2021年1月24日日曜日

私の還暦過去帳(753)

 移住の昔話,(63)  

人曰く、「移民は棄民、移住は人減らしの方策、移民は金

儲けの一旗揚げる方策、金を稼げば日本に送金し、外貨を

日本に持ち帰る鵜と同じ、移住関連の役所は、政府の天下り

の役人の受け皿、移住地選定は役人の海外旅行、移住地視察

は名目だけで予算の消化と大名旅行、移住地の土地購入は

政府の予算消化の方策、石ころだけのドミニカ移住地で、

ろくな作物も収穫できない農地で、飢えて豚の飼料の青バ

ナナも茹でて食べればお腹が膨れるが、役人も食べさして

見たい」とか話していたドミニカからのアルゼンチンに

再移住者達から聞いた言葉でした。

パラグアイでは移住者が戦前と戦後に別れて入植した所は

1ヶ所でした。ラ・コルメナ移住地で戦前に入植した人達

は戦争中は隣国に転住することが難しく、移動が困難でした。

定期的に警察所に出頭して、住居確認と人員確認を受けて

いた様でした。

その事はアルゼンチンでも、郊外に住んでいた人が話して

くれましたが、パラグアイと同じ様に警察所に顔を出して、

挨拶するだけで帰宅していた様でした。

しかし、終戦間際になると、殆ど1ヶ月に一度ぐらいにな

っていた様で、行かなくても何も言われる事はなかったそ

うです。

戦前の移住者が隣国に再移住して行った原因も調べる事も

余り無くて、戦後、第2コルメナ移住地が造成され、移住

者が移住事業団からの、戦後の余剰人口の調整の為に移住

が再開された感じでした。

戦後の移住再開でも戦前の入植者の脱耕した根本的な原因

は調査されずに、再開されたと感じました。

それは第2移住地を訪ねて、戦後移住してきた方を訪ねて、

膝を交えて話をする機会が有りました。

戦前のコルメナ最初の移住者と直接アルゼンチンで話して、

その問題点を探り、どのような問題点が戦前と戦後で一致

するか、比較した事が有ります。

1・経済的環境の日本的な感覚からした、誤算的な見方と

  その事実的な経済的生活困窮から来る不満の一致。

2・教育環境の不備と子供に掛ける将来の不安。 

3・パラグアイ国に対しての発展と経済的な予測が、農業 

 経営から見て、予測が貧困的なネガテイブな自給自足的

 な経営を強いられる経営形態を直ぐに改善出来ない予測。

4・事業団の係員が話した、ばら色のパラグアイの予測と、

  将来が不安と混迷から、体験と現実から学んだ自己の

  予測が隣国再移住と言う結論に達した事。

具体的な言葉として戦後の移住者達が私に話した事は、

『前もってコルメナとパラグアイ移住地を見ていたら、こん

な所にには移住して来る事は無かった。』と言う多くの人の

言葉でした。

今さら日本の財産も整理して来たので、おめおめと負け

犬の様に日本には帰国は出来ないと言う根性が出来ていま

した。

答えとして、隣国に転住する費用とチャンスが有れば再移

住を考えている人が居たと言う事です。

この事を総体として、現在のラ・コルメナを見ると、日本

人と、日系人総合の人口総数を見ると、自然増加を考えな

くても、いかに沢山の日本人がコルメナから出て行ったか

を知ることが出来ます。

次回に続く、  

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