2021年1月19日火曜日

私の還暦過去帳(749)

 移住の昔話、(59)

トラックは砂地が多い道路は、人の歩くスピードで進んで

いました。

ローギアーで、エンジンを吹かして進むトラックの運転は

見事で、両側がジャングルのトンネルの道は、木の枝が垂

れ下がり、うとうとしている眠りを破られ、時には木の枝

がバシャー!と音を立てて運転席の屋根をかすめていまし

た。原始林を横切る道路は土道ばかりで、埃も酷く、荷台

に乗車するのも危険で過酷でした。

荷台でトロトロを目を閉じて学生時代に、北海道を無銭

旅行をしていた夢をみていましたが、根室市に行く途中に

ヒッチハイクした車が農家の車で、途中の道路で下車して、

通る車も無く、田舎道をバックサックを背負い、トボトボと

歩いていたら、霧も出て来て、道の側に電柱が並んでいる

その上に、カラスが電柱1本に、1羽とまっていて、その下を

通る時に、「ギャー!」とカラスが順送りに鳴いていた心

細い、寂しい道を思い出していました。

霧の濃ゆくなる中に、ヘッドライトの光を見た時に、安堵と

助かったと思いに、目が覚めていましたが、その事は印象深

く、当時のメモ帳に書き残してありました。

道路がよく整備されている様になり、石畳の道路になり、その

後、夜が明ける頃に、人家が見え始めて、畑も、牧場も見

えて来ました。

コンセプション・パラグワイの町はパラナ河の水利を得て

町が大きく成った歴史がありますが、その当時はうら寂し

町で、早朝の警察署の周りを、囚人を使い、掃除させてい

いるのが見え、街路には馬車が走り、ほどなくパラナ河に

近い倉庫に到着したので、川船の運航を聞くと、2日間も

待たなければならなく、宿代と時間を考えると飛行機で飛

ぶ事を考えて、事務所から飛行場に問い合わせをして貰い

ましたが、午後の便は座席が沢山あると言う事で、飛行機

に後輩と話して決めました。

それまで時間潰しに、波止場の近くにあるホテルで朝食を

食べて、シャワーを浴び、休憩する事にして歩いて行きま

したが、ドイツ系の主人は親切で、自家製のハムを朝食に

出してくれました。埃まみれで、シャワーを浴びて下着も

交換して、飛行機に搭乗するので奇麗に身支度していま

した。

タクシーで後輩と飛行場に行き、予約の名前を言って、

料金を払い、同じDC3双発プロペラの 旅客機で、

アスンションに飛び立ちました。

着陸まで座席でぐっすりと寝ていましたが、トラック

で寝れなかったの、疲れていたと思います。

アスンションはアマンバイの組合長が紹介してくれた

ペンションに泊まりましたが、その近くに日本食レス

トランもあり、久しぶりに後輩とその日本食レストラ

ンを訪れましたが、日本人の会話が聞こえて来たので

したが、その会話は今でも忘れる事が出来なく、覚えて

います。パラグワイの大使館員と感じる人の言葉は、

「こんな地球の裏側の海魚も食べられない田舎の国に

来て、ドルが貯まるのが楽しみで居る様なものがだ、早

く、本省に戻り家族と暮らしたい」という様な話で、

「パラグワイの日本人移住者達は、原始林伐採して開墾

しているが、大宅壮一氏が話していた様に南米移住は

「明治を見たければブラジルへ行け」と言う様な毒舌家でしたが、

「3代目はサルに退化するのではないか・・」というダジ

ャレを交えて酒の肴に、移住者達をしているのには激怒して

いました。

その話を聞いていたので、日本大使館に寄り、移住者達の

困窮と子供達の教育環境に苦言を言いに行きましたが、応対

に出た大使館員は、「パラグワイは開拓初期だから、その

くらいは覚悟が無ければ移住は出来ない」とかの対応で激怒

して、「戦前の1937年からラ・コルメナ移住地は開かれて

いるのだー!」と反論すると、ちょいと、用事があると奥に

引っ込み、2度と出て来ませんでした。

私は無意識に腰の拳銃を探していたのですが、ペンションに

置いて来たので、事件は起こさなかったのですが、瞬時に考えた

事は、「パラグワイ日本大使館で、事件を起こせば少しは再考

すると考えていました」

次回に続く、




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