2020年11月26日木曜日

私の還暦過去帳(696)

 移住の昔話, ( 6 )

移民船には大きな風呂場がありましたが、移住者達を風呂に入れるので、かなりの大きさがあり、田舎の銭湯と同じ感じの湯舟でした。しかし、そのお湯は海水で、慣れない内は気持ち悪く、べたべたして、石鹸の泡立ちも悪く、上がり湯は普通の真水から沸かした温水でしたが、船には乗客の大勢の人が水を使い、真水は限られて、湯舟の海水も仕方ないと感じていました。
海水を沸かす時は、蒸気を通して沸かしますが、その音が今でもコトコト蒸気が通る音を覚えています。洗い桶に真水を入れて身体を洗い、最後シャワーを浴びて着替えて風呂場を出ていましたが、甲板を通り過ぎる爽やかな風が快く、慣れればそれでも風呂に入った感じがしていました。
洗濯も下着は自分で洗い、ズボンやワイシャツなどは船内のクリーニングに出していました。洗濯場で自分の下着などは洗い、乾燥室に乾していました。
大勢の人が乗船しているので、床屋もあり、船員さんの理髪士でしたが、昔話を聞きながら散髪をしてもらうのも、これも楽しいものでした。
戦前の昔の船乗り達の様子などの話は興味があり、大きな貨物船でマグロの100kgほどの本マグロを釣る話など面白い話でしたが、移民船も船尾から小指ほどの釣り糸を300mほど流して、釣りをしていると言うので見に行くと本当の話で、流し釣りで食事の後の残飯を撒くと良く釣れる様でした。
私がマグロが釣れたのを見たのは長い航海で1回だけで、それでも40Kgほどあるマグロでした。乗客にはその釣れたマグロは食卓には出ませんでしたが、船員さん達の楽しみで、船員食堂で仲間で調理されて居たようです。
太平洋を横断する船旅だけで12日間以上も日数がかかるので、天候が悪いと13日以上も掛かることがありました。
その当時の移民船は貨客船で、荷物のある港には寄港して荷役をするので、鈍行、準急、急行の3種類に分かれていました。
私の同期生が乗船した鈍行移民船は、まずハワイに寄港して、オレゴン州のシアトル港に寄り、サンフランシスコでも、ゴールデンゲートの橋を抜けてそれから40kmもサクラメント河を遡上して、スタクトン港に寄り荷下ろしをしていたと言う事です。スタクトン市には今でも住友電線アメリカ工場があり、スタクトン港は2万トンクラスの貨物船が停泊できます。
鈍行移民船はそれからロサンゼルスに寄港して、パナマ運河を超えて、べネズエラに寄港して、沖合のオランダ領のキラソウ島にシエル製油所があり、そこで船舶重油を給油して、移民船がドミニカ移民を運んでいた時は、ドミニカのサントドミンゴ港までカリブ海を航海して行き、また、大西洋を下りアマゾン移住者達が居る時は、アマゾン河を遡上してべレムの波止場まで移住者を運んでいました。
移民船は時にはその当時、大洋漁業会社の大西洋漁獲基地があるレシーフエにも寄港していましたが、貨物が無いときは朝に入港して、昼過ぎには出航するような港もありました。
それにしても今から考えると、悠長で、のんびりした航海だと感じます。
移民船はそれからリオ・デ・ジャネイロに寄港して移住者が下船する時もありましたが、次のサントス港がブラジル移住者の終点で、その他僅かのアルゼンチンのブエノス港まで行く移住者は、アルゼンチン移民、パラグワイ移民、ボリビア移民、ウルグワイ移民などが終点でした。
1960年代はブエノスから週に2回、ボリビアの首都ラパスまで汽車が走っていて、フフイ経由でウユニ湖の横を走って2日半も掛かる長旅でした。
パラグワイも首都のアスンションまでは、同じく汽車がその当時は走っていてこれも週に2回程度、国際列車が走っていました。
この様な長距離旅客列車は1974年頃には廃止になり、バスの国境を越えた国際バスが動いて、今では多くの鉄道は廃線となり貨物列車だけです。
私もバスで、チリのアリカから、アンデス山脈を越えて、アルゼンチンのフフイ経由でサルタ州を通過してパラグワイの首都アスンションまで、フルモッサ経由で走ったことがありますが、今では南米全体がバス路線で繋がっています。
今の世の中から見れば、昔の移住者達には根気と、体力があったと感じます。

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