2020年12月24日木曜日

私の還暦過去帳(725)

 移住の昔話、(35)

昨夜は隈部氏の言葉を考え込んで、よく眠れなく、早朝の

甲板に出て、これからの人生の行く先を考えていました。

大西洋の海風は強く、娯楽室の椅子に座り限られた人生の

この先の計画を考えていましたが、私の荷物はドラム缶と

茶箱、トランクの3個で身軽でした。

隈部氏が、パラグワイ行きはチャカリータ駅から出るのだ

が、2男が近くでクリニング屋を開業しているので、荷物は

そこに置いても問題ないと言ってくれたのを考えていま

した。

ブエノス港到着は直ぐ目の前です。ストで遅れてもラプラ

港も側で時間的にはさほど掛かることは無いと考えて

いましたが、日本から持って来たバックサックがあるので、

それを背中に、パラグワイ全土、アルゼンチンも見たい所

は自分の目で見ておきたいと心に感じていました。

何も見もせずに、自分の将来の計画も、予測も、特にこの

南米では政治情勢と、インフレとそれに加えて世界情勢判断

が自分の生き方を決める最重要になると思いました。

海を眺めていると、終戦で家族と台湾の港町、基隆から引き

揚げ船で一番良い洋服、一番良い靴、一番好きな帽子、背中

にリックを背負い、肩から水筒を下げて、引揚の輸送船に

急なタラップを登り乗船したことを思い出していました。

難民と同じ格好で、全ての家財道具なども、最後までお手伝

として働いていた台湾、高砂族の家族に残して来たので、

最後に輸送船に乗船するまで、高砂族の家族が食料などを

運んで来ていましたので、台湾では家族が食料に困る事は

在りませんでしたが、輸送船の食料は赤飯だと思っていた

ら、高粱飯で赤く染まり、台湾の蓬莱米を引揚船に乗船す

るまで食べていたので、食べられませんでした。

両親が苦労して台湾に築き上げた生活基盤も財産も、職も、

家財も全て無くして着た切りでの引揚で、最初から郷里で

スタートした事を考えれば、自分はまだ若く、夢があり、

大きな南米と言う希望の大地に、夢を築くことが出来る幸

せさを持っていました。

引き揚げて来て、郷里の福岡県の大牟田市に祖父の家が有

ったので炭鉱町に育ち、台湾は標準語を話していたので、

九州弁が話せなく「お前はチャンコロか‥」といじめられ、

殴られて強くなり、度胸もあり、喧嘩も強く、子供の頃か

ら、いつかこんな日本から南米に移住して大農園を持つ夢

がありました。

戦後の食糧難で食べる物も苦労していた母親を見ていたの

で、食べると言う基本に苦労する反発も心にあり、配給の

固パンをかじり、生芋をかじり、川で採って来たザリガニ

やシジミ、小魚などを子供仲間で採って来て食べ、バッタや

罠で捕ったスズメなどを焼いて皆で食べた事を思い出して、

母親の「こんな狭い日本で食べる事に困る様な生活ではな

く、子供達は世界に出て人生一度しか無いから、好きな様

に海外に出て生きて行きなさい、」と言う言葉をいつも心

に秘めていました。

それで三人居る姉弟の2人の内、姉は50年以上も昔にドイ

ツに移住して今では帰化してドイツ人として骨を埋める

事で住んでいて、私は世界を歩き、3カ国で永住権を取り、

アメリカに帰化して、ここに骨を埋める覚悟で住んでい

ますし、去年は郷里の里に埋葬している両親の遺骨も

アメリカに持ち帰り、我が家族はアメリカの大地に生き

て、子孫を繁栄させたいと願っています。

次回に続く、






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