2020年12月21日月曜日

私の還暦過去帳(721)

 移住の昔話、(31)

サントスは賑やかな港で、かなりの船舶がで出入りしてい

るのが分かり、港の近くにはコーヒー問屋が並んで、港に

寄港する船にコーヒー豆を卸して、船員にも無税で2kg

までのパックを店頭に積んで売っていました。

1回に2kgですから、船に出入りするたびに包みを抱え

税関ゲートを船員達が無税のスタンプを押して貰い通過

していました。

昨夜、彼女が話していた店に見にきました。

入港する船があるたびに、その当時は多くの船員がコーヒー

を母国に持ち帰り、アルバイトをしていて、日本船の船員

も買い込んでいました。

彼女は私を見つけると、手招きしてサンプルのコーヒーを

飲んで下さいと勧めてくれ、愛想の良い店頭ガールでした。

コーヒー豆を売った歩合も貰えると言う事を聞いていまし

たが、オーナーはユダヤ系でファミリーでアメリカのNY

にも店があると話していました。コーヒー豆の取引が、

世界規模で動いていることを、サントス港で知りましたが、

彼女が取引は電話1本で取引され、この世界では嘘を言っ

たり、ごまかしたりすれば、即に、この取引の世界から

弾き出さて、2度とコーヒー豆の取引が出来なくなると

言う事を教えてくれました。

昼のランチタイムになり、店のマークが入ったエプロンを

外して昨夜、美味しいビーフが食べられる店があると言って

居た店に食べに行きましたが、野外で肉を焼いて、焼けた肉

を切り、皿に入れてくれるブラジル焼き肉のシュラスコ

でした。

生まれて初めてのブラジルのシュラスコ焼き肉で、彼女が

食べ方を教えてくれましたが、その当時の日本ではステーキ

などは庶民では高い食べ物でしたので、それと船での3等食

には豚カツは出てもステーキなどは1度も出ませんでした。

昨夜に出会った彼女ですが、前から付き合っていた様に心が

通じ、快活で愛想がよく、私が日本人と言う初めてブラジル

寄港した船客だと言う違和感が全くありませんでした。

彼女が話していたのですが、サンパウロには日本人が多く、

学校でも日本人と席を並べて勉強したので、彼女もまった

違和感が無い様で、彼女も日系ブラジル人は正直で、清潔

好きで、勤勉で働き者だという事を言っていましたが、彼

女の友達には日系ブラジル人と結婚して居る同級生が居る

言う事を教えてくれました。

それだけ人種的な偏見も少なく、サントスの町で日系と感

じる男性とブラジル人女性が子供を連れて歩いている姿を

見ていたので、1960年代のアメリカと大きな違いがあ

ると感じていました。

ランチ時間も終わり、彼女から今夜も昨夜会ったバール

か、私のアパートに来て、それから今夜は二人で過ごそう

誘って来ました。

昨夜、酔って彼女と覚えたばかりのサンバを踊った事も思い

出していましたが、彼女とコーヒー問屋の店に帰るときに

彼女がマリアと呼んでと話てくれ、貴方は私のサンパウロの

学校代の同期の日本人によく似ていて、好きだった人に似

いると話してくれました。

分かれる時にブラジャーの隠しからライターを取り出して、

パチンと点けて、大きく手を挙げていました。

その夜はサントスも直ぐにお別れになるので、マリアに一人

で会いに行くことを決めていました。

次回に続く、




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