私の還暦過去帳(710)
移住の昔話、(20)
1960年代のブラジル、リオ・デ・ジャネイロ市は欧州
が戦乱で疲弊して居た事があり、第2次世界大戦にも、ただ
同盟国として参加して、豊富な農産物と資源を輸出してか
なり社会も豊かで、戦争被害と言えば、ブラジル国籍の船
がドイツのUボート潜水艦に撃沈されたぐらいで、でも戦前
の里帰りの方に聞くと、その事件があった時は、ドイツ人
商店が襲われた事もあるようです。
我々がリオに移住船アフリカ丸が到着した時代はブラジルは
大きな変革もなく、首都がブラジル中央にブラジリアに移転
してブラジルが大きく伸びる時代を踏み出して、多くの移民
を受け入れていた時代でした。
日本から、トヨタ自動車の新進、ビジネスの展開など多くの
会社が注目していた時代でした。
その当時、トヨタのランド・クルーザーがベンツのジーゼル
エンジンを登載してジャングルの田舎道走破していました。
当時、ブラジルで大規模生産されていたのはドイツのカブト
虫と言われた、フォルクス・ワーゲンでした。
サントス港からサンパウロに行く、サントス街道の横に工場
があり、ブラジルのタクシーもそのカブト虫でした。
リオの町はカブト虫のタクシーばかりで壮観でしたが、我々
波止場から、首都カラカス見物に行ったマドンナも含めて5
名でした。
リオで下船した親しくして頂いた方に聞いていたので、キリ
スト像のある山に行くケーブルカーは混むので早めに行くと
長く待たなくても乗れると言う事を聞いていたので、最初に
行きましたので、余り待たずに乗車出来ました。
後で来た船のグループは搭乗の順番が長くて、歩いて登った
と聞きました。
頂上は展望が良く、まだ朝もやが残り、眼下にポンデ・アス
ーカル山が見え港から庶民が利用するフラミンゴ海岸が見え
コカカバーナ海岸や、遠くにイパネマの遠望も見えました。
大西洋ももやの陰からブルーに輝いて壮大な景色でした。
マドンナのポルトガル語も上手で、才女の能力を見せていま
した。
私は記念のキリストの像の下の崖淵の石の手すりの乗って、
キリストの様に両手を広げて記念写真を友達に撮って貰い
ましたが、その写真はいまだに私の部屋に額に入れて飾っ
てあります。
そこを降りてから、市内をタクシーで見学して、コカカバー
ナの海岸で皆と少し散歩していましたが、日本人の1世が寝
ゴザを海水浴客に売って居るのに出会い、聞くと日本人が
イグサを栽培して、機械編で作っていると言う事でしたが、
沢山の客が来る海岸で、良いビジネスの様でした。
移住者だと言う事で、貴方達もブラジルはこれからの国だ
から頑張りなさいと声を掛けてくれました。
爽やかな海風に遊歩道を歩くヨーロッパ人の観光客達が沢山
居ましたが、アメリカ人達の観光客も居て、ここが世界の観
光地だと言う事を見せつけられました。
皆で海岸のカフェーに休憩に入り、コーヒーを注文して、ラ
ンチにしていましたが、船ではサラダが食べられないので、
注文して食べていました。
その後にイパネマの高級住宅街にドライブして、今夜のポン
デ・アスーカルからのリオの夜景を見る予定で、ゴンドラの
出発地点に並んでいました。朝に来て見学を終わり、降り
て来たサントス下船の移住者達に会い、聞くと絶景だと言う
事で期待していました。
我々は頂上で夕方から、夕日が降りて夕焼けにリオの町が
輝く景色と夜景を堪能して来ましたが、いまでもその景色が
忘れることが出来ません。
その夜はコカカバーナの海岸でレストラン兼クラブでサンバ
の生演奏を聴き、食事して、見事な若い女性のサンバの踊り
のショーを見ていましたが、ドルで払うと20ドル札一枚で
した。
今では貨幣価値が違うので比較はできませんが、安く我々
でも楽ししめていました。
その夜、海岸の遊歩道を皆で歩いていたら、山高帽に、燕
尾服を着て、ドレスのご婦人の腕をとり、散歩しているイギ
リス人と思えるカップルが居たのには驚きました。
パーテイの帰りと思いましたが、遊歩道路の脇に高級車が
駐車していましたが、日本では見られない光景に驚いてい
ました。
マドンナが遊歩道路から海岸の砂浜をハイヒールを脱いで歩
き出したので、その光景も、その夜の忘れられない光景でし
た。その夜の出来事は若い私には強烈な印象として脳裏に
刻まれて、生涯忘れる事が出来ない出来事になりました。
次はリオでの思い出として銃器不法所持で短時間勾留され
た話を致します。
次回に続く、
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