2020年12月15日火曜日

私の還暦過去帳(716)

 移住の昔話、(26)

そのサンパウロ市の中心部に隣接するリベルダーデ地区

には、第二次世界大戦前後より日本人街が形成されてお

り、中心部を貫くガルボン・ブエノ街は今では韓国人、

中国人など多くの東洋人が入り込み、今では東洋人街と

言われていますが、56年昔のサントス港は、第二次世

界大戦の開戦と同時に、海岸地帯に住む日本人達の内陸

部に強制移住でサントスに住む日本人社会が崩壊して

戦後に戻って来た日本人達が居たのですが、戦前の様に

はなりませんでした。

日本人移住者の戦前、戦後の殆どはサントス港上陸で、

航空機の時代になるまではサントスはブラジル上陸の

原点でした。

当時、アマゾンや、リオからに上陸した方も日本の移

住船の主要停泊港のサントス港は祖国に帰国する時には

日本船やオランダ船もサントス港は重要な港でした。

ブラジルに移住して、祖国日本に帰国すると言う事は

その当時の船便の時代は、サントス港に来る事でした。

特に昔は女性は若くして結婚して移住してくる人が多く

いたので、花嫁移住者、呼び寄せ移住者、ブラジルに移

住してくる時に親が決めた相手と結婚して、何も知らない

で、ブラジルに移住して来て、相手の浮気、夫が現地人

と出来て先に子供が生まれて、結婚が破綻して逃げて来た

人や、中には夫の性病を移されて逃げて来た人も居たよ

うです。

中には主婦と言う労働力としか考えない、開拓の重労働に

耐えかねて逃げ出した女性も居ました。

その日、私達が飲みに行った日本式居酒屋もその様な女性

居ました。

船の船員さん達も気軽にくつろいで日本語で話し、日本式

の酒の肴が出て、日本人の若い女性がお酌をして、陽気に

日本の流行歌を共に歌い、抱き合いチークダンスを踊る事が

出来る酒場は日本船の船員達には良い息抜きの場所だったと

感じます。

その夜、若い女性でも飾り気が無い、野良仕事で鍛えた肩幅

もあり、武骨な手でグイとコップ酒を飲んでいた女性は、あと

5カ月も働けば船賃と帰国してもしばらくは親の世話にもな

らずに食べて行ける金が貯まると言っていました。

皆が程よく酒の酔いがまわり、年配の船員さんがトイレに行く

と言って出て行き、戻っては来ませんでした。

先ほど「若い時から日本人の男性しか知らない私はブラジル人

などには抱かれたくない、気心知れた日本人男性が一番好きだ」

と話していた女性も居なくなり、この言葉は今でも忘れる事が

出来ません、男と女の世界は共通の言葉で上手く嚙み合うと感

じていました。

サントス港には当時から日本の貨物船などは必ず停泊して荷物

の積み下ろしをしていたので、その様な祖国日本に帰国する

女性達と日本人男性との出会いの良き場になっていたと感じます。

私も中の一番若い女性から酔って絡まれ、日本の流行歌を共に歌い、

チークダンスをて楽しんでいましたが、若いと言っても離婚もして

いなく、まだ人妻の女性からの誘いには抵抗がありました。

夜も更けて、船員さんが「終わりのキスタイム・・」と言って、

フロアの電気を消してしまうと、真っ暗な中に歓声が上がり、

私も女性から抱きしめられ、労働で鍛えられた彼女の豊かな

腰を私も抱きしめていました。

その夜は酒場から船員さん達は彼女達と何処かに行くと言うので

私は一人で帰りにバールに入り、酔い覚ましにコーヒーでも

飲んでカウンターの’中にいる女性と片言のスペイン語とポル

トガル語で話していました。

彼女が日本人は金をごまかしたり、飲み逃げなどしないし、

正直でしつこくなく、自分のアパートには日本人しか入れな

いと話していました。そして自分はいつも昼頃まで寝ている

のでランチを一緒に食べないかと誘われ、私が作る特上の

コーヒーを飲ませて上げると誘われていました。

彼女は私に伝票の裏にアパートの住所と税関ゲートからの

略図を書いてくれました。

船に帰ると船室のブエノス下船の独身男性が2名いませんで

したが、彼等は翌日、朝帰りでした。

次回に続く、






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