2021年1月26日火曜日

私の還暦過去帳(755)

 移住の昔話,(65)

パラグワイのアマンバイ農協で出会った農大の後輩と

各地を視察して歩きましたが、彼はラ・コルメナ移住地

の歴史も知り、現在の移住者達の困難な状況も理解して

いました。

1946年と1947年に空が暗くなるような、バッタ

の襲来に殆どの農作物が全滅した事は、以前に隈部氏か

ら聞いていましたが、現地で残って居る農家の日本人が

その時の状況をどこから飛んできたか、どのような被害

が出たか、自分の畑で指さしながら話してくれた事は、

ショックでした。

その他、大霜の被害、130kmと首都のアスンションま

で、舗装道路が’完成したのが1965年という事で、それ

からトラックでの近郊野菜栽培品などが輸送も出来る様に

なったと言う事でしたが、大きな苦労を背負って、その当

時のラ・コルメナ移住地に住んでいた農家の方達の努力に

は深く頭が下がる様でした。

その後、後輩とアスンションンに戻り、私はエンカナシオン

に行き、後輩はブラジルに戻り、研修実習生としてサンパ

ウロに行くと言う事で別れましたが、彼に次に会ったのは

1976年、ブラジルのアマゾン河の下流の町、べレムの

郊外にピメンタ(胡椒)栽培の傍ら、ビジネスを開いて

居ました。

別れの時に彼と、これからのお互いの健闘を称えて握手

して別れた時を思い出して、抱き合って再会を祝していま

した。すでに同期生の3分の2は亡くなり、全てが忘却の

彼方に消え様としている過去の出来事を、少しは書き残して

記録にしたいと考えています。

アスンションから、エンカナシオンまでのバスの中で、

年配の邦人と同乗しましたが、ラ・コルメナ出身で、その

当時、フラム移住地に再移住していた方の様でした。

長いバスの時間に言葉少なく、「自分で選んだ人生を今更

悔やんでも何もならない、これからの人生を有効に生かして

この地球に生まれて来た事を記念とする農場をパラグワイ

の大地に刻み、私の次の世代に残したい」という話でした。

今ではフラム移住地は広大な農場が広がり、大豆畑の地平線

までの広がりを見る事が出来ますが、8年ほど昔に訪れた時

に、「私の農場の大豆収穫量は500トンの河船一隻分は

あります。」と淡々と話していましたが、時代の変遷は多く

の社会構造まで変化して、世界の食料生産地図も塗り替えら

れて、パラナ河には橋が架かり、インターネット網が完備し

て、ホテルの部屋でスカイプで日本と1時間でも話せて、衛星

テレビも、自宅で日本のTV番組を茶の間でコーヒーで飲み

ながら見れる時代になり、大きく時代が変化したと実感する

世の中になり、移住の根本から変化して来たと感じています。

次回に続く、

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