私の還暦過去帳(711)
移住の昔話、(21)
リオの雰囲気がアメリカのロサンゼルスと反対に我々に何か
親しみがある感じでした。
アメリカは1960年代は世界で一番裕福な国で、穀物生産
や資源の埋蔵量、他国に影響力もありアメリカの企業が南米
の政権や政治に影響力を持っていた時代ですから、日本に育
って、生活して、ブラジルと比較検証すると、何かここで生
活するレベルも違和感がない感じでした。
何よりも長きに日本人移住者の努力と勤勉さをブラジル人が
認めて、リオも日本人の野菜栽培農家が居て、市場での影響
力が大きく、大きなインパクトが市民にあったと感じます。
バーに飲みに行き、若い女の子から酔って日本人の子供を欲
しいと絡まれたこともあり、片言のスペイン語とポルトガル
語で聞くと、郊外で日本人の農家が地道に努力して野菜栽培
農家広げて行くのを見て知っていたからだと思います。
私がパラグワイに農業技師として移住して行くと言うと、自
分も付いて行きたいと言っていましたが、自分は貧しい農家
出身だと話していました。
リオをアフリカ丸が出航すると、1日でサントス港到着にな
りますので、サントス港上陸の準備を始めるブラジル移住者
が多く居ました。
我々は、ブエノス下船で、アルゼンチン、パラグワイ、ボリ
ビアなどの移住者でしたが、中にはブラジルのサントス港で
の入国は当時、トラコーマの眼病がある移住者は拒否されて
帰国されていたので、治療して疑似トラコーマでも用心して
パラグワイの国境のブラジル、マットグロス州から入国して
いました。
荷物はサントス港で降ろし、本人だけが大回りして千kmも迂
回してブラジルに入国していました。そこでは簡単に日本人
は国境を通過でき、眼病の検査も無かったからでした。
その方たちはブエノスからは飛行機で飛んでいたようです。
サントス港下船の移住者達はリオ観光も早めに切り上げて、
準備を始める人が多く、我々だけがのんびりと観光に歩い
て、夜も波止場近くの歓楽街で遊んでいました。
リオ停泊のイタリア船やオランダ船は当時は別称、密輸船
と言われるぐらい酷い状態で、特にオランダ船は香港で募
集された中国人の船員達ばかりで上級船員達は、途中の南
アフリカのケープタウンの町に家族を住まわせ、船は横浜と
ブエノス港を往復していました。
中国人船員達は給料が安く、内職に励んで居た様ですが、
イタリア船も同じく安い給料で働く近隣諸国からの雇われ
船員達が密輸の内職をしていたと感じます。
私はアルゼンチンから日本に帰国する時はオランダ船の
ルイス号で帰国しましたが、同じリオの税関のゲートを通
過していた思い出の出来事を今でも忘れません。
アフリカ丸の時は日本人船客だけで密輸などは無縁でしたが
同じゲートでもゲート警備の衛兵が私を中国人と間違えて
呼び止めました。
当時のオランダ船の貨客船は高級船員以外は殆どが中国人でした。
日本人乗客に為に日本人コックが一人乗っていました。
それから、事務長は戦前の日本陸軍の士官学校を卒業している
人でしたので、日本語はベラベラでした。
船から降りる時、中国人船員が何か騒いでいます、出口のゲート
が厳しくなって船員手帳のみでは、身体検査で徹底的に調べられ
ると話していました。彼等の内職がこれでは出来ません。
彼等の内職の一番は時計の密輸です、小さくて金になる品物です
当時、日本製のセイコー時計が殆どで、1966年当時の金で
12000円ぐらいの時計が売れていました。
私が船を下りてゲートに行くと、パスポートを提示して通過し
ようとすると、水兵の制服を着た衛兵が止まれと言いました。
私が東洋人で、中国人と勘違いしたと思いました。
若い水兵です、下手な英語で『服装検査するーー!』と言いまし
て、衛兵の小屋に呼び込まれ、『何か隠していないかーー?』と
聞いて来ました。若い水兵の傲慢な態度に『カチーン~!』と来
ていました。
しっこく『何か密輸品を隠していないかーー?』と聞いて来ます、
私はからかって『大型ピストルを所持している』と答えました。
その途端に肩に掛けていた小銃を構えると『隊長殿ーーー!』と
大声で隣りの事務所を呼んでいます、近所に居た仲間の水兵も
銃を構えて私を囲んでしまいました。
私は『チョイーー!まずい事になった』と考えていました。
ハンサムな若い将校が来ると、何事かと聞いています。
若い水兵は『彼が大型ピストルを所持していると白状しました』
と報告して得意な顔で私を見ました。
将校が私の前に来ると、上手な英語で、『ピストルを出して見せ
て下さい』と丁寧な言葉で聞いて来ました。
私は『ズボンから取り出しては見せられないーー!』と答えて
ニヤリ~!として笑っていました。
将校は私がズボンのベルトを緩めて、上のボタンを外して『ここに
入れている』と言うと、ひょいと覗き込み、ニタリ~!と笑うと
『デカイ大型ピストルであるーー!』と言うと、若い衛兵の首を
掴むと『見てみろ~!あれもピストルと言うーー!』とギユー!
と若い衛兵の首をズボンの前に差し出して、見せ付けました。
そしておもむろに私のパスポートを見ると『あのピストルの事を
日本語ではなんと言うーー!』聞きました。
私は『ちんぽこ~!』と言うと教えました。
それからが大変でした。若い将校はパット姿勢を正すと、おもむ
ろに『大型チンポコ殿に敬礼ーー!』と衛兵に命じました。
四人ぐらい居た衛兵が一斉に、小銃を捧げ筒の構えで並んでいま
して、私はどぎまぎして慌てていました。
将校は敬礼して、パスポートを返してくれ、『ニタリ~!』と
笑うと『どうぞ通過して下さいー!』と声を掛けてくれました。
ドーッと衛兵の水兵達がどよめいて笑い、それからは必ず私が
通過する時は、衛兵が『大型チンポコ殿に敬礼ーー!』とやり
笑っていました。
しかし、他の通行人は若い日本人に、衛兵が小銃の捧げ筒の礼で
通過させるので、目を丸くして驚いていました。それも何の検査
無しでしたから、しかし直ぐに日本人コックから話しが来て、
『一度に2個までは時計は船から合法で持ち出せる』と有り、
早速に中国人船員が頼みに来ました。
『降りる度に2個ずつ持って降りてくれ~!』です、そして
『貴方だけは大丈夫ーー!』と笑っていました。
港のゲートを出て、タクシーに乗り近所を一周して来て、時計を
運転手に渡すと、当時の金で20ドル貰えました。
合法的な船から時計の持ち出しです、私も余禄の金を握り、中国
人船員はホットして、衛兵は私が通過するたびに大喜びで
『敬礼』と叫んでは大声で、『大型チンポコ殿に敬礼ーー!』
と、はしゃいでいました。
私のブラブラしている物で、皆が八方、にこやかに納まったのに
は、私も当時驚いていました。
次回に続く、
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