2021年1月3日日曜日

私の還暦過去帳(734)

 移住の昔話、(44)

その夜、日本人会宿泊所に帰ってから、パラグワイから

再転住の候補地を探しに来ている、斎藤氏、折本氏と、こ

れまでの話を参考に聞きたくて、夕食をイタリア人レス

トランに一緒に夕食に出て居ました。

明日は荷作りをしてチャカリータ駅まで移住事業団の係

と同行して荷物を預けるまでは移住者に決められた事で

したので、その以降は私の自由で、行動も全て自己責任

で行動しなければならない運命にありました。

先日からブエノスから160kmほど離れた、衛星都市

のチビリコイ市に彼等は視察に出ていたので、その話を

食事しながら、じっくりと聞いていました。

そこのチビリコイ市にはパラグワイから再転住して来た

方が蔬菜栽培で成功して、すでに自分で農園も購入して

土地も拡張する計画だと言うことで、今は新築の住宅を

建設していると言う事でした。

そこの市は、周りは牧場ばかりで、蔬菜栽培は小規模の

ポルトガル人とイタリア人の2軒しかなく、市の周りの

町村も蔬菜需要は全部、ブエノスのアバスト市場からト

ラックで毎日運び込まれていると言う事で、毎日の需要

は12トン積トラックで、2台は運んで来ると言う事で

した。

佐藤氏家族が警察署長の住居付の4ヘクタールの農園を

借りて、歩合で耕作を始めて、3年目で独立したと言う

事でした。4:6の歩合だと言う事でしたが、最初のト

マト栽培が当り、チビリコイ市は1900年にイタリア

人の移住者に開かれた町で、トマトの需要が高く、現地

生産のトマトは新鮮で、日持ちが良く、日本人が生産始め

たら、トマトの皮の厚い、食味も悪いトマトで、輸送に

耐えるトマトの種類で、アルゼンチン北部のボリビア国境

ら冬季は全部運んで来るので、収穫からチビリコイ市に

配達される時は1週間も経っていることが普通で、周り

の町村に行く頃は傷みが多く、日持ちも悪く、そこに現地

生産のアメリカ新品種の大型トマトを早期栽培で出荷した

とたんにブームになり、歩合作付けの協同相手の警察署長が

仰天するほど沢山の需要と、仲買が押しかけてトマトを奪い


合う事になり、警察署長も思ってもみない大金を掴み、それ

でトマトの収穫最盛期には休暇を取り、家族で収穫の手伝い

に来て、大金の取引は全部、警察署長が取り扱い、安全に

保管して日本人家族を守ってくれ、2年目には近くの売り

に出た農園の買い取り交渉までしてくれ、独立したと言う

話に興味がありました。

ブエノスのアバスト市場価格から最低2割は高い蔬菜の値

段で、運送費と仲買のマージンが加算された値段で売れる

事は、郊外の衛星都市での生産が土地も安く、人件費も

ブエノスと田舎では比較にならない差があり、大きな利点

が沢山有り、パラグワイでは考えも出来ない農場経営だと

言う事を聞いて、折本氏の知る、パラグワイの首都、アス

ンション近郊と比較しても問題ならない差があると彼は話

していました。

レストランから宿泊所に帰ってからも、近郊地図を見なが

ら、ブエノスから郊外都市の距離と道路の状態、人口分布

などを考えて折本氏や斎藤氏と議論していました。

私は隈部氏や、多くの周りの方々と、じっくりと話して、

自分の目で見て、比較して自分の方針を決める事に、多く

の政府の企画した、南米計画移住者と比べると、幸せな移

住者だと感じていました。

その当時、パラグワイからブエノスに出て来て、大西洋

のアルゼンチン日本の遠洋漁業の基地、マルデルプラタか

ら漁船に現地雇いとして乗り組む人も多く居ましたが、

漁船の契約雇用と比較しても、チビリコイ市の歩合作の件

は、問題ならない大きな収入だと感じていました。

そして自分の農園を持ち、将来も大きく伸びて行ける経営

も実行できる現実の夢が描ける事は最大の人生計画だと

感じていました。

次回に続く、





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