2011年12月31日土曜日

私の還暦過去帳(128)

戦争が終り、戦地から復員してくる人がボツボツと郷里の町に見
られる様になった頃でした。私の家族は当時はまだ焼け野原の
市街地から離れた、住宅地の新興住宅地でマーケットを開いて
いました。その頃はまだ子供で、現在では余り記憶も残っては

居ませんが、この話は良く心に刻まれて残っています。
その老婦夫のご主人が目が見えなくて、そのワイフが杖を
片手にして、ご主人を引いて店先に来ます、そして大声で。

『きたきたーーほいなら、きたきたホーイ~!
 アラーーがまだしゃ(頑張れば)はいやー、ホイのホイー!』
と言う簡単で、直ぐに覚えられる唄でした。

かなりの高齢で、戦災で家を焼かれ、まだ防空壕に住んでいまし
たが、かなりの距離をゲタを履いて歩いて来ていました。
すると、直ぐに子供達が、廻りを囲み、今日は何が要るか聞いて
居ました。
米、味噌、砂糖、塩、ロウソクなど全て、生活用品でした。

終戦後まだ日が浅い時期です、食べる物にも困っていた時代で、
皆が助け合い、分かち合い、支え合い、生きていた頃です。

餓鬼大将がすばやく、手分けして近所に知らせに走ります。
まだ朝の食事も済んでいないと言う事も、知らせていました。
それからが老婦夫が門付けの唄を歌うと、湯呑み茶碗に米が
山盛り盛られて、子供達が各自下げた袋に入れられ、子供が

大声で『おばさん~!お米、有り難う御座いますーー!』と
近所に聞える様に、デカイ声で怒鳴ります。次ぎは味噌を竹の
皮に包んで貰い、そこでも大声でお礼を叫んでいます。
袋は直ぐに沢山の生活用品が入れられて、それを子供が担いで

側を歩いています。時には卵や、乾魚なども有りました。
卵など貰うと、米の中に入れて割れない様にして担ぎます。
リヤカーを引いた近所の農家のおばさんが、ネギなど野菜を沢山
持たせてくれ、子供達が全員で『おばさん~!ありがとうー!』
と声を掛けていました。

田舎町の有名人でした。食事が貰えると老夫婦は玄関先で並んで
ゆっくりと食べます、目が見えない主人をかばって時々はオカズ
を茶碗に取り分けて食べさしていました。その時は子供達は
黙って見ていました。時々、子供が『美味しいーー?』と聞いて
いました。二人はうなずいて、黙って食べていました。

食べ終わると、ご主人と二人で並んで、その食事を振舞ってく
れた家の人に両手を合わせて『どうもーーご馳走様でした』と
言うと、門付けの唄をもう一度歌います。その時は子供達も
合唱して歌います。その家人は喜んで『良く寄りやしゃんさった』

と言って、子供達にもキャラメルなどを与えていました。
当時、田舎の助け合いの相互扶助の精神でした。生活保護などが
まだ出来上がっていなくて、近所の近隣の住人がその様な人を
助けていました。全てが終ると、子供の代表が荷物の袋を手に

後を付いて歩き、防空壕の住家まで送って行きました。
そこに着くと、バケツで井戸から水を汲むと、水桶に一杯入れて、
時々貰う炭を割り、火が直ぐに起こせる様にしていました。
子供達の親も、そこの老夫妻の手助けに行く時は何も言う事は
有りませんでした。そして何か直ぐに食べられる物を持たせて
いました。

その夫妻の子供が戦地から復員して来ると、直ぐに息子が近所
の口利きで炭坑に仕事を始めて、鉱山会社の社宅に入り、両親
を引き取り、面倒を見ていました。戦災で焼けた家も息子が
頑張って建て治して、結婚して両親と住んでいました。

2011年12月30日金曜日

私の還暦過去帳(127)

私が終戦記念日に思い出す話は沢山有ります、当時の私が育った
環境では忘れられない思いとなって、心に残って居るからです。
この話は戦争が人間の愛と絆をも壊す事無く、悲しい思い出と
して残っていた事実の出来事です。

私が住んで居たのは、九州の大牟田市でした。私の祖父が今から
百年近く前に住み始めたからでした。私の父と台湾から家族で
戦争が終り、引き上げて来ました。当時まだ祖父が住んで居た
家が残っていて、そこに落ちついて生活を始めて、九州弁も話す

事が出来る様になり、確か小学生の高学年の時と思います。
近所で親子二人で生活している家族が居ました。
子供といってもかなりの歳の女性です。その頃35歳は過ぎて
いたと感じます。母親は市の公園課で、その子供の女性は会社で
仕事をしていました。

近所で婚礼が有り、若いお嫁さんが来て賑やかでした。
有る日、近所の友達の家で遊んでいた時に、そこのお婆さんに
婚礼の賑やかさを話して、『どうしてあの綺麗な女の人は結婚
しないのかーー?』と聞いていました。

すると、『まだ子供がそんな事を聞くものではないーー!』と
叱られましたが、お婆さんが『全てが戦争のおかげでそうなった
』と言うと『気の毒な人だよーー!』と言うと、涙ぐんでいま
した。

その話の続きは友人宅でおやつの蒸かし芋を出されて、そこの
友人の母親と食べながら話して、教えてもらいました。

彼女が戦時中の勤労動員で女学校から、工場で仕事をする者、
飛行場で戦闘機の仕上げの磨きと、清掃をする者などに別れて
勤労奉仕の作業をしていた時に、飛行機の受け取り業務で

来ていた、若い海軍の飛行士と知り会った様でした。
戦争が激しくなり、神風特別攻撃隊が編成され、特攻作戦が開始
された頃に、彼女との仲も婚約者としての仲になっていた様でし
た。終戦間際に沖縄に米軍が上陸開始して、特攻作戦も激しく

なり、彼女の恋人もその一人の中に入り、全てを捨てて突入する
攻撃命令が出て、最後の帰郷の許可が出た時に、その二人の間で
どの様な話が交わされ、短い時間を過ごしたかは誰も知りませ
んが、恋人のパイロットは彼女が贈った純白の絹のマフラーを
巻き悠然と手を振りながら、離陸して行ったと言う事でした。

鹿児島突端の知覧飛行場から沖縄の海に向けて、二度と帰らぬ
出撃に彼女がどのような心で見送ったかは知りませんが、悲しい
別れであつたと感じます、身も心も狂う様な別れと感じます。

友人のお母さんが話しながら、目頭を押えて居た事を覚えてい
ます。彼女はその当時、8月15日の旧盆休みには必ず、
恋人が出撃した知覧飛行場の供養塔に行き、お花を捧げて祈り、
帰りに、熊本市内に有る恋人のお墓に参拝して来るのが決まり
と言う事でした。

私が彼女を最後に見たのは、アメリカに移住する為、お別れに
両親の家に帰郷した時、裏の河の土手の上から、近くの橋の
上を歩く彼女を見たのが最後でした。その当時彼女も50歳近い
年齢であったと感じますが、一人者で独身を貫いていると聞いた
事を覚えています。

2011年12月29日木曜日

私の還暦過去帳(126)

夏休みの暑い盛りでした。丁度、その日が8月6日でした。
暑い九州の夏です、セミ時雨が絶え間無く泣き、昼下がりの
市民プールからの水泳の帰りでした。

急に曇り、風も出て来て何か夕立の感じでした。一緒に行った
友人と別れ、一人で歩いていた時です、雷が鳴ると同時に雨が
パラパラと降り出しました。

私は慌てて公民館の建物の軒下に飛び込み、傘も無くてぼんやり
して、夕立の凄い雨を見ていました。
気がつくと側に誰か雨宿りをしているのが感じられ、良く見ると
お坊さんでした。

目が不自由な感じで、盲人が持って居る白い杖を右手に持って
小さな木造の公民館の縁側に座って座禅を組んでいました。
『そこの雨宿りさんーー!ここにお座りなさい!』と言うと
手真似して私を呼びました。

ニコニコして愛想の良さそうな感じの坊さんでした。
肩から斜めに掛けていた袋から、『法事のお下がりの饅頭だが』
と言って私に2個の饅頭を差し出して、『食べなさいーー!』
と勧めてくれました。

プールで泳いでいたので、かなりお腹が減っていましたので、
有りがたく頂いて口に入れて食べていました。
食べ終わると、また袋から小さな水筒を出すと『麦茶だけどー』
と言ってフタに注いでくれ、勧めてくれました。

私は丁度、何か飲みたかったので、それもあり難く飲みました。
雨はまだ激しく降っていました。ぼんやりしていて、私はフト!
気が付くと訊ねました。
『お坊さんは何でも、僕の心が分る様だーー!』
『お腹が空いていた事も、何か飲みたい事もーー!』
『どうして分かったの?』
と聞いていました。

その頃は、まだ中学生頃で、何でも興味があった頃です。
ズケズケと聞いていました。
坊さんは笑いながら『目が殆ど見えないから、心で感じる』と
話してくれました。

私は不仕付けに『どうして目が悪くなったのーー!』聞いていま
したが、坊さんはいやな顔一つしないで『広島のピカドンで!』
と答えてくれました。

『防空監視壕からB29を見上げて、パラシュートが投下され
 たのを見ていたーー!そしたら、閃光が走り一瞬で、全てが
 消し飛ぶ感じで監視壕の中に叩きつけられ気絶していた』と

話してくれ、それ以来、目が見えないと言って、にこやかに私に
『命が助かっただけでも、仏様に感謝しているーー!』と言う
と『部隊に居た沢山の、仲間の兵隊さんが原爆で死んでしまった』
と言うと、数珠を手に拝む様に手を合わせていました。

私の心はシーンとして、聞いていました。お坊さんは空を見上げ
て、『今日はお天道様も泣いているよーー!』と言うと白く濁っ
た目から涙がこぼれていました。そしてひとり言を話す様に、
 
『同じ監視壕に居た仲間の兵士に助けられて、手を引いてくれ
る道すがら、何人もの原爆で死んだ人に行き当たった』

『それから沢山の人が水・水ーー!と叫んで苦しがって、欲しが
 って叫んでいた』と言うと、ポロポロと涙をこぼして泣いてい
ました。
私は『シューン』として聞いていました。

気が付くと雨が小止みとなり、虹が遠くの空で綺麗に七色の橋
を作っていました。お坊さんは衣の袖で涙を拭くと、 

『今日は何の日か知っているかいーー!今日が広島の原爆投下
 の日だよーー!』『死んだ仲間の兵隊さんの法要で、お経を上
 げて来た帰りだよーー!』と言うと、

『戦争はむなしいねー!悲しいねー!悲惨だねー!』

つぶやくと、雨上がりの、虹が輝く空に両手を合わせて祈って
いました。

2011年12月28日水曜日

私の還暦過去帳(125)

毎年8月15日の終戦の日が回って来ます。

半世紀も過ぎて、過去の出来事と消える事も無く、多くの人が心に残し
ている物語が有ると思います。この話しは終戦後20年ほどして南米に
移住した人が、心に抱えていた物語です。

彼は私より5~6歳は年上でした。現在生きていたら75歳は過ぎてい
ると思います、1965年当時、彼はアルゼンチンのボリビア国境近く
の町に住んでいました。

小さな地域社会です、彼がその町に流れて来たのはボリビアから降りて
来て、無銭乗車していたトラックが町で停車して、そこの町に僅かな
日本人が農業で住んでいたからでした。

国道沿いに農場を開いていた日本人の家を、ふらりと訪ねた事がその町
に居付く事になったのでした。彼は誰にでも好かれる人柄で、当時小さ
な土地を借りてトマトを作り、現金を握ろうとしていました。

私は町に出るとよく訪ねて行きました。話しが合い、年齢的にも考えが
合っていたと思います。当時近所の農家が日本種のサツマイモを作りま
して、少しずつ配ってくれました。

私達が栗イモと言う、ホクホクの甘いサツマイモでしたので、有り難く
食べていました。彼にも食べさせたくて、イモを蒸かすと熱々の美味し
そうなイモを持って訪ねて行きました。

夕方の涼しくなった時間だったと思います、彼も農作業が終りまして
井戸ばたで夕食の支度の準備を始めていました。
私が持参したイモを見ると、急に戸惑った感じで、私が差し出すイモ
を見て、私が『美味しいから~!熱い内に食べたらーー!』と勧める
と、急に涙声で

『俺は食べられないーー!食べてはいけないーー!
 仏のバチが当るーー』と言って、涙をポロポロと落として唇を噛ん
でいました。
私は彼の態度に驚いて、彼が少し落ちついた頃に聞きました。

彼はその理由をゆっくりと話してくれましたので、全てを理解する事
が出来ました。彼はカンニヤーの焼酎を素焼きの水瓶から冷えた水で
割ると、飲みながら話してくれ、彼が南太平洋のサイパン島で育った
事を初めて知りました。

戦争が始まりサイパン島にも米軍が上陸して来て、疎開をしていなかっ
た彼の家族は戦火に巻き込まれ、逃げ惑う事になった様です。
なぜ日本本土に疎開しなかったかは知りませんが、当時父親は出征して
おり南方戦線に居た様でした。母親と子供三人が島を逃げ惑い、隠れて

居た様です、砲撃と艦載機の襲撃で最後は、海岸の絶壁に近い洞窟に
家族と隠れて居たと話していました。家族が持っていたのは大きな水入
れのヤカンと飯盒、各自が水筒を提げ、僅かな医薬品と包帯代わりの
真っ白なエプロンを持っていたと言っていました。

砲撃が激しくて外には一歩も出られなくて、僅かな食料も残りの固パン
を食べ尽くすと、しばらくは水だけで飢えをしのいでいた様でした。
彼は一番下のまだ小さな頃で、母親に『おイモでも食べたいね~!』
と母親にねだって、シクシクと『お腹が空いたーー!』と泣いていた
様です。

母親は上の兄に下の妹と弟を面倒を見る様に言って、もし帰ってこな
い時は、包帯代わりに取ってある木綿の真っ白のエプロンを持って、
米軍に投降する様に言い含めて、一人一人、子供達を抱きしめると、
暗くなった暗夜にまぎれて食料のイモを探しに出かけて行ったと話し
ていました。

地下足袋を履いて、モンペ姿で消えた母親が忘れられないと言って、
目頭を押さえ涙をこらえていました。

翌朝になって、日が昇り、太陽が真上に来ても母親は帰っては来ませ
んでした。一番上の兄が洞窟の入り口から出て探しに行ったけれど、
どこにも居なく、ついに兄は母親が言い残した様に、真っ白な母親の
エプロンを広げ、木にかざして、妹に持たせ、自分は片手に水の入っ
たヤカンを持ち、弟の手を引いてスピーカーで投降を呼びかける場所
に出て行った様です。

直ぐに米軍に発見され、通訳の日系2世の案内で収容所まで送られて、
手厚い保護を受けて、先に占領されていたフィリピンに送られて終戦
後に日本に兄弟妹三名で帰国したと話してくれました。収容所では、
いくら母親の事を聞いても、誰もその消息を知る人は居なかったと言
っていました。

田舎では先に復員して帰っていた父親が迎えてくれ、母親の遺骨代わ
りにエプロンの四分の一が壷に入れられて埋葬され、あとはの3つは
三人の子供達に母親の形見として、分けられたと言っていました。

彼はそこまで話すと、暗くなった畑に出ると、星空に向かって吼える様に、

『おかあさん~! おか~あさんーーーー!』
『お母さん、ごめんなさいーー!僕がイモを食べたいといったばか
りにーー!』
『ゆるして下さいーー!僕をゆるしてーーー!』

薄ぐらい夕闇の中で、彼の手に握りしめられている白いハンカチ状の
物を固く夜空に突き上げて、怒泣するがごとく両膝を土に付けて泣き
崩れている姿を見て、涙が止まらなかった思いが有ります。

戦争は人間同士の殺し合いだけではなく、多くの人々の心まで殺し、
傷付いて、いつまでもそれを引きずって、歩かなければならないのです。

2011年12月27日火曜日

私の還暦過去帳(124)

私がカリフォルニアに住みついたのは地中海性気候の乾燥した
アルゼンチンと同じ感じの気候でサンフランシスコ沿岸地域は
ブエノス・アイレスと同じ感じがしたからでした。
現在のブエノスは人口も増えて、車の台数も47年前とは比べ

られ無いほどで、大気汚染も酷く、70年代の始めのロサンゼ
ルスと同じ感じがします。私がアルゼンチンのサルタ州に住んで
いた時代は今から47年も前になります、その頃は私の住んで
居た小さな町は人口も少なく、そこから12kmは、またジャン
グルの中に入って行かなければなりませんでした。

丁度,ブルドーザーが押して作った道の終点の河岸に、四軒
の日本人の農場が固まっていました。
その農場に遠くはボリビアからの出稼ぎが来ていました。
家族連れは余り居ませんでしたが、独身の若い男が来ていました。

彼等はインジオより良く仕事をして、監督などの頭になって仕事
をしていまして、農場では大きな戦力でした。
その中に若い男の世帯持ちが居て、ワイフもボリビアから連れて
来ていて、農場の小屋に住んで居ましたが、小柄な若い綺麗な
女性でした。

私も時々、河岸で洗濯や、魚取りをしている彼女を見ていました。
時々、挨拶するくらいでしたが、ある日その小屋で事件が発生して
支配人の私に現場に来るように誰か飛んで来ました。
かなり慌てている様で、私もすっ飛んで小屋に行きました。

驚いた事にその若い女性がテンカン持ちで、発作を起して炊事の
焚き火に転倒して、かなりの火傷を腰と尻の部分に負っていまし
たので、オタオタする人間を追い払い、焼けたスカートを切り取
り下半身から、皮膚が崩れない様にして衣類を剥がしました。

私は救急処置の方法を日本で学んでいましたので、すぐさまに
冷たい水を汲んで来させると、綺麗なタオルを火傷の患部に乗せ
ドンドンと冷やしました。白い下半身が一部赤くなって水膨れと
なり、私は運転手に命じてトラックを小屋に横付けして、ベッド

に寝て居るままで、荷台に運び込み、町の病院に搬送させました。
若い女性の夫と兄弟2人が運転手と夜中の道をトラックで飛ばし
て行きましたが、翌日私が町に出た時に病院に寄ると、医者が
緊急処置が良かったので、酷いケロイド状にはならないと話して
いました。

しかしサルタ州都の町まで送らないと、ここではこれ以上は治療
が出来ないと話していました。彼女が行く前に病院に寄った時、
私はいくらかの現金を彼女の手に握らせていました。それから
しばらくして、彼女は州都の町に送られて行った様でした。

私がトラックター部品を買いに州都に出掛けて行くと聞いて夫が
僅かな見舞いの品を私に託しましたが、金銭は有りませんでした。
仕事が済んでから帰りに病院に寄ると喜んでくれ、誰も見舞いも
無い病室でポツーンと寝ていました。

腰の廻りは半円の金具で毛布が掛けて有り、中は何もはいては
居ない下半身がチラリと見えて、ガーゼが腰に張って有り、暑い
病室で彼女が『何か冷たい物を飲みたい』と、つぶやいていました。
私は近くの売店で冷たいオレンジ・ジュースを買うと、

与えて別れを言って病室を出ようとすると、何か言いにくそう
にして私を見ます、何か用事が有るのか訪ねました。
『汗をかいて背中が痒いーー!』と言います、可愛そうに寝たき
りで、かなり汗に蒸れて居る様でした。

背中がびっしょりで蒸れています、ベッドから上半身起して
病院服を脱がせて乳房も剥き出しで、冷たい水にタオルを浸して
拭いてやりました。同室の患者は歳寄りの、かなりの年齢で身動
き一つしません、静かな部屋で彼女が甘えているのが感じられ、

乳房の周りを拭いている時に、彼女の手が私の手を誘う様に乳房
にタオルを寄せます、そして気持ち良さそうに乳房を冷たいタオル
で拭いてもらうのを、楽しんでいる感じがしました。
小さくて先の尖った乳房です、はにかんで私の顔を見ると、うつ
むいてジッとして、女の快感を堪えている感じがしました。

農作業で無骨な私の手です、かなりゴシゴシとタオルを使い、拭き
ますので、彼女が堪え切れない感じで、私の手を取り乳房に
強く押しつけました。その時、電流が走る感じで私の手に感じる
衝撃が有りました。それが何かーー!私には感じました。

それから彼女の身体を横にして、下半身も簡単にタオルで拭いて
やると、その間彼女は無言で私のするがままでいました。
終ると感謝の言葉を何度も言うと、そーっと私の手を握り、はに
かんでうつむいていました。
私は帰りに売店で色々な食料品と肌着など彼女が、声小さく欲し

がるのを買ってやると、いくらかの現金を手に握らせて帰途に
付きました。今でも彼女の感謝の眼差しと、女としての彼女の
手の感触を覚えています。

彼女は火傷の傷が癒えると、迎えに行った夫とボリビアの故郷に
帰って行きました。

2011年12月25日日曜日

私の還暦過去帳(123)

『犬が歩けば棒に当る』と言いますが、しかし人間が歩けばそれは
何に当るか、想像もつきません。この話しは私が思い出すと笑い
がこみ上げて来る出来事でした。
それはリオ・デ・ジャネイロの港に停泊していた時です、乗船して
いた船から降りて町に出かける時でした。

オランダ船の貨客船は高級船員以外は殆どが中国人でした。
日本人乗客に為に日本人コックが一人乗っていました。
それから、事務長は戦前の日本陸軍の士官学校を卒業している
人でしたので、日本語はベラベラでした。

船から降りる時、中国人船員が何か騒いでいます、出口のゲート
が厳しくなって船員手帳のみでは、身体検査で徹底的に調べられ
ると話していました。彼等の内職がこれでは出来ません。
彼等の内職の一番は時計の密輸です、小さくて金になる品物です

当時、日本製のセイコー時計が殆どで、1966年当時の金で
12000円ぐらいの時計が売れていました。
私が船を下りてゲートに行くと、パスポートを提示して通過し
ようとすると、水兵の制服を着た衛兵が止まれと言いました。

私が東洋人で、中国人と勘違いしたと思いました。
若い水兵です、下手な英語で『服装検査するーー!』と言いまし
て、衛兵の小屋に呼び込まれ、『何か隠していないかーー?』と
聞いて来ました。若い水兵の傲慢な態度に『カチーン~!』と来
ていました。

しっこく『何か密輸品を隠していないかーー?』と聞いて来ます、
私はからかって『大型ピストルを所持している』と答えました。
その途端に肩に掛けていた小銃を構えると『隊長殿ーーー!』と
大声で隣りの事務所を呼んでいます、近所に居た仲間の水兵も
銃を構えて私を囲んでしまいました。

私は『チョイーー!まずい事になった』と考えていました。
ハンサムな若い将校が来ると、何事かと聞いています。
若い水兵は『彼が大型ピストルを所持していると白状しました』
と報告して得意な顔で私を見ました。

将校が私の前に来ると、上手な英語で、『ピストルを出して見せ
て下さい』と丁寧な言葉で聞いて来ました。
私は『ズボンから取り出しては見せられないーー!』と答えて
ニヤリ~!として笑っていました。

将校は私がズボンのベルトを緩めて、上のボタンを外して『ここに
入れている』と言うと、ひょいと覗き込み、ニタリ~!と笑うと
『デカイ大型ピストルであるーー!』と言うと、若い衛兵の首を
掴むと『見てみろ~!あれもピストルと言うーー!』とギユー!

と若い衛兵の首をズボンの前に差し出して、見せ付けました。
そしておもむろに私のパスポートを見ると『あのピストルの事を
日本語ではなんと言うーー!』聞きました。
私は『ちんぽこ~!』と言うと教えました。

それからが大変でした。若い将校はパット姿勢を正すと、おもむ
ろに『大型チンポコ殿に敬礼ーー!』と衛兵に命じました。
四人ぐらい居た衛兵が一斉に、小銃を捧げ筒の構えで並んでいま
して、私はどぎまぎして慌てていました。

将校は敬礼して、パスポートを返してくれ、『ニタリ~!』と
笑うと『どうぞ通過して下さいー!』と声を掛けてくれました。
ドーッと衛兵の水兵達がどよめいて笑い、それからは必ず私が
通過する時は、衛兵が『大型チンポコ殿に敬礼ーー!』とやり
笑っていました。

しかし、他の通行人は若い日本人に、衛兵が小銃の捧げ筒の礼で
通過させるので、目を丸くして驚いていました。それも何の検査
無しでしたから、しかし直ぐに日本人コックから話しが来て、
『一度に2個までは時計は船から合法で持ち出せる』と有り、
早速に中国人船員が頼みに来ました。

『降りる度に2個ずつ持って降りてくれ~!』です、そして
『貴方だけは大丈夫ーー!』と笑っていました。
港のゲートを出て、タクシーに乗り近所を一周して来て、時計を
運転手に渡すと、当時の金で20ドル貰えました。

合法的な船から時計の持ち出しです、私も余禄の金を握り、中国
人船員はホットして、衛兵は私が通過するたびに大喜びで
『敬礼』と叫んでは大声で、『大型チンポコ殿に敬礼ーー!』
と、はしゃいでいました。
私のブラブラしている物で、皆が八方、にこやかに納まったのに
は、私も当時驚いていました。

2011年12月23日金曜日

私の還暦過去帳(122)

私がパラグワイを出て、アルゼンチンのブエノスに来て知人の
紹介で、街中の日本人のナセリーの仕事をしていた頃です。
そこに時々、草花の苗を買いに来ていた、かなり年配の日本人
庭師が居ました。

彼は独身で、第二次大戦になり、帰国する事も、恋人を呼び寄せ
ることも出来なくて、ついついと時間が経ち、老いてしまったと
話していました。一人小さな部屋を借りてそこに住んで居た様で
一度訪ねた事があります。その時近所のレストランで食事をしな

がら話して呉れたそれまでの人生行路を聞いて、戦争が人の人生
を全て変える事を感じました。
好きな女性がブエノスで出来たが、彼女が水商売で、どうしても
過去の事にこだわり、貴方の様な真面目な人とは結婚出来ないと
断られたと話していました。

彼は若い時は写真家を目指して頑張った時も有り、少し写真を
飾っていました。それからしばらくして、急にナセリーに来なく
なったと思ったら、心筋梗塞で急死していました。
県人会の友人が、全てを頼まれていて、僅かに残して有った

荷物を整理して処分していました。私は彼が住んで居た家を
訪ねたら、ガランとした空き部屋が有るだけで、僅かなゴミが
部屋の前に置いてあり、その中に『このまま開けずに捨てる』
と日本語で書かれた紙袋を見つけました。

私は友人が約束を守っ、開けもせずに捨てたと感じました。
私は興味が有り、それを拾うと家に持ち返り、夕食後に寝台
の上に開けて広げました。わずかな写真が出て来て、セピア
色に変色した古い写真でした、おそらく彼が若い時に写した

写真と直感で感じ、めくっていくとその中に全裸の若い日本人
女性の愛らしい姿が、はにかんで、恥ずかしそうにポーズを
作り、写っていました。
可憐な姿で浴衣がずれて、可愛い乳房が見え、細い足が浴衣から
のぞき、丁寧に和紙で包んだ様子から、特別に大事に仕舞って

居た感じがしました。おそらく彼の若い時の恋人と直感しました。
僅か三枚の、全てを写した写真です。彼が片時も離さず死ぬまで
所持していた物と感じると、おそらく彼にとって大切な、大切な
物であったと感じました。何か有ったらそのまま捨てる様に

いつも袋に厳重に入れて、友人にも触れない様に注意書きして有
り、そして、彼の希望どうりに捨てて有ったと感じました。
私は見終わると、直ぐに袋に写真を戻し、封をしてしまい二度と
触る事は有りませんでした。
週末に友人との、バベキューの焚き火の中で灰となってしまいま
した。今では遠い昔の夢での出来事と感じます。

2011年12月22日木曜日

私の還暦過去帳(121)

私がこの歳まで歩いて来て、長い年月の過ぎた過去を振り返り、
思い出からのお話をして居ますが、あとどのくらい、パソコン
の前でキーボードを叩けるかは分りませんが、歳を取ると
一番に衰えるのが視力です、身体は鍛えていますので、今でも

毎日の歩行距離は、万歩計での計算では15kmは歩いています
が、昔は土曜日まで週6日でしたが、今では5日となり週末は
お休みとしています。朝は6時に起きて、夏はそれから有機野菜
の収穫をして、水掛をしてから仕事に出ます、帰宅するのが

だいたい5時頃で、また家庭菜園の手入れをして、水掛をして
夕食となります。7時頃に衛星TVの録画した日本語放送を見なが
らワイフと二人で一日の団欒として、楽しい一時を過ごしていま
すが、それからお茶を片手に書斎に入り、パソコンに向き合い
メールの点検と、返事を書いて、それから書き始めます。

私が46年前に農業をしていた、アルゼンチンのサルタ州はその
当時はまだ、首都ブエノス・アイレスから遠く離れ、かなりの
過疎地でした。仕事を終って寝椅子に転がって夜空の星を見る
事が好きでした。

時たま人工衛星がスーッと流れ星の様に過ぎ去るのは、感激の
思いでした。このまま夜空に吸い込まれる感じがして、宇宙の
偉大さを感じました。人間の命は、たかがその当時平均70歳も
有りませんでしたが、男と女が寄り添い、夫婦として生活営む

時間も実際は僅かと感じました。農場で仕事に来る若いカップル
は沢山居ましたが、当時農作業で仕事をする労働者は殆どが
インジオでした。彼等は一年間の現金収入をその収穫の時期で
稼いでいましたが、若いカップルの中には仕事に来て、仲違い
をして、部落に帰る女性もいました。

有る時、丁度祭日で農場も一日の休みとして、給料を払い仕事
を完全に一日休みとして、静かな日でした。
私は水揚げポンプや休日を利用して、トラックターのオイル交換
など忙しい日でした。夕暮れとなり我々農場に居残った数人の

人間がバーべキューをして、ワインを開け、休日を楽しんでいま
したが、誰か小屋に若い女が残って荷物を整理して、部落に帰
る支度をしていると話していました。私は気が付いていましたが
残りの焼けた肉とパンを持って小屋を訪ねると、ポッンと小屋

の横で座っていました。彼女は『今夜涼しくなったら歩いて部落
まで帰る』と話していました。驚いた事にその距離が25kmは
有ります、夜中の涼しい時間に夜どうし歩く様です、彼女は私
が持参した肉とパンに感謝して、食べ始めました。

私に『彼とは別れてブエノスの都会に姉を頼って仕事に出る』と
教えてくれました。私は家に戻り、今夜の水揚げポンプを始動
する為に、夜食とワインのボトルを持って岸辺のポンプ小屋に
出かけて行きました。ポンプ小屋でしばらくは燃料の補給や

ベルトの点検などをして、エンジンを始動させ、水揚げの点検
で水路の流れを見に河岸に裸で降りて、水路の掃除をしていまし
たが、ふとー!誰か近くに居る様でした。素裸ですー、ギョー!
として気が付くと、先ほど肉とパンを届けたインジオの女性です、

小屋の横の木陰に彼女達が荷物運びに使う、丸いカゴをを担ぎ
見ていました。中には僅かな荷物が入っていましたが、それを
下に降ろすと、座り込んで私のすることを見ていました。素裸
です、下がブラブラするままでの仕事で、私も困っていました。

私は仕事が終ると手で前を隠して、小屋でパンツをはいて来ま
した。彼女は小屋の横に座り込み、笑っていましたが、私も
毎日忙しくて彼女と話す機会も無く、どんな女性かも知りませ
んでした。私も誰も居ない静かな農場で、人に見られることも無く

少し大胆だったと思います。暗くなりかけた小屋でランプを点け
て単調なエンジンの音を聞きながら、ワインの蓋を開け、彼女に
も勧めました。彼女は喜んでコップを受けてくれ、飲んでくれ
ました。私も皆が一時帰宅か、町に遊びに出かけて誰も居ない

農場でボケーとしているのが、少し気に触っていました。
飲むごとに陽気になる彼女に嬉しくなり、馬鹿を言ってふざけ
て、私もすっかりお祭り気分で彼女と騒いでいました。
彼女にインジオの踊りが出来るか聞くと、驚いた事に、私の前で

上半身を脱ぎ捨て、乳房を出して腰に巻いたスカートだけで
踊り出しました。完全なインジオの昔の踊りのスタイルです、
福与かな乳房が揺れて、座り込んだ私に絡む様に官能的な腰付き
で踊ります、その時、気が付いたのですがスカートの下は何もはい

ては居ない感じでした。彼女は完全なインジオのスタイルで居たの
でした。彼女は口ずさむ唄で踊りながら、私は両手で調子を取って
いました。ランプの光に浮び上がり、乳房の谷間に汗が流れて彼女
の熱演が、私の為に演じていると感じる踊りでした。

彼女の求愛のダンスと心に感じ、ジッと見ていました。
目の前で福与かな大きな乳房が揺れ、細かくゆれる腰が、私の男
の本能を呼び起こし、目覚めていました。私の耳にはエンジンの音
も何も聞えなくなり、彼女の潤んだ眼差しと、先の尖った乳房と、

スカートの下で、はち切れる様なお尻の福与かなふくらみが目の前
に有りました。私は目の前に近ずいた乳房に手を出していました。
彼女は動きを止め、それを受けてくれました。それから私は自然と
彼女の腰を引き寄せて、抱きしめていました。

独身の若い男の激情を受けてくれ、それが終ると河岸で水を浴び
身支度すると、コーラーの瓶に詰めた灯油に芯を差した松明に点火
すると、薄明るい光の輝きで私を照らすと『これでサルタ州には
思い残す事はないーー!一度部落に帰りブエノスに出る』と

話すと、笑いながら小さなカプセルを見せて、『最後の錠剤が
残っていたーー!』と言ってそれを私に見せるとポンと空を河に
投げ捨て、激しく抱きしめると暗闇の河岸の小道を歩き始め
ました。そして二度と振り返る事も無く、戻って来る事も有りま
せんでした。

今でもゆらゆらと、ジャングルの小道をゆれて消えるような松明
の光を思い出します。

2011年12月21日水曜日

私の還暦過去帳(120)

私が農場で仕事をしていた時は独身でした。しかし独身でも
農場の支配人をして、収穫からの歩合も貰えましたので、かなり
の収入でした。食事や住居は一切タダでしたし、仕事も上手く
こなして、かなりモテていました。特にチャワンコ族は日本人に
そっくりさんが沢山いました。

真っ黒い髪と日本人と同じ胴長短足の特徴が有りました。
そんな事で私も、日に焼けてインジオの感じが出ていましたの
で、彼等にも親密感が有った様です、良く独身の女性が3~4人
で仕事に来て、小屋に泊まって長く収穫の仕事をしている時が

有りましたので、時には親しく話しをする事も有りました。
チャワンコ族は河で漁師をして、岸辺で農耕をしてトウモロコシ
やカボチャなどを作り生活していました。性格は穏やかな感じ
で、顔が日本人と似て居るので、親しみが有りました。

日本人が風呂好きな様に、彼等も一日、一度はどんな寒い日でも
必ず水浴びして居る様でした。寒い日は身体の汗を流す程度
で簡単でしたが、夏は洗濯なども同時にしていました。
私も夏は河の流れで気持ち良く、身体を洗う事は好きでしたので

時々彼女達と河で仲良く水浴びして、楽しんでいました。
チャワンコ族は河岸で育っているので泳ぎが上手で、私は彼等と
競争しても敵いませんでしたが、有る日、かなり気温が上昇し
た日でした。11時頃には昼休み入り、汗を流すのにトラックター

を運転して、河のだいぶ深い所まで入り、そこから裸で河に飛び
込み汗を流して、濡れたパンツ1枚でトラックターを運転して
家に帰ろうとして、エンジンを掛けた時です、かなり離れた所
で彼女達が同じく汗を流して洗濯をしている感じでした。

流れで洗濯物をゆすいで居る時に、腰に巻いているスカートの
様な感じの布地を流してしまい、あわてて追っかけて来ました。
私が河の中に居るので、彼女達はあわてて素肌を隠して水の中に
座っていましたが、私一人で近所に誰も居ない事を知ると、急に

大胆になりまして、その時四人居た彼女達が『ワー!』と歓声
を上げて追い掛け始めて、全裸の素肌が丸見えでした。
丁度私がエンジンを掛けたトラックターの側で布地を捕まえて
彼女達が歓声を上げていました。私が停車して目の置き場に困

って四人の若い彼女達の素肌をチラリと見ていたら、『ワ~!』
とはしゃいで、大胆にも私を河に引きずり込み、あれよ~!と言
う間に私のはいていたパンツを脱がしてしまいました。
一人の若い女の子が、『ここまでおいでーー!』と言う様に

私のパンツをヒラヒラさせて、からかっていました。
私は水の中で、ブラブラする物を隠していましたが、今度は
そこを攻撃して来て、いきなり『ギユー!』とさわられ、水の
中に足をすくわれて、ひっくり返り、支配人も哀れな格好で
彼女達の玩具となっていました。

私も反撃の為に、彼女達の一人を後ろから抱きついて両手で
乳房を『ギュー!』と握り、水の中に倒していました。
しかし、そこまでで、後は彼女達の攻撃に『コテンパテン』に
転がされ、あそこもかなり酷く掴まれて、河の水もだいぶ飲ま
されて、降参しました。

彼女達は私のパンツを私の頭の上に載せると、ワイワイ騒ぎな
がら、プリプリとしたお尻を揺らして水の中を駆けて逃げて
行きました。全裸の素肌が太陽に輝いて、水飛沫の中で四人の
若いインジオの彼女達の天心爛漫ないたずらに、その日、一日が
何か楽しい感じで過ごしていました。

その時、私が偶然に触った一人の若い女のあそこが、何も生えて
いる物が付いていなく、すべすべの『つるりー!』とした感じ
だったのを今でも覚えています。

2011年12月18日日曜日

私の還暦過去帳(119)

私がアルゼンチン奥地のサルタ州のボリビア国境近くの小さな
町で農業をしていた時代です。時々、近所の小さな田舎都市
に用事で出かけていました。
殆どは耕作機械の部品買いでした。トラックターなどの部品で

緊急な時は夜中でも出かけて、翌朝店が開店したら一番で飛び
込で目指す部品を買って、農場に帰っていました。
その時は昼過ぎにトラックターの燃料漏れでパッキングのシール
を交換しないと動かせ無くなり、あわてて出掛けて行きました。

店には電話で部品のストックも確認していましたので、閉店間
際に飛び込み、部品を手にする事が出来ました。
パッキングと言っても手の平に入る小さな物ですが、それが無い
とエンジンが危険で動かせません、帰りは急いでいましたので

トラックに燃料を満載して、予備のタンクにも入れて、夜中は
ガソリンスタンドなど開いてはいない田舎道です、僅かな食べ物
を紙袋に入れて、走っていました。
直ぐに夕暮れとなり、サンドイッチを片手に夜道をかなりの
スピードで飛ばしていましたが、両側は砂糖きび畑で人家など
は無いわびしい田舎道でした。

オランと言う飛行場も有る田舎の小さな都市に行く、交差点で
若いインジオの女性が小さなカバンを手に、暗くなった国道の
道端に立って、手を上げていました。
私は夜中の一人旅で、ラジオも途切れ途切れに聞える田舎道で

寂しいトラックのエンジン音だけの道中です、そこの交差点を
過ぎると、ジャングルがうっそうと茂る中を走る道となります、
私はその女性からかなり行き過ぎて止まり、窓から手真似で、
呼びましてた。彼女は走ってくるなり『アグワ・ブランコまで

行きたいーー』と話して、乗せて呉れる様に頼みました。
私は彼女がボリビア国境近い所まで帰るのだと感じ、乗せる事
にしました。彼女は走り出したトラックの助手席で私が食べる
サンドイッチをチラリと見ていました。

私は紙袋から残りの物を出すと、彼女に勧め食べさせました。
農場で沢山収穫するオレンジもカゴに入れて足元に置いて有り、
それも食べる様に勧めて、それまでは人恋しく、寂しい感じで
夜道を走っていたので、狭い運転席で、彼女の汗の匂う体臭も
余り気になりませんでした。

やつれた感じのインジオの女性で、まだ20歳前と感じました。
私は日に焼けてインジオの雰囲気を出す現地人風です、彼女も
心許して少し、食べ終わると話しを始めました。
お手伝いとして、サルタ州都の町で仕事をしていた様でした。

それから2時間ばかり、でこぼこ道の砂利道を走って私の町に
着きました。彼女は目的地まであと2時間は走らなくてはなり
ません、遅くなり、私も町から12kmは有るジャングルの小道
を真夜中に走るのはいやで、町外れの友人の小屋で泊まる事に

して、その夜は友達を訪ねました。彼は慣れたもので、私の
トラックに乗ってきたインジオの女性も気にする事無く、
『泊まれ~!、明日朝早く農場に帰れば安全だーー!』と
言って、離れの小屋に案内してくれ、日本式風呂もお湯が

暖かいから浴びろと勧めてくれました。彼は何一つ質問する事無
く、母家に戻って行きました。私は彼の小屋に少しの着替えを
置いていましたので、直ぐに風呂に入りました。
彼女は初めて、野外の日本式風呂を見て驚いていました。

まだお湯はポカポカと熱くて心地良い感じでした。
彼女にも風呂に入り、汗を流す様に勧めて私は風呂上りのワイン
をグラスに注いで、チビリと飲んでいました。
時々、野外の風呂場のランプの光に彼女の裸体が浮んで見えます、

少し痩せた、引き締まった身体で、小柄なインジオの体格でした
が、乳房は大きく身体には似合わない感じがしていました。
彼女は私が見ているのを知っている感じで、汗を流していました。
私も若い頃です、若い女体の全裸は興味があり、小麦粉色の

輝く肌が綺麗な彼女に少し興味がありました。彼女はシャツを
お湯で洗い、濡れた髪を解かしながら小屋に戻りまして、
シャツを軒下に乾して、私が勧めるワインを受けてくれました。
友人の犬が挨拶に小屋に来て見ていました。

静かな夜更けです、私はワインを飲んで、疲れから直ぐに眠くな
り私がいつも使うベッドから、毛布を取ると部屋の隅に釣ってあ
るハンモックに彼女が寝る様に教えて、『明日は夜明けにはここ
を出るーー!』と言ってランプを消し、眠りに付きました。

疲れからと、酔いも有って直ぐに寝入ってしまいました。
翌朝、微かに日が昇り始めて、鳥の鳴き声がして目が覚めました。
ハンモックが揺れ、全裸の彼女が降りて私のベッドに来るのが
感じられ、私の毛布を退かすと横に滑り込んで来ました。

大きな乳房が揺れて、小声で、『抱いてもいいから~!』と
話すと、しっかりと私を抱きしめて、絡んできました。
その時です、外でトラックターのエンジンが始動始め、犬が吼え
一日の活動が始まった感じでした。友人の声がして、

『コーヒーの用意が出来たぞ~!起きろーー!』と外で怒鳴って
います、私は一瞬、男の本能が消し飛ぶ感じがして、起上ると
一度だけ彼女の乳房を両手で握り、抱きしめると無言で外に
着替えて出ました。朝は躍動し、朝焼けの空に冷たい空気が
流れていました。

熱いコーヒーを友人と、外のテラスで飲みながら、今日の一日
を考えていました。その朝、近くの駅までトラックで彼女を
送り、切符を買ってやり、物売りからチーズ入りのチーパの
パンを買い与え、昨夜洗濯していたシャツを着た彼女が、今朝の

妖艶な女から普通のインジオの女性に戻り、駅前の雑踏に居ま
した。私が駐車したトラックに戻る時、追い掛けて来ると、
トラックのドアを開けて乗り込む私に、右手の先を自分の唇に
当てると私の唇に微かに触り、其のまま走って消えて行きました。

しばらくトラックで走って、駅の方角から機関車の警笛が発車の
『ぽーーーー!』と長い響きが聞えていました。

2011年12月17日土曜日

私の還暦過去帳(118)

私が日本の長野県の白樺湖近くの山の中で実習を兼ねて、
牧場の造成をブルドーザーなどの重機を使って仕事をし
ていました。
かなりの重労働です、一日、重機の振動とエンジンの
轟音での仕事です。夏の盛りですが白樺湖近くですから、
涼しい仕事でした。

監督が用事で出かけてしまい、ブルドーザーもエンジン
を止めて、ズル休みをしていました。
近くの小川から冷たい水を汲んできて、水筒に入れて
飲んでいました。

すると谷を隔てた向こう側の牧草地に、車が入って
来ました。ぼんやりと眺めていましたが、牧場の柵で
車は止まり、若い男女が降りて来ました。

谷の向こうはまったくの無人の牧草地です、柵を乗り越え
て、中に入りしばらく歩いて居るのが見えていました。
すると突然に動きが止まり、二人は抱き合い激しくキス
を交わしているのが見えていました。

私が谷の向こうで見ているとは全然知らない様でした。
抱え込む様にして、乳房をむさぼって吸っているのが良く
見えていました。私はとっさに測量計測のスコープを
思い出しました。かなりの倍率です、プレハブの事務所

からスコープを持ち出して来ると、向こうの谷が見える
場所に戻りまして、現場をスコープで覗くと、『あっ~!』
と驚きました。すでに始まっていたからでした。
高倍率のスコープで覗く光景は、まさにドキドキの光景
でした。

彼女がスカートを捲り上げて、下半身が手に取るように
見えます、時間的には余り長い時間では有りませんでし
たが、私には二人が事終って、並んで草むらに寝ている
のを見て、頭が『ジーンーー!』としていました。

私も若い頃です、カーッ!としてきて、ブルドーザーのエンジン
を掛けると、『グワー!』と吼呼させて、谷間にこだまさせま
した。
若い二人は飛び起きて、慌てて身支度すると、こちら側を見て
慌てる様に逃げて行きました。
それにしても、青空の下で牧草の緑のベッドで横たわり、抱き
合う二人をうらやましく感じました。

2011年12月16日金曜日

私の還暦過去帳(117)

リオには2回行きました。私の心に残る港町です、昔も今も
賑わいは変はりません、青空の中、丘の頂上に建っている
キリストの像、そこの向かいにそびえるポン.デ.アスーカル
の岩山、そこの頂上から見下ろす港と海岸の美しさ、大西洋の

輝きと白く砕ける波頭。港の近くからフラミンゴ、少し行って
コカカバーナの海岸、それから続いてイパネマの海岸と、リオ
を代表する綺麗な海岸が連なり、サンバの音楽と踊りが夜の
クラブの賑わいを一層に高めている感じがします。

乗船していた船が出航する前の日は、コカカバーナの海岸近く
のレストランで波の音を聞きながら食事をして、ダンスをして、
夜遅く港近くのホテルに帰って来ました。
部屋に入るなリ、酔いも有ってそのまま『バターン~!』と
ベッドに倒れて寝てしまいました。

翌朝、窓から差し込む朝日に目が覚めて、シャワーを浴びて
下着を取り替えて、下のカフェーで朝のコヒーを飲んでいました。
朝の11時までにはホテルを出なくてはいけませんので、午後に
出航する船に戻る為に部屋に帰り、荷物をかたずけて窓から空を

見ていました。ホテルのLになった建物の斜め前下の部屋の窓
が開いて、時々風でカーテンが揺れている、のどかな朝の風景を
ぼんやり見ていました。
一階下の階の部屋です、L字型のホテルで、私の部屋から良く
見えていました。気が付くと窓際にベッドが有り、誰か寝ている
感じがしていました。片側の白い足先が見え、その時に急に風が

カーテンを押し開き、太腿の近くまで綺麗な足が丸見えになり
ました。駒落としの画面の様に風がカーテンを押し開きそのつど
緩やかに両足を開いた全裸の若い女性の姿が一瞬見え、隠れして
彼女の太腿の付け根の草むらに右腕が伸びていました。

私は一瞬、『ドキーン!』とする感じが身体に走りました。
見え隠れする裸体の綺麗な足が緩やかに開いたポーズから、緊張
と興奮に硬直して直線になり、足先が痙攣するかの様に私の窓
からも見えます、直感で彼女がマスターベーションをしている
と感じました。

駒落としの画面の様に途切れ途切れの光景です。
妖艶で、エロチックな、私の生涯で初めてで最後の光景でした。
緩やかに吹きぬける海風に、遠くで聞える汽船の警笛が鳴り、
短い時間が、白く消えた様に止まり、目の中の網膜に焼き付い
てしまいました。

私の頭の中は真っ白になり、少し思考が停止して、下の窓を
凝視していました。どれだけ時間が経過したか私には覚えが
まったく有りません。気が付くと私の下腹部が緊張して、痛い
ぐらいに張り、男が目覚めて騒いでいました。

私は服を脱ぎ捨ててシャワーに入り、冷たい水を頭からかぶり
ジッと立っていました。無我の境地でしばらく冷たい水を頭から
浴びて、心まで冷やしていました。どのくらいシャワーを浴び
たか覚えてはいませんが、気が付くと平常の心に戻っていました。

その日の午後、リオから出航する船の船上から眺めた港は
忘れない景色となり、今でも思い出します。

2011年12月15日木曜日

私の還暦過去帳(116)

リオの港は、世界でも有名な観光地です、私もこの歳になっても、
もう一度訪ねて行きたい所です。
リオのカーニバルと言えば、世界で一番有名なサンバの踊りで
始まるサンバのショーは息を呑むと言う感じだそうです。

そこは47年も前でしたが、マンゲと言う公娼の区域が有り
当時の血気がみなぎる若い頃です。世界でも当時有名な場所で
した。私もこれまで色々な場所を見ましたが、まさにそのとうり
と感じる場所でした。現在、その様な場所は昔のセックス産業

で繁栄した面影は無いと聞いていますので、ここに書いて置き
ます。マンゲの入り口はポリスが居て、カメラや撮影機などは
持ち込み禁止でした。知り合いのブラジル滞在の長い日本人が
案内してくれ、タクシーでそこまで行きました。

降りてから少し歩くと、若い男達がゾロゾロと連なって歩いて
居ます、先ず度肝を抜かれたのはオーラル専門のかなり年配の
娼婦が居た事です。そこの区域は別で、通称日本で「おかま」
と言われた男娼の区域も有りまして、それぞれに特徴が有り、

若い私達の度肝もが、ひっくり返る様でした。今でも思いますが
かなりの『ショックーー!』でした。
神様が御作りなさったと言う人間ですが、これでは雄と雌の本能
の世界と感じました。若い娼婦が居る、そこで一番の賑やかな
場所でした。

少し高い窓が有り、その内側に女性が居ました。
若くて綺麗な、まさに良くもこんな女性が娼婦をしていると思う
ぐらいの可愛くて、綺麗な女性でした。
そこの区域のナンバーワンの女性と感じましたが、イスに座り
通りを見ていますが、大勢の男達がある一点を凝視しています、

彼女が時々、軽くミニ.スカートを開いているのを見て、仰天の
『ドキーン~!』とショックを感じる所が見えまして、なるほど
と理解しました。彼女は金を差し出して男が指名しても無視で
す。彼女が気に入らなければ決して動きません。

その前は黒山の人が集まり、人気が高い事が知れました。
私も後ろ手で見ていました。しばらくして若くて感じが良い
白人の男に彼女が指名しました。
皆が『ドーッ』と沸き、その男を見ました。その男は恥ずかし
そうにして、皆に押されて前に来ました。

横のドアを開けて彼女が男を引き寄せて、手を取り部屋の中に
連れて行きました。皆は溜め息を付く様にして見ていました。
しばらくは男と消えた彼女の背中を見ていましたが、カーテン
の内側に消えると、誰かが『ギヤー!』と奇声を発して、

変な踊りを始めたのには驚きました。そこから少し離れた場所
でしたが、少し格が下がる娼婦が廊下の洗面器に跨ってあそこ
を洗っている光景が見え、これも度肝を抜かれた光景でした。
しばらくは心臓がドキドキと酒を飲みすぎた感じの動悸が有り、

少し刺激が強過ぎる感じでした。それにしても人間の性欲は
すさまじい感じです。リオの夜が世界でも有数の場所と言われ
るのは本当と感じました。
次回もリオの港町の事を書きます。

2011年12月13日火曜日

私の還暦過去帳(115)

私のインド紀行が終りまして、これからは軟鋼、取り混ぜてお話
を致します。時々、私の専門的な事も混じるかも知れませんが、
宜しくご愛読下さい。

私が南米から日本に帰国する時でした。当時はまだ客船の時代で
飛行機などは金持ちか、会社関係でも社長などのお偉方が利用
している時代でした。飛行料金はブラジルから東京まで利用する
と、日本の田舎では家が買える値段でした。

そんな事で、私がブエノスから乗船して、当時のアフリカ経由で
横浜まで乗っていました。リオ.デ.ジャネイロの港には3日間
ぐらい停泊していて、船に泊まるのは暑くて、狭い船室ではとて
もでは有りません、それと3等船客は船底の部屋で、荷物が

が載せられていましたので、日中はうるさくて、街に逃げ出して
いました。リオの港の直ぐ近くには沢山の安ホテルが有り、船を
待っている乗客や、船員達が家族と再会する為に泊まっていま
した。訪ねて来た家族と数日間楽しい夫婦生活を過ごして、また

船は出航して行きます。それから若い船員を相手する女達も
そこに住んでいました。賑やかで、華やいた感じのする場所で、
ホテルの下は大抵は酒場となり、レストランなども有りまして
食事や酒を楽しめる、港の歓楽街となって夜も遅くまで賑やかに

人が絶える事無く、歌声や声高く人を呼び込む声などがして、
我々が好んで行く様な所でした。私も船の食事は美味しくも無く
ステーキとサラダを食べたくて、レストランに入り友達と食事
を楽しんでいました。食事の後は、酒場に移動して飲んでいまし

たが賑やかで、沢山の若い女の子が遊びに来ていました。
私もダンスをして、飲んで、踊り、すっかり浮かれて気が合う
白人と黒人の混血の若い子と、しこたま飲んでかなり酔って
だいぶ遅くなった時間に、予約してあったホテルの部屋に戻り

ましたが、彼女が付いて来て、泊まりたいと言って私の腕を
掴んで部屋まで来ました。私は船からは簡単な着替えと洗面
用具だけ、小さなバッグに入れてもって来ていました。
彼女はTシャツにマンボ.ズボンで底抜けに陽気な感じの子で

したが、部屋に入るといきなり、ポンと全てを脱ぎ捨てて、
シャワーに入るなり、何か唄いながら汗を流している様で、終る
と腰にタオルを巻き付けて出て来ました。私にもシャワーを浴び
る様に言って、さっさとベッドに座り髪を乾かしていました。

私もシャワーを浴び、腰にタオルを巻き付けて、冷たい水を飲ん
でいました。その時ですーー!突然に悲鳴とも、絶叫ともつか
ないあえぎ声で、こちらが『ぎょー!』とする様な大声で
高く、時にはすすり泣く様な、まるで女性が拷問でも受けている

かの様な感じを受けましたが、耳を澄ますと激しく肉体を打ち
合う様な音も聞こえます。安ホテルの防音などの装置も無い
昔の部屋です、私はそーッとドアを開けて廊下を見ると、
何と~!そこにはすでに四組ぐらいのカップルがドアを開けて

声がする部屋を見ていました。お互いにニッコリと笑いーー!
一人の若い男が、手であのしぐさをしてから、大げさに口を
開けて声を出すゼェスチャーをして、皆を笑わせました。
しかし誰も声を出して笑う人は居なくて、『ニタリ~!』です、

しかし驚きました。遠慮なく、絶叫に近い声で、おそらくホテル
中に聞える声で、わめくとはーー!さすが南米の国のおおらかさ
と感じました。その内に絶叫は今にも絞め殺される様な、あえぎ
声と、悲鳴に近い堪え切れない『ウーガャ~!』と言う一声で

シーンと静まり返りました。良く見ると廊下には6組ぐらいは
顔がドアから覗いていました。お互いに手を振り、『ヤーヤ!』
と言う感じで挨拶して、中の一組は、『俺達もこれからやる
からーー!』と言う感じのジェスチャーをするとドアを閉めま
した。

今でも思い出します、その夜の光景を!、若い時でしたが忘れら
れない思い出として今でも持っています。

次回もリオの夜に起きた思い出を書きます。

2011年12月12日月曜日

私の還暦過去帳(114)

もと百姓が見たインドはこれで最終回となりますが、これから続き
まして、ジジイがボケて忘れて、コトン~!とあの世とやらえ消え
てしまうまでに、まだまだーー、書き残したい事が沢山有りますの
で、セッセト書いてみたいと思っています。
このあとは少し下がった、『ニタリ~!』と笑えるお話も入れて
気楽に読んでもらえるグロブと考えています。

インドの旅の総括を書いている内に、そのインドの政治を見た時に、
観光旅行と言えども、政治が密接に関係している事が分りました。
タージマハルの訪問でインド軍の兵士が警備している事は、インド
の国宝と言われる施設を、隣国のパキスタンとの関係悪化で、テロ

を受けない様に、完全な所持品検査を受けなければなりません。
それからカシミールに行く道路では、関門と通行制限が行なわれて
一部外国人の立ち入り禁止区域が存在します。
私がインドを精査する内に気が付いた事は、中国の国際戦略が

これからの社会主義を維持、発展させる為にあらゆる方策を採って
中国の学校教育から、中国に対しての投資開発の推進、維持と
なりふりかまわない政策が行なわれている事を、インドを通して見る
事が出来ました。同じ大国でも、これからの両国の動きではかなり

の国際的影響は免れません、一番のエネルギー源の石油と核
燃料の供給です。インドで感じたことはチャイナ.マネーの石油資源
への投資です、スーダン復興支援も石油産出を見当てにアメリカが
17億5300万ドルと巨額な支援を表明しているのに、日本は当初

1000万ドルを検討したが、中国を睨み最終的には10倍もの資金
を支援に積み上げたが、中国は30年先を見ているのか、スーダン石油
の開発の97年から本格参入して、石油鉱区の第1、2、4鉱区から
日量30万バレルも生産され、今年の終わりには50万バレルとなると

予測されるが、全輸入量の4.7%を現在スーダン石油が賄っている。
スーダン石油に中国が支払う代金は推定で年間、60億ドルとなる事
を考えると、インドが中東からの石油の最短コースを握り、安定供給
を国家計画の柱にして居る事を考えて、国内生産拡大と消費拡大を
バランスを取りつつも、中国を視野に入れた国内産業開発は、過熱

する事無く、長期に経済発展をするのでは無いかと考えます。
現在上海だけで約4000社の日本企業が進出して、約、34000人の
日本人が滞在している事は、駐在員を人質に取られ、企業秘密や特許
を盗み取られ、コピーされ、知的財産を侵害されて生産ノウハウまで

を全てをむさぼられている現状は、知的インド人からしたら、はなは
だ日本の知的財産的、社会的な損失となっていると話していた。その
支えのスローガンがただ『日中友好親善』と、何の保障も無い言葉で
支えられ踊らされ、日本の国力が失われ、消え去っていく事はインド

人から言われ無くとも、もっと真剣に日本人は考えなければ、ならな
いと思います。 インドを旅して、いまだに牛のフンを乾燥させて燃料
とし、木の枝1本も大切にして燃料とする国民性と、アメリカに住ん
で、慣れて、それがあたり前になった生活からすると、質素で食べる

物も総体に量が少なく、動物タンパクの摂取過多の生活習慣からも、
ほど遠いインドの生活を見ると、これからの 30年、50年先はインド
が生き残って繁栄しているかもしれません。

2011年12月10日土曜日

私の還暦過去帳(113)

インドを総括して旅のまとめを書くと、インドの動き、すなわち政治
に突き当たる感じがします。インドの国内情勢は連動して世界の
情勢に反映されて来ます。インドと中国を合わせると世界が見えて
来ると言った人がいます、それはこれからのエネルギーや食料供給

問題、社会の発展にからむ公害問題、資源問題、世界が大きく
動き出した中で、最近の中国とインドの接近が有ります。
両国は互いに国境を接している隣同士の国です、昔に国境線
問題で、中印戦争まで引き起こした事が有るのです。

その昔の犬猿の仲がここに来て急接近している事は、注意しなけ
ればなりません。お互いに世界に向かって動き出した国が手を握る
と言う事は、何か魂胆が有ると考えることが正解と思います。

特筆されなければならない事は、インドを訪問した、温家宝中国
首相が4月の11日にデリーで会談して『戦略的関係』を認めて
「戦略的パートナーシップ」の樹立で合意して、チベット問題は
中国の内政問題と合意した事は、これからのパキスタン問題でも

何かの魂胆と憶測を秘めていると取れます。それは1960年代か
ら続いた両国の国境問題について、双方とも原則合意をもとに、
国境の確定交渉を進める事を双方で確認している事は、パキスタン
との国境問題を狙って布石とした観は拭えません。

パキスタンとインドは今月の7日に57年ぶりにカシミールまでの
バス運行を認め、2週間に一度、相互家族訪問を認めています。
1947年より印パ戦争は、3回も衝突を繰り返して、宗教問題も
抱えて現在もなお混迷の中にさ迷う感じで、政治が動いていますが、

その中での中国のインドに急接近は何か目が離せない感じがして
来ます。カシミールも観光名所が沢山有ります、それと1500万人
の住民が住んで居る場所であると言う、認識を持たなければなりま
せん。もし世界で核戦争が起こるとしたら、インドとパキスタンが
一番 の危険性をはらんだ場所です。
 
次回もこの続きを書きます。

2011年12月9日金曜日

私の還暦過去帳(112)

インドを旅して、心感じる事は大陸と言う雄大さです、ここから
ヨーロッパまで歩いても行けると言う、地続きの大陸と言う大きさ
を感じる事が出来ました。雄大な時間的テンポを我々島国で
育った日本人的感覚からしたら、どこかはみ出した気分になります。

良く日本人がインドに『はまるーー!』と言う形容を使うの
ですが、それは端的に短い言葉で適切な表現と感じます。
現代と古代とその中間の中世の生き方がまるで、タイムスリップ
した感じを味わえると思います。現代社会に疲れ、傷つき、逃れ

る様に旅に出てきた若者が、道端のインドチャイの店で、1杯十円
なりのチャイを飲みながら、道端に腰を下ろして、時間に逆らう事
無く、ひもすがらガンジス河の流れを見ている若者が、現代社会
の俗世のアカを河に流して、心深く傷ついた競争社会の造反した

自分の良心に鬱積したアカをを落として、癒していると想像しても
何も可笑しい事は無いと確信します。薄汚れたジーンズとTシャツ
で、汚れた足にサンダルを履いて、日焼けした顔は生気に溢れて
不精ひげは長旅の行程と認める勲章に感じ、若者が現代社会

で忘れていた何かを掴む事が出来る旅かもしれません。宗教に無縁
の若者で、英国のビートルズの一員で、ロックスターが全てを投げ
打ってインドを旅して、心癒し、精気を養い、これからの将来と
希望と、その迷いの世界を解き放った様に、インドには妖怪のごと
く若者の魂を虜にする不思議な世界と、その迷える魂を吸引する癒
しの天国が存在すると感じます。

カネや太鼓を打ち鳴らして『ホーリークリスナーー!』
と天に向かって叫び、眉間に神の朱色を塗り、信じる神に酔いしれた
白人や東洋人が、麻薬に酔いしれた様に踊り狂う様は、俗人として

下界をさ迷う我々には到底理解と、共感は出来ない事なれど、しかし
我々も若かったら、引かれ、惑わされ、狂い、信じて現代社会の癒し
と贖罪の為に、同じ様に踊り狂ったかもしれませんーー!。

『惑える子羊達に祝福あれーー!』
 なむあみだぶつ~!

2011年12月7日水曜日

私の還暦過去帳(111)


インドに滞在していて一番感激したのは、ガンジー翁の火葬場の跡
を記念碑とした所でした。
私が子供の頃に白黒のニユース映画で、ガンジー翁が火葬される所
を見ました。その当時は彼が非暴力主義で、サンダルと杖でインド

の国民服をまとって、田舎を廻りインド独立を説いていた精神に敬服
していました。子供心に何か白黒の映画から天に立ち上る煙を見て
いつかインドに行ったら、必ずや訪れて祈りを捧げたいと思っていま
した。

ガンジー翁のお墓は有りません、遺骨はガンジス河に流してしまい、
そこの火葬をした現場がインド建国の父としての霊廟として綺麗な
公園として造られて、その中央に祭壇として飾られていました。
幾千のお花で飾られた台は、人が踏まない様にとの事からでした。

私が訪れた時に、どこかの外国の賓客がきて花輪を献花してありまし
た。それと北部インドから来た多数のインド人が参拝に来ていまし
た。バスで遠くから来たみたいでした。霊廟は靴足厳禁ですから皆
さんは靴はバスに置いて来ている様でした。裸足で歩いて来ていま
した。

私はしばらくガイドの話しを聞いてから、感慨に耽っていました。
ガンジー翁が若い頃に南アフリカでの滞在で、仕事をして大英帝国
の暴虐ぶりを肌で感じていたと思います、しかし彼は非暴力主義を

掲げて、空拳で、説法での民族自結を推し進めた事に、いつも心震
へる様に感じていました。私も南アフリカでの経験が有ります、
その頃は血気にはやり、『矢でも鉄砲でも持って来いーー!』
の勢いが有りました。

しかしガンジー翁が試みたその非暴力主義は,私にしては驚異でした。
私の若い頃は『目には目を、歯には歯をーー!』の精神で、やられ
たらやり返すの心構えでいつもいましたので、殴り合いなど良い方
で、狂犬の様に何人居ても武器を持って噛みついて行きました。

早い話が、殺し合い寸前まで行きました。それはいつも拳銃を隠し持
ち、『なめるん~じゃネーー!』と言う心構えと、暴力を肯定してい
たからと思います、ガンジー翁の生涯を書いた本を読んで、心染み
まして、いつの日か霊前に額ずいて、お参りしたいと言う気持ちは
消す事が出来ませんでした。

晴れた空の青さと綺麗なお花のコントラストを見ている内に、何時の
間にか膝を折り、廟の祭壇の前で土下座する様にして頭を下げていま
した。
納得して、気が付くまで頭を下げていました。私は感極まって泣いて
いました。

脳裡に浮ぶ、白黒の映画の画面が横切り、彼を暗殺した暴力の無残さ
を感じました。私も歳を取り、歳月が全てを流していたのか、ただ涙
が出ました。気が付いて廻りを見ると、何人かのインド人が目を見開
き、驚異の眼差しで私を見ているのを感じ、中には涙している人も居
ました。

北部インドはガンジー翁の出身地だからです、彼等が崇拝する建国の
父の前で異国の参拝者が土下座している事は、彼等にも何か感ずる事
が有ったと思います。
帰りに振り返ってもう一度、祭壇のお花の色を心のカメラが
『パチリ~!』 と写していました。

次回はインド訪問の結論を書きたいと思っています。

2011年12月6日火曜日

私の還暦過去帳(110)

インドで感心したのは、余り肥った人が居ない事でした。
アメリカでは余りに肥満人がぞろぞろと居ますので、チョイ
不思議な感じでした。カリフォルニアでは、人口の半分は肥満
とTVや、新聞が報道していました。

間接的な医療費の損失は250億ぐらい年間出ているそうで、
これは巨額な損失です。それとタバコを吸っている人が極端に
少なく、歩きタバコを見たのは、ほんの数回でした。
そんな事で、お酒を聞いたら、お店は全部公営だそうです。

一般のお店では買えません。一部レストランや、食堂などは
別です、勿論自動販売機などは有りませんでした。
何か健康嗜好の国と感じます。宗教の関係も有りますがー!
シーク族は酒、タバコはご法度です、モスラムの人もお酒は禁止

となっていますから、かなりの人が日常生活での生活習慣病と
無縁の生活をしている感じます。しかし『びんろう』の実を何かに
包んで、くちゃーくちゃーと噛んで居ますので、これがタバコの代り
と感じました。一度もレストランなどでタバコの煙りに悩まされる

事もなくて助かりました。それからしたらまだまだ日本は喫煙天国
と感じます、成田の出国待合室で、いまだに喫煙ルームがあり、
今は完全に密閉して外に煙りが出ない様になったので助かります
が、昔は煙りでヒー!と悲鳴を上げていました。

日本ではタバコを吸う人が50歳以上では60%近い数字ですが、
アカリフォルニア、当地の私が住んで居る所では、喫煙率が11%ぐ
らいです。 つい最近の新聞に出ていました。
そんな事でインド旅行の大きな印象となって残っています。

次回も色々な話題に付いて書きます。

2011年12月5日月曜日

私の還暦過去帳(109)

インド人を見ると、ターバンとサリーを先ず感じますが、ターバンは
シーク族が必ず頭に巻いています。髪の毛もひげも生涯剃り、
切りませんので綺麗に髪を巻いて、6mあるターバンで包んでいます。
私達を案内してくれたガイドは、デリー大学の日本語科の大学院

に在籍してる、生徒さんのアルバイトでした。彼はシーク族でしたの
でかなり詳しく教えてくれました。ひげも朝は布できちんと顎を吊る
様にして、アイロンをかけていました。彼が話してくれたのでしたが、
毎日、30分は掛かると言っていました。それと身に必ず、お守りの

ナイフを持っている事を宗教義務として守っていました。
挨拶は必ず、両手を合わせて、合掌する様にして挨拶します、勿論
握手もします、しかし右手だけです。教義をきちんと守って生活して
います。インドですーー、お守りのナイフを持っていてもシーク族は

検査をナイフを持ったまま通過させていました。シーク族だけが認め
られると話していました。彼はどこから見てもシーク族です、紳士の
気品が有る感じの良いインド人です。我々をガイドしてくれて、警察
と兵士が居るゲートでの関門所で、彼は守りナイフを持って何事もな
く通過して行きました。

インド人が宗教を生活の中で、その生活の一部として暮らしている事
は、現代の日本人からしたら、少し奇妙な感じになると思います。
現代の日本人が少し忘れかけた、宗教を背骨に入れた道徳を彼等は
今だに持ち続けて居ると感じました。それからしたら、中国の現代社

会がいかに偏見と差別を湾曲の解釈で教え込み、教授して、政治の
道具と活用している厚顔ぶりは、『宗教は阿片なりーー!』の共産
主義社会の世界で、道徳も持ちあわせていないと感じます。
その彼がインド独立運動家チャンドラ.ボースの事を話して、彼が
台湾の飛行場で事故死しなかったらインドの独立はまた、違った行き
方をしたと話した事は、興味がありました。

彼らインド人が、私が見た限りでは親日の人が多いと感じました。
次回も色々な話題で書きます

2011年12月4日日曜日

私の還暦過去帳(108)

インドの話しに、あの話しがまだ出ませんので、今日はここで
書いておきます。インドではなぜ人口が多いか?知っていますか?、
と私が聞くと、『何だろう~!』となりますが、私が旅行中にガイド
が話してくれましたが、性愛の神様が有り、そこの本山の寺院で

は48手の壁画がこれ見よがしに掲げてあり、大層な信心を集め
ていると話してくれました。特にヨーロッパからの観光客は、必ず
訪れる所だとか、それからしたら日本人は淡白か知りませんが
殆どのツワー行程には入っていないとの事、おかしい現象です。

さも有らんーー!日本人の出生率が世界最低だとーー!、
私も話しの中で聞いたので、どこかは聞きそびれましたが、そんな
寺院も有るとか、いやはやインドとは雑多で多くの寺院があると
感じます。インドのシーク族は酒、タバコ、女、賭博などかなりの

禁止事項があるとの事、しかし、戒律は厳しく、また激しく守って
居る様ですがそこは人間です。綺麗なサリーを着た若い女性が
通ると、サリーの隙間からチラリとお腹の生の部分が見えます。
今、流行のヘソ出しスタイルなどはズボンか、ジーパンでは色気

も消えます、しかしインドで見た、サリーの間から見える生の肌は
セクシーです!シーク族と言えども、チラリと見ているのを捉えま
した。見たぞーー!見たぞーー!やはり人間は性悪かもしれません。
ジャイプルの町のホテルに泊まった時に、そこの土産物屋のおや

じがさんが日本語で、『綺麗な女の子がいる、マッサージパーラー
が有りますがーー!』と来ました。ワイフには隠れててです。良く見
て話せと言いたいぐらいでしたが、そこはそれーー、冷やかしです。
私も日本語で気が有る様に『どんな女性ーー?』と聞きますと、

『全部若い子ばかりーー!』『へーー!驚いた~!』と言うとシャー
シャーと『奥さん部屋においてきたら案内しますーー』と驚きました。
インドにもちゃんと有るのですーー!。あんなインドの田舎町でも
商売が出来ると感心しました。

次回も同じ題材で色々な話題を書きます。

2011年12月3日土曜日

私の還暦過去帳(107)

インドに到着して一番に肌で感じ、自分の体感で納得した
『これがインドーー!』と言う事は、まさに笑いなしでは話す
事は出来ません、時々、ワイフと話しては笑いこけています。

インドに到着したのが夜の10時近い時間でした。迎えは車
とガイド兼通訳が来ていました。次男はホテルに直接来ると
話していましたので、その方が自宅のアパートから20分で
来れると言っていましたので、さっさと迎えの車でホテルに行
きました。

翌朝早く小旅行に出かけるので、その方が便利でそのホテ
ルが出発点でしたので、どうせ泊まると言っても、寝るのは
6時間ぐらいです、ホテルに着いてしばらくして、次男も来ま
した。久しぶりの再開でしたが日に焼けて、一層たくましい感

じに成長していました。アメリカから持ってきたお土産を渡して
しばらく話して、息子は明日朝早く、もう一度同行する旅支度
をして来ると、タクシーで帰って行きました。
私達夫婦は長旅に疲れを癒す為に直ぐに寝る事にしました。

ホテルに朝のモーニング.コールを頼んでいました。目覚ましも
部屋に無かったので、用心の為に念を押して出発に遅れない
様に頼みました。シャワーも簡単に汗を流す程度に入り、パジ
ヤマに着替えて『グーー!』です、その翌朝ーー!

もの凄い音量で、何か携帯スピーカーで怒鳴る様にして、
『起きろ~!起きろ~!』.とがなり立てています、『はっー!』
と気が付き飛び起きました。まだ夢の中ー!寝ぼけて頭もー!
はっきりしませんーー!、ワイフもびっくりして何ごとかと起きてい
ました。

インドでは廊下でスピーカで怒鳴るのかと一瞬感じましたたが、
『チョイ~!何か変な感じですーー!』窓の方から聞えています。
パジャマ姿で、カーテンの隙間から外を覗くとー!まさにギヤー!
の眠気も一瞬で吹き飛びました。ほんの目の前にモスクの寺院

が有るのです、尖塔にはでかいスピーカーが有り、そこから朝のお
祈りのコーランが流されていたのです、狭い路地が見え、幾人か
がゴザを広げてメッカの方角に朝の礼拝をしていました。
眠気もどこかに吹き飛び、あっけに取られて、まずは手配を頼んだ

旅行会社を恨みました。『うらめしや~!こんな朝早くからーー!』
起きたついでに、朝の用足しに行き、いまさら寝る事も出来ません
ので朝シャワーを浴びる事にしました。熱いシャワーで気分転換と
ひと風呂浴びてバスタオルを広がて見て、これもびっくり仰天ーー!

かなり大きな穴が開いて、よくよく見ると自宅で使用している足拭き
タオルより、各段に貧弱なバスタオルでした。くたびれて今にもゴミ
に出す様な物でした。まだ寝ていたワイフに見せて二人して
『ゲラゲラ』笑い出して、『嗚呼ーー!これがインドですね~!』と
ワイフ殿がのたまわく!、これで体感としてのインドを実感しました。

ワイフがシャワーを浴びている間に外を見ていたら、この朝早く共同
水道の近くで身体を水で拭いている人が見え。細かい路地をオート
三輪がパタパタと走り抜け。リヤカーでゴミを回収しているのが見え
て、インドの生活の一部も目で認識しました。泊まったホテルは
3ッ星?ぐらいと感じました。

次回も、つれずれに思い付いた事を書きます。

2011年12月2日金曜日

私の還暦過去帳(106)

インドに付いてだいぶ書きましたが、この事は必ず書かないと
インドのこれからの将来を決める教育を、最重要の課題としている
インド政府の教育方針を聞きましたので、インド人からの話ですから
我々が想像する以上の奥深いものが有りました。

教育の原点はインドでも日本でも同じ子供の教育に関連して、どう
教育して育てるかと言うのが原点と思います。インド人の有識者は
かなりの高学歴の方が世界のトップに位置して活躍されています。
私の仕事に関連した知り合いが話してくれた事ですが、インド人は

数学に関しては、世界で一番適した思考が出来ると話していました。
彼は大学で講座を持って教えている人で、知り合いのインド人の
教授も居るからと話していましたが、インド哲学も少し勉強した事が
有り、その原点を掴んで居るようでした。私の様に以前百姓では中々

思考的な難しさで、一度ぐらい聞いても理解は出来ません。IT産業の
ソフトの原点は数字だと話してくれましたが、その理論的構成と関連
した、指数化したソフト作成は今ではインドで沢山作成されています。
それは優秀なレベルのソフト.エンジニーヤ達が沢山育っているから

と感じます。それと世界的にインドの給料指数が低いので、アメリカ
などからしたら4分の一のコストで作成出来るからと感じます。驚く
事にも、280年も前のインドの王様が建造した、マハーラージャの

天文台です。ジャイプルの城下町の中に、今でも沢山の観光客を集め
ている所ですが、一見して近代美術館と言う感じがする天文台です、
日時計は驚く無かれ、20秒しか誤差は無いとの事、聞いてびっくりで
した。
ガイドが言う事には、『これ全てがインド人の思考と、それに関連し
て数学的思考の結び付いたものーー!』と説明してくれましたが、

さも有らんと感じました。それを建設した王様が残した、計算をした
本を博物館で見ましたが、小さな電話帳ぐらいは厚みが有る本で、
細かな数字の羅列で、その書かれたのが280年も前とはーー!見た
瞬間に『恐れ入りました!』と心に感じたしだいです。電子計算機も
ない時代どんな思考をして、推理して、計算して、実証して、建設し
たか頭が下がる思いでした。きっと数学の天才的な才能が有ったと思
います。
ジャイ.スイン2世が発明し、考案した数々の観測機はまさに驚きの
体験でした。今も感じる事は『インド人が数学を思考するのは凄い』
と思います。
次回は、私が感じた、つれずれのインドの思いを書きます。

私の還暦過去帳(105)

インドでは人口が多いので、首都に田舎から仕事を探しに出てくる人
が沢山います、仕事も中々見つからず、ホームレスとなる人も多いと
聞きました。オールド.デリーの市街を見物に行った時です、沢山の若
い働き盛りの感じがする人が、ブラブラとモスクの寺院の近くに居ました。

彼等はお昼時間でランチに有り付こうとナンを焼いている店の前で、
しゃがんで邪魔のなら無い様にして並んでいました。ナンを焼いている
傍らには、カレーを煮た鍋が有り、ナンを買い、カレーも買ってお昼の
ランチとする様でした。店の主人はモスラムの様で、頭にはきちんと

手編みの帽子をかぶり仕事をしていました。少し焼け過ぎのナンが有
ると、それを切って、素焼きの小さな皿にカレーを入れてナンと渡し
ていました。男達は奪い合うようにして食べていました。
モスラムの宗教の教義として、『施しーー!』と言う事は重要な事で、

施しが出来る人は、施しを請う人に分け与える事が義務として有ると
話しを聞きました。仏教でも『哀れみと施しーー』と仏様は説いてい
ます。
宗教心が有ればその人の道徳的なバック.ボーンとしての心が有り、
共産主義の社会主義社会では、『宗教は阿片ーー!』と決めつけて、

人の心の道徳心の支えとなる物を破壊して、弾圧して無視していま
した。近年になり、ロシアのプーチンもそれを見直した様に、たと
え社会主義の世界でも、宗教心は必要と感じます、現在の中国が

『万元家主義社会の共産国』と言われて、汚職と賄賂に悩む事は
道徳的な心が無い人が多く育ったと感じます。昔、中国が社会主義
を達成して、『こじきと餓死者が無くなったが、自由と宗教心が同じ
く無くなった』と批判した人が居ました。

インドではまだ施しの精神が有る人が沢山居ます、私もそう感じます。
あれだけ沢山の物乞いする人を目にして、それに施しを与える人も居
ると感じました。施しを受けて、授けた人に合掌して感謝して、
『貴方に神様の祝福が有ります様にーー!』と言う物乞いに、見苦し
い感じはしませんでした。

インド人のバック.ボーンとなっている宗教は決して、無意味な教え
では無いと心に感じたしだいです。

次回はインド人の数学に付いて書きます

2011年12月1日木曜日

私の還暦過去帳(104)

インドのデリーに滞在している時に朝、良く散歩に出かけました。
私が滞在していた所は、デフェンス.コロニーと呼ばれた、かなり
環境が良い所ででした。碁盤の目の様に道路も交差して小さな
川の近くで、川の横が道路となって、歩道も綺麗な街路樹が有り

時々物売りの声がするくらいでした。8時頃には迎えの車も出発
してしまい、それまでは何台かの車の運転手が車を掃除したり、
ワックスをかけたりして、並んでいましたがその後は、近所のお手
伝いさんが家の前を掃除を始めます、手箒で集めた落ち葉や、ゴミ

を丹念に袋やバケツに入れてそれを持って、近くの立派なゴミの
集積所に投げ入れてくる様でした。私も散歩のついでに観察する
と、かなろ大きなコンクリートで出来た建物でした。川岸に建てら
れて外観もタイルなどはめ込まれて、近所の環形も崩しては居ま

せん、かなり大きな投げ込み窓が有り、そこから投げ入れる様です。
中は雑多なゴミが投げ入れて有りましたが、そこに何とーー!、
先客がいてお仕事中でした。ちゃんとダンボールや、紙など資源
回収をしていましたが、プラスチックもきちんと集められて、野菜
くずは牛ちゃんが食べていました。

見ると野菜くずなどはちゃんと食べられる様に外に出してあり、
神聖な牛達のご馳走の様でした。
見ていると、牛達の河原に出入り出来る通路も狭い物でしたが、
有りましたが、そこの集積所の横でした。中々考えて造っていると

感じました。牛達はそこから川に水も飲みに行く感じでした。
そのゴミは制服を着た収集人が、大型トラックで回収していました。
まず、大きなバケツ型のプラスチックの車輪の付いた箱にシャベルで
入れて、トラックの後ろで自動的に引っ掛けて積み込みしていました。

私が観察していて、中々上手いやり方だと感じました。各自が集積所
まで責任持って運んでいます、大抵はお手伝いさんの仕事の様でし
た。 だから家の前など、どこにもゴミが無かったのです、私の観察は
インドの ほんのごく一部分ですから、まして首都のデリーの高級住
宅街でしたから、これがインドの全体とは、とても言えませんが、
良い参考となりました。

私達がドライブしている途中で、道をリヤカーを引いて、3人ばかりが
が手箒を持って道路をのんびりト掃除している傍らで、牛ちゃんが道
に寝そべり、ラクダが引く荷車がごとごとと走って居る様は、まさに
インドと言う情景でした。次男が居たアパートの下に住んで居た大家

さんの若いお手伝いさんが、何か歌でも唄いながら手箒で家の前を
掃除して居たのを見て、その箒が50年以上も前に日本の田舎に住ん
で居た頃、箒草と言う物で作った同じ感じの箒でしたので、懐かしく
見ていました。
次回は物乞いさん達に付いて書きます。