2013年1月31日木曜日

私の還暦過去帳(342)


今日も朝から選挙運動の追い込みで、電話が掛かって来ていました。

今回の大統領の選挙と関連して、地方選挙も同時に行われますので、選挙
の時期になるといつも思い出す人が居ます、その人はだいぶ長い付き合い
がありますが、選挙の時期に、いつもその予測をするのが楽しみのようで
した。
私の知り合いの韓国人の方です。彼は日本で生まれた韓国人で、戦前、
九州の福岡で生まれた人ですが、終戦後、16歳で父親の郷里、韓国に
帰国したと話していました。
サンフランシスコ郊外のベットタウンで、最初は小さなグロサリー店でした
が、今では大きく拡張して、娘夫妻が経営するグロサリー店に手伝いに来
ていましたが、今では夫婦で老人ホームに入居して老後を楽しんでいます。

先日も店で偶然に会いまして、店先で話していましたが、団体旅行でヨーロ
ッパに2週間、夫婦で旅をして来たと話していました。
日本で教育を受けているので、日本語の読み書きも不自由ではありません
し、私達と話す時は日本語で話してくれます。

彼が日本から家族と韓国の郷里に帰って直ぐに、朝鮮戦争が勃発して戦乱
の中で逃げ惑う生活もしたと話していましたが、やはり彼が一番記憶の中で
絶対に忘れられないのは、北からの怒涛のように南下して来た北朝鮮軍の
侵攻で、2日間も僅かな手荷物で南に逃げたという事だったようです。

それも徒歩で昼夜とわず歩いたと話していましたが、日本では軍事教育を
学校でさせられ、韓国に帰ってからは戦乱で逃げ回った事が一番大変だっ
たと話していたが、落ち着いて韓国が成長している時に、サウジアラビア
に韓国企業の仕事で出稼ぎに長期に出ていた様でした。

それは子供の大学教育をさせるのに、大金が要ったからと話していましたが、
建設会社の設計の仕事で、砂漠の何もない所の宿舎での生活は大変だった
様です。
彼がしみじみと、『困ったのよー!酒も女も全部ダメー!』確かに金は残る
けれど、モスラム社会の教義では、アレ・・もダメとなれば、出来るところ
に会社が一週間ぐらいの休暇をとらせてくれた様でした。

本国の韓国郷里に帰国するのは年に1回ぐらいで、それが楽しみで働いて
いた様でした。彼の家族や親戚も世界中に散らばって、アメリカやカナダも、
シンガポールやら、二ユージーランドにも居ると話していたことを聞いて、
日本人より世界に散らばって韓国パワーを発揮していると感じました。

今年、南米旅行でパラグワイの首都アスンションやアルゼンチンのブエノス
で多くの韓国人が根を張り、たくましく生活している様が肌で感じられまし
たが日本人と同様に韓国社会でも、本国に出稼ぎが在ると彼が話していま
した。
日本も変われば、韓国も大きく変化していると思います。

それにしてもアメリカ社会で生活していた、店の看板がハングル文字だけと
言う事も見受けられ、驚かされる事が有ります。

ハワイのオアフ島の田舎で、古い商店の看板日本語文字が、旧文字使い
の古い字体で書かれているのを見るのも驚きですが、韓国のハングルパ
ワーには35年もアメリカに住んでいると、時々もっと驚かされる時が有り
ます。

2013年1月30日水曜日

第3話、伝説の黄金物語、(48)

  
陰謀の蝕手

モレーノの話から、飛行機の航空燃料に何か混ぜられた事が判明した。

しかし、無事に緊急脱出をパラシュートで果して、一命を無事に取り留めた
事は不幸中の幸いであった。
怪我も無く、降下してパラシュートが木の枝に引っ掛かり、着地するのに、
紐をナイフで切ったので、それだけがモレーノの悔しがっていた事であった。
飛行機も保険会社から保険金が支払われて、新品の飛行機が注文されて
いた。
サムはモレーノをリオ・ベールデから飛んで来た救援機に富蔵を付き添いに
搭乗させ送り出すと、墜落機の残骸のエンジンを調べて、燃料フイルターを
分解して中の詰まって固まった不純物を持ち帰って来た。

富蔵はリオ・ベールデにモレーノと戻ると、直ぐに飛行機の格納庫周辺を二
重に外は鉄条網、内側は金網のフェンスで囲んでしまった。
夜間照明と番犬を2匹、24時間の警備も始めた。

燃料給油施設にはコンクリートで屋根付きの鍵が掛かる施設を作り、一切の
設備道具と機材を収納してしまった。その入り口は警備小屋の真ん前しかな
く、24時間警備員と番犬が見張っていた。

サンパウロの飛行場も用心して燃料給油施設は防御フェンスと夜間照明が大
きな物と交換され、格納庫も夜間は完全にドアが閉められ、警備員が巡回す
るようにして、見えない敵に対して用心していた。

フイルターから検出された物は普通の砂糖であった。
何処にでもあり、エンジンとフイルターにトラブルを確実に引き起こす物でもあ
った。
短時間で全ての用心の手配が済んでからは、何事も無く営業飛行が行われ
ていた。モレーノがサンパウロに飛行で来た時に、富蔵とサムを交えて今回
の陰謀を解き明かそうと話し合った。

営業機体の墜落で誰が一番利益となるか・・・、得をして儲かるのか・・・、
一つ一つと将棋の駒を積み重ねる様に考えて行ったが、それとも遺恨の復讐
か?
これまでの営業では対抗する敵も多かったし、実際に武器を持って敵対して、
倒して行った相手も居た。しかし選択淘汰されたこの世界では、資金力と活動
力と、コネに裏打ちされたブラジル社会の生き残りが仕事を続けて行けたので
あった。

それを阻むとする者は誰か?

あらゆる情報を集めて、また聞きまわっていたが、小さなニユースだが貴重な
話をリオ・ベールデで聞き込んで来た者が居た。

昔の地主達や牧場主達との初期の抗争の時代に、他の地域に引っ越してしま
った地主の一族が財をなして、昔の事を遺恨に思って居た男が、嫌がらせで
金を使い人を雇って事件を起こさせたと推定した。

町の電話局に勤めている女性から、ある地域の町から頻繁に電話接続がリオ
・ベールデになされ、素行の悪い前科がある男がそれを受けていた事が分か
った。
昔の電話接続は交換台で、いちいちワイヤーで接続させて話をする、旧式な
ワイヤー交換式だったので、それから判明した。
電話局に勤めている女性は、アマンダ兄弟のファミリーで、内部情報で知る事
が出来た。
前科がある素行不良の男を標的に罠を仕掛けていた。

絶対に次の事件を起こすと予測して、飛行場の囲いの外に2~3度夕方薄暗
くなっても駐機させていた。
直ぐにその男が動いた事が分かり、町外れの飛行場まで移動した事も、見張
りから連絡が来て、モレーノと富蔵が計画して囮の罠を仕掛けて実行していた。

駐機場の飛行機は暗くなる前に格納庫に納めて、絶対に手が出せない事を相
手が知っているのでその前に襲ってくる事が予測され、あらかじめ犯人が襲う
時刻が予測できた。
3重の手を打って相手が駐機場に来る事を待ち構えていた。犯人は一人の単
独犯行で、予測された時間帯に相手が町を出て、歩いて町外れまで来る事が
分かった。
相手が町を出た事が飛行場に電話で知らされた。拳銃を持ったモレーノが飛
行機の胴体に潜み、近くの倉庫に富蔵と若い者達がライフルと散弾銃を構え
て待ち構えていた。
犯人が身軽な格好で駐機場の草叢の陰から忍び寄るのが分かった。
微かな鳥の鳴き声でモレーノに合図して知らせた。富蔵はライフルを構えて犯
人に焦点を合せて狙っていた。
犯人が操縦席のドアを開けようとした瞬間、中からモレーノの拳銃が突き出さ
れ、相手が逃げようとしたとたんに、拳銃で殴り倒されていた。

事務所のイスに後手に縛られて、周りを囲まれて尋問されていた犯人は、簡
単に相手の名前を白状して、命乞いをしていた。

翌朝の新聞に大きく『また飛行機が行方不明になるー!』と言う見出しが出
ていた。その午後に、捉まえた犯人の男を使い、犯行を指示させた男に電話
して犯行報酬の受け渡しを決めていた。
誘いに乗った男がリオ・ベールデまで汽車でやって来る事が決まり、その夜に
ホテルで金の引渡しが決まった。全ての下準備が整い、富蔵達も用意が全て
済んでいた。

ホテルの隣の部屋に警察幹部が陣取り、全ての会話も録音される様にした。
町に予定どうり汽車が到着して、相手がカバンを手にホテルに来た。
全て用意された部屋に相手が現金のカバンを持って入って来た。

犯人には飛行機に細工する事を頼んだ事を相手に話しをさせれば減刑すると
約束されていたので、旨く話して『今回も旨く飛行機に細工して墜落させたか
ら、報酬をはずんでくれー!』という話しに、相手も釣られて『それは良くや
った、ここに現金があるから・・』とペラペラと話してしまった。

それと同時に隣の部屋から警察が踏み込み、その場で首謀者として逮捕して
しまった。そして新聞記者達が、部屋に踏み込み写真を撮影して証拠としてし
まった。
全ての事件の詳細が翌日の新聞に出て、手錠を掛けられ、犯行を指示した
地主のファミリーの写真が掲載され、遺恨での犯行という事で全てケリが付い
た。
その事件が一件落着したように感じていた数日後、サンパウロのダイアモンド
商会の弁護士が訪ねて来た。
首謀者の弁護士の友人だと言うことであったが、告訴取り下げで示談にして
くれと申し込んで来た。
リオ・ベールデの事務所ではこの話が討議され、最後はモレーノの最終決断
とさせた。
モレーノは首謀者アントニオの亡くなった祖母が所有していた、小さな農場が
郊外にあるので賠償金の代わりにそれを貰い受けたいと申し込んだ、それと
会社の所有機の営業補償と捜索費用が加算され、相手に提示されたが妥当
な請求で、交渉の話しに来た弁護士も納得して了解してくれた。

富蔵に電話があったダイアモンド商会の社長の顔を立てるからと話して、こ
の話をまとめる様に頼んでいた。

全ての話がまとまり、首謀者アントニオの祖母が所有していた小さな農場の
登記証書がモレーノの名前に書き換えられ、モレーノに詫び状と手渡され、
それで全てが終った。
富蔵はその後、ブラジル社会のコネ関係の凄さを身体で感じていた。

2013年1月28日月曜日

私の還暦過去帳(341)


さて、11月4日の大統領選挙が近くなり、マスコミでも接戦となる候補者
の支持率集計に神経を尖らせている。昨日は副大統領の公開討論会が
TVで放映されて、夕方の忙しい時間にTVの前で座り込んでいました。

新しい大統領によって、これからの政治や経済が大きく振れる事もあるから
です。昨日は郵便で投票用紙が来ましたので実感として選挙が間近と言う
感じが致しました。選挙に投票できるのはアメリカ市民で選挙登録をした
人だけです。
税金を払い、子供をアメリカの大地で育てても帰化する事はなく、生涯に
渡って、永住権のグリーンカードのみで過ごしている方も知っています。
何かあると全て、日本から昔、持参した日本の固定観念の解釈でアメリカ
社会を計って批判する人も居ます。

人様々な考え、生き方、人生の道筋を決めている方々が沢山ここにも住ん
で居ますが、これは親の育て方と幼児教育とが本人に大きなインパクトを
与えると思います。
日本人がアメリカに帰化する率が、多種な民族が混同する中で最低と聞き
ましたが、それだけ日本人が民族的な閉鎖的思考がDNAとなって体細胞
に根ざしていると思います。

私が集団で開催されたアメリカ市民帰化宣誓式に出席した時に実感として、
そこの係りが、見上る様な巨大な宣誓式会場のホールを埋めた満員の
参加者の中に10名も居ないと話していました事を聞いて、広大な式典会場
を改めて見回した覚えが有ります。

後で聞いたら7名ぐらいだったと覚えています。

宣誓式の会場はまず、アメリカの星条旗を先頭に入場式から開始されます、
アメリカ国歌が斉唱され、お祝いの言葉の後に代表者の男女が国旗を手に
会場の全ての参加者達と、立ち上げって唱和しながら宣誓は終了いたします。

その後に永らく持ち歩いたグリーンカードと交換で帰化証明が交付され、
小さなアメリカ国旗がお土産に渡されます。

式典終了と同時に家族で抱き合い、キスを交わす者、涙する者、がっポーズ
で記念写真を撮影する者。
帰化証明証を頭の上にかざして飛び跳ねて喜ぶ者。
手押し車に乗せられ年寄りが花束を手に車椅子を子供に押されてハンカチで
涙を拭きながら歩いて来る姿など、様々な画面と、光景が有りました。

会場の前にデスクを置いて、アメリカパスポート出張申請に早速に用意した
書類と写真を出して申請するヒスパニックの若い男女、まさに新しいアメリカ
市民誕生の姿でした。

私が10年以上も前に、アメリカに帰化したと言うと、
『お前は日本を捨てた・・』とか言う人もいますが、こちらがびっくり致します。

だいぶ前、10年目のパスポート最新となり、先日メールで新しいパスポート
が送って来ました。
10年など早い物です・・・、中には日本人が帰化市民となっても、

それと帰化しても、まったくそれを隠して日本のパスポートを捨てる事無く、
いかにして日本のパスポートを維持して所持するかと、その方法に頭悩まし
て、その裏を何とか探して、いつまでも日本人でありたいという願望で、
キュ、キュー!としている人も居ます。

私にしたらそんな努力をするのであれば、アメリカに帰化などしなければ良い
と思いますが、祖国を捨て切れぬ未練と思います。

また、帰化して『私は二重国籍者になった・・!』とか話している方が居ま
す。現在の日本の法律では、帰化市民の日本国籍との重国籍は認めてい
ません。

帰化市民となった時点でパスポートは一つなのです。
私はサンフランシスコのコルマ日本人墓地に自分の墓も造り、43年以上
も前に未熟児で早世した息子の遺骨も日本から当地に連れて来て、その墓
に埋葬しています。
この歳で何も迷いは在りませんが、まだ母親が健在で、元気で祖国日本に
生きていると言うことで、いつも日本に目が向いています。
そして時々訪ねて行きます。

薄れつつある祖国の幼かりし頃の思い出など、全てが様変わりとなり、面
影も消えて何かわびしい感じが致しますが、60年前の家屋も少なくなり郷
里の町を訪ねても、自分の歳を実感させられる心が致します。

今年も月末に96歳の母を訪ねる事を楽しみに用意いたしております。

2013年1月26日土曜日

第3話、伝説の黄金物語、(47)


 モレーノの墜落事故、

富蔵は絵美が長男と事故で亡くなってからは用事があるとき以外はサンパ
ウロの自宅とサムの飛行場にあるそこの統括事務所に通う以外は家庭生
活を守っていた。
やはり交通事故の痛ましい、悲しい出来事から急には回復できなかったか
らである。
リオ・ベールデ近くの砂金採掘現場に近い町に置いて来たリカは、金持ち
婦人の家に住みながら富蔵達が計画して設計して居た新しいホテルの事業
に参加して、富蔵の代わりに手腕を発揮していた。

誰でもが富蔵の情婦で彼女と言う事で一目置いていたが、頭の回転が速く、
そして切れる物の考え方が、これまでの世界で培った事と感じられた。
しかし、場末の酒場にたむろする娼婦などの雰囲気がまったく無かったリカ
は、今でもその美貌と才覚で男達を魅了していた。

富蔵の囲い者として町の一番上流階級が住む家から事務所に下男同然の
ペドロに仕えられて出て来る様子は気品と優雅さもあった。
そして、事務所では彼女が居ると言うだけで華やいていた。

町にホテル新設の交渉も彼女が行くと対応する小役人達が鼻の下を長くし
て、まるで浮かれた様に熱心に聞いてくれ、書類などはメクラ判かと思うく
らい簡単に許可が出ていた。
その当時は彼女の指にはダイアモンドの指輪が結婚指輪と同じ指に輝いて
いたので、それを見て男達がため息をついていた。

絵美と長男が交通事故で急死した時はその後かなりリカとの噂が出たが、
長くサンパウロの自宅に家族同然で住んでいた雪子と結婚したので、直ぐ
に噂も消えてしまった。

しばらくは平穏な日々を過ごして心の痛みを忘れていたが、毎日のように
通うサムの飛行場で飛行機の操縦も練習していた。
元々の運動神経と感の良さで直ぐに操縦ライセンスを取っていた。

日帰りの飛行ではモレーノの助手で飛行してサンパウロにその日に帰って
来ていた。モレーノも富蔵と飛ぶのは嬉しいらしくて、いつも誘ってくれて
いたので、飛行技量はメキメキと上達していた。

サムからは緊急脱出パラシュートの名前入りが贈られて、飛行服も身体に
合せて新調され、モレーノが事あるごとに呼び出して飛行していた。

そんな時にサンパウロからリオ・ベールデに帰る飛行中に、エンジン不調
でモレーノが不時着したと言う緊急連絡が事務所に打電されて来た。
帰着時刻を一時間過ぎても到着しないという事と、積載燃料が完全に空と
言う事が時間的に判明したからであった。

夕暮れまじかな時間でサムが直ぐに捜索機を出して飛行経路上を捜索し
ていた。40分程度経過した時点で、電信が来た、『機体が燃えている
様子が判明』と一報が受信された。

ジャングル地帯の森林の中で損傷機体からの炎が、チラチラと瞬く様子が
判明したようだった。
上空を旋回してモレーノが非常脱出したと思われる場所を丹念にサムが飛
んでいた。
暗くなりかけたジャングルの中からスルスルと信号弾が打ち上げられた様
子を確認したサムが喜びの電信を送って来た。
『無事の様子、信号弾確認する』と打電して来た。
富蔵はそれを見たとたんホッと、肩の重い荷が下りた感じであった。

サムはサバイバル用品を詰めたパラシュートを正確に信号弾打ち上げ地点
に投下して、帰途についたが、周りを探して着陸出来る場所を探していた。

3kmばかり離れた所にジャングルが切り開かれ、農場があるのが確認さ
れ、着地出来るスペースを探した。
その夜、暗くなってサンパウロの飛行場にサムの捜索機が戻って来た。

その夜は捜索準備に忙殺され、無事にモレーノを救助して連れ戻す事を考
えていた。リオ・ベールデと通信が交わされ全ての救助の手配が済んだ。

まだ空に星が瞬き、東の空が微かに明るくなった時点で、着陸距離が短く、
低圧タイアを装備した小型複葉機をサムが操縦して、富蔵も同乗して現場に
飛んでいた。

現場上空に到着した時は夜も開けて明るくなっていたが、先ず昨夜確認した
信号弾打ち上げ現場上空を旋回して、無事を目視して確認するようにモレー
ノを探していた。

発炎筒が焚かれ赤い煙がジャングルから立ち上がるのが確認され、微かに
木々の間に飛行服のモレーノが瞬間見えた。

通信筒に入れた文面には、西の方角に3kmばかりの地点に農場がある
という事を、略図を書いて入れていた。正確に10mは違わない場所に低
空で落とされた。

農場上空に到着して、平らな牧草地の中の農道にサムが着陸を試みた。
牧草地はまだ木の切り株が沢山残っていてとても着陸は出来ない状態であ
った。サムが絶妙なコントロールで農道に上手く着陸すると、凄いホコリが
舞い上がった。
それと同時に馬が3頭全力で疾走してくるのが分かった。
若い牧童の様な感じで、飛行機の横に来ると馬から飛び降りて操縦席に
駆け寄って来た。
彼等は夕方、飛行機が飛んでいた事も知っており、飛行機の墜落した様な
黒煙と音も聞いていたので、話は簡単であった。

捜索の協力を頼むと彼等は二つ返事で了承してくれた。
リオ・ベールデからも救援機が来るので、着陸出来る様に場所作りをして
もらった。
道端の潅木を何ヶ所か切り倒してくれたので、農道がもっと長く着陸に使え
る様になり、安全となった。
その頃には農場主が陣頭指揮で家族も加わり、使用人も参加して馬が用
意され、2班に分かれて捜索が開始された。

現地人の若者が先を争って馬で墜落現場に向かって行った。
サムを農場に残してリオ・ベールデから来る救援機の指図をしてもらった。

富蔵は借りた馬で若者に先導されてジャングルに捜索に分け入った。しば
らく行くと道がなくなり馬を下りて歩いて進んでいった。
30分ばかり歩いて、富蔵は腰の拳銃を抜くと空に向けて1発発射した。
パーン!と言う乾いた音がこだましていたが、直ぐに答えが帰って来た。

かなり近い所でパンパンと連続して発射音が聞こえた。
富蔵の『モレーノ・・!、何処に居るのか・・・?』と言う大声に。
『ここだー!』と言う答えが聞こえた。
ジャングルの中にパラシュートを担いだモレーノが見え隠れして歩いて来る
のが分かった。
富蔵は走り出してモレーノに飛びついた。お互いに肩をガッシリと抱き合い、
無事を喜んでいた。
興奮が収まり、農場に戻る道すがら、モレーノが『飛行機の燃料に何か
混ぜられていた』と話した。

富蔵は愕然としていた。

2013年1月24日木曜日

私の還暦過去帳(340)


年寄りの独断と偏見で世相を切るー!


日本は政治の貧困で国体が弱体になっていると、外国からの批判があるが、
それは本当の事と感じるようになりました。

安部、福田と続けて2度も政権放棄、分かりやすく言えば、投げ出しと
も言える日本の政治権力トップの未熟さ・・、幼稚さ、親の七光りに輝い
て、これまで一度ともその日の食に困り、地を這うようにして働いたこと
も無い、坊ちゃん育ち・・、

本音とたてまえを使い、決して日本の心底からを光を当てる政治をしよう
としない、政治家は本音は隠して、蓋をして、二枚舌を使い、
愛想良く、奇麗事を話し、責任感なく、まさに外側だけの外面を維持する
事にキュウキュウとしている。

一度でも本音を口滑らせると、『言葉狩りー!』と言う何癖や、いちゃも
んを付けられ、袋叩きに合い、政治の世界では生きる隙間もない・・・、
それの尻馬に乗る新聞各社とマスコミ界。奇麗ごとに終始する社会環境。

TVなどではその非難を、まるで発言者にバッシングする様に放送しないと
優良放送局とはならない、まるで狂った世界・・・!、

37年前に日教組が牛耳る小学校で、PTA会費や、その他の費用を銀行振
り込みさせた日教組組織の汚さ、裏で振込みの便宜の為に彼等が裏金や
物品の供与を受けている事を隠して、PTAの父兄幹部を抱きこんで勝手に
決めてしまった。

その銀行に行って、銀行幹部から直接聞いた話は、『預金者獲得のため』
学校の日教組幹部は『子供がお金を失くすから』と来た。

当時、近所の床屋でもその噂話が出ていた様な有様ですが、子供達を人質
にして、自分達の世界と思考で子供の教育を捻じ曲げた。

私は持ち前のへそ曲がりを最大に生かして、我が子の担任の先生に毎月持
参して払っていた。2~3ヶ月は受け取ったが、それ以降は拒否して来た。

『貴方だけ、学校で一人だけ持参するのには対応出来ない・・・』という
事でしたが、私が銀行で聞いた事を、日教組幹部、校長、教頭、担任を前に、

『銀行は預金者獲得の為にお願いした』その件を話した支店長の名前を示し
て切り出した。
慌てたのは日教組幹部と担任の先生でした。

『近所の床屋でも貴方達が裏で銀行から、何がしかの便宜か袖の下を貰い実
行した』ともっぱらの噂だよ・・!と話した途端、慌てて席を立って、
戻ってはこなかった。

その後毎月、息子の学校費をただ一人、校長室に持参していた。

校長は丁重にその持参した金額を確かめて、私が自分で作った通い通帳に
ハンコを押して、受領印としてくれた。

そしてお茶でも如何ですか?と聞いてくれた。

息子は担任の先生に煙たがられ、間接的ないやがらせも受けていた。

『私は何で・・、あんな頑固なへそ曲がりの父兄の担任となったか・・!』
と・・・!

校長先生は、『貴方の様な方があとこの学校に100人いや・・、その様な
人ばかりだったら、日本は大きく変わり変化して行くと・・・』話していた。

私は本音で生きているので、担任の先生に『もしも私の子供に、この件で
嫌がらせなどしたら告訴すると明言した』

あの時の先生の顔を思い出す・・、おそらく、このオヤジだったら間違いなく
やりかねないと直感で感じた様だ・・!

37年前の日本の学校教育は私の信念とかけ離れていた。
詰め込み教育、点取り主義、サラリーマン養成学校、自己主張を殺し、同
じ型と箱の思想でなければ生きて行けない社会とした人間教育。

私がアメリカに移住を決心させた一因でした。
アメリカに移住して子供達が伸び伸びと成長する姿が嬉しかった。

優秀な子供は政府の金で特別クラスでもっと学業を伸ばしてくれ、援助してく
れ、高校で大学のクラスで勉強出来るチャンスを与えてくれ、16歳で学校
の必修科目として運転を習い、自分で働いて車を買い、それを維持して生き
て、成長していく姿にも嬉しかった。

息子に日本では・・・、

『(車に)乗せない、(車を)持たせない、(免許を)取らせない』と言

う3無い運動があると教えると、息子が『アメリカに来て良かったねー!』と
言ってくれた。

2013年1月23日水曜日

第3話、伝説の黄金物語、(46)


日本人の流浪歴史、

先月の終わりから、半月ほどメキシコに旅行していました。

バッハ、カリフォルニアの突端、カボに滞在していましたが、富蔵と同じ様
にメキシコに移民して、メキシコ各地で、事業や農業を起こしてまた消えて
行った日本人が居る事を知りました。

富蔵はブラジルに腰をすえて、家庭を持ち事業を起こして成功して、また
家族の悲劇にも巻き込まれて、どん底まで落ち込んで人生の道を歩いてい
たのですが、メキシコでも、1897年の榎本メキシコ移住者達が最初で
すが、メキシコ各地に移住した日本人達が1941年の第二次大戦前まで
に、1万2千人程度いたようです。

ブラジル移民の18万人程度、ペルーに移住した2万6千人程度からした
ら僅かな人数ですが、メキシコ革命時期にキユーバに転住したり、アメリカ
に移動したりした人達も居たようです。

移民会社が送り出したメキシコ移住には3社あり、熊本移民合資会社、東洋
移民合資会社、大陸殖民合資会社の取り扱いによるものが殆どですが、そ
の他にバッハ・カリフォルニアへの漁業移民が海外興業株式会社により漁師と
して送り込まれています。

その末裔か知りませんがカボのホテルの受付に4世という女性が居ましたが、
名前だけ日本人で、日本語の言葉も話せない女性でした。

顔形はメキシコ人の特徴でしたが、何代もの現地人との混血で名前だけ日本
人として残ったと感じます。メキシコの現地人達の結婚年齢は低く、昔は20
代では殆どが結婚して居ると言う話でした。

ひっそりと現地に溶け込んで名前だけ残り、自分には日本人の血が流れてい
ると言う人の言葉は遠き昔の日本人の歴史を感じます。

今ではブラジルの日系人達が、推定で27万人もの数が日本に出稼ぎに来
て、祖国の土を踏み、歴史のユーターンをしていますが、これも時代の変化
と思います。

富蔵達が活躍した時代も第二次大戦を挟んで、大きく変化して中には消え去
り、時代に埋没して行った人達もいました。
戦時中は日本人の指導者達や、知識階級などがブラジル政府に拘束され収
容されています。
それを逃れた日本人達も、特定の地域から自由に行動する事も出来なく、日
本人同士の集会も禁止されていた時期があったのです。
その様な世代の狭間の中でブラジル社会も大きく変化して動き出していたので
した。
富蔵達のビジネスも不穏な陰を広げる欧州の政治情勢を影響して活動が激し
くなって来ていたのである。

富蔵が妻子を同時に交通事故で亡くして、その事故から難を逃れた次男と、
長く同居して家族同然に生活していた日本人移住地から来ている雪子が、次
男の面倒を見ながら、オフイスで働いていた。

事故の全てがかたずいて49日の法要も済むと、絵美の遺言となった言葉を
皆が知っていたので事は早かった。
上原氏夫妻が移住地の両親に丁重に挨拶に出かけて、雪子の事で了解を得
て、婚約者という事で指輪も雪子に贈られた。

幼い次男はまったく雪子を母親同然に懐いて、本当の母親が亡くなったと言う
事さえ理解していなかった。
富蔵も仕事に追われて日が経つに連れて、絵美の言葉を心に思い出しなが
ら、まるで絵美の姿を感じる時があった。
それは絵美が着ていた服を雪子が着て次男を抱いて部屋から突然出て来た時
など、一瞬我が目を疑う事があった。

背格好が同じで、絵美が着ていた服などは何処もいじらなくても、ぴったりと
身体に合って着れると言う事はサイズがまったく同じと言う事であった。

富蔵がリオ・ベールデからサンパウロに戻って自宅に夜遅く帰って来た時であっ
た。食事を雪子が用意してくれ、富蔵もウイスキーを飲んで寝付いた次男を子
供部屋のベッドに雪子と見に行った時に、雪子の背中を見ていると衝動的に抱
きたいと感じた。
子供部屋からの帰りに、寝室の前で雪子を抱かかえると、ベッドルームに連れ
て行き、灯りを消した窓明かりの微かな中で雪子を初めて抱いていた。

富蔵は久しぶりに抱く若い雪子の女体を感激の思いで抱いていた。
絵美の思いは雪子に置き換わって、男の感情を激しく燃やして、全て雪子に
注ぎ込んでいた。
その夜は雪子を抱いて眠りに付いたが、その夜から絵美の夢は見なくなった。

翌朝、昔と同じ様に朝食は冷えたパパイヤの切り身とオレンジジユースに、ト
ーストのパンにバター、大きなカップにコーヒーがミルクをたっぷりと入れて用
意されていた。
ニコニコと笑顔で雪子が、かいがいしく富蔵に給仕していた。
その日から雪子の指にダイアモンドの婚約指輪が光り、次男もいつものように
ママと雪子にまつわり付いて、楽しそうであった。

その事があってから、富蔵の心の重い何かが吹っ切れた様に感じて、昔の
絵美に対して接していた様に雪子にも同じ心で接して、それが誰の目に見ても
富蔵の心が癒えたと感じていた。

その夜から雪子は富蔵のベッドで寝るようになった。

2013年1月22日火曜日

私の還暦過去帳(339)


今日私がお勧めいたします映画は・・・、

Miracle at St. Anna  (ミラクル・アット・セント.アンナ)と言う題名です。
日本名直訳:『聖アンナの奇跡』

戦争の悲劇をそれぞれの兵士の個人的な話へと、関連した物語を書いた
ベストセラー「Miracle at St.Anna」の著者ジェイムズ・マクブライドは、彼
は白人の母を持つ混血のブラック・アメリカ人だった。

映画は、第二次世界大戦下に起きた実話を元にジェイムズ・マクブライドが
脚色を手掛け、本作品の制作にも参加して、実際の実話を取り入れた手
法は見る者の心を掴み、迫力ある作品に仕上げている。

監督: スパイク・リー
出演: デレク・ルーク、マイケル・イーリー、
    ラズ・アロンソ、
    オマー・ベンソン・ミラー、
    ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ

この映画の冒頭の画面は郵便局に切手を買いに来た男が窓口の、郵便局
員に拳銃でいきなり射殺される事から始まる。

スリーラー的な推理も回顧録的な手法で画面が展開するが、その連続する
画面に引きずられ、飲み込まれる感じがする。
画面の激しい戦闘場面もこの映画のテンポを殺す事無く、画面から叩きつ
ける様な迫力が出ている。
実際の画面を見てもらえば納得のストーリーと感じられると思います。

1983年12月19日、ヘクター・ネグロンが、ある男を殺したという出だしが、
ミステリー的な感じも致しますが、2時間40分の長編映画にしては替わり
の激しい画面で、テンポも同じく、息つく暇なく展開する画面に、その時間
的な長さは見終わって感じる事は無かった。

郵便局員の殺人犯行後、ニョーヨークの彼の家で見つかったイタリアの文
化的遺産と言う大理石の頭部、それを39年前に起きたミステリーの手掛かり
とする手法を使っている。

第二次世界大戦下、イタリアのトスカーナに派兵されたアメリカ陸軍の黒人
兵士達による第92師団歩兵連隊バッファロー・ソルジャー達の物語を絡めて
この物語の発端は1944年スタートする。

人種差別を絡ませて、対立する黒人兵士仲間とドイツ兵、イタリアのパル
チザンの戦闘と交差した黒人兵4名が、彼等の初めて遭遇する世界の、
イタリア、トスカーナ州のサンターナ・ディ・スタゼマ村にて巻き起こる激しい
戦闘と人種差別を絡ませて、ナチドイツの親衛隊がパルチザンの襲撃で、
村民のほぼ全員、560人を射殺虐殺する場面も登場する。

これは実話で、現実にトスカーナ州のサンターナ・ディ・スタゼマ村起きた事
件は、戦後の2005年にイタリアの法廷で61年前の村民虐殺で元ナチス
親衛隊10人に終身刑が言い渡された。

その虐殺現場から逃れた少年がアメリカ軍の人種差別主義者の指揮官に
より、見知らぬイタリアの村に孤立無援の状態で取り残され、黒人兵士4
名と現実と奇跡?と感じる挿話を挟んで展開する物語に、2時間40分と
言う長編ながら、ぐいぐいと引きずり込まれる感じが致します。

黒人兵が差別されるシーンも、今の世代と時代的な背景を考えると監督の
考えるストーリーが何処に有るのか、貴方の心に感じると思います。

今年のカンヌ映画祭でスパイク・リーとクリント・イーストウッドの舌戦がこの
映画の上映を前に戦わされた事は知られていますが、イーストウッドが監
督した映画「父親たちの星条旗」を見たブラック・アメリカ人による嘆き、
落胆、差別的な怒りがあった事を考えると、人種差別をテーマに入れた映
画の複雑さが、黒人映画監督の映画と見て分かると思います。

記憶を失った少年役には映画初出演のマッティオ・シャボーディが熱演して、
大人達の演技が顔負けする様な役割を演じている。

映画の台詞は英語は英語で、ドイツ語はドイツ語でイタリア語は地元イタリ
アのイタリア語という実際の場面と同じ言葉で話され、臨証感が画面から
感じられた。

私は上映が終わり、ラストシーンの最後に涙が出ていた。
そして、何か心深く感じるものがあった映画でした。


劇映画としては満足度;100%

上映時間:2時間40分

2008年製作:アメリカ公開2008年9月26日
日本公開未定

2013年1月19日土曜日

第3話、伝説の黄金物語、(45)


 妻子との別れ、

富蔵は飛び立った飛行機の中で祈っていた。
事故はすでに起きて、妻子がサンパウロ中央病院に入院して危篤状態と言う
事だけが知らされていたが、今は祈る他はなかった。

モレーノも始終無言で操縦していた。少し崩れかけた天気で雲が多くなってき
たが、構わず飛行を続けて行った。夕方まだ薄明かりの中にサムの飛行学
校の滑走路に無事に着陸した。
サムが飛行機に走り寄り、肩を抱いて車に案内してくれた。飛行服をモレー
ノは脱ぎ捨てると皮のジャンパーに着替えて富蔵と並んで後部座席に座った。

サムが車を発進して街道に出て疾走始めた。
富蔵がサムに妻子の様態を聞いた。サムはしばらく無言のあと、一言、
『様態はかなり悪い、後は神様が判断を決める様だ・・』とつぶやいた。

サンパウロ中央病院には程なく到着した。玄関口には上原氏夫妻と長男の
正雄とマリアも待っていた。長女の美恵ちゃんが富蔵の手を取り、病室に案内
してくれた。
そこには昏睡した妻が横たわり、側のベッドで長男が同じく包帯に巻かれて横
たわっていた。
看護婦の知らせで駆け付けた医者が富蔵を窓際に呼び、微かに首を横に振
りそう長くないとつぶやいた。それを聞くと富蔵は医者に自分の子供をこの手で
抱いて良いか聞いた。
医者は子供に掛けられていた毛布を取り除くと、抱きかかえた長男を富蔵に渡
した。医者は皆に合図して部屋の外に出る様にさせた。
ドアが閉められ、絵美のベッドの側で富蔵は目をつぶった我が子を抱いて呆然
としていた。
しばらく時が経つ事を忘れて涙していたが、微かなささやきで、妻の絵美を見
ると目で話しかける様に涙を浮かべた眼で富蔵を見ているのを見つけると側に
長男を寝かせて、その上に覆いかぶさる様にして妻子を抱いていた。

しばらく抱きしめて抱擁していたが、絵美の手が長男を抱くようにさせ、別れの
ひと時を夫婦で重なるように抱きしめていた。

どのくらい時間が過ぎたかは知らなかったが、長男が絵美の腕の中で微かな
深呼吸を深くすると顔を絵美の胸に埋めた。
しばらく時の経つのを忘れて居たが、だんだんと冷たくなる長男の身体を感じ
て医者を呼んだ。
医者が来ると、型どうりに聴診器を子供に当てると、胸の前で十字を切り
『神に召されたー!』と、ひとこと言うと横のベッドに横たえた。

富蔵はしばらくここで長男とお別れしたいと申し出て、了承されまたドアが閉め
られた。
絵美が眼で話す様に富蔵を誘って、微かな声で富蔵の耳元に言葉をささやい
ていた。
それは、『許して・・、ごめんなさい、』とつぶやいている様であった。
絵美の口元に顔を寄せて声を聞き漏らさないように神経を尖らせていた。

『貴方が戻るまで神に祈ってこの命を持ち堪えたが、もう貴方に会えてその気
力も力尽きて来た、最後に貴方に話しておきたい事が有る』と言うと家族を呼
ぶように富蔵に頼んだ。

部屋に上原家の家族が並ぶと、その前で絵美が小さな声で『貴方の大切な
息子を死なせて許して下さい、しかし、幼い次男は家において居て、雪子に
世話を頼んでいたので元気で事故にもあう事もなく無事です、私は後僅かしか
ない命です、雪子は妹のように一緒に生活して、次男も可愛がって育ててくれ
ていたので、貴方に雪子を私の代わりに許されるのであれば妻として愛してや
ってく下さい』と懇願していた。

それまで話すとゼイゼイと息を切らして酸素マスクをして呼吸を整えて居たが、
気力が切れたのか、富蔵の手を握り締めて頬に涙を流していた。
上原家の家族は静まり返り、咳ひとつする者は居なかった。

絵美の口元に耳を近ずけていた富蔵に『雪子は事務所では真面目に働き、
気立ても良くて、日本人の心を持ち、次男を我が子の様に世話してくれていま
す、お願い・・』とそこまで言うとゆっくりと眼をつぶって眠る様に穏やかな顔に
なった。

富蔵の手に電流の様なショックが走った。絵美が握り締めた手から発した霊気
の様な力と富蔵は感じた。
人前もはばかること無く怒泣していた、絵美を抱きしめてただ泣いていた。

それが済むと、長男を抱きかかえ絵美の横に寝かせて、その二人を抱くと
自分の身体で暖める様にして、ただ咽び泣いていた。

部屋には富蔵一人を残して誰もが席を外していた。

2013年1月16日水曜日

私の還暦過去帳(338)


旅に出て・・・

今回の旅先で出遭った若いカップルが、サンフランシスコを訪ねて来ました。
バックパックを背中に両手にも荷物を下げて、私と待合場所にしていた電車
の駅から降りてきたのを見た時に、私も昔はあんな格好で歩いていたと思い
ました。
しかし、時代は代わり、変化して若者達の思考も時代に洗われて、漂泊の
如き生き様を晒している感じを受けます。

旅先の道すがらに心感じる事は、若いと言う特権に似た行動パターンが一冊
の旅のガイドブックの型にはまり、バイブルの如き『地球の歩き方』を片手
に、目的も、使命も無く、漠然とした道筋に・・・、

『私はこれからどこに行ったら良いのか?』と周りの人々に聞くようなもので
す。

生きるという経済的な裏打ちが欠如して、欠陥商品かレモンの如き物事の考
えとなっている事を感じる時が有ります。

『なぜか・・!』と言う疑問も無く、
『どうして・・!』という質問も無く、

自分の殻と枠にはまり、今まで得た知識の範囲の思考と行動の狭間に挟ま
れて、それにハマリ、固定され概念化された日本人的な思考での解釈、言
語が一ヶ国語と言う、一つだけの言語での主張しか出来ない行動範囲、陸

続きでない島国的義務教育からの固定観念の思考、日本人では、買い物
に国境を超えて歩いて、隣の国に行くと言う事は在りません、アイスクリー
ムを食べに国境を歩いて越え、食べながら帰ってくるという狭い範囲の場所
も在りません。

国境を越えれば使う紙幣から、言葉まで変わることを体験する身近な隣国も
在りません、それぞれに日本と言う島に住んで、海岸線に囲まれ平和な環
境での日本的教育思考が生み出す、旅人の行動パターンと考えます。

チリのサンペドロ・デ・アタカマの街で、ホテルの隣に泊まっていたベルギー
からの若いカップルが英語、フランス語、スペイン語を話して旅しているのを
見て、彼等がイメージする旅の行程が、広い視野での旅となっていると感じ
た事が有ります。
旅の『指差し会話手帳』では食べる、キップを買う、幾らか?、という赤子
的な指数となり、その範囲での旅となっている人も見ました。

その範囲内での自己満足と旅で得る人生展望の視野でも、人それぞれが
違う思考の範囲の満足と思います。

2013年1月15日火曜日

第3話、伝説の黄金物語、(44)


  運命の歯車、

富蔵はリカの、涙を流して懇願する顔を見ていた。
言いようの無い感動さえ感じていた。

女性からひざまずいてまで、頼み事をされた覚えは無かったからであった。
まして、リカには男達がひざまずいて、擦り寄るほどの美貌と才覚を持ち、
誰が見てもその姿態は均整のとれた素晴らしい身体であった。

そんな彼女が富蔵にひざまずいて懇願する姿態を見て、心の中で決心し
ていた。

それは、富蔵が昔、神戸から貨物船でアメリカ航路の船員で出港する時
に、父親が見送りに来てくれ、『お前はこれから男として、世の中に出港
するのと同じだから色々な事があるだろうが、運命でめぐり合い、また出合
って気に入った女がいたら、それが観音様かもしれないので、逃さず抱い
て据え膳は喰わねばならぬ・・、』と富蔵に諭していた言葉を思い出してい
た。
富蔵はリカの手を取り立たせると、力強く腰を抱きしめて、舌が抜ける様
なキスをしていた。
それが済むと、軽々しく彼女の身体をベッドに運ぶと、後は男の本能を爆
発させていた。その夜、何度か男と女の本能そのままの姿で絡み合い、
最後は気絶したように寝ていた。

何時か知らないが、表のドアを激しく叩く音がしていた。
富蔵は飛び起きて『誰かー!』と聞いた。事務員の慌てた声が響いてい
た。『サンパウロの事務所と家族から至急電報が2通来ている・・』と話し
ていた。

身支度を済ませると、リカに直ぐに戻ってくると言い残すと事務所に走った。
至急電報がデスクの上に載せられていた。開けると先ず目に飛び込んで
来た文字があった。
それはサンパウロのサムの飛行場にある統括オフイスからで、『家族に
交通事故発生、至急帰宅されたし』と言う一行の電文であった。

他の電報は妻の姉、美恵からで、『絵美と子供が交通事故で重症、直ぐ
に帰宅されたし・・』と、こちらも同じ様な電文であった。

読み終わると同時に事務員がコーヒーを差し出して、『モレーノの飛行機
が迎えに、こちらに来ているので、3時間程度で到着する』と富蔵に説明
した。

富蔵は一瞬、頭をバットで叩かれた様なショックを受けた。
事務所の中では、数人の事務員達が富蔵を遠目で見て、慰めの言葉を捜
していた。

富蔵はゆっくりとコーヒーを飲み干すと、事務員達にしばらくは、ここに来
れないかも知れないので、当分の間の仕事のスケジュールを話していた。
それが済むと近くの富蔵の宿泊施設に戻った。

すでにリカは起きて身支度を整え、薄化粧もしていた。
富蔵はこれまでのいきさつと話すと、サンパウロに急いで帰宅する事を話し
た。
『飛行機が3時間で迎えに、ここに到着するから、それまでに荷物をかた
  ずけて用意して、リカの身の振り方を考える・・』と話した。
彼女は黙ってうなずいて聞いていた。

富蔵は荷物を整理する間に、リカに靴磨きの少年を探して来るように頼ん
だ。富蔵がカバンに身の回りを詰めて、書類などをカバンに詰め終わる頃
に、靴磨きの少年が来た。

『この女性が、どこかしばらく宿泊出来る所を探しているが、良い場所と家
    を知っているか?』と富蔵は聞いた。
直ぐに靴磨きの少年が、『俺の母親がお手伝いで毎日、仕事に行っている
未亡人の金持ちの家は広くて奇麗で、場所も町で一番良い地域にある』と
教えてくれた。

靴磨きを連れて、オフイスの車を借りて、連れ立って未亡人の家に訪ねた。
そこに行く前に花屋でバラの花束を買い、ケーキ屋でチーズケーキを用意し
て玄関のベルを押した。
中から靴磨き少年の母親が出て来て、我が子と富蔵を見て少し驚いて居た
が、話を聞くと直ぐに未亡人に取り次いでくれた。

奇麗なバラの花束とチーズケーキが直ぐに効いたのか、女性一人に部屋を
貸す事を快諾してくれた。バラとケーキは靴磨きの少年が教えてくれたので
あった。

部屋は中庭に面した明るい浴室の付いた客間で、『誰も訪ねて来る人も居
ないから、』と言う事で即決で決まった。
富蔵は前金と言って、未亡人が希望する金額を気前良く手渡した。

直ぐにサインされた受け取りと、鍵が2個富蔵に手渡され、今日からでも来
て下さいと言う事になり富蔵は直ぐに部屋に引き返すと、若い衆2名に手伝
いをさせると耐火金庫とリカを連れてその家に引っ越した。

リカが未亡人の前で膝を折って丁重に挨拶すると、機嫌よく部屋を案内して
くれ、リカもその部屋を気に入ってくれた。そうする内に飛行機が到着する
時刻となり、日暮れを計算して直ぐに給油後に飛び立つと決めていたので、
部屋にリカを呼び『サンパウロでどうなっているか分からないが、必ず連絡
するので、ここを動くな・・』と話して抱きしめると車を事務所に急がせた。

事務所ではすべての用意が済んで富蔵の荷物も置いてあった。
靴磨きの少年を、事務所の雑役に雇う様に係りに話して快諾を受けたので、
呼び出して辞令を手渡し、リカの面倒も見る様に命令した。

飛び上がるように喜ぶ少年が、『まかしてくれ・・!』と言う言葉と、これか
らはボスには俺を『ペドロ』と呼んでくれと頼んで来た。

遠くで飛行機の爆音が聞こえて予定どうり到着したと感じた。

ペドロが我先に富蔵の荷物を抱えると車に運び込み、ドアを開けて待ってい
た。富蔵はペドロに『明日の朝からはキチンとした服装で、靴も履いてオフ
イスに来い!』と命令して幾らかの金を手渡していた。

飛行場に到着するとモレーノが飛行機の側で、給油を見ながらコーヒーでサ
ンドイッチを食べていた。
富蔵を見かけると、走り寄り、『絵美と子供が乗車していた車にサントス街
道の下り坂で、トラックがブレーキ加熱で暴走して事故に巻き込まれた様だ』
と教えてくれた。

上原氏夫妻の日本訪問の帰りをサントス港まで出迎えに行って、事故に巻
き込まれた様子が分かったが、長男の正雄と二台の車で迎えにサントス街
道を降りて、サントス港に行く途中であった様だ。
サンパウロの中央病院に入院していると話してくれた。

モレーノが肩を抱いて励ましてくれ、給油が終ると、トイレから戻るなりエン
ジンを始動させた。
モレーノは富蔵を飛行機に搭乗させると、サンパウロ目掛けて飛び立って
行った。

2013年1月13日日曜日

私の還暦過去帳(337)


旅に出て・・・、

『犬も歩けば棒に当る』と言いますが、今では街のどこを歩いても当地
では、スターバックスのコーヒー店があります。

私の近所は大した街ではありませんが、サンフランシスコ郊外のベッド
タウンです。特にブルーカラーと言う階層が多いと言われる町でもあり
ますが、そのコーヒー屋があちこちに出来て、かなりの賑わいを致して
いる事が分かります。

アルゼンチン、ブエノス・アイレスの街で、昔は沢山のコーヒー売りが
両肩にコーヒーを入れ魔法瓶を提げて売り歩いていました。
制服のように同じようなシャツと白いエプロンの様な小銭入れを付けて
いましたが、今では小さな手押しの台車にコーヒーとか、スナックも載
せていました。
公園などの木陰にとめてコーヒーを売っていましたが、街角のあちこち
で見かけました。昔のブエノスでは街のあちこちに小さな店先でコーヒー
飲ませるスタンドが有りました。

温めたテーブルに小さなコーヒーカップが伏せて並べて置いてあり、そ
れを一つ手に取りカウンターに置くと直ぐさま、コーヒーを入れてくれ
るやり方でした。好きなだけ砂糖やミルクも自分で入れて飲んでいまし
たが、今ではその様なコーヒースタンドは、どこにも見ることは出来ま
せんでした。

今ではあらゆるケーキから清涼飲料水まで並べた店が、軽食も置いて、
あちこちにあるのを見て、時代が変わった事を認識させられました。
しかし、旅の途中で飲むコーヒーも田舎では時にはインスタント・コー
ヒーを注いでくれました。
今回わたしが見た一番小さなコーヒー店は畳2枚分ですから1坪程度の
店で、そこに夫婦二人で店番をしていた所でしたが、チリとアルゼンチ
ンの国境で、サンペドロ・デ・アタカマからフフイ経由でサルタ州の州都
に出る、週3回しか走らない国際バスで停車した時でした。

狭い出入国管理事務所の横にバラック小屋が建っていました。
高地で風も冷たく野外まで行列したバス乗客達が出入国管理事務所前の
入り口から溢れて、外まで並んでいる横ですからお客は沢山います。

中々動かない行列を見ながら、皆がコーヒーかコカ茶を注文しているのを
見て私も行列を離れて熱いコーヒーを買い並んで飲んでいました。
小さなバラックの小屋です、中は所狭しと商品が半分ほど占拠していま
した。直ぐに食べられるスナック類が殆どでした。

澄み渡った青空の空を見上げながら、はためく国旗の色が鮮やかに風に
なびいていました。寒風が吹き刺す寒さで、管理事務所横の日陰はアイス
がガチガチに凍り付いていました。インスタントコーヒーですが熱い舌を
焼く様なコーヒーを口にする事で、身体が温まるのが分かりました。

国境越えの長距離トラックの運転手が国境の検疫検査を受けて、トラック
に乗り込む時に熱いお茶が入った魔法瓶を手に乗り込む姿が見えました。
大きくエンジンの音を響かせてゆっくりと街道に出て行く大型トラック運
転手達も、そこのバラック小屋で買っていた様でした。

周りを見回しても人家などはどこも無いような場所です、国境管理事務所の
職員住宅が少し並んでいるのが見えるくらいでしたが、それにしてもこんな
砂漠の様な荒地の国境で24時間バスやトラックのお客を相手に開いている
店には感心致しました。そこではアルゼンチン・ペソやチリの通貨も使用で

きましたが、冷えて寒い行列に並んで暖かいインスタントコーヒーでも飲め
た事はありがたいことでした。バスの乗客が入国の手続きを済ませてバスに
皆が戻り発車する頃は店の前はガラーンと、寒風が吹きすさび、店の主人が
店の裏で何か調理でもしているのか、その様子が見えていました。

私の座席の横の白人青年がサラミを切ってパンに挟んで、自分のマグカップ
に入れた暖かそうなコーヒーと食べていました。
バスが動き出すと、ガラーンとした国境の出入国管理事務所前の駐車場は
風の来ない日溜まりで犬が寝ているのが見えました。

2013年1月12日土曜日

第3話、伝説の黄金物語、(43)


 運命の出会い、

富蔵は日系女性の名前も知らなかったが、丁度良い湯加減で気分の和ん
だ頃に、彼女が自分の名前はリカと教えてくれたので、名前で呼んでいた
が下着も着る物も何もかも店で焼けて、着ていた服も血だらけで、とても
着れる様な状態ではなかったので、

富蔵は、「リカ、今からお前の着る物を探してくる」と言って部屋の外に
出ると、外でドアを叩く音がしていた。
誰かー!聞くと、先ほどの靴磨きの少年であった。富蔵は直ぐにこの子供
に聞いて服を探そうと思った。
先ほどの靴磨きの少年がニコニコしてドアの前に立っていた。

富蔵は少年に脱ぎ捨てられた服や下着を見せて同じ物を探すように命令し
た。少年は笑いながら全てを納得したような顔で「お安い御用・・」と言うと、
黙って手を出して金を要求して来た。
金と彼女の服と下着をスカートに包んで少年に手渡した。
「この服はどこで買ったか知っている・・」と富蔵に言うと、あっと言う間に
消えて行った。

富蔵はとりあえず自分の肌着とワイシャツを用意しておいた。
そして興奮した自分を落ち着かせるために、冷たい水を飲み干していたが、
興奮は収まる事無く、脳裏に彼女の裸体の姿が焼きついた画像の様に思い
出されていた。

バスタオルで身体を包んだリカが出て来ると富蔵のワイシャツを素裸の上か
ら着ていたが、小柄な彼女の身体がすっぽりと隠れてしまった。下は何もは
いてはいなかったが身体が全体隠れて、洗った髪の毛をバスタオルで包ん
でイスに座り、彼女も冷たい水を飲んでいた。
その時、ドアの外で靴磨きの少年の声がして、「服を買ってきた・・」と戻っ
て来た事が分かった。
少年は町で一番の高級洋服屋の主人に、リカの事を話すと、5分で全部用
意してくれたと話していた。リカはその店では最上のお得意様であったようだ。

包みを開けるとリカが満足の笑顔を見せて隣の部屋に行き、着替えていた
が、彼女がいつも購入していたサイズとデザインを知り尽くした店の主人の
計らいで、満足の服であった。
リカは普段着の服に着替えると先ず少年に礼を言うと、燃えた店の様子を
聞いていた。
すっかり燃え落ちて灰になった様だが、彼女は富蔵に若い衆を二名ばかり
貸して下さいと聞いて来た。
「自分の部屋に置いていた耐火金庫を取りに行くから・・」と話した。

富蔵は少し驚いたが、直ぐに先ほどの二人の若い衆を呼んで歩いて店の
焼け跡に出かけて行った。まだ微かに煙が残っていたが、彼女が住んで
いた二階の部屋の下辺りに間違いなく耐火金庫が灰の中に転がっていた。

まだ暖かい耐火金庫を灰の外に押し出して来ると、それを見て安堵の表情
をしていた。富蔵に小声で「自分の全財産が入っている・・」と教えてくれ
た。この耐火金庫はサンパウロで買ったドイツ製だと話していたが、中が
燃えていたらその中身を全額補償するという優れた金庫だそうであった。

若い衆が二人で小型ながらやっと持ち上げられる重さで、靴磨きの少年が
何処からか借りてきた手押し車に載せると、富蔵の居る家に戻って来た。
部屋に金庫が運び込まれると、彼女は金庫を開けるので、皆を部屋の外
に押し出して一人で金庫の扉を開けていたが、富蔵だけ呼ばれると手助け
をしてくれと言う事で金庫を開ける手伝いをしていた。

簡単に金庫が開くと、中には砂金の袋や現金、貴金属、宝石などがびっ
しりと収納されていた。
金貨も奇麗にそろえて紙筒に入れて何本も入っているのが見えていた。

リカは現金を札束で取り出すと、部屋の外にいる若い衆と靴磨きに幾らか
ずつ手渡していた。
それが済むと皆に礼を言うと、当分はここに居ると言ってドアを閉めてし
まった。富蔵にも服の借りたお金と言って、かなりの金額を手渡していた。

それからリカがホテル2階の最後の場面を話してくれた。
ホテルが燃え上がり、2階で人質にされて、その時はこれが最後と覚悟した
が、男が急によろけて膝を突いて、抱き抱えられた身体を離したので、男が
首から下げていた宝石入りの皮袋をもぎ取り、その男を押し倒して逃げたと
話してくれた。

リカが部屋の隅に隠していた皮袋を持って来ると富蔵に見せてくれたが、
小さな手の平に入る様なナメシ皮の袋であった。
リカが話してくれたがそれはエメラルドでもダイヤモンドより高価な最上のエ
メラルドであった。
彼等の射ち合いはそのエメラルドの争奪であったと教えてくれた。

手の平に少しエメラルドを出して明るい電球の下で見るとその素晴らしさが
富蔵にも分かった。
エメラルドの話が済むとリカが疲れたと言って、今夜はここで泊まると言う
事を富蔵に聞いていた。
地味な普段着の服装をすると物静かに感じる女性で、これが化粧して派
手な洋服を着ると、見違える様な女に豹変していた。
でも妖艶な彼女の身体の線は隠す事は出来なかった。

その夜、寝る時刻になり富蔵が彼女にベッドを譲ってソフアーに寝ようとす
ると彼女が強引にベッドに富蔵の手を曳いて連れて行った。

富蔵は彼女に『妻子があるから・・』と断った。
すると『今晩だけでも忘れてくれ・・』と彼女が懇願した。
そして『私が商売女だから・・・?』と悲しそうな顔で聞いて来た。

彼女は真顔になり、『今回の事件で命拾いをしたので、完全にこの世界
から足を洗いたい』と富蔵に告げた。
『今まで日本人の血を引きながら、一度も日本人の肌を味合うことも無く、
今まで何事も無く、身体を痛める事も無く生きてこられたのは、貴方に出
会う為だったかも知れない』と言った。
そして、『どこか知らない土地に連れて行ってくれ・・』と懇願していた。

身寄りも、親戚も無く、ブラジル人の母親はすでに亡くなり父親の日本人
も行方が知れず、おそらくマラリアで死んでいるだろうと話していた。
富蔵は少し可愛そうに感じたその目は、ウソは言っていない事を示して
いた。

それだけリカが話すと富蔵の前にひざまずいて、両手を合わせて
『お願い・・!』と懇願した。
そして『貴方がもし私の身体に不安があれば、私は神に誓って絶対に
病気などは一切無い事を誓える』と富蔵にすがるように言って、
『もしもその様な事があれば貴方が護身用に所持している拳銃で撃ち
殺して下さい』とも言った。しばらくして・・、

ホテルの2階で、これで最後と思った時に、男から逃れられて、渦巻く
炎の中で耳元でささやく母親の声が聞こえたと話してくれ、『直ぐに助け
に来るに日本人が居る』と聞こえたと言った。

それと同時に『飛べー!飛び降りろー!』と言う声がして貴方が見え
たとリカが話した。
富蔵の心に衝撃が走り、言いようの無い感動さえ感じていた。
何か運命の出会いと感じた。

2013年1月9日水曜日

私の還暦過去帳(336)


旅に出て・・・、

今回のパラグワイ訪問で、直に感じた首都アスンションの発展ぶりには、こ
れには少し驚きでした。
ペルーのリマあたりに比べると増しな感じも肌で致します。
広いパラグワイと以前は感じたのですが、道路交通網の整備と共に、何か
狭い感じが致しました。

ローカルのバスも比較できないほどの変わり様で、乗車してくる田舎の農民
も、さすが裸足は居なくなりました。
田舎といってもオートバイが増えたこと、原始林が無くなった事などがバス
の中からでも分かります。

首都のアスンションでは高級車が、ヘー!と驚くほど目に付きます。
それだけ首都に金持ちと、大農場主と、政府役人達が集中していると感じ、
また日系人の会館、センターなどが素晴らしい建物が目に付く事です。

日系シニアも増えたということで、世代交代も加速されている感じを受けま
した。今では日系社会は限られた範囲で、スマートに変身して、組織化さ
れて成熟の時期に入ったと感じます。

それにはパラグワイ社会への日系人の進出の賜物と感じますが、また・・、
70年の歴史を数えるラ・コルメナでは成熟からの敗退?この言葉が当ては
まらないとすると、作物に例えると『熟れ過ぎ』で収穫が見込めないと感じ
ます。
一世は皆、コルメナ社会から引退して、もはや私が訪れた44年前の活気
は見当たらないと思いました。街中の日本人の店の多くは代変わりしていま
したし、中にはその所有者も代わっていました。

街中の日系旅館に宿泊して、朝の散歩で人影まばらな道路を歩くと、ニワ
トリ 達が道路の真ん中を群れて歩いて、餌を探していました。何か、のど
かより、 車も通らない侘しさを感じ、眠った様な町の静けさを直に感じまし
た。
店先でマテ茶をボンベに入れて飲んでいた人と立ち話をしていたら、私も日
本に出稼ぎに行っていたとか・・、考えると根本の理由がXXXのドル建て
融資で首が廻らなくなり、やむなく出稼ぎとなった人が多いのには驚きました。

『高利貸と同じ・・・』と,ぼやいていましたが、陰で悪く言っても、表では
『泣く子と、地主には何とかの話し・、』と言ってその先『はははは・・、』
で終わりでした。

こんなパラグワイの田舎で、日本政府の影響が日系人にも及んでいる事は
これまた驚きでした。これも日本国民の税金なのです。これを運営、維持、
管理 遂行する人達はそんなことは、余り眼中には無い様な感じと聞きました
が、その話はアルゼンチンでも同じことを聞きました。

坂本龍馬の言葉ですが・・・、

国を開らく道は、戦するものは戦い、修行するものは修行し、商法は商法
で・・、
と彼が言いましたが、組織を維持する為の機関では、日本を開き、発展さ
せる道は多角化した人材と多様化した現地に対応と忍耐を維持できる、また
応用が効く頭脳 が必要と思います。
『蛇の道はヘビのみちとか・・』

イギリス人が植民地政策を遂行する過程で、その主たる人物が現地に入り、
現地化した思考で、企画、立案、遂行とその結果としての成果を刈り取るま
で、同じ人物がブレーンとしているという事は、日本の様に短期間の組織人
員移動と基本的な短期プランで損得のみの計画立案と遂行では、真の意味
では本来はその利益と福祉と未来の展望を持てる受益者が、資金の借り入
れで、借金の担保に詰まり高利貸しよりまだ辛い・・、

『何のつもりの融資だったか・・・!』と嘆いていた事は、その様な嘆きを
日本国民の何人の人が理解して、またそれが日本国民の税金で、日本人
や日系人に融資された資金と知る人は数えるぐらいと感じます。

為替差益とその差の拡大が融資と言う条件から外れて、単なる高利貸し的な
存在となって融資先の人々を押しつぶしてしまったと感じられる。

昔も過去も、今の現在も・・・、進行形の姿で日本国民の税金を、本来はそ
の他国に住む、日本人達を発展と幸福と未来を持たせる為の血税ですが、
それを企画、運営、管理、遂行する人間や人物の素質が無いばかりに、単
なる高利貸しに成り下がり、苦しめて、どれだけの日本人が祖国日本に
『棄民の出稼ぎ』と陰口されながら仕事に出たかー!

その様な日本人や日系人は日本での政治力も無く、支持政党も無く、声高
く叫ぶ事も無く、ひたすらに働き、借入金を清算してきた・・・!、

この様な出来事を日本人は知らないし、理解もしてもいない、根本は日本
の底辺を支え、維持して、ひたすらに働いている、または働いた人達も帰
国して自宅の裏庭の木陰でマテ茶など飲みながらではポツリ・・、ポツリと話
してくれるが、表と地頭には沈黙の世界・・・、

これが政策と政治とその運営であれば正に血税が死んでいると思います。

2013年1月8日火曜日

第3話、伝説の黄金物語、(42)


 生き残る為に・・、

サンパウロでの富蔵の生活は平穏なものであった。
サムの飛行場にある事務所で普段は仕事をしていたので、そこが事務関係
の総元として機能していた。

リオ・ベールデは実際の運送集配業務の根拠地として動いていたが、今で
は大きく各地に支店を開いて人員を配置して常駐させていたので、物資の動
きや高価な貴金属を、飛行機での運搬なども支店網を使い、上手く動いて機
能していた。

大きく暴利を得ると言う事などは無かったが、着実に毎月の利潤が入って来
て、会社の経営が大きく成ると言う事はあっても、経営が落ち込むと言う事は
絶対無かった。

富蔵が貸している、サンパウロ青果市場の近くの自宅の事務所と倉庫だけ
でも、かなりの収入となり、隣の日本食レストランも妻の絵美の指示で上手く
営業していた。
絵美の両親、上原夫妻の農場も長男がマリアと上手く運営して何も問題なか
った。

富蔵は上原夫妻の結婚40年の祝いに日本訪問をプレゼントしたが、大変
喜ばれて、沢山の土産も富蔵の家族達に託していた。富蔵の家族達にはか
なりの資金を、親と兄弟に分けて上原夫妻に持たせていたが、これは世界の
政局悪化で段々と日本に渡航が困難となる前の良き時期であった。

ブラジルの世の中も変化して、地道に稼ぐ富蔵達にとっても良い環境となり、
砂金探しの流れ者達が活躍出来る場所も少なくなっていた。

そんなある日、突然と言うほど、大量の砂金の運送が舞い込んで来た。
モレーノがサンパウロに出て来ると、富蔵に報告していたが、砂金が毎日2
キロから3キロも採掘出来る場所が発見されたと言う事であった。

場所が狭いが採掘量が多いので、大きなブームになって南米全体から山師
達が来ていると言う話であった。富蔵はリオ・ベールデに飛び、皆と話してそ
こに拠点を作り、資材や食料などを持ち込み、事務所と倉庫を建設して、そこ
で砂金の両替屋を開いた。

資金と大きな運送力と組織力は誰にも負けなかったので、直ぐに砂金堀達
から信用され、食料や資材も暴利を取る事無く、誰にでも公平な価格で販売
したので、輸送が間に合わないくらいの量が売れていた。

そんな時に、その様な場所に付き物の売春婦達が何処からとも無く集まっ
て来て、酒場が開かれ、ホテルが出来て賑やかになって来た。

富蔵がそこを訪れた時に事務所の若い者が富蔵に教えてくれた。
日本人らしき若い売春婦が居ると言う噂で、売れっ子で、とてもそこいらの若
い者など普通に手を出せる女ではなく、器量と言い、若い姿態は皆が振り返
って見るほどの黒髪の美人であった。

富蔵も興味があり、夜にそこのホテルを訪ねたが、成金となった男達がポケ
ットの札束を唸らせて集まっていた。社交場と化したホテルは酒場とレストラ
ンもあり、賭博でも人を集め、懐が豊かに成った男達が泊まり、女達が集まり
賑やかさを盛り上げていた。

その女の存在を教えてくれた若い衆を2名ほど連れて、ぶらりとホテルの前
に来た。
すると現地人の少年靴磨きが近寄り『靴を磨かせてくれ・・』と頼んで来たの
で、色々と話を知りたいので、ホテルの前のイスに座り、子供の前に足を差し
出して靴を磨かせていた。

子供はませた口先で、この辺りの様子を詳しく教えてくれた。
現地人の子供は、ここが辺ぴな村落だった頃からの住人で、何でも目にして
来た事を話してくれたので、何処に繋がりがあるか、人脈が何処から来てい
るか、誰がここを仕切っているか、全てを知る事が出来た。

歳は14歳と言っていたが、とても14歳とは思えない賢い少年であった。

靴磨きが終わり、金を渡して、テラスの横でテーブルに座り、夕食を注文して
先ずは食前酒のピンガを飲みながら若い衆と話していたが、少年が『腹が減
った、何かご馳走してくれない・・』と食べ物をねだって来た。
富蔵は気軽に靴磨きを招いてイスに座らせ、好きな物を注文させた。

富蔵は靴磨きの身の上話を聞いていたが、父親に死なれて母親の手で育
てられ、3人いる兄弟達を助けて母親の生活の助けに、靴磨きをしていると
話していた。

砂金の採掘ブームが起きる前の、それ以前の仕事は一日働いても幾らに
もならないコーヒー摘みとか、牛車を引いて駅までコーヒー豆の運送とか子
供でも過酷な労働であったようだ。

テーブルにステーキが並び、皆で食べ初めてしばらくすると、ホテルの中で
騒動が突然おきて銃声が響いた。それと同時に窓ガラスが割れ飛んで、富
蔵達のテーブルまでそのガラスが飛び散って来た。

罵声が響き、怒鳴りあう声がしてまた銃声が交差する様に何度か響いたが、
それが止むと同時に、うめき声と『助けてくれー!』と言う声がしていた。
二階からは何人かの女達が階段を駆け下りる姿が見えていた。

富蔵達はテーブルの下に隠れて窓を透かして中を覗きこんでいたが、拳銃
の弾を詰め替えていると感じた。富蔵は直ぐに建物の陰に入り、若い衆と様
子を伺っていたが、再度銃声が響き、熾烈な撃ち合いとなった。

銃声がまた途切れたが、その時ホテルの二階で女の悲鳴がして肩を怪我し
た男が、女を人質にして逃げようとしていた。その人質の女が噂の日系と言
われる女性と感じた。
若く、黒髪のほっそりとして彫りの深い顔立ちの女性で、恐怖におびえてい
るのが感じられた。

二階の踊り場で日系の女性は弾除けにされていた。富蔵は物陰から見て
いたが、男の出血が酷く、後わずかな時間しか動けないと感じた。
ホテルの階下では三名ばかりが拳銃を構えて二階の男を狙っていた。

階段の上はテーブルでバリケードされ、女性を抱えて拳銃を構えた男が血
まみれの姿で居たがその男が突然、ダイナマイトの導火線に火を点けると
階下に投げ付けた。
富蔵達が物陰に伏せると同時に下のレストランの中で爆発した。

全ての物が吹き飛び、何人かの人間も吹き飛ばされるのが見えた。
続けてもう一つダイナマイトが飛んで来て、酒場のカウンターの前で爆発し
たと同時に火が出た。
多くの酒ビンが破裂してアルコールが飛び散り、度の強い酒に火が付いた
様だ、メラメラと火が立ち上り、煙は二階に流れて行った。
二階で激しく咳き込む声がして、日系の女性が近くの窓際に来て助けを呼
んだ。

火の手が回り、もう二階には上がれないほど火の手が階段に来ていた。

火の回りが速く、女性は必死で救いを求めて居たが、誰も拳銃とダイナマ
イトに恐れて近くに行かなかった。富蔵は拳銃を手にした若い衆に、二階か
ら不意撃ちされないように掩護を頼んで飛び出すと、
『窓から飛び降りろー!』と叫んでいた。

その頃は火の手が女性の近くまで来て、赤い炎が呑み込む寸前まで来て
いた。

富蔵の『飛べー!飛び降りろ・・!』と言う声に励まされ、中腰に腰を折る
と恐れる様に富蔵の広げた腕に目掛けて3メートルほどゆっくりとジャンプ
した。

それと同時に受け止めた富蔵は日系の女性を抱いて後ろの薮に倒れて
いた。後ろの薮が幸いして軟着陸した女性には怪我一つ無かったが、女性
の服は男の血にまみれて、どす黒く汚れていた。

女性が飛び降りると同時に大きな音がしてアルコール類が爆発する音が
して瞬時に二階も火に包まれてしまったが、危うい所であった。

富蔵は自分のシャツを彼女の肩に掛けると、自分の泊まっている近くの家
に連れて来た。先ずは恐怖に震える彼女を落ち着かせるために、イスに
座らせて暖かいコーヒーにコニャックを垂らして与えた。

彼女がそれを飲んでいる間に、浴室のバスタブにお湯を張り、風呂の用意
をした。彼女の服も胸にも髪にも血が飛び散っていた。時間がかかって、
バスタブにお湯が溜まり彼女を呼ぼうと振り返ると、そこには素裸になった
彼女が立っていた。

血の付いた服は全て脱ぎ捨てられ何も隠す事無く自然なポーズで長い髪
を垂らして立っている彼女を見て、富蔵は心臓がぎゅー!とするショックを
感じた。彼女は富蔵が見ている前でバスタブに入り、ゆっくりと肩まで身体
を湯に沈めた。

富蔵は彼女のくびれた腰、突き出た乳房、福与かな尻などの彼女の肉体
を瞬時に心に焼き付けていた。富蔵が慌てて浴室から出ようとすると、
彼女が『待って・・!』と叫んで、『熱すぎるから少し水を出して下さい』と言
った。

そして『着替えも、下着も何も無いので何か貸してください』と付け加えた。
富蔵は頭に血が登るのを感じ、目の前がしびれる様な錯覚を起こし、自分
の体中の血液が沸騰すると思った。

2013年1月6日日曜日

私の還暦過去帳(335)


旅に出て・・・、

旅先でフト・・、心休まるお茶の時間が時々欲しくなりました。
お茶といってもペルーではコカ茶が多かった感じです。乾燥したコカ葉を
容器に入れて熱湯を注ぎ、しばらくして飲みます。勿論の事に砂糖を入れる
人も多く居ます。飲み慣れるとクセになるお茶です。

クスコではこれを高山病の予防になると沢山飲んでいた人も居ました。
朝はコーヒーかコカ茶か、どちらかが置いて有りましたが、私はコーヒーを
朝食に飲んで最後にコカ茶を1杯飲んでいました。

ペルーから南に降りてチリに入るとマテ茶を見ました。
壷に似た容器にマテ茶を入れて、そこに熱湯を入れてストローで吸って飲む
やり方です。魔法瓶を側に何度も注ぎ足して飲んでいましたが、これがアル
ゼンチンに入ると、バスの中でもどこでも店先でも飲んで居ます。

それがパラグワイに入るともっと多様なマテ茶の感じでした。
ウスで突いた薬草を混ぜて、冷水で飲んでいました。中には薬草ばかりと
感じるマテ茶でしたが、一度ローカルのバスに乗って3時間ほど離れた田舎
の日本人移住地を訪ねたら、途中、運転手と車掌が先ずバスターミナルを

出て、しばらく走ると、道端に停車して側の店で何か買い入れていますので
バスの窓から見ていたら、それはマテ茶に入れる薬草の様でした。
マテ茶専用の何種類かの薬草らしき物が生の物、乾燥したものと並んで
居ましたが、私が見て分かったのがミントの葉の様なものがありました。

店先の側には小さなウスが置いてあり、若い女性がそこで何かトントンと潰し
ているようでした。それにしても日本の御茶屋の感じです、見ている間に何台
か車も停まりすばやく指定の物を買って行く様でした。
ポットに氷水を入れている様で現地でテレレというマテの飲み物と感じました。

日本人移住地に着いて、宿に荷物を置いて散歩に出たら、お店の前で日本
人の夫婦が仲良くマテ茶を飲み回していました。
私達が挨拶すると側のイスを勧められしばらく話しこんでいました。
近所の道路にはのんびりとニワトリが放し飼いで歩いて餌を探していました。
静かな田舎の農村の移住地を訪ねて、どこか日本の田舎の風景を思い出し
ました。
生活に根ざして生活と切り離せないお茶です、私が学生時代に下宿先が同じ
だった長野県の出身者でしたが、何とか言うと小まめにお茶を入れて、田舎
の実家から送ってきた漬物を出して、『お茶飲んでくれ・・!』と誘ってくれま
した。自家製の味噌の中に入れた、山ごぼうやニンジン、時にはショウガも
入れていました。
沢山の野菜を出して来て、おばあちゃんが作ったという干し柿なども食べた
記憶があります。日本人は移住してもお茶の習慣は無くなりません、必ず時
間となると、『お茶の時間だよー!』と呼んでくれました。
これが無いと元気が出ないと言ってお茶を飲んでいましたが、時にはマテ・コ
シードと言う沸騰したお湯にマテ茶を入れて、お砂糖を入れて飲むお茶もあり
ました。
アルゼンチンの田舎を走るバスの中で、オバサン連中が座席を挟んでマテ茶
を廻し飲みをしていました。その時に魔法瓶に入れたお湯が無くなり、停車し
た休憩所でお湯を買って入れているのが見えました。

何人か並んでいましたので時間が掛かり、運転手に早く乗るように催促され
ていました。しかしおばさん達はゆっくりと話しながらバスまで戻ります、歩き
ながらすでに新しい茶葉に交換したボンベを持って、飲みながら、話しなが
ら戻って来ました。
我々の神経では考えられないのんびりとした事です、バスに戻りイスに座ると
袋から何か出して食べていました。バスが走り出してのんびりと会話しながら
マテ茶を飲む姿を見ながら、アルゼンチンの大パンパの草原を走るバスも、
これも旅の風情と感じていました。

2013年1月4日金曜日

第3話、伝説の黄金物語、(41)

 
 移住地のドン、

翌日、日が昇ると早々と牧場主が事務所を訪ねて来た。

地図を前に境界線が赤鉛筆で示され、お互いの水利権も確認して、水
争いも無い様に境を決めてしまった。
司法書士が呼ばれ、正式な書類が作成され、タイプが打たれて申請書
類が出来上がる頃に、移住地からトラックで当事者の移住者と世話役達
が事務所に訪ねて来た。

もう一度境界確認して、お互いに地図の赤線上にサインをして書類に添
付して、登記所に出かけた。
前の日に話を通していたので、登記所では直ぐに予約と言う事で、部屋
に通されてサインの確認が終ると、書類に大きく『受理認可』と言うハン
コが押されて登記が終了した。
富蔵は皆を引き連れて道路を横切ったレストランに席を作ると、皆にコー
ヒーとコニャックを注文して、モレーノも顔を出して、コニャックで乾杯を
した。
牧場主も水利権が十分に自分の土地に残ったので、満足して決められた
境界線を守ると誓ったので、早速、午後から境界線の杭打ち作業をお互
いの立会いの上で行う事に決めた。
その日の午後に、境界線に富蔵達が町から資材と鉄木の杭をトラックに
積み、若い衆を6人ばかり連れて現場に到着すると、すでに牧場主と移
住者達が待っていた。

地図を見ながら測量され、百年は腐らないという鉄木の杭が境に打たれ
て行った。杭の頭には白く石灰が塗られ、目印とされた。

作業が終わり近くなる時に、シュラスコの焼肉が出来たので食べてくれと
牧場主が誘ってくれた。境界線から僅かに離れた木陰で肉が焼かれてい
たが、焼肉にサラダとパンにピンガの酒が用意されていた。

作業が終わり、グラスに酒を充たすと乾杯され、焼肉の宴が開かれたが、
移住地からは握り飯が作られて持ち込まれて来た。
お互いに納得した境界線が出来て、満足した仕事で終った。

最後にお互いが握手して別れたが、円満解決した事に移住地では富蔵に
感謝の言葉を述べて、この日本人移住地の顧問としてこれからも助けて
くれるように頼んで来た。富蔵は快く引き受けて、何かの時は事務所の
モレーノに先ず相談するように話しておいた。

富蔵がサンパウロに帰って、しばらくしてからモレーノが用事で来た時に、
相談の手紙が移住地から託されていた。中を読むと生産した農産物をサ
ンパウロ市場で直接販売出来ないかと言う相談であった。

サンパウロの富蔵の自宅は昔は農産物仲買の倉庫と事務所として営業し
て居たので、モレーノの勧めで、リオ・ベールデからの農産物運送も活発
になり、仲買を入れずに済む取引が生産者の日本人移住地の農家と、
アマンダ兄弟達にも運送業として大きな利益となり、一石で3鳥を撃つ格
好となった。
富蔵は移住地の仲間をサンパウロに連れて来るようにモレーノに頼んでお
いた。数日して、荷物を運んだ帰りの飛行機の便で、サンパウロに三人
の移住地の幹部がモレーノに連れられて来た。

彼等は富蔵のサンパウロ市場の側で大きな倉庫と事務所の付いた自宅
を見て、驚いて居たが、絵美の姉で、市場に勤めるご主人が間に入って、
農産物の取引の詳しい様子を移住地の日本人に教えていた。

3日ばかり移住地から来た彼等がサンパウロに居た間に、全ての交渉が
済まされて契約書も交わされ、先ず米とジャガイモがサンパウロに送られ
てくる事が決まった。

美恵ちゃんのご主人が販売と取引を指導して、営業を見るという事で決ま
り事務所の管理には、先日牧場主に人質になって連れ去られた18歳の
女の子で、雪子と言う名前の子が帳簿を見ることになった。

彼女は日本語もポルトガル語も出来て、現在では上手なソロバンの腕を
活かして移住地の事務所で働いている言う頭の良い子であった。
直ぐに19歳を迎えるという事で、親としても都会での生活をさせることが、
これからの人生に役に立つと考えた様だ。

全ての話がまとまり、雪子ちゃんが富蔵の家に下宿する事になり急に賑や
かになり、絵美も二人の育児に忙しい手伝いをしてくれる雪子に喜んでいた。

何よりも不在の多い富蔵にも安心の人手となって、前の事務所に座って電
話番と看板娘として、数名の従業員を使い、この事業の成功の一つにもな
った居た。

この移住地の直売方式を見て、他の移住地からも販売を委託する話が持
ち込まれて、富蔵の名前が知られるようになって行った。

そして、富蔵の豊富な資金も彼等にその実力を見せ付けていた。毎週、
リオ・ベールデから大型トラックで運ばれてくるジャガイモや米なども、富蔵
の倉庫に来ると市場より安く買えると言う話で直ぐに売れ尽くしていた。

富蔵の家は過去のイタリア人仲買が営業していた以上の繁栄を取り戻して、
倉庫に出入りするトラックもかなりの数にのぼったが、裏の駐車場の広さが
大いに役に立っていた。
事務所の片隅に積まれて居た請求書や伝票なども数年分あり、それを前の
イタリア人仲買の名前の『サンパウロ青果』のままで使い、使用していた。

全てが上手く動き出して、1年もしない内に他の移住地から委託される農
産物で、専門に美恵ちゃんのご主人が全部の取引全般の営業をする様に
なって居た。

時々訪れる絵美の両親である上原氏夫妻が、来るたびに大きくなり、規
模が拡大する富蔵の店を見て、移住地のドンだと言ってくれた。

2013年1月2日水曜日

私の還暦過去帳(334)

旅に出て、
時過ぎて無情の過去との出会いかな・・、

今年も8月が訪れて祖国日本からの横浜の港を出港して48年が経ちました。
日本を出て48年の道筋を歩いてきましたが、途中日本で生活して子育てを
した時期もあります。

蚕棚の移民船のベットでは当時は冷房装置も無く、甲板にキャンバスの大
きな覆いの下で日中は話したり、夜涼しくなって甲板でごろ寝していた思い
出があります、当時から南米に渡る移民船にはかなりの呼び寄せ花嫁達が
乗船していました。

南米のボリビアとアルゼンチン国境の奥地で戦前の移住者で戦後北海道
から呼び寄せられた若い素敵な女性が花嫁で来ていました。
47年前のあるときその農場を訪ねて、お茶を接待され話をした事が有りま
した。
今でも印象に残っていますが小高い農場を見渡せる丘の上の住宅で使用人
に囲まれて優雅に暮らすような感じでしたが、何か歳の離れたハズバンドと
暮すその女性には充たされない何かがある感じでした。

4年前の7月に44年ぶりにそのアルゼンチン、サルタ州のエンバルカシ
ョンの町を訪れて、44年の歳月を経てからの消息を私が過去に世話にな
った人や知人や親友達の話しを聞きましたが、3分の1は亡くなり数少ない
当時の日本人達は四散して、一家族しか残ってはいませんでした。

北海道から呼び寄せられて来ていた若い女性の花嫁は、私がエンバルカシ
ョンの町を離れてしばらくして若い男と逃げたと聞き、姉に連れられて来てい
た若い女性も、結婚すると話していた男性とは結婚する事無く、連れて来た
姉が事故死すると、年上のかなり年齢の離れた姉のハズバンドと結婚して、
その地を離れて行ったと聞きました。

時は廻り、時代は進み、止まる事無くこの世は変化しています。

亡くなった友を訪ねて墓地を訪れた時に、落ち葉に埋もれ墓標を落ち葉をか
き分けて刻まれた碑銘を読んだ時、何か不思議に涙がこぼれました。若くし
て戦後まもなくペルーから父親の事故死で日本に母親に連れられて帰国して、
2世で日本語も余り話せず、苦労したことからアルゼンチンに居た叔父を頼
ってサルタ州の田舎に来ていたのでした。

4人の子供達を残して34年も前に若くして病気で亡くなった彼を思うと昔、
魚釣りや狩猟に行った思い出と、苦労した妻の話が混同しての涙だったと思
います。町に5家族居た日本人も、すでに一家族だけで、その子供達も 残
るは一番下の娘だけでした。

その叔父も60年近くも一度も日本に帰国する事無く、85歳でまだ農場を
維持していて、24年近く前に雨で家の周りに伸びた草を仕事が終わり、ト
ラクターで倒して綺麗にして家に入り、蛇避けの皮の長靴を脱ぎ、スリッパに

履き替えて、裏のドアを『暗くなったから家に蛇が入り込まないように』と閉
めに行き、そこで不幸にも家に進入している毒蛇と遭遇して足のくるぶし下を
噛まれ、その毒蛇もガラガラ蛇よりもっと猛毒の毒蛇で、インジオ達が昔、
毒矢の先に塗ったという猛毒を持つ蛇でした。

私も一度遭遇して肝がチジミ上がった事が有ります。ガラガラ蛇は警告に尾
の鈴を鳴らして脅しますが、その毒蛇は大きな三角の頭で胴が短く、飛び掛
るように襲って来ます。

昔、私は農場見回りの時は必ず拳銃に蛇撃ち様の散弾を詰めた弾を込めて
いました。そして皮の長靴を履いて左手に懐中電灯を右手に1mぐらいの杖
を持って夜は歩いて居ました。用水路など蛇が寄って来る場所の見回りで、
いつも用心していたのでした。
しかし、私のボスでもあった彼は85歳と言う生涯を毒蛇に噛まれて生涯を
終えたのでした。
ボスは1991年に85歳で 居住の家の周りの草をトラクターで倒して家に
戻り、毒蛇に足のくるぶしの 血管部分を噛まれ、農場に働いていたインジオ
に手紙を持たせて血清注射を至急持って来るように頼みました。

その時、雨が降り出していて、しとしと降る雨が道路を閉鎖して、 トラックも
馬も動く事が出来なかったのでした。
それも運命と娘は話していましたが、インジオが6時間掛かってぬかるみの
どろどろ道を歩いて連絡したのです。

町に住んでいた娘に手紙を渡して、町では救援隊を出す事になり 四輪駆動
の大型トラックターが用意され、看護士が血清を持って 4名の援護でぬかる
みの泥道を走り、雨降る中を10時間も掛かって 到着したそうですが、すでに
毒が身体中に周り、血清は効かなかったようでした。

昏睡状態で運搬途中、坂のクルーネグロと言う所で息絶えたと言う事でした
が、ワイフもその騒ぎで心臓麻痺の症状で入院して、しばらく農場は放置さ
れ、その間に農場の施設は全て持ち去られ、家の屋根まではがされて、
窓枠、便器、洗面台、タンスまでトラックで来て盗み去られたという事でした。

その後は全て火をつけて焼き払われ、今では土台とレンガの枠が あるだけ
で、何も残ってはいないという事でした。

それを聞いた時は、呆然として涙が出てきました。

一度も祖国日本に帰国することなく、サルタの山奥で毒蛇に噛まれて亡くな
ったのです。農場に行く道も放置され四輪駆動の大型車か、大型トラクター
でしか通過することが出来ないという事でした。
無残に荒らされた農場を見たくは無く、訪ねる事はありませんでした。

今ではその土地は貸し出され、カボチャが植えられていると言う事でしたが、
僅かにバナナが残っていると言う事でした。

今ではGoogleマップでのインターネットで 現場を鮮明に見る事が出来ます。

『ポインタ・23” 11’58、51”S 64 09’48,93”W
 高度314mから見ると農場の全景とベルメッホ河がボリビアから
 流れ出している事が目視できます』