2020年12月12日土曜日

私の還暦過去帳(713)

 移住の昔話、(23)

その夜の夕食は最後の夕飯で御馳走が出ていました。

リオで生鮮食品が仕入れられ、それもあると感じましたが、

ブラジル移住者には船内での最後の夕食となり、皆で賑や

かに食事を終わり寛ぎの時間となり、私は船内でよくお話

をお聞きした、ブラジル最初の移民船、笠戸丸の乗船者の

高齢なご婦人に最後のお別れとお礼を言いに行きました

が、私の手を両手で握り、「貴方の様な若い日本人が海

外に出ないと日本国はこれから伸びて行きません、明治

の昔にブラジルに最初に移住したが、その時はお国の為

にもと言う心がありました。」と今でも忘れないような

言葉を聞き、心に刻んでいました。

今の世にはブラジル最初の笠戸丸の移住者達は誰一人と

して生存している方は無く、遠い歴史の彼方に消えて行

かれた方々ですが、今では私がその言葉を今の世の若者

の残せる事は幸せです。

これまでにパラグワイの最初のラ・コルメナ入植者、戦後

に最初に第2、ラ・コルメナ入植者とも親しくお話をお伺

居したこともあり、笠戸丸移住者で、ブラジルからアルゼ

ンチンの首都ブエノスに転住されて来た家族にもお会いし

て親しく話を致しましたが、ブラジルからブエノスに来た

ばかりは牛の骨で出汁をとり、味噌を入れてスイトンを作

って食べていたと言う事ですが、金を稼いだ時に、イタリア

米を買って来て、ご飯を炊いて銀シャリを食べた時の感激は

忘れられないと話していました。

当時住んでいた家は立派な屋敷でしたが、そこの横に最初の

自分達で造った家が残っていましたが、その家はアメリカが

フォード車などを輸出する時に昔は1台ずつ、木枠に入れて

アルゼンチンのブエノスまで船積輸送していた枠板を使い、そ

の板を安く買い入れて、2x4形式で家を建設してありました。

思い出すと私は歴史的に移住した方々とお会いしたと、今では

感じています。

その夜、甲板に出ると後僅かな時間で多くのブラジル移住者達

とお別れすることになり、明日、サントス港で下船する方々と

甲板で会えば握手して、お別れの言葉を交わしていました。

リオからサントス港まで、距離は約500kmで、急行バスで

は7時間も掛からずサンパウロの中央バスターミナルまで到着

していました。

その夜、マドンナにも明日の朝は忙しくてお別れもゆっくり出

来ない事もあると考えて、船室まで訪ねましたが、彼女はトラ

ンクを奇麗に整理してベッドの横にすでに準備して置いてあり

ました。

私も大学の先輩に頼まれて少し荷物を日本から持って来たので、

それを整理してパックしていました。

明日はその先輩が港まで荷物を受け取りに来て、サンパウロ見物

に連れて行くと言う事で、楽しみにしていました。

船が接岸して、ブラジル移住者達と祖国訪問の1世達が下船して

、迎えの大勢の人達や家族が来ているので混雑するので、それが

済んでから下船して先輩とサンパウロ市内まで行く予定になって

いました。

移住船アフリカ丸はサントス港には5日間ばかり荷揚げと、積み

込みで停泊の予定でした。

その夜、コチア産業組合の実習生で行く青年達と、最後の別れの盃

を交わしてお互いに健闘を祈り、就寝しました。

次回に続く、





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