2020年12月1日火曜日

私の還暦過去帳(701)

 移住の昔話 (11)

移民船アフリカ丸も半部の航海になり、パナマ運河を通過する事になり

ましたが、皆が興味があり甲板で見物していました。

船はパナマ市を見ながらアメリカ橋を抜けて、運河の地峡に入って行

きますが、幅の広い運河の通路では船は2隻が交互に通過できますが、

水路に入ると1隻だけで水門のゲートは川崎重工の電気機関車が船を曳

いて水路を通過します。

このパナマ運河に日本人の技師が工事に参加していた事を聞き、驚き

ましたが、青木あきら氏という技師で、1914年に工事が完成すると

日本に帰国して内務省の技官となり、荒川放水路や、信濃河水路工事な

どを完成させています。

工事には多くの中国人労務者も働いて完成させたと言う事ですが、大西

洋に出るコロン港の商店には多くの中国人の店がありましたが、その

末裔だと言う事でした。

移住者の中には戦前のパナマ運河を通過した経験がある人もいました

が、景色が随分と変化していると聞きました。移住者の里帰りでパナマ

経由で帰国されて見覚えがあると感じていました。

運河は幾多の改修工事をして、深く浚渫され難工事の地峡の狭い谷間も

今では拡張されセメントの護岸が築かれています。

皆で地峡の難工事現場を通過する時に幾多の工事犠牲者の慰霊碑も見え

冥福を祈りました。

船員さんは今夜の風呂は真水だと教えてくれましたが、途中のガトウン

湖は淡水でパナマ市の飲料水にも使われているという事でした。

その夜、風呂の水は真水で久しぶりに海水から解放され、ゆっくりと

湯舟に浸かった感じでした。

80kmほどの長さの運河も移住者達は飽きもせず見物していましたが、

何も見ることもない海原からしたら運河通行の経験は貴重でした。

早朝から運河に入り、コロンの港に停泊するのは夜になりましたが、

ランチ時間も惜しくて、見物に皆と熱中していました。

船員さんの中には戦前は海軍の軍属で働いていた方も居て、パナマ運河

を終戦間際に日本軍が攻撃する計画で、潜水空母で、飛行機を3機も

搭載できる大型潜水艦を2隻もパナマ運河攻撃に行き、終戦で中止とな

りその潜水艦はアメリカに押収され、ハワイ沖で魚雷で撃沈されたと聞

きました。

その様な話を聞くと、パナマ運河も身近なものになり、運河のその当時

の管理はアメリカ政府の管理で、奇麗な運河施設の青い芝生と椰子の木

の光景の中に星条旗が風で揺れているのを見た印象は今でも忘れません。

移住者を堪能させた光景も、夕暮れになりガトウン湖を出て大西洋に出

る水路に船が入ると、その夜は大西洋出口のコロン港停泊で皆がウキウ

キしていました。





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