2021年1月11日月曜日

私の還暦過去帳(741)

 移住の昔話、(51)

首都アスンションは街中は賑やかでした。

バス停に降りて休憩時間も入れると7時間近いドライブで少

疲れていましたが、そこに農大の先輩が私を探しに来てく

れ、「よくここまで一人で来たね・・」と旅の労いを言って

くれ、アスンションからコンセプション・パラグワイまでの

川船がパラナ河の渇水でしばらく運航停止していると教えて

くれました。

先輩は川船が運航停止で、それを心配していましたが、アマ

ンバイ農協から組合長が、鶏卵のビジネスで首都アスンショ

に来ているので、明日に組合長と同行して飛行機で飛ぶ様

したら良いと勧めてくれました。

先輩の有難い勧めに感謝して、飛行機で飛ぶように決めまし

た。車でアスンション市場に行き、組合長を紹介して下さり、

明日朝に、ぺドロ・ファン・カバリェロ市飛ぶ事が決まりま

した。

その当時は、パラグワイのペドロ・ファン・カバリェロ市

と、ブラジル側のポンタ・ポラン市に首都から直接行く国道

開通していなく、船便でコンセプション・パラグワイまで

行きそこからペドロ・ファン・カバリェロ市に陸路が有っ

たのでその経路で旅をして、物資も流れていました。

直接行くには、その当時、パラグワイ空軍が運営するDC3

型の双発プロペラ機の第2次大戦に空飛ぶ貨物機を言われた

飛行機でした。

パラグワイ空軍が使用していたDC3型機は、戦時に降下部

隊専用機として使われた空挺部隊機で、胴体の両側に粗末

キャンバスのシートがあり、真ん中には荷物を積載出来

スペースもあり、胴体のドアは大きく開けられるように

なっていました。

翌日、アマンバイ農協の組合長が泊まっていたホテルに

待ち合わせして、タクシーで同乗して飛行場に行きました。

私が生まれて初めての飛行経験はこの空挺部隊専用機のDC

で、今でも鮮明に覚えています。

第二次大戦の記録映画の様に、機内の装備は全部英語で

表示され、降下用意のランプも、落下傘の命綱を降下する

時に引っ掛ける金具も全部オリジナルの装備が施され、折

りたたみ式のキャンバス・シートが胴体の両側にあり、乗

客はそこにシートベルトをして座りましたが、乗客は僅か

で、荷物が多く、ロープと網をカバーして荷物を固定して

ありました。

飛行機はパカパカとエンジンをアイドリングしていました

が、かなりの排気ガスの黒煙を見て驚いていました。

女性の乗務員が離陸するからと注意してくれ、ドアのロ

ックをして、自転車のチユーブの様な物で、ロックハンド

ルを固定して、それから彼女は自分も座り新聞を読んで

いました。

滑走は短く、直ぐに飛び上がり、パラナ河が見え始めて

高度も低く、地上の景色が全部ハッキリ見えていました。

パラナ川の雄大な流れを上空から見て、原始林の地平線

まで続く緑の広がりは今でも私の目に焼き付いています。

景色を見ていると乗務員の女性が、魔法瓶に入れたコー

ヒーを紙コップに入れて配り、砂糖が入った袋を配ると、

また新を読んでいる様な、のんびりとした機内でした。

赤茶けた大地が見え始めると、組合長がそろそろ着陸する

と言う事で、窓から飛行場を見ると舗装も無い、乾燥した

大地で、蟻の巣が1mほど高く残る、牧場の様な飛行場で、

私には牧場をブルドーザで均しただけの飛行場の感じを

受け、窓から見ていると埃が凄く、ターミナル辺りの建

物の横に停止すると、机を機体の横に運んで来ると形式

的な荷物検査で私のパスポートを見ると、それで全部お

しまいでした。

バックサックの底には拳銃と実弾が入れてありましたが、

フリーパスでした。

降りてまず感じたのが暑いという体感気温で、日差しが

強く赤土のテーラロシアの大地だと実感していました。

飛行場の建物の外に出ると、驚く事に戦前昔の、A 型フ

ォードのホロ付きの車が走っていました。

組合のトヨタ・ランドクルザーの車が迎えに来ていまし

たが、乗り込むと、パラグワイのアマンバイ農協にやっ

と来たかと言う実感が湧いて来ました。

次回に続く、




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