2021年1月14日木曜日

私の還暦過去帳(744)

 移住の昔話、(54)

翌朝早朝に組合のランクルに同乗させて頂き、ジャングル

の開墾現場を見に行きました。

かなりの距離があり、途中の道端に牛がトラックなどに跳

ねられて死んでるのを見ましたが、すでにハゲタカが近く

の木に止っていました。

現地のトラックは車の前には牛除けの頑丈なバンパーを

取り付けてあり、アルゼンチンの沼地が多い、コリエンテ

地方などを通過するトラックや車には水鳥避けの金網を張

てあり、土道と砂利道を走るトラックなどは、装甲車の

様に、運転席にフロントガラスに、全体にべニア板を張っ

て、運転席前に30cmぐらいの窓に強化プラスチックを

張ってあるトラックを多数見たことがあります。

赤土の道路は雨が降れば通行禁止になり、雨が止んでも

原始林のトンネルの中の道は乾きが遅く、滑る道路に横転

しているトラックを何度も見たことがあります。

原始林の開墾現場は山火事に襲われた様に、焼けて大木が

横たわり、伐採した丸太を寄せ焼きをしている煙が見えて

いました。

その朝にお訪ねした家は、ジョンソン耕地に入植して、そ

こから出て、アマンバイ農協を作り独立して自分の農場を

開墾している方でしたが、開いた土地に、ハッカの種を植

え、それを刈り取り、いくらでも材木があるので、それを

使い、窯で蒸留してハッカのエッセンスを採っていました。

その当時はハッカの国際相場も良く、少量で現金収入にな

るので、それと原液は地下30cm以下に埋めえて置く

と変質も傷みも無く、20リッタの容器に詰めて、奥地か

ら運搬する事も容易く、良い作物でした。

その間にコーヒーの苗木を育てて、植えて行き、コーヒー

の間には、大豆や、トウモロコシを植えていました。

その頃は養鶏を始める方も多く、品質も良く、首都アスン

ションには空輸しても採算が取れるビジネスでした。

開墾畑には直径1m以上もある大木が横たわり、全部大木

は土を被せる様にして放置されていましたが、取り除く

機械力も無く、人力で土を被せるだけで、2年もすれば

ボロボロに木が腐り、土に帰ると言う自然の力を利用し

た畑造りでした。

コーヒーの苗木を植え付けてある畑は、霜の被害を防ぐ

方法として、40cmぐらい穴を掘ってあり、その中

に植えて井桁の様に木の枝で、囲ってありました。

ジョンソン耕地のオナーが霜でコーヒーの木が大損害

を受けた時に、1ヘクタール辺り4~5本、大木を伐採

しないで霜よけに残す、「モンテカフェー」という方法

も見ました。その後にジョンソン氏を訪ねた時に、そ

のモンテカフェーの成木のコーヒー畑を見せてくれまし

たが、彼がモンテカフェーの畑で、成木のコーヒーの木

でも、大霜の時は70~75%は被害があると、話して

くれました。

彼はその時は、コーヒーだけにこだわりなく、キャピタ

ンバードと言う地域から、ガラニー・インジオ達がお茶に

使うステビア草を裏庭に試験栽培していました。

そのステビア草は、1960年代のヒッピー達に、僅かに

自然のステビア草を現地人が採取して、アメリカに送られ

自然食品店で売られているだけだと言う事でしたが、自然

の甘味料としては大きなビジネスチャンスだと話してい

ました。

彼の予言の様に今では全世界で使用され、食品や医薬品に

使用されていますが、あの時にジョンソン氏がこのステビア

草はコーヒーに取って代わる作物になると彼の話を覚えて

います。少しばかり片言の英語が出来て、肩書が農業技師と

彼に話したので、ジョンソン氏がステビア草の話を聞かせて

くれたと思います。

彼はその当時かなりの年配で、独身でカーボイハットに、

カーボイシユーズを履いて、ジープを運転していましたが、

アメリカから2名の男の子供を養子にしていました。

彼に面会出来たことは、私に大きな影響を与えてくれ、実践

の農業経営の中に積み上げた経験を話す、控えめな話し方を

今でも思い出します。

彼の家はアメリカ西部に良く見られる様な、玄関先に大きな

ポーチがあり、入り口の脇には大きな椅子が置かれていま

した。

帰りには彼が自分で、ジープを運転して町まで送ってくれ

ましたが、別れ際に「貴方の成功を祈る・・」と言って

握手してくれましたが、その長身の姿と手の大きさを記憶に

今でも留めています。

次回に続く、




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