2021年1月15日金曜日

私の還暦過去帳(745)

 移住の昔話、(55)

原始林の開墾現場を見せて頂いて、そこに永年作のコーヒー

を植えて、家の周りにはバナナやパパイヤ、オレンジなど

の果樹が植えられ、鶏達がヒヨコを連れて木陰で餌を食べ、

井戸の近くには野菜畑があり、罠で捕らえた大トカゲが

食用にするので、木の枝に吊るされ、飼われているオウム

の鳥が大きな声で、それも日本語で「おはようー!」言い

飼われている番犬が、日本人には尾を振って人懐こい様子

で近寄って来て、パラグワイの現地人には、凄い感じで

吠えている犬達には驚き、全ては田舎の日本人開拓地の

様子でした。

私が驚いた事はホンダの50ccのカブと言われたオート

バイが日本から持ち込まれて、活躍していた事には、こん

パラグワイの熱い大地の辺地で、タフに走って居た事は

感激と経済的でエンジンの整備も容易く、誇りに感じていま

した。

1958年に発売と同時に爆発的なブームを生み出して、

今でも生産されているホンダのカブ号にパラグワイの

開拓地で再会したことは、懐かしいと同時に、この様な

優秀なオートバイが世界で活躍する事を外国に出て、初め

て感じていました。

今でも赤茶けた土道をフォーサイクルの軽やかなエンジン

音を響かせて、後ろの荷台に奥さんを乗せて、弁当と水筒

を持ち、これからコーヒの手入れに行くと言って走り去った

のを見て、心に日本製品に感激と誇りを感じていました。

1960年代は原始林を伐採して、農場、牧場、新聞用紙

に使うパルプ原料にするユーカリの木など、植林が多く行

われていました。

その頃はまだ世界の食料生産地図も、現在の様に急激な変

化をすることなく、その当時のパラグワイのエンカナシオン

からイグワス移住地まで、原生林のジャングルが続いていま

したが、現在では250kmほどの区間は全部開拓され、広

大な農地に代わっています。

その当時のペドロ・ファン・カバリェーロ市の周辺は原生林

があり、ポンタ・ポラン市に通じるノロエステ線の鉄道工夫

達は腰に38口径の拳銃をぶら下げている様な時代でした。

ポンタ・ポラン市には野生動物の毛皮をビジネスにする店

もあり、その当時、日本などに高級ハンドバックの材料と

して、大型で傷も無く、成獣の赤トカゲ皮が当時の日本円で

1万円もしていました。

赤トカゲの皮などは貴重品だと言う事でしたが、南米オンサ

と言われる南米ジャガーの毛皮も飾ってあり、まだ野生動物

が居て、ビジネスとして成り立つ店があることに、驚いてい

ました。

街中に銃砲店があり、新品や中古の拳銃、ライフル、散弾銃

などが陳列してあり、店の横では鉄砲鍛冶屋が修理する様子も

見れて、古いレボルバー拳銃のレンコン式弾倉が、いくつも

紐に通して、飾りにしてある光景に驚いて見ていました。

まだその当時は、古き良き昔の田舎の時代を見た感じでした。

ポンタ・ポラン市街中のカフェー屋で、コーヒーの小カップ

に自分で砂糖を先に入れ、そこにコーヒーを注いでくれる

1杯のコーヒー代が、当時の日本円で10円もしない値段で、

ラジオから流れる現地のガラニー語での音楽を聞いていると、

昼のギラギラした亜熱帯の太陽の輝きと、赤く染みついた

テーラロシアの土壌の色が紙幣まで染まっているのには、

日本から遠く離れた世界の裏側まで来たと言う実感がこの

身で体感する様でした。

街中を歩いていると、聞こえて来るラジオの音楽が、放送

局が少ないので、全部同じ音楽で、200mも歩いていて

も同じリズムの音楽が聞こえて来たのには、驚きと同時に

笑ってしまいました。

毎日出歩いて宿泊所に帰ると夜遅くまで、反省会の様子

で自分が見て感じた事を話し合い、後輩の意見も聞いて

真剣な話をしていました。

この事はこれからの、第三者的な批判の目を養い、論理的

なものではなく、生きる、生きて行く、生き残る為の方針

を、そして将来の方針を決める重要な1歩に成ったと感じて

います。

次回に続く、




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