、JALのファミリーサービス

の係りに付き添われて、出口から出て来た家族を昨日の様に思い出し

ます。

最初にオムツをしていた次男が、私を見つけると、『パアーパー!』と

声を出して、私に駆け寄る姿を今でも思い出します。

次男も今では50歳になり、月日の経つのが早いと、しみじみ感じます。

最初に購入した持ち家は、東京の家を売り、その金で、こちらに来て、

1週間で頼んでいた不動産屋が、車を運転出来ないワイフに考慮して、

学校も台所の窓から校庭が見える近さで、買い物も歩いて直ぐに、店

や郵便局、スーパーもあり、古い家でしたが、高台にあり、展望が良

く、何より敷地が広く、私の好きな菜園も出来て、GIローンを引き継

げる住宅ローンも、全部不動産税金も入れ格安の125ドルとの支払い

でした。

これが後々まで、私の人生に、利益をもたらしてくれ、銀行も私が持家

を持って居るので、直ぐにクレジットカードも融資も出してくれました

のが、今の生活の基礎になったと感じます。

今まで健康に、淡々とワイフと共にアメリカ生活を過ごして来ましたが

一度、家族が育って大きな家に引っ越しましたが、3年前にここに戻っ

て来ましたのです、それまではレントハウスにしていました。

最初の近所の住人は200mと短い道ですが、最初からの住人も1軒に

なり、次は私達家族が古い家族になりました。

今では若い家族が沢山住んでいますが、日々、季節の過ぎ去るのは同じ

で、「年々再々花同じけれ、再々年々人同じからず。」と言う言葉を

今では、しみじみ感じます。





2023年10月6日金曜日

私の還暦過去帳(786)

 移住の昔話, (10)

昔の写真から・・、
先日から書斎の整理をしていました。
すでにビジネス関係は、あらかた税金関係も書類の保存
義務も過ぎて、殆んど破棄してしまいました。
貴重な、すでに亡くなった友人などの手紙も 読み返して
記憶に納めて、それも破棄致しました。
中から出て来た写真は手元に留めていましたが、かたず
けの手を休めて秋の昼下がりのお茶の時間に、ぼんやり
と眺めていると、過去に消えた遠い昔の思い出が、
ふと・、思い出され、懐かしい顔も浮かんで来ました。

過去に流れ、二度と戻らない時の模様が灰色に染まり、
そこの僅かな隙間から、漏れ来る光のように、懐かしい
顔がまぶしく感じていました。
忘却からの長い時間を経て、昔の写真を見て思い出した
事は、時が止った60年も昔の光景でした。
時は流れても、記憶から蘇った光景は何か輝いて居る
感じでした。
昔の記憶から取り出した一枚の写真でしたが、私がパ
ラグワイからアルゼンチンに出て来て、将来を模索し
て人生の道を探していた短い間の事でした。
知人の紹介で働いていた所の園芸屋が、ブラジルに最
初に笠戸丸という移民船でブラジルに移民して、それ
から数年も経ずに、当時の第一次大戦の影響で好景気
のアルゼンチンにブラジルから転住して来た家族達で
したが、その当時、母親だけは生きていて、ご主人と
長女の婿はすでに亡くなっていましたが、男の子供達
5名も居て、それに次女の婿も働いていましたので、
かなりの大家族で店を支えていました。

その母親の苦労した話を聞かせて貰いましたが、ある
日、私が潅水をプラントにしながら、水加減を見てい
たら、母親が自分で育てて居るトマトの苗に水を与え
に来て、『見てご覧なさい、ゴマ粒ぐらいのトマトの
種が、私の背丈以上も伸びて、枝が折れるぐらいにト
マトが成るのは、苗を地面に植えて、肥料をやり、水
を与え、手入れをするからこのトマトを手にして食べ
られるのだから・・』と言って『貴方もこのアルゼン
チンに根を下ろしたら、このトマトのように自分を育
てる様に頑張りなさい・・』と励ましてくれました。

側の小屋を指差して、『この小屋は家族で建てたもの
だ・・』と教えてくれ、アメリカから輸入されるフォ
ード車の梱包枠木だったと話して、この小屋に家族が
寝起きして、今の基礎を築いたと話していました。
昼はそこにある昔からの粗末なテーブルでランチを食
べていましたが、食後に母親が木の下の、涼しい木陰
で子供達と家族がマテ茶のボンベを飲みまわして、寛
いでいる姿をジッと見詰める姿を思い出します。


いいね!
コメントする
シェア

2023年10月3日火曜日

私の還暦過去帳(785)

 移住の昔話(9)

国内移住も、海外移住も生活の糧が無ければ生きて活けませ
ん。
国内移住も、都会から田舎に移住して農業経営をする人は滅
多に居ませんが、早期引退で、都会の会社を退職して、自営
でパソコン1台でITビジネスを始める人も居ますが、私の知
人が早期引退で、子供も育ってしまい、親の長野県の故郷に
中古別荘を初めは借りて引っ越して、移住して様子を見るこ
とにしましたが、台風シーズンが来て、田舎道を塞いだ倒木
で買い物にも出ることが出来なく、停電があり、冷蔵庫の中
も腐り、インターネットも利用できなく、仕事が出来なく、

台風通過後の、かたつけの神社や公民館の掃除の勤労奉仕な
どの要請で落ち着いて仕事が集中できなく、奥さんと話して
東京郊外の駅近くにアパートに引っ越して戻った人を知って
いますが、海外のもマレーシアなども移住した方を知ってい
ますが、今は円安で帰国する人も聞きます。私の知人は台湾
に引退先を選びましたが、格安航空券もあり、ワンベッドの
コンドを日本にも持って、自由に行き来して楽しんで居る様
です。
タイやマレーシアは昔は人気の移住先でした。
今では裕福層の引退先と変化していると感じます。
1. マレーシアが移住先と選ばれる10の理由
 
 1. インフラが整っている
  2. 物価が安い
  3. MM2Hという長期滞在ビザ
  4. 英語が通じる
  5. 常夏である
  6. 親日国である
  7. 魅力的な住環境
  8. 東南アジア諸国へのアクセスが良い
  9. 治安が比較的に良い
       10. 食事が日本人に合う

 

2.  マレーシア移住のデメリット
  1. 日本からそこそこ遠い
  2. 狭い日本人社会
  3. 四季がない
  4. 日本食とお酒、車が高い
  5. 病気になるといろいろ面倒
  6. 日本と比べてエンタメが少ない
      7. 日本よりも悪い治安
所変われば、全てが変わり、老人、若い男女も同じ環境
にハマり生きて行かなければなりません。
どこに住む事になるとも身体的、精神的、社会的に健康
でなくては生きて行く事は難しい事です。

2023年9月22日金曜日

私の還暦過去帳(784)

 移住の昔話(8)

花嫁移住の歴史はもう既に百年の歴史が在ります。 
長い歴史的な中には、色々な物語を秘めていますが、
今日は、先日に聞いたお話をしたいと思います。
わたしの近所のハワイ出身で、奥さんが2世、ご主
人が3世のご夫婦ですが共に85歳を過ぎています。
ご主人のおばあちゃんは104歳でハワイで亡くな
るまで、生涯で二度結婚して、最初のご主人とは、
11人の子供を作り、最初のご主人を若くして亡く
すと、再婚して6人の子供を産んだと言うことでし
た。
写真結婚で若くしてハワイに移民して来て、生涯で
17人の子供を産み104歳で亡くなるまで、ハワ
イ州知事の老人ホームへの訪問もあったと言う長寿
でした。
亡くなるまで、ボケもせずに記憶は確かで、好きな
コカコラーを飲むのが楽しみだったと聞きました。
孫が施設を訪問しても、その孫を覚えていたという
事で、世話をしていた娘が驚いていたと言うことで
した。
長いハワイ日系人の歴史の中でも、ずば抜けて大き
なファミリーの家系を持っていると話していました
が、百年の長き歴史が今では6世を数える家系の広
がりで、全米に今では住んでいると話していました。

百年もの昔、花嫁移民でハワイに来た女性の気丈さ
と忍耐力、生活力の偉大さを感じます、子沢山でも
昔は洗濯などは全部手洗いの、オムツなども使い捨
てなどは全く無い時代に、砂糖キビ農場で働いてい
た夫婦を思うと、現在の電化、機械化された台所な
全く無かった時代を生き抜いてきた女性の、素晴
らしき人生のこれまでの生き様を感じます。
私が57年前に会った女性も、アルゼンチンへの花
嫁移住の方でした。ご主人は戦前の昔に貨物船のコ
ックをしてい時代に、ブラジルのサントス港で、刺
身包丁一本を腰に差して、オンサの出没するサント
ス街道を歩いてサンパウロまで行ったと聞きました。

アルゼンチンで落ち着て事業を始めて当時の日本人
が多く就労していたカフェー屋を、ポサダの町で成
功して奥さんを日本から呼び寄せて家庭を築いたそ
うですが、戦争中の日本人の活動制限やカフェー屋
を火事でなくして、1964年頃は息子の家の離れ
生活していましたが、奥さんは75歳近くでご主
人を亡くすと、日本に居る妹達が帰国を進めてくれ、
長く住み慣れたアルゼンチンのポサダの町を離れる
時に、近所の世話になった洗濯屋の奥さんに、ご主
人が結婚式で呉れた結婚指輪を形見として残して行
たと見せて貰った覚えが有ります。
擦り切れて細くなった金のリングは、その結婚の長
き歴史を物語っている感じで、ポサダで骨を埋めた
ご主人が、『お前は日本で老後を過ごせ』と言って
いたそうですが、全ての過去の物語をその結婚指輪
が物語っている感じで、手にとって見せて貰うと何
『グッー!』と心感じるものが、こみ上げてきた
覚えが有ります。
そして日本に帰国する日の別れに『私は夫が亡くな
るまで、妻として尽くしたから思い残す事は無い、
良い時もあり、悲しい事も有り、嬉しかった事も有
る。全ての思い出はこの結婚指輪に込められている
から、私のあと僅かな人生を全く新しい門出として、
ここを出て行くから、これを貰ってくれ』と形見と
して置いて行ったと言う事です。
それぞれの人生が、それぞれの物語を秘めていると
思います。



すべてのリアクション