2020年11月27日金曜日

私の還暦過去帳(697)

 移住の昔話, ( 7)

移民船にはその当時の日本田舎社会がありましたが、それは田舎からの移住者が多かったと感じます。
若い農村の2男や3男達は、農家を継げる土地もなく、出稼ぎに出るか、就職して都会に出るしか方法がありませんでした。
その当時アメリカには、短期派米実習生と言う制度があり、かなりその当時はドルも残せて、再度その資金と自分で学んだ機械化農業の腕を生かそうと、移住する人も居ました。
ブラジルにはコチア産業協同組合が募集する、若いこれからのブラジル農業を継ぐ日本の農村青少年を対象にして実習生を募集していました。将来はブラジルで独立して農場を開くという夢があり、日本の農村から応募する人が沢山いました。その制度を利用して近隣の農村からブラジルに移住した者が
独立して農場を開いたという様な話が伝わり、近所の幼馴染と結婚しに里帰りしたような若者が出てくると、多くの農村の若者達が実習生に応募していました。
彼等が船内でその当時の農村社会の風習を聞かせてくれましたが、初めて聞く話しに驚きもあり、興味があったので良く暇に任せて話を聞いていました。
村祭りや、若者塾、村社会の性風俗、夜這いの風習、足入れ結婚などの興味がある話でした。若者塾で集まった先輩年上から、夜這いの方法を学び彼女の所に忍んで行った話しなどは船内では歓迎の夜長の暇つぶしでした。村祭りで知り合った近隣の彼女が雨戸の錠を外して部屋に入れてくれ、一夜を過ごして、その後何度か通う内に彼女の妊娠を知り、村の顔役に頼んで、彼女の両親に話して両家の合意で結納も済ませて許嫁の仲になり、祝い餅も配り、彼女の大きくなるお腹も誰も言う事もなく、結婚、出産して、移住に応募してきた若者も居ました。

移民船には年配の船医と若い看護婦さんが居ましたが、軽い風邪などの病気などは直ぐに診てくれ、投薬も出ていました。狭い船内ですから病気が広がるのには注意していました。
年配の船医は若い移住者を6名ぐらい暇な午後に呼んで、これから南米社会に行く用心にコンドームの使い方、性病の予防仕方、ブラジルの風土病を教えてくれました。私が驚いた風土病は「森林梅毒」と言われた潰ようは、薬では中々治らなく、転地して他の地方に移住すれば直ぐに治ると聞きましたが、アマゾンに入植した先輩の奥さんが森林梅毒に罹り、アマゾン流域からウルグワイに近い、ブラジルのリンゴ栽培地帯に転住したら直ぐに治ったと聞いています。

独身男性の若者が、現地の若い女性と結婚して居るのも多く見ましたが、農場に収穫手伝いに来た、16歳の混血の現地人を見染めて、仲良くなり直ぐに子供が出来て、結婚した人をブラジルのサンパウロ郊外で見ましたが、初めはコチア産業協同組合が募集する実習生だった様です。そのワイフは日本語も達者で、ご主人を助けてビジネスの交渉などポルトガル語で全部済ませていました。そのワイフも2人目を出産して、背中に赤子を背負い働いていました。

航海もアメリカ大陸の西海岸が遠くに見える様になると、船内で問題が出て、ブラジル移住者はアメリカ通過ビザが無く、上陸出来ないと言う事が分かったからです。それは前にブラジル移住者が、ロサンゼルス港で、見物に上陸して何人も戻って来なかったからで、計画的に逃亡していたので、ビザが禁止されていました。
手口は前もって知人や仲間に手配して、ブラジル移住の日本旅券を発行して貰い、アメリカ通過ビザを申請して取り、日本政府移住渡航貸付金制度を利用して、自分の懐の金は何も出すことなく、荷物も最小限にして、ロスに出迎えた仲間にお土産と荷物を手渡して、自分は仲間と上陸するや、車でロス郊外に逃げ、その日に日本旅券も燃やし、破棄して、偽の日本人2世の出生証明で、運転免許証、アメリカの社会保障番号も取り生活していた日本人がいたからです。
私はそれを知っていたので、免税品を購入すると言う事で、係からパスポートを借りて、アメリカ大使館に行き、移住斡旋所にいる時に通過ビザをアルゼンチンに下船する者達だけ取りに行き通過ビザを持っていましたがしかし、この問題はだんだんと大きく成ってきました。

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