2020年11月26日木曜日

私の還暦過去帳(694)

移住の昔話, ( 4)
航海もしばらくすると、乗船者の凝縮された中身が分かって来ました。移住者が大多数を占めて、次はアメリカに行く乗船者たちでした。
アメリカに留学する人や、大学に研究に行く人、戦後にアメリカのGIと結婚した女性達や家族連れの日本への里帰り、郷里の家族の病気見舞いや、祝い事に出席するための里帰りでした。
ロスに到着したら、家族でアリゾナ州までバスで帰るという家族も居ましたが、ロスに到着したらご主人が波止場まで出迎えている人が多い感じでした。一人だけ混血の身体の大きな中学生ぐらいの子供が一人で日本からの帰りで、乗船していましたが、両親が離婚して日本に帰国した母親を訪ねての帰りだそうでした。
アメリカ人と結婚した女性が教えてくれましたが、その女性は手芸の編み物を、いつも物静かにしている女性で、今でも印象に残っています。
中には柔道を教授に行く人も居て、甲板で護身術などを教えていましたが、結構人気がありました。
1週間もすると、船内もグループが出来 てまとまり、行事を企画して楽しむ人もいました。将棋、囲碁、トランプなど、花札もありました。中には移住者で茶道をたしなむ人も居て、お茶菓子などを持ち寄り、お茶を楽しんでいるグループもいました。
少し船が揺れると、食堂に出てくる人が減り、時には空席が目立つ日もあり、船酔いに強い人達は平気で食べているので、余ったおかずなどは、二人分も食べている人も居ました。
3時にはお茶が出て、ミルクビスケットなどが配られ、お茶が薬缶で出ていました。私は昼間、暇があれば祖国訪問の1世達の話を聞いていました。
ブラジル最初の笠戸丸の移住者には貴重な話をして貰い、2020年には誰もその航海の移住者は今の世に生きてはいませんが、今では私が生きたその移住者達の話の証言になります。
サントス港に到着して、日差しが暑いので、帽子が無かったのでタオルでほうかむりをして、着物の裾を絡げていたと話していました。味噌や醤油の樽も持参していたと話していましたが、それが無くなると、全部自分達で製造していたと聞きました。
またパラグワイ最初のラ・コルメナ移住地に入植した隈部友吉氏夫妻と私がパラグワイに移住すると言う事で船内では特に懇意にさせて頂き、隈部氏は最初はペルーに移住して、成功して郷里熊本県に帰り、日本が1937年の支那事変から、戦争に傾いて行くのを見て、4人も男の子供達の将来を考えて、その長男はペルー出生でスペイン語も達者で、移住募集を見てパラグワイに家族で移住してきた人でした。
その時は家族でアルゼンチンに再移住して、首都ブエノスアイレスに家族全員が事業や農場をしていた方でした。
私もこれまでに南洋開拓の先駆者であられた小林常八氏、満蒙開拓団長であられた吉崎千秋氏、東京農業大学拓殖科長、杉野忠夫博士などに教え頂いた事は生涯の宝と感じています。
世界に移住して活躍した私の同期生も80歳の歳を迎えて大勢の仲間がすでに亡くなっていますが、私もこれまでに青春の情熱を掛けて、悔い無き人生を、これまで歩いて来たことは幸せに感じま。


  

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