私の還暦過去帳(738)
移住の昔話、(48)
1957年頃にパラグワイに移住した方々は、川船に乗船
して、ブエノス港からパラグワイまで、ラプラタ河を遡上
して行きましたが、内陸国のパラグワイはラプラタ河が
唯一の船舶で外洋に通じる道でした。
隈部氏達が最初にパラグワイに移住して行った時も、川船
に乗船してパラグワイに入国したと話していました。
汽車は遅く、その当時はジーゼル機関車が列車を引いてい
ましたが、列車線路の基盤が悪く、コリエンテのラプラタ
河近くの平原を走行していた時に、列車の枕木がバシャーと
水を跳ねて走っているのを見て、驚いたことがあります。
単調な汽車の旅は、直ぐに周りの人々に溶け込み、友達に
なり、一人旅の日本人の私に、家から持って来た食べ物を
分けてくれました。
アサードと言うアルゼンチンの’焼き肉、チキンの丸焼き、
ハム、ソーセージ、ミラネッサ、サンドイッチなどお裾分け
が沢山来ました。これには助かりましたが、皆は親切で、
片言のスペイン語しか話せない私の会話を聞いてくれ、良い
会話のレッスンでした。
アルゼンチン側の終点、ポサダまで約1300Kmはあり、
線路基盤が悪いのでスピードが遅く、日本から比較したら
国際列車と言うけれども、鈍行列車でした。
パンパの大平原を走っている時に、うとうと眠り、目が覚め
ても同じ景色が流れていました。
列車が大平原の真ん中に急に停車したので、何事かと窓から
見ると、機関車の故障だと言う事で、救援機関車が来るまで
しばらく待機だと言う事でしたが、窓から車掌を見ていると
、側の電柱の2本の電線に、組み立て式の竿の先に取り付け
られたクリップを2カ所挟んで、軍隊が使う野戦電話の様に
ハンドルをグルグルと回して、どこか呼び出していましたが、
当時は携帯も無く、列車には非常用無線機も無いので、旧式
な電話でどこかと話していましたが、それで通話が出来る
ので驚いていました。
救援列車はそれから3時間ばかりして、故障の機関車を
引いて、近くの田舎の駅に停車していました。
しばらく修理に時間が掛かると言う事で、田舎の駅の
構内は自由に歩いて良いことになり、駅の周りには引き
込み線があり、牛を貨車に載せる大きな施設がありま
した。
しばらくすると駅の周りには物売りが集まり始めて、皆
が、自分の家で作ったエンパナーダやサンドイッチに、
チーズやトウモロコシの皮に巻いた日本のちまきの様な
熱い出来立ての物を売りに来ていました。
乗客に聞くと、この駅は列車のすれ違いで、停車が長く、
いつも沢山の物売りが来ると言う事でした。
長い退屈な汽車の旅で、この機関車の故障は私には良い
中休みになり、下車して歩き回り、物売りを見に行き
試食して、美味しいサラミを2本買いました。
物売りは駅構内の柵から中には入れなく、警官が監視
しているので。柵の前で商売していました。
しばらく歩いて柵際に来ると、子供連れの若い女性が
籠を持ち、遅れて来た様で、何か売っているので籠の
中を見た所が、まだ熱々の湯気が出ている、トウモロ
コシの皮に巻いたちまきの様な物を売っていました。
一つ買って食べるとな中にはトウモロコシの粉と挽肉
と玉ねぎなどを炒めて餡子の様にして入れてあり、美味
い物でした。
私は周りの乗客に沢山の食べ物を頂いていたので、籠
全部、幾らかと聞くと、30個ばかりあると言うと、
全部買ってくれるなら、安くすると言うので、籠ごと
全部買い、籠を持って列車に戻り、皆に貴方の食べ物
を頂いて有難う‥と言って配りましたが、熱々の物で
皆に喜んで貰えました。
籠を返しに行く時に、ブエノスで買ったリンゴが有っ
たのでそれを入れて返すと、子供が喜んでくれて、
若い女性も私に感謝の言葉を言ってくれました。
この駅の停車は3時間以上もありましたが、退屈も
せず、田舎の町の素朴な状況が分かり、皆が現金収
入で内職をしていると感じていました。
今でも駅の側に大きなユーカリの木が並んで、馬車が
走り、馬に乗ったガウチョウーの牧童が通るのを思い
出します。
列車は2日間、1300kmも走るので、景色も周りの
様子も段々と変化して来て、自分が亜熱帯の地域に
入って行くと感じていました。
ポサダ駅までは長い距離でした。
次回に続く、
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