2021年10月26日火曜日

私の還暦過去帳(767)

 祖国、日本国のパスポート。

私はかれこれ30年ほど昔にアメリカに帰化して、パスポートはアメリカです。それとアメリカ市民に帰化する時に、集団帰化宣言の会場はサンフランシスコ市内の大きな会場で開かれましたが、5千人程の当日の帰化宣誓式に日本人は指で数える程の人数と聞き、その当日で一番少ない帰化してアメリカ市民になる国でした。今も変わらないと言う事ですが、それと私は長く二重国籍運動に関わり、日本人が帰化しない理由が日本の教育が根本にあると感じました。

戦前の愛国教育を受けた南米に戦前に移住した1世達に57年昔に移住した南米各地で1世達に会いましたが、居間に昭和天皇のお写真を飾り、日本の国旗を額に入れて飾り、仏壇には両親などの写真と位牌を祭り、仏壇の引き出しから、日本国の古びた片道旅券を取り出して見せてくれた方々を思い出します。彼等は終戦後に祖国日本が困窮していた時に、アメリカでもブラジルでも、アルゼンチンでもその様な方々が勤労奉仕で祖国に食料や医薬品、医療品などを送りました。

戦後、沖縄には困窮して食料など不足して、戦火により畜産業が壊滅していた時に、アメリカの沖縄県人が主体になり、寄付を集めて、輸送船1艘分の養豚の種豚を沖縄に送り、それが数年で沖縄の畜産業を戦前のレベルまで戻しました。その輸送に携わった人に聞きましたが、航海途中の苦労話には頭が下がる思いでした。その様な方々の1世達が、日本国の片道旅券を亡くなったお棺の中に入れて、祖国に魂だけで帰郷されたのです。その様な先人たちの努力と勤勉と正直性が今の日本の繁栄の基礎になり、今の多くの方々が日本国のパスポートで世界を歩けるのです。

私の友人のアフガニスタン人はソ連侵攻の時に難民としてアメリカに逃げて来た人ですが、彼はアメリカにグリーンカードを修得して5年経てから帰化してアメリカのパスポートで、祖国アフガニスタンに訪れていました。彼が私に日本人はビザなしで多くの世界を歩ける事を感謝しなければならないと語った事を忘れません。

2021年10月16日土曜日

私の還暦過去帳(766)

  2年ぶりにノーベル物理学賞で、うれしいニュースがありました。米プリンストン大上席研究員の真鍋淑郎さん(90)の受賞です。物理学賞に限れば6年ぶりのことです。

近年の日本人受賞者に共通することですが、真鍋氏が東大卒業後、米気象局に就職したり、米国籍を取得して研究を続けてこられたりという「頭脳流出」の現状でした。

ノーベル賞受賞者発表のたびに、科学技術予算の拡大や研究環境の改善が声高に叫ばれますが、日本はその対応もなされていません。
以前も同じような日本人のノーベル受賞者がいましたが、日本は資源もなく、知識を資源に世界の競争に打ち勝つことが重要ですが、アメリカは頭脳がある人物には、引き立て、それに適するポジションを与え、研究をさせるゆとりのある政策を取っています。

我が次男もその恩恵で、バークレー大学を卒業して、大学院に行きたいのですが、24年昔に7万ドルも年間掛かる大学院経費には次男も頭を抱えていましたが、1カ年室内装飾の大工として働きながら、その間にアメリカの多くの大学院に入学申請をしていました。
次男はイングリッシュとアートのダブルメージャーで学位をとり卒業していたのですが、カーネギーメロン大学院から、次男の研究したい項目の斬新的アイデアを買ってくれ、授業料無料の奨学金を与えれてくれ、生活費をスクールローンで賄うことで、次男が入学できました。彼の主題は、コンピューター・グラフィックをプログラムすることでしたが、当時は新しい主題でした。

大学院の紹介で、ペンシルバニア大学でもコンピュータープログラムを学ぶ事ができ、大学院卒業のときは、大学と大学院の卒業総代に、移民の小倅の次男を選んでくれ、スピーチをすることが出来ました。
大学は卒業時に大学から2名のアメリカ政府のフルブライト奨学金を受けるように推薦してくれ、インドのニユーデリー大学でアメリカ政府が与えた研究課題を研究調査していました。アメリカ政府はは日本から移住して来た、移民の小倅を引き立てて、インドでは
サラリーマンの部長級クラスの奨学金を毎月与えてくれ、次男はアパートを借り、メイドまで雇って研究に没頭していましたが、フルブライト奨学期間を終わると、インド政府の昔の世界遺産のデーターを、デジタル保存する機関に働き、インド政府から、インド国内
のすべての博物館、遺跡や、政府機関に出入り出来る身分証明を出してくれ、次男の専門コンピューター・グラフィックを活かしてデジタル化して保存していました。

インド政府でも能力ある者をチャンスを活かす制度があり、インドの大学でも教えていましたが、アメリカに帰国すると、ゲテイー財団のロサンゼルスにある、ゲテイーミュージアムの研究員とて、保存してある絵画や資料を調査する研究員とて生活費も出してくれ、
採用し、次男の能力を活かしてくれました。
私は自分の次男の子供がアメリカに住んで、広く、深く、差別もなく移民の小倅の分際でも、チャンスを与えてくれた事に深く感謝の心を持っています。
今ではバークレー大学の近くに住んで、大学で教えながら自分のコンピューター関連のビジネスをしています。