2020年11月26日木曜日

私の還暦過去帳(695)

 移住の昔話, ( 5)

移民船アフリカ丸にはマドンナ的な素敵な女性も居ました。
彼女は1960年当時では、オールドミスとか、日本の田舎では
行かず後家さんとか言っていました。
1960年代では20歳過ぎれば嫁に行くのが普通で、23・4歳になれば、田舎では家族が心配して、走り回る事も普通でした。彼女はその当時のブラジルのサンパウロにある、東京銀行サンパウロ支店に現地採用で就職して乗船していた人ですが、30歳を少し過ぎていましたが、日本的な美人でロサンゼルスでも、行く先々の港で下船して見物に皆と行くと、必ず白人達が注目して見ていました。
ダイアナ王妃が被っていた様な、日除けの鍔広の白い帽子を被り、夏のレースのツーピースを着て、ハイヒールの靴で歩いていると、ロスでは白人の年配の女性から、どこで素敵な帽子を購入したか聞かれていました。
彼女は銀行の事務職を長く働いていたので、人当たりも良く、上品な感じが誰にでも感じることから、誰ともなく「移民船アフリカ丸のマドンナ」と言われていました。彼女は英語も上手で、かなりポルトガル語も勉強していました。
私達はまだ若く、田舎カツぺーの学生上がりで、彼女など眩しい感じの人でしたが、移住を決意したのが失婚の痛手から逃れて、新天地を求めてブラジルを決意した様です。
皆であの彼女が独身で、ブラジルに職を見つけて移住する決意を良く決めたと感心していました。彼女はお琴も、日本舞踊も嗜む日本的な女性でした。
後日談ですが、アルゼンチンのブエノスアイレスで当時の日本毛織工場に働いていた同船の友達が彼女からの手紙で、彼女はサンパウロの銀行で1年もしない内に、銀行に働いている日系2世の男性に猛烈に求婚をされて、それと親達にも気に入られて農場を開いている家族達からも、家まで用意されて結婚したと聞いています。
マドンナ的な女性と対照的な女性も居ましたが、ブラジルから日本に勉強に行き、柔道を習い、段も所持しているような日系2世の女性で、肉とパンで育ったからだと思いますが、ボインの大きな体格の女性で、ブラジルに帰ったら警官になると話していました。
移住者でも写真結婚の花嫁移民者や、恋人と結婚してブラジルに待っているハズバンドの所に行く女性や、ブラジルに農場を持つ村の幼馴染から、「日本で農家の主婦を選ぶのだったら、人生一回限りの命だから、ブラジルに来て新天地で広大な畑で、トラックターを運転して農業を一緒にしよう」と誘われ結婚してブラジルに移民する若い女性も居ました。
中には中学卒業と同時に、近隣から集団就職で電機会社に就職してベルトコンベアー作業で嫌気をさして村に帰っていた時に、遠い親戚から紹介されて結婚して移住する女性も居ました。
その様な花嫁移住者は皆が意志もハッキリした目的をもってブラジルに渡る人達でしたが、写真結婚の都会出身で、サンパウロなどでビジネスを開いている人に嫁ぐ女性は何かスレた感じの印象があり、後でサントスに到着する前に問題を起こして船内で親しくなり、情を交わした男と、リオで下船して行くのを見ました。
狭い船内でも人生模様の凝縮した社会があり、出航2カ月前に結婚して来た若夫婦には、時間が余るほど有り、3食昼寝付きの長旅で、何も家事、労働もすることも無く一日、甲板の陰でべったりと夫婦仲良くしているのには、若い連中には刺激が強すぎる感じでした。
船は夜間も3時間おきに見回りが24時間、船内隅々まで安全監視で歩いているので、船員さんが昨夜は夜中の2時過ぎに見回りで甲板の陰で若夫婦と出会い、彼女のXXXが足の下にずり落ちていたとか言っていました。



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