2021年1月27日水曜日

私の還暦過去帳(756)

 移住の昔話,(66)

エンカナシオンの町に戻り、ペンション滝本に泊まって

いました。

これから日本人会宿泊所でお会いした、折本氏と斎藤氏を

訪ねる事でした。

リオネグロ州方面のアルゼンチン南に降りて視察してい

るので、今だ帰宅していないと考えていましたが、奥さん

と子供、折本氏の両親が居ると言う事で、ツングー(油桐)

の木を日本の白桃の木を育てる技術で、周りのドイツ人

が驚く様な育成をしていたのを見たいと考えていました。

ツングーも、ペイントの化学製品が普及すると、アッと言う

間に破綻して売り物にも出来ずに、今では放置してあると言う

事でしたが、営農資金を使い、ツングーの永年作を植え付け、

育てて、収穫できる時期になると全く売れなくなると言う悲劇

になり、移住者の苦労は計り知れない物と感じていました。


それから、学生時代に四国の山奥の平家の落ち武者の地と言わ

れる、松山まで歩いて4時間ばかりで出れるという山奥の農家を

訪ねた事がありますが、冬場は3時に谷間の家は日が暮れると言

う山奥でした。

私が訪ねた時は段々畑を増築する石を砕く音が響いていました。

そこからパラグワイに移住して来て居る、農家を訪ねる事も計画

していました。

四国の山奥の農家を訪ねた時は1日に1本の、ボンネット式の定期

バスがあり、終点で泊まり、翌朝高知に戻ると言うバスでした。

米作は生産量は僅かで、粟と蕎麦が主で、朝は囲炉裏の側で、蕎麦

がきをして朝食にしていました。

蕎麦粉を椀に入れ、熱湯を注いで、練り餅状にして夕食の残りの

煮物などと食べていました。

冬は関西方面に出稼ぎに出て、移住もその頃は盛んで、ブラジルや

パラグワイに移住者募集の張り紙が役場にありました。

移住前の四国の農家と移住後のパラグワイのピラポーで営農され

ていた同じ農家を訪ねた事がありますが、まず驚いた事は、稲穂が

垂れる田圃が2町歩もあったことです。

山林労働者をしていたので、必要な土地だけ開墾して、原始林は

むやみに伐採しなくて、保存してありました。

家の周りには野菜畑とマンジョウカや、バナナにオレンジ、パパイヤ

などが植えてあり、カボチャやトウモロコシを植えて、豚の飼料と

して、養豚もしていました。

完全な自給自足体制が出来て、天井の梁にはハムの塊がぶら下げて

あり、ドイツ人から学んだソーセージ作りもしていました。

主人が話してくれた事は、四国の山奥の生活より豊かな、家族揃い

生活できて、もち米の生産で現金収入もあり、ドイツ人やロシア人

達の生き方も学んで、パラグワイに住めば都の生活をしていると

言う事でしたが、将来はレンガ造りの家を建てたいと話していました。


ささやかな生活が出来る環境を手にして、四国の山奥暮らしの、冬場

は関西方面に家族と別れて出稼ぎに出ていた頃を考えると、今の生活

が心も安定して幸せだと言う気分で、上を見れば切りが無く、欲を

出せば気分も焦る様になると言う話に、ドイツ人やロシア人達が、

ここを貧しいながら、自分の城に替えようと努力をしている姿に似て

居ると感じていました。

主人がこのパラグワイでは子供の時代に芽が出て、成長して、花が

咲く様になるという希望があると、話していた事には感激していま

した。

次回に続く、







0 件のコメント:

コメントを投稿

登録 コメントの投稿 [Atom]

<< ホーム