私の還暦過去帳(747)
移住の昔話、(57)
パラグアイに移住した人々で、大雑把に分類すると3組の
考えを持つグループに分かれると思います。
1、パラグアイを生涯の住家と定め、安住の地として、そ
の大地での家族の繁栄を願うブループ。
2、あくまでも出稼ぎ的な、昔の田舎から海外に移住した
一旗組と同じ感覚での、移住者のグループ。
3、理想を求めて、自分の将来を学んだ技術と経験での
『人生一度、自分の情熱を試したい』と言う比較的若
い世代のグループ。
私が個人的な偏見での分類ですが、しかし、そのどれかに
入るか、複数でその分類のカテゴリーの中に含まれると感
じます。
その(2)の中の一旗組も、あきらめ的な感覚と、住めば都の
生活で、パラグアイ化した感覚が芽生えて、成長して安住の
地と傾いて行った人も多いと感じます。
その中には、戦後を過ぎて高度成長する、日本在住の親の
遺産分けや、遺産相続での財産をパラグアイで受け取り、
それを元手に事業を拡大して安定経営と、再投資しての
家族の子供達の成長につれて、教育と農業や、それに関連
する事業の投資で規模拡大と将来性を掴んだグループも
見逃す事は出来ません。
この件はアルゼンチンにパラグアイから転移住して行った
人々も含まれます。
そしてその事例も目にして、洗濯屋の増設、温室の増設
などで経営規模の拡大と、いざと言う時の、情勢不安の為
のドル預金などを持ち、将来の安定成長を掴んだ人達も、
アルゼンチンで安住の地を掴んだと感じます。
パラグアイでの入植からの年月が経つにつれて、正比例す
る様にして、パラグアイから隣国に転移住して行く人達や、
帰国する人などの動きがありました。
そのパラグアイで、初期の貧困時期に突然訪ねた移住地の
家族の夕食に、テーブルを同じくして食卓を囲んだ事が有
ります、調味料が岩塩を瓶で潰したものだけで、飼ってい
たニワトリをつぶして味噌汁に入れて有り、野菜が無くて、
ラッキョーの漬物が有るだけでした。
そこの家族の16歳の女の子供を、アルゼンチンのポサダま
で、お手伝いとして、連れて行くのを手助けした事が有ります。
長男もそれから直ぐにブエノスの花屋に仕事に出ていきました。
いくらかの現金収入となり、家族を助けていました。
初期の生活困窮時代は子供を高等教育することが出来ずに、隣
国に仕事にでるケースが多くて、その事が親を呼び寄せる一番
の原因となりました。
アルゼンチンではそのケースが顕著でした。
その後、時代が動いて日本に居る親兄弟が子弟の教育や、日本
での仕事の呼び寄せとして、祖国日本で修学や就職をしに、帰
国したケースがかなり有ります。
パラグアイでは日本語学校の普及でかなりの子弟が日本語に堪能
で、その事が大きく手助けしたと感じます。
隣国アルゼンチンにはポサダ市に勉学に出たり、ロサリオの町に
までパラグアイからの日系学生が来ていました。
その他アルゼンチンでの嫁不足の解消に多くのアルゼンチン農家
がパラグアイから出て、安定して農業や洗濯屋の事業を始めた人
が、日本から来て、日本語が話せて、農業などに違和感が無い、
若い日本人女性をパラグアイから迎え入れています。
60年当時アスンシオンで、養蜂などをしていた坂梨氏がその
後、日本食品の行商販売で、パラグアイとアルゼンチンを往復
して、日本米やもち米、あずきアルゼンチンから海産物や輸入
日本食品などを交易して、それに連れて移住地での求職情報や
花嫁情報がアルゼンチンに流れて、大きな情報と成って行った
と感じます。
人の流れが無いと、日系人の動向もニユースとは成りません、
当時の電話やパソコンも無い時代に貴重な情報源でした。
1965年ぐらいからは、特にアルゼンチンへ行く若い世代
が増えた時期でした。
次回に続く、
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