私の還暦過去帳(751)
移住の昔話、(61)
パラグワイの首都、アスンション郊外には日本人の近郊蔬
菜栽培者が増えて来た時期で、フラム移住地から出て来て、
トマト栽培で当り、その当時輸入品のフォード・トラック
の新車を購入していた人も見ました。
エンカナシオンは過当競争で、野菜の販路も無く、日本人
達が野菜類を籠に入れて自転車で1軒、1軒と売り歩く、行商
もしていましたが、それも僅かな現金収入で、生活向上まで
は無理で、食べるだけの商いでした。
アスンション近郊を後輩と歩いて見学していましたが、
日本の田舎の村根性という、仲間意識と排他的な考えを
持つ人がいましたが、開拓初期に、競争の様に、「俺は
5町歩も開墾した」とか、「他の移住地では10町歩も
開墾した者が居る」とか競争意識の果てに、営農資金を
無駄に開墾に使い、その後の植え付けや、農機具購入な
どの資金不足に直面する様な人も出てきていました。
在学中に農村調査で農家を訪れて、時には泊まり込みで
農作業を手伝い、話を聞いていた事が大きく役に立ち、
パラグワイに来てその経験が生きて、日本の田舎の農家
意識をよく理解していたので、パラグワイでは日本と
同じく、もっと限定された狭い範囲の移住地内の農村意
識がある感じでした。
アスンション近郊はソコソコに切り上げて、ラ・コル
メナ移住地に、後輩とバスで訪れましたが、隈部氏の
昔の土地も、今はどう変化しているか、それも見たいと
考えていましたが、今回は戦後、入植された第2、ラ・
コルメナ移住地を訪問することが主眼でした。
隈部氏の言う様にアスンションから、130kmほども
離れて、近郊蔬菜の栽培も昔では無理で、綿や、大豆
などの植え付けだけでは営農も無理だと感じていま
した。
今では果物の栽培で、ブドウや果樹の植え付けで成功
していますが、一時はワイン醸造も行っていたのです
が、アルゼンチン産の格安の生産価格と、生産量でこ
れも競争力が無く生産中止になりました。
後輩とラ・コルメナ移住地を疲れるぐらい歩きまわり
ましたが、昔は牛車だけの運搬力では、生産物の運搬
と、道の悪さを考えれば生産物が限定されると考えて
いました。
戦後、入植された方を訪問した時に、奥様がランチ時
間にしみじみと話された『移住してくる前に、この土
地を見て、パラグワイの国を見て、移住地の環境を見
ていれば、決して移住はしてくることも無かった』と
話してくれたことに、少しショックでした。
現在では邦人のラ・コルメナに居る数も少なく、8年
ほど昔に訪ねた時には、若者たちが18歳になれば、
10人内に8人は日本に出稼ぎに行くという事態では
高等教育も、人材育成も無理だと話していました。
その方も、お店を開いていた方でしたが、私も3年ほど
一人で日本に出稼ぎに出ていたという事でしたが、全て
の事態が日本の高度成長と繁栄に南米の移住地まで、
影響を与えて、過疎、移住地社会の崩壊、移住の根本ま
で消え去る事になったと実感していました。
ラ・コルメナを見て、隈部氏の言う事が身に染みて感じ
、また考えさせらました。
次回に続く、
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