2020年11月30日月曜日

私の還暦過去帳(700)

  移住の昔話, ( 10)

ロサンゼルス港の停泊もアッと言う間に過ぎてしまいましたが、この寄港は人生に大きな勉強となり、強烈な印象を植え付けました。出航して次はパナマ運河です。

出航してからの食事に肉や新鮮な果物が沢山出る様になり、船の事務職に聞くとアメリカは食料品が安く、果物類はオレンジやリンゴ、メロンなど、沢山仕入れると言う事でした。
特にオレンジとメロンは日本では味わえない風味があり、甘さも格別なものでした。3時のお茶の時間にアイスクリームも出たのは驚きでした。

ロスを出航して直ぐにアメリカからの乗船者が2名ありましたが、一人はアルゼンチンのブエノスまで行く年配のミゲールと言う引退した弁護士でアメリカにも家族が住んでいて良く訪ねて行くと言う事でした。
他の一人は名前は忘れましたが、ブラジルのリオとアメリカのカリフォルニアに半年ずつ住んでいる不動産関係のビジネスをしている独身男性でした。
彼はアメリカで6カ月仕事をすると、ブラジルで6カ月間、リオの町に住んで、仕事もしないで滞在すると言う男性で、リオには愛人も居る様でした。
英語の練習に良く話を交わしていましたが、暇な船内ではよい相手でした。

アラスカからの寒流に乗り、船は順調に南下していき、バッハ・カリフォルニア半島の突端近くなると、イルカが無数に船と並行して並んで付いて来るのが珍しく、皆で甲板に並んで見ていました。それと突端のカボ辺りでは、海水が赤くなるようなエビの大群が見えて驚きましたが、聞くとその辺りは世界3大のカジキマグロの世界釣り大会が開催される処だと聞いて納得致しました。
バハ・カリフォルニア半島の内海側のラパスには1960年時代から日本からの魚業基地があり、日本の漁船が居ました。
戦前からの日本人漁師も入植して、今では名前だけの日本人が居ますが、その日本人漁師達は、ロサンゼルスから移住して来た日本人達で、今では5世になり、戦時中、海岸からの強制移住で今では僅かな日系メキシコ人が住んでいますが、その様な話も船員さんから聞きました。
移民船は南下するほどに気温が高くなり、甲板には日除けの天幕も張られ、日陰で涼みながら里帰りの移住者の昔話を聞くことも日課になりました。
アカプルコ沖を通過する時に、海岸の建物が見えて観光地として有名なだけの事があると、皆で甲板に並んで見物していましたが、船は岸にすれすれまで近くを通過して南下していました。
この頃になると船客もすっかり生活に馴染み、規則正しい船内生活になり、朝のラジオ体操や、甲板をグルグルと歩く散歩の仲間達が居ました。
移住者もポルトガル語の勉強で日本に勉学に行った2世や3世達に習っていました。
パナマ運河が近くなると陸に見えるジャングルが緑濃い景色に変化して、気温も少し蒸し暑くなりました。
パナマ運河には早朝に到着しましたが、通過の順番待ちで停泊していた時に水先案内が乗船して来て、水路をゆっくりとパナマ地峡に入って行きました。
それから夕方まで移住者はパナマ運河見物で皆が甲板に出て日中は見物していました。

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