2020年11月30日月曜日

私の還暦過去帳(699)

移住の昔話, ( 9)
移民船の乗船者達は皆がアメリカが豊かな感じがすることを肌で感じていました。
日本の田舎から、地方都市からの移住者達は1960年代の田舎道の多くは砂利道で、アメリカの様にフリーウエーという無料の高速道路等は無かったからでした。
日本はその当時、東京オリンピックに合わせて、新幹線や東名高速道路などが建設されていました。
我が母校がある世田谷通りの大学前は砂利道で、雨が降るときは水溜りが出来て、馬事公苑の先は畑で白菜やダイコン、キャベツにネギなどの近郊野菜の栽培地で、農大の実習農場もあり、良く実習で収穫した野菜類をリヤカーに載せて、販売実習と言う事で、三軒茶屋辺りまでグループで引き売りに出ていました。
この経験が南米で大きく役に立ち、生きる、生き残るという、作物が売れない時に町にトラックでトマトなどを積んで、引き売りに出て帰りに食料を買い、燃料を買い、トラックターの部品を買い、生き延びた事に繋がりました。
今でも上手に、スペイン語でトマト売りの口上が言えます。
母校も旧陸軍の自動車部隊の兵舎が残り、部活動に使われていて、その様な環境に学び、住んで、生きていたので、アメリカの現実に、この目で見る世界が、眩しい感じで、大きな格差に戸惑う感じでした。
翌日は、通過ビザ所持者だけが、ロサンゼルスの市内観光に行ける事は、努力してビザ手数料を払い赤坂のアメリカ大使館まで行った価値がありました。
アルゼンチンのブエノス下船者達がグループで通過ビザを取っていたので、これがロスの市内見物も楽しい物にしていました。
その中の一人が当時の移住事業団にアルバイトで働いていたので、内情を知る者が居たので、通過ビザの件も教えてくれました。
その朝は少し興奮して早起きして、ドル札を数えて、これが1ドル札、これが10ドル札と間違えないように財布に入れて、ロスの日本町でランチを食べて、何か買う事を考えていました。
観光バスは、少しくたびれた感じのバスでしたが、ブラジル移住者達に見送られて定刻に出発して直ぐに高速道路に入り、バスの運転手が誰か英語を通訳する者が居れば前に座り、私の説明を日本語で皆に説明してくれと言うので、友人が英語会話も堪能で、彼が観光ガイドになり、運転手が英語で説明するのを日本語に訳し説明していました。
市内を廻り、サンタモニカの海岸にも行き、澄んだ晴れ渡った空に砂浜が奇麗で、砂浜でビキニ姿で遊ぶ若い女性が羨ましい感じでした。
ランチ時間を少し過ぎて、リトル東京の日本町に行きましたが、先輩達から聞いていた町並みで、レストラン、お菓子屋、雑貨屋などがあり、日本語が聞こえて来て、時間が余りないので、直ぐにラーメンと書いてあるレストランに友達と
飛び込み、東京ラーメンと言うのを注文していました。
隣のテーブルに居たシニアの老人が「ユーらはどこから来たかね・・、どこの県人か」と聞いて来たので、聞くと戦前にアメリカに移住してきた1世でした。
子供達が農園をして、自分は引退して日本町に近い老人ホームに住んでいると話していました。
出来上がるまでに時間が惜しいので、側のお菓子屋に行き、饅頭を買いましたが、「この饅頭を4個お願いします」と言うと、英語で「フォーですね‥!」と聞き直され、やはりアメリカだという事を感じていました。
皆が窓に額を付ける様にして広大なロサンゼルスの景色を堪能していましたが、私はハリウッドに行ったときに、歩道を歩く若い女性のホットパンツには驚きまず半分お尻が見える様な物は、日本では見られない光景にカメラを構えていました。
ハリウッドの高級住宅街を通った時に、それこそ広大なグリーンの芝生とカラフルな建物に度肝を抜かれた感じで、心のどこかに私もいつか、アメリカに住みたいと言う願望が目覚めていました。
その時の心に芽生えた夢が私のアメリカ移住となり、アメリカに住み着き、ここで骨を埋める覚悟も出来て帰化して現在になります。

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