2020年12月30日水曜日

私の還暦過去帳(731)

 移住の昔話、(41)

今日は隈部氏の4男の農場まで、自分一人で訪ねる事にし

ていました。

国道24号線のへネラル・ロドリゲスの町に近い所に農園

がありましたが、その当時は牧場と農場が多くあり、蔬菜

花卉の近郊栽培農家の日本人が多く居ました。

隈部氏からバスの番号と降りる停留所の名前を紙に書いて

貰っていたので一人で日本人会宿泊所からレテーロの停

車場から電車で行きましたが、降りてバス停が分からない

時は、駅前の洗濯屋に聞けば教えてくれると言う事を聞い

ていたので気が楽でした。

初めての郊外に行く電車に一人で乗車しましたが、日本と

違って物売が来て、ギターの音楽を演奏して金銭を貰

う人、ジプシーの様な人の物乞いも居ました。

ホセ・C・パスの電車の駅前に、洗濯屋があり、チントレリ

ア・東京と日本語の名前の洗濯屋で、バス停を聞くと、店の

斜め前に停車すると言う事で、バスは40分程度の間隔で来

るので、待っていなさいと言う事で、ご主人が大型のプレ

ス・アイロンを掛けているのを見ていました。

ご主人が「奇麗な日本語を話すので、貴方は花卉実習生で

日本から来たか・・」と聞いたので、隈部氏を訪ねて行

くと言うと、「あの人は家族で昔にパラグワイから来た

人だ」と言っていたので、私はこれからパラグワイに単身

移住する者だと言うと、内にもパラグワイから転住して来

た若者が見習いで働いて居る」と言うと、奥の方に、声を

掛けて、若者を呼んでいました。

彼は戦後の移住者で家族でアルゼンチンに再移住してきて、

家族は花卉栽培をしているが、私は3男で、温室仕事が嫌

いなので、家を出て今は住み込みで、ここで働いて居ると

話していましたが、フラム移住地からの出身だと言う事で

したが、仕事を覚えたら結婚して独立したいと言う事を

話していました。

私がアマンバイの農協に行くと言うと、彼はジョンソン耕

地の入植者を知っていると話して、彼等はアフリカ丸で日

本から移住して来て、サントス港下船で、4日ばかりも掛

けて薪を炊いて走る機関車でサントスから入植地に来た人

達だ」と教えてくれました。

バスが来るまで少し話し込んでいましたが、別れ際に、パ

ラグワイでコーヒーは霜が降りるので無理だと話して、ジョ

ンソン耕地のコーヒー農園も大霜にやられて殆ど成木が枯れ

て、一度破産した状態だったと説明してくれました。

バスが来たので、そこで会話が終わりましたが、バスの中で

下車するまでその話を考えていました。

隈部氏の4男の農場のバス停は、24号線国道のKm標識が

バス停になっていて、運転手が指さして、この先に日本人が

沢山住んでいると教えてくれましたので、直ぐに農場が分か

り、隈部氏ご夫妻が迎えてくれました。

息子さんの奥さんは日本の郷里、熊本から呼び寄せで、アル

ゼンチンに移住して来た方でしたが、すでに2児の母親で、

郷里熊本は周りが全部山ばかりで、ここは2時間車で走って

もパンパンの草原だと笑っていました。

郊外に出ると地平線に一直線の道路が消えて、アルゼンチン

広大さが肌で感じる様で、昔は植林の林の森も無く、広大

なパンパの草原がルハンを過ぎれば広がっていました。

ランチをご馳走になり、車で近所の日系農家の農場を見学

に歩き、その豊かさと、規模の大きさに驚いていました。

帰りは車で降りた駅前まで送って頂きましたが、隈部氏が、

「パラグワイと比較して、ここでは原始林伐採から始めな

くても良く、井戸を掘れば良質な地下水が得られ、四季の

変化があり、気候も恵まれて居る」と隈部氏が話した事が、

いつまでも頭に残って居ました。

その夜、拓大の南米視察の学生達、3名と夕食を食べまし

たが、ブラジルのアマゾンで護身用に買った拳銃を売りた

いと見せられましたが、日本には持ち帰れないので、これ

からパラグワイに移住して行くのであれば買って下さいと

言われて、小型で扱い安く、22口径の弾がどこでも買え

るので、安い値段に引かれて買い取りましたが、その拳銃

は私が南米滞在の間は私の護身用として私と共に身近にあ

りました。

次回に続く、





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