2020年11月22日日曜日

私の還暦過去帳(693)

 移住の昔話, (3)

移民船にはそれこそ、その当時の日本を凝縮した感じの乗客が居ました。
まずは、移住者達でしたが、それは家族と単身者の移住者に分かれ、それから祖国訪問の戦前に南米に渡航した移住者達が居ました。
アメリカに留学や研究で渡米する方々も居ました。
僅かに数えるほどの外国人が2等船客に居て、3等もスクーターで走り、イタリア人の世界1周の乗客がいましたが、「私は何でも食べられる‥」とか言っていましたが、朝食の味噌汁とご飯のおかずだけの3等食はその当時の日本人では普通で、ご飯は食べ放題で、船内売店で買って来た佃煮、缶詰や副食物を持参していたので、問題ありませんでした。
直ぐにイタリア人はご飯に砂糖をかけて食べていましたが、煮魚や、干物が出ると顔を顰めて逃げていましたが、食事だけは洋食が選べて、パンが出る2等に移動して行きました。
その当時は乗客ばかりの客船は無理で、貨客船が普通で、荷役やストや大きな荷物があるときは、それこそ今から見ると悠長で、のんびりした旅で、人間が乗船して、そこにアダムとイブが居るのですから、それは小説が書けるほどの物語が出来ます。
出航翌日は、全員参加の避難訓練が船長以下全ての船員も参加して練習がありました。救命艇の前にグループごとに救命具を身に着けて、分かれて並び、子供や女性達が先に救命艇に避難する順序も決められ、船員さん達をヘルプする若い力があるような若者達が選ばれていました。
私のグループはアルゼンチンのブエノス・アイレスまで乗船する者だけが集っていました。
その当時の船員さん達は、第2次大戦の生き残り達が沢山居て、輸送船で3回も魚雷攻撃を受けて撃沈され、生き残っていた人も居ました。
1960年代のその当時は、携帯電話もなく、テレビゲームもなく、カラーTVがやっと普及し始めていた頃で、インターネットもなく、電報と電話だけが通信の主役でしたが、そんな時代で、其の当時の日本人の平均寿命も65歳程度で、52歳で会社は定年退職でした。
その様な社会環境の世界ですから、人間の付き合いも密な間で、船には限られた狭い環境で、テレビも無く、短波ラジオの放送だけでしたので、皆が膝を交えて四方山話をすることが大きな船内の娯楽でした。
日本船は日本国の領海を出れば、船内売店に売って居る日本政府の専売品は無税で買えましたので、酒・タバコ等は格安で買えましたが、驚く事に半値近い値段で、食後にビールでも手に、涼風に吹かれて船員さん達の昔話や、戦争時代の話を聞くのが楽しみでしたが、これは目的地に到着するまで続いていました。
船の無線室がNHK短波放送を船内ラジオで流すぐらいでしたのですが、直ぐに、船内壁新聞が出て、移住者の子供達に娯楽室を利用して教室が開かれ毎朝のラジオ体操の同好会も出来て、甲板を毎朝走るジョッキングも始める
人達も出てきました。
船内の見学会も開かれ、船底の底のスクリューの大きなシャフトまで見て来ましたが、船尾に小部屋があるので、聞くと船内で伝染病や、犯罪者が出た時に収容する部屋だと言う事で、普段は物置でした。
移民船は1万2千トンぐらいの外洋船でしたが、次の航海から貨物船専用になるほどの古い船でした。一度などエンジンの音がしないので、不思議に感じて船室から出て聞くと、なんとエンジン故障で、太平洋を漂流していると
言う事で驚いた事もあります。
私達の航海は、船長が40年ほど船乗りをしているが、こんな静かな太平洋は初めてだと言っていましたが、丁度太平洋の真ん中辺りで、べた凪に出会い2日ばかり波の無い海原を走りました。
直ぐに皆が航海に慣れて、船客の面白い話も聞くようになり、それを肴に、皆で夜遅くなるまでワイワイ談笑していましたが、中には娯楽室のマージャン台で、徹夜の賭けマージャンを開帳しているグループも居ました。
乗船して毎日船が走る速度と距離が張り出されていましたが、11から12ノットのスピードで、向かい風で遅いときは9ノット程度で走っていました。
船のスピードと反比例して船客のアダムとイブの仲は凄いスピードで進んで居たようです、凄い話も聞くようになり、目撃者も出て船旅夜長の話の肴には最適でした。

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