私の還暦過去帳(720)
移住の昔話、(30)
サントス港もあと1日を残すほどになり、アルゼンチン到着
も目の前に来ていました。
その朝、起きて昨夜の友達と別れてからの話を聞きましたが、
彼等はバイーア州から来た彼女のバールに行き、飲んで遊ん
で居たようですが、ブエノスの花卉実習生で行くハンサムな
彼と彼女が意気投合して、彼女の所に泊まって来た様でした。
彼はそれだけしか言わずに部屋に戻って行きましたが、何か
事情がある感じでした。
私にパラグワイ移住者で、その後に家族でアルゼンチンに
再移住してきた、隈部氏がブエノス港でストライキが起き、
貨物も乗客も荷役も拒否されているようだと、教えてくれま
した。
隈部氏は後僅かでブエノス到着となるので、パラグワイの
心構えの用意に過去に起きた日本人が巻き込まれた事件
の粗筋を聞かせてくれましたが、それがブエノスに上陸
して心引き締める言葉になりましたが、今でも感謝して
います。
隈部氏夫妻はペルー時代から入れるとパラグワイに1936
年に最初に入植してから、アルゼンチン時代まで入れると、
南米に40年以上も住んでいて、言葉も分かり、政治情勢
の判断も正確に掴んで居る人でしたので、私がパラグワイに
移住すると言う事で目を掛けて頂きましたが、その朝、朝食
が終わると、甲板のデッキで初期にパラグワイの移住地で
起きた事件を淡々と話してくれました。
その一つは、隈部氏がラ・コルメナ移住地に住んでいた時に
起きた「青木家の惨劇」と言われる事件で、家族が両親と
長男と長女が強盗に襲われ、一度に4名も亡くなると言う事
件で、その現場に最初に駆け付けた目撃者だと言う事でした。
16歳ぐらいの次女が幼い弟達2名を連れて、近所に助けを
求めて逃れたと言う事でしたが、青木家は徳農家で、小さな
店も開いていた様で、複数の強盗が襲い、拳銃と刃物で4人
を殺害して金、物品を奪い逃げたと言う事でした。
隈部氏は若い青年が刃物で刺し殺された事も話してくれ、ま
だ日本の治安と比べると比較にならない遅れた所があると教
えてくれ、絶対に日本の様な考えと心構えでは惨事に巻き込
まれると諭してくれました。
特に私が行くアマンバイ農協はまだ始まったばかりの移住地
で、特にコーヒー栽培では大霜が降りると、全ての努力がひ
と晩で消えてしまい、日本から持って来た資金も、長きに働
いた時間も家族の生活も破綻することがあると言う事を聞か
せてくれ、アマンバイ農協の日本人達は最初にジョンソン
耕地に入植してコーヒー農園で働いた人達だと言う事でし
たが、そのジョンソン耕地の農園も前に大霜で大きな被害
を受けて、日本人達が独立して、移住事業団の融資と援助を
受けて農地を開いて、アマンバイ農協を設立して、コーヒー
と大豆栽培と、現金収入に養鶏を始めて居ると言う説明を
詳しくしてくれました。
ブエノス到着で乗船して居た方々と別れて、自分自身の力と
努力と才覚で生きて行かなければ成らないことを考えると、
良い貴重な隈部氏の言葉でした。
その朝は隈部氏の貴重な話を聞いて、直ぐに一人で南米で生
きて行かなければ成らない自分を考えて、身が引き締まる感
じでした。
次回に続く、
0 件のコメント:
コメントを投稿
登録 コメントの投稿 [Atom]
<< ホーム