私の還暦過去帳(712)
移住の昔話、(22)
移住船のアフリカ丸はリオ停泊も明日限りと言う時になり、
サントス下船の移住者達とお別れのささやかなパーテイを
開いて、これまでの狭い船内の付き合いでの仲を温めてい
ました。
移住先の住所を交換する者、必ず訪ねて行くと約束する人、
サントスに到着したら手紙を日本に送ると言う事で、手紙を
書いている人、お土産を整理して包みなおして、今まで買っ
たお土産物を入れている人、組み立て式ベッドの狭い空
間はサントス下船者達で混雑していましたが、ブエノス
下船者が集まる部屋は、静かで常夜灯の船内灯がポツン
と光り、他の部屋に出払っていました。
ブラジルからの祖国訪問者達もサントス下船となり、これ
までの長い航海の間によく話しを聞きに行き、学び、教え
られた事が沢山ありましたが、それもサントス港で区切り
となり、中には「これで人生の心残りも無くなり、帰った
ら終末の用意を始める」と言う人も居ました。
奥さんに先立たれて、そのお骨を日本に分骨に持って行き
里帰りした人は肩の荷が下りたと言う人も居ました。
沖縄県人でよく話をしていた人が、現地人のブラジル人の
ワイフに先立たれ、家族が神戸に居るので最後の別れに日本
を訪ねて行き、リオで現地人のワイフの若い頃に似た女性が
居たので、半日粘って話して来たと言う人も居ました。
皆がそれぞれの物語を秘めてアフリカ丸に乗船して居ました
が、アフリカ丸は過去にドミニカ移住者を乗船させ、サント
ドミンゴまで行き寄港していますが、その後、ドミニカ移住
は悲劇の移民事業だと言われ、多くの移住者が亡くなって
います。
1974年には政府の計画的な移民政策も終わり、その後は
技術移民や呼び寄せ移住者などが主になり、逆に日本の高度
成長で、人出不足の対策に、南米の戦前、戦後に移住した人
達を対象に就職斡旋業者が南米各地を回り、日本に送り込ん
で、移住地や日本人社会の崩壊や過疎減少になりましたが、
時代の変遷は止めようがなく、戦後の満州や朝鮮、南方方面
からの引揚者達を送り込んだ南米移民事業も1960年代が
最盛期でした。
パラグワイに移住した人の中には満州からの引揚者達が多く
居ましたが、私がパラグワイに移住して、その人たちから多く
の話を聞きましたがその話は後程致します。
アフリカ丸がリオ出航間際に、リオから乗船した年配の日本人
夫婦者が居ましたが、船員さんが教えてくれたのですが、日本
船の担ぎ屋だと言う事でした。
サントス港は日本人には税関検査が緩やかで、特に移住者は、ほ
とんど免税でブラジルに持ち込めるので、船内免税品の日本の
酒やタバコ、缶詰、日本から委託荷物で地下足袋、日本製蚊帳
などを船客荷物としてサントスで持ち込み、サンパウロの日本町
で販売すると言う事でした。
よく考えたものだと感心致しましたが、これはかなり前から実行
されていると言う事でした。
アフリカ丸の看護婦さんはサンパウロに親戚が居ると言う事で、
親戚に滞在日数を増やす目的で、リオから夜間急行バスでサンパ
ウロに直接行くと言う事で下船して行きました。
アフリカ丸はリオを午後に出航して翌日の朝にサントス港に到着
予定で出航して行きました。沖合からポンデ・アスーカルの山が
波間に消える頃に、私がまたリオには再び来ると心に誓っていま
した。
次回に続く、
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