2020年11月21日土曜日

私の還暦過去帳(612)

 移住の昔話, (2)

その当時、1960年代に南米に移住する船便は、三井大阪商船の船便かオランダのロイヤル・インターナショナルの船便しかありませんでした。

日本船はパナマ経由、オランダ船はアフリカの喜望峰経由でした。オランダ船は横浜を出発して、神戸に寄港して、沖縄の那覇に寄って沖縄県人達の移住者を乗船させていましたが、その当時は沖縄返還前で、日本本土で日本のパスポートに切り替えて、移住者達が貰える片道の日本国パスポートを発行して貰い、移住している方が多くいました。

その当時の沖縄からは、アメリカ政府の身分証明で乗船していました。両船とも移住者は寄港先の荷役が長ければ45日も掛かる船旅でした。

その当時の航空便は、羽田からアラスカのアンカレジに寄り燃料を補給して、シカゴやニユーヨーク経由で1泊して、それからフロリダ経由で、ブラジルのべレムで燃料補給してサンパウロまで飛んでいました。

アルゼンチンのブエノスアイレスまでは飛行機を乗り換えて飛んでいましたが、航空運賃は日本の田舎で家を1軒買える値段でした。

横浜を移民船が出航する時は大勢の見送りが来て、盛大で感激するものでした。別れのテープが投げられ、バンドが別れの音楽を演奏して、名前を呼んで涙する家族、南米からの祖国訪問の老齢の1世達は、ハンカチを握りしめてテープを何本も握り、桟橋をタグボートに引かれて離れ行く船が最後の張り詰めたテープが切れると同時に、どこからともなく、万歳の声が湧き上がり、涙でくしゃくしゃにした顔で、「日本万歳!」の声が聞こえていました。

その心の胸中には二度と訪れることもない、祖国日本に別れの声限りの胸中を発露していると感じていました。

私は郷里の福岡で両親に別れをして来ていたので、見送りに来た学校の後輩達とテープを投げ合い、別れの言葉を交わしていました。

移民船は出航から直ぐに水先案内が下船すると、速力を出して下田沖を通過して、黒潮がうねる太平洋に出ましたが、自分の蚕棚ベッドの下にトランクを入れて

これからの長い航海の準備をして、食堂のテーブルなどの説明を聞いて甲板に出るとすでに犬吠埼の灯台の光が波間に見え隠れする時でした。

甲板には祖国日本に里帰りした1世達が並んで、手を合わせて最後の祖国日本に別れをしている光景でした。私は心が感激で、ジーンとして言葉も無くしていました。

灯台の光が見えなくなれば、そこで本当の別れになると私は感じていましたが、1世の方の言葉が聞こえて来たので、耳を澄ませて聞いていたのは、「両親の墓参りもしたし、兄弟に別れもして、共に温泉に行き、美味しいものも食べて、東京見物もして、皇居も参詣して何も思い残す事はない」と言う言葉でした。

戦前の昔に南米に農業移住した方々が苦労を重ねて、その上に今の自分達が移住出来る基礎を築いてくれた感謝の思いがその時、心に感じていました。

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