2020年11月21日土曜日

私の還暦過去帳(611)

 移住の昔話、(1)

半世紀も昔に、日本から海外に移住していった方々の乗船していた移民船の昔話から始めます。

計画移民も移住事業団が主催する移民応募の集団移民形式は、1974年で殆ど終了し、その後は呼び寄せ移住者や技術移住者が単身や、家族で移住していました。

移民船は船によりパイプ組み立て式ベッドが船室内に組み立てられ、そこに移住者が航海中は寝泊まりするようになっていましたが、船室によって家族や独身者と分かれていました。船の帰りは組み立て式ベッドは取り払われ貨物を積み込み様になっていました。

3等船室はその当時は冷房も無く、通風口からの外の冷たい空気を送り込むだけでした。

移住者は横浜と神戸に在った、政府機関の移住斡旋所に集合して、そこで荷物の梱包や検査、移住先によって仕分けされ、トラックで移民船まで運ばれていました。

移住者たちに家族や親戚が最後の見送りに来ていましたが、恋人と最後の別れに街に出る人や、荷物に入れる大工道具などを買いに出る人も居ました。

郷里から移住斡旋所に大きな荷物や、大量の家財道具などは、倉庫の片隅に捨てられているのも見ましたが、一人あたりの荷物の量が決まっていたのでそのような事になったと感じます。

そこでドラム缶が売られていましたが、移住地に入植してそれがドラム缶風呂に利用でき、また蓋付きで、鍵が取り付けられたので、貴重品などを入れるロッカー代わりにもなりました。


パラグワイの移住地で、ドラム缶風呂も入りましたが、重宝していました。

ドラム缶を半分地中に埋めてコンクリートで固定して、金庫代わりに使っている方も見ました。

私はドラム缶1本と茶箱1個、着替えを入れた大型トランクだけでした。

出発の当日の移住斡旋所の食堂は最後の食事で歓待していただきましたが、移民船までは横浜の根岸からバスで皆が揃って行きました。

バスで港の波止場まで、その当時はまだ戦災の跡が残っていた景色があり、空き地が沢山ありました。

出国手続は移住斡旋所で係官が来て済ませていました。当時は外貨規制が激しく、普通の旅行者が両替出来るのは限られて居ましたが、移住者は制限無しで、1ドル365円で両替出来ました。

当時の同じ移民船に乗船した方々の多くは56年も経て全て亡くなり僅かな方が生きています。


私の乗船した移民船はアフリカ丸という貨客船で、その船には南米からの里帰りの戦前移住した高齢の1世達が沢山乗船していました。

その中にはブラジル最初の移民船、笠戸丸の移住者達も居て、またパラグワイ最初のラ・コルメナ移住地入植者も居ました。

単身移住者として1964年、8月2日の午後4時に出港していきました。

目的地は、パラグワイ国、アマンバイ農協で、場所はブラジルのマットグロッソ州とパラグワイ国境のポンタ・ポランとペドロファン・カバレロの境でした。

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