2021年1月22日金曜日

私の還暦過去帳(752)

 移住の昔話、(62)

パラグアイ移住のからの転住者をアルゼンチンで見ると、

その中には当然私も1960年代の単身移住者として、

その数に入りますが,多くのパラグアイからのて転移住者

がブエノス郊外で、蔬菜栽培、花の温室栽培、洗濯屋な

どの三代日系人職種に携わり、中には壮健な小数の人が、

日本漁船に乗り組み現地採用として仕事をしていました。


魚業関連では当時の大手水産会社が、当時、唯一に魚が

自然死していると言われた、南極に近い大西洋での豊富

な漁場での操業で、日本からの交替要員の経費節約の関

係からも、当時多くのパラグアイからの転移住者が給料

の良さに引かれて応募した職場でした。

その他ほんの僅かな人が、アルゼンチンの辺ぴな田舎で、

当時アルゼンチンでは食料とはされていない馬を馬肉に

する為に、馬を買い集めていた人も居ました。

日本では当時食生活の変化でソセージの需要を充たす為

に、安い単価の馬肉使うソセージを製造する為に、その

仲買の仕事をしていたような人も居ました。

しかし殆どはブエノス近郊での蔬菜、花、洗濯屋などで

仕事をして、タノモシ講での仲間金融で資金を得て、独

立して行きましたが、80年台に情勢が急変して、日本

出稼ぎブームからは全てが一変して行き、私が仕事をし

ていた郊外の小さな町では10家族ぐらい居た日本人が

現在では僅か半分の5家族となっています。

その内に現在でも出稼ぎに出ている家族は2軒有り、そ

の衰退ぶりが、日本人会の消滅、日本語学校の廃校など

大きな影響が有ります。

パラグアイから出てから、その後の人の流れと動きを見

てみたいと思います。

パラグアイ移住者の動きをラ・コルメナ移住時代からの

転住先を見てみると、一番多いのがやはりアルゼンチン

です、スペイン語が共通の言語であり、ラプラタ河の本

流と支流の関係で、鉄道もチャカリータ駅までの直行便

がパラグアイと繋いでおり、関連性としては、かなり引

きつける魅力も大きいと感じます。

当時は移住者は殆どがブエノス下船かラプラタ下船のど

っちかで、ブエノス市内の日本人会館の宿泊所で泊まり、

休憩と荷物の受け渡しで2~3泊してから汽車で、パラ

グアイに向けて出発して行きました。

荷物が河船に乗せ変えられ、エンカナシオンの町まで運ば

れたと言う事を聞いた事が有りますが、初期の移住者達が

利用した事が記録に残って居ます。


パラグアイとアルゼンチンとは共通の言語と河と鉄道と

道路で繋がり連帯する多くの事が有ります。

1964年にポサダからバスでブエノスまでで乗車した事

がありますが、道路も比較的良く、途中からはパン・アメリ

カンハイウエーの工事中でしたが、途中、高速道路が利用

でき快適な旅でした。

貨物輸送も毎日定期便がポサダとブエノス間をトラックが

結んでおり、転移住者が家族を連れて、荷物を担いで行く

としても無理なコースではなく、比較的楽に行けたと感じ

ます。

この事がパらグワイから、戦前、戦後の移住者達が

アルゼンチンに再移住をして来た根本の理由では

ないかと考えます。

次回に続く、

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