2013年9月29日日曜日

私の還暦過去帳(428)

私の危機管理、

人はこの世に生きている間は、いつか、どこかで、忘れた頃に危機的な
状態から切羽詰った状態に追い込まれる事が有ります。

日本での今回の激震津波災害の様に、まさに突発的に何も予告無く襲
って来て、災害の中に引きずり込まれてしまいます。

それに追い討ちを掛ける様に、今回は原発の事故が引き起こされ、そ
れに危機管理の上限を超えた状態で、予備知識も無く、その対応する教
本も無かった状態では、人はうろたえ、戸惑い必死になんとかその事に
対応する様に、手探りでも行動を開始致します。

人はその差はあれ、大小の危機に遭遇した事があると思いますが、私が
若い頃に、そろそろ48年も前になりますが、私が最初に人生の大きなパ
ニックになった事は、アルゼンチンのサルタ州の田舎で農業をしていた時
期に、ゲバラの残党達がボリビア国境を超えて、サルタ州のベルメッホ河
沿岸の冬季蔬菜栽培地帯の、農家の食料倉庫を襲った時でした。

河の対岸に見えるオラン側から来た対岸の農家でしたが、襲われて支配
人が拳銃で撃たれ瀕死の重傷を受けて、かなりの食料や医薬品などが
盗まれた時でした。

対岸の火事と見過ごす事など出来ない事件でしたが、その事件が起きて
から、国境警備兵が朝早く馬に乗りゲリラの発見と、河沿いの農場の安
全確保の見回りに来ていました。
一個小隊ぐらいで、銃器を携帯してゲリラ達が朝早くまだ日が昇る前に、
一日の炊飯を済ませてしまうので、その炊事の煙を河岸一帯で探してい
ました。
国境警備兵達が朝露に濡れて、馬の肌からは冷え込んだ寒気に湯気が
立っていました。
小銃を抱える様にいつも身構えて乗馬しているのが見え、隊長が自動小
銃を膝の上に載せて、庭先に来て『何か暖かい口に入れる食べ物など分
けて下さい・・』と来ていました。
私などは初めて見る実戦装備の兵士達で、実弾を装填した銃器は威圧
感と、緊張と、ここが危機に瀕している地域だと言う事を肌で感じさせら
れていました。
彼等兵士達には干し肉の出汁でジャガイモを沢山入れた煮込みを作り
熱々の物を出していました。
それからと言うものは、農場の警備を厳重にして、寝室には拳銃とカー
ビンライフルを持ち込んで寝ていました。そして家の周りには常時犬が
2匹放し飼いにしてあり、少し離れた農場とも連絡を密にして、用心して
いました。

何処かで夜間に犬達が吠え出すと、周り全体が吠え出すので、直ぐに
飛び起きて用心して余りに犬達の吠え声が酷い時は、その犬が向かっ
て吠える方角に威嚇射撃をしていました。
何度もそんな事があると、常時緊張しているのが慣れっこになり度胸も
付いて、毎日河岸の農場の側の砂道を木の枝を夕方トラクターで引き
ずり、足跡とタイヤ跡を消して翌日朝一番の畑の見回りで、そこに足跡
が無いか探していました。

足跡もそれが自分の農場売店で販売している、地下足袋の様な、アッ
パルガッターというインジオ達が仕事で履いている作業靴か、革靴か、
運動靴か?これは重要な事でした。それは・・・、
ボリビアからのゲバラの残党ゲリラか、コカの密輸担ぎ屋達か、働いて
いるインジオか・・?、と言う分類が出来たからでした。

段々と農場の危機管理も上手に出来る様になり、ボリビアの上流で大
雨があると、雨も無い河が氾濫して流れて来るので、水揚げポンプが
水没しないようにも注意が出来る様になりました。

ある時、農場の畑でインジオの労務者と作業をしていたら、ジープが
二台も来て、彼等が逃げられない様にして、何か検診をしていたので
聞いてみると、何と・・!マラリアの一斉検査でした。

血液採取して、マラリアの病原菌を所持しているかの検査でしたが、い
きなり6名ばかりの男達が来て、回りを取り囲まれると、これもドキーン
とする危機感を持った事が有ります。
余り大きな農場でもありませんでしたが、ガラガラ蛇が良く活動する時
期には血清は用意していましたが、夜間の農場見回りには必ず用心
に犬を連れて歩いていました。
夜の見回りなど、犬が居なかったら取り止めていました。

私が働いていた農場の主人は私がその農場を辞めて、その毒蛇に足
の静脈近くを咬まれて1991年に亡くなっています。

2013年9月27日金曜日

私の還暦過去帳(427)

私が出会ったイタリア人達、

私が最初に出会って話したイタリア人は、1964年の南米に行く移民船の
アフリカ丸に横浜からロサンゼルスまで乗船していたイタリア人でした。

当時としては珍しい、バイクのスクーターで世界一周をしていた中年の男
性でした。小柄で、元気の良い人でしたが、我々と同じ三等船室に乗船し
ていました。

三等の食事は、日本食のご飯に味噌汁と言う、日本人が毎朝普通に食
べる食事でした。最初は『私は何でも食べられる・・、食べることが出来
る・・』と豪語していました。

見ていたら沢庵などは、『これは何であるか?』と聞いていましたが、顔を
しかめて食べて居たようでした。直ぐに10時に出るお茶の時間に、ミルク
テーとビスケットを余分に貰って食べて居たようでした。

それから何日も経たずに、ご飯に砂糖を掛けて、それにミルクを掛けて
食べていました。それを食べられなくなると、事務長に交渉して食事だけ
二等船客の食堂に食べに行っていました。
彼がロサンゼルスに到着して、まず走り込んだのはイタリアレストランだ
ったと思います。
結構古いスクーターに跨って波止場から元気に走り去って行きました。

次に出会ったイタリア人は、私がパラグワイから出てきて、アルゼンチン
のブエノスから160kmぐらい離れたチビリコイと言う町で、野菜作りをし
ていた時期でした。

出来過ぎたトマトが売れなくて、トラックの荷台に載せて町に売り歩いて
いました。そこで知り合ったイタリア人でした。
イタリアン・サルサを作るので、熟れたトマトを欲しいと言うことが始まり
でした。持って行くと、奥さんとおばあちゃんが揃って、ビン詰めのサルサ
を作っていました。

何度か行く内にランチのお昼でも食べて行きなさいという事で、食卓に
案内されて美味しいスパゲテイーやパスタをご馳走になりました。

それからと言うものは、あの美味しいスパゲテイーを食べたいばかりに、
熟れたトマトを届けに行きましたが、そこのおばあちゃんは、アルゼンチ
ンに来てまだ間がない人でした。
イタリアでご主人を亡くすと、息子が移民していたアルゼンチンに頼って
移住して来た人でした。
チビリコイは1900年にイタリア人の入植者によって開かれた町です。
イタリア人が沢山住んでいました。

おばあちゃんはよく・・、『マンジャアーレ・・!』とか大きな声で私を呼んで、
『コメー!コメ・・』といつも勧めてくれました。
時にはサラダの材料も沢山箱に入れて届けていました。

私が一番好きだったスパゲテイーは大きな肉の塊をソースの中で長時
間煮込んで、その煮込んだソースを掛けたスパゲテイーの横に、塊の
肉をスライスした物と、ポテトが添えてあるイタリア人の庶民が食べる
ランチでした。

昼からランチで飲んだワインにほろ酔いながら車を運転して帰り、昼寝
するのが楽しみでした。私もこの昼寝には直ぐに慣れて、必ず昼寝をし
ていました。起きてからは、マテ茶などを啜ってから、また夕方まで仕事
をしていました。

そのおばあちゃんが週末に大きな花束を抱えて、町外れの墓地に息子
と行く姿を見ていました。移民して来て、そこの町で亡くなった親戚のお
墓に花を持って訪ねて行く姿でした。
町外れの共同墓地に行くと、イタリア人達の埋葬地域があり、そこには
同じ町から移民して来た人達が何人も居る様で、見ていると墓参りに来
た人同士が大袈裟なしぐさでハグをして、なにやらイタリア語で話して
いる姿を見ました。

タイルに写真を焼付けて、それをお墓の前に飾ってあるのを見ると、同
じ顔付きのイタリア人の姿が何人も居ました。聞くと全員が親戚だと言
うことでした。

私がチビリコイの町を出て、ボリビア国境のサルタ州に行き、農業をし
ていた時に仲よかったイタリアから来ていた、おばあちゃんが亡くなっ
てお墓に入っていました。

お悔やみに訪ねて行くと、帰りに皮のブーツを私に持たせてくれ、サル
タで使ってくれと息子が話していました。オリーブとチーズを切ったおつ
まみで、ワインを飲みながら思い出話をしていたら、息子がおばあちゃ
んが作ったサルサのソース瓶を持って来て、涙ぐんでそれを見ていま
した。
私がアメリカに38年前に来てから直ぐに、オークランドの鶏肉専門店
で、ニワトリを処理する店に時々、仕入れに行っていました。
そこはイタリア人兄弟三人で経営していた店で、レストランなどに、冷
凍ではない鶏肉を専門で納めていた店でした。

何度か行く内に、仲良くなりそこの長男と話す様になりました。
ある時、その長男に両親の事を聞きましたら、その店はアメリカに移民
して来た両親が苦労して大きくした店だった様でした。

彼は,『パパがここで・・・、ママがこの店先で、』と指で示して働いてい
た場所を教えてくれました。
一番下の三男はこの所に籠に入れて、ママが面倒見ていたと指差し
ていました。
ふと見ると彼のごつい顔が、くしゃくしゃになり涙して、パパが仕事をし
ていたという、大きなステンレスのテーブル辺りを見ていました。

帰りがけに長男が、ママが作っていたと同じ、チキンのから揚げだと
言って、2個ほど紙に包んで持たせてくれました。
帰りの車の中で、それを食べながら、彼の母親が作った味を噛み締
めていました。

アメリカには多くのイタリア人達が移民して来ましたが、それぞれの
家族に歴史と、その物語が秘められて居ると思います。

2013年9月23日月曜日

私の還暦過去帳(426)


母の長生きのもと・・、

私もこの歳になると、時々物忘れを致しますので、必要な事は大抵メモを
残しています。今では便利な携帯やパソコンがありますので、記憶に関し
てはまだまだ大丈夫です。

最近の新聞記事を読んでいて、

『高齢者が1日40分間で週3日、普段より速足で歩く有酸素運動を続け
ると、脳で学習や記憶を担う海馬(かいば)の萎縮を防ぐ効果があったと、
米イリノイ大などの研究チームが1日、米科学アカデミー紀要電子版に
発表した。
高齢者60人に1年間運動してもらった成果で、海馬の体積は約2%増
えた。高齢者の海馬体積は認知症でなくても年1~2%減少する。この
ため有酸素運動を習慣付ければ、長期的に萎縮の進行を遅らせ、認知
症のリスクを下げる効果が期待される。海馬の体積が増えたのは、脳神
経細胞が増殖したか、情報伝達に必要な同細胞の樹状突起が増えたと
考えられるという。』

これは読んでいて、これは・・!と感じました。

それは毎日歩いているからです、朝食前に3千5百歩は歩きますので、
夕方までに平均1万5千は平均歩いている計算です、昔から足が弱くな
れば頭もボケる・・と言う事は昔から聞きましたが、実際にそれをデーター
分析した数課で言えば的確な答えと感じます。 

私の母が良いサンプルと感じます。母は85歳まで自転車で買い物に出
ていました。それも結構遠くのスーパーまで自転車で出かけていたよう
です。それを私の姉が近所に住んでいるので、危ないからと言う事で、
取り上げてしまいました。

それからは何処に行くのもテクテクと歩いて出かけていたようです。それ
も買い物カゴを持って歩いて行くのですから、かなりの運動量と思います。

母が元気で一人暮らししていた時は、時々日本に帰郷して年末などに訪
ねていました。母と買い物に夕方出かけると、結構早足で歩くので中々
足調を揃えて歩くのが大変でした。
老人ホームに入所した頃は、皆と散歩に出てもスタスタと先を歩いて、
迷い子にならないかと職員を心配させていました。

今でこそ老人ホームに居ますが、元気で一人暮らしの時は、自分の食
べる野菜は全部裏庭の野菜畑で有機栽培で育てていましたので、その
仕事量も大した物だったと思います。
出来たての収穫物を親戚、知人まで宅配便で送るのが楽しみでした。

母も近所の周りの話し友達や、お茶飲み仲間が段々と減って来ると、寂
しいと言う様になり、大の話し好きの母ですから、老人ホームに昼間だ
けのデイケアにバスで行く様になり、ランチも食べて入浴して、お話して、
楽しい時間を過ごす様になり、それが週に2日ばかり泊まる様になり、
それが進んで入居になった様です。

今年で母も98歳になりますが、まだまだ元気で背中も曲がっていませ
んので、去年の暮れの餅つきにも参加して、餅をついたと写真を送って
来ました。

歩くと言う基本動作は長生きの秘訣と感じますが、少し軽いアルツハイ
マーの症状が出て来て、記憶が少なくなりましたが、今では『そうだった
か・・忘れたー!』と言って笑っています。
電話をするといつも、『元気で楽しく暮しているよ・・!』と言ってくれます。

元気でホームで過ごしている母が居ることは私にも励みになります。

2013年9月20日金曜日

私の還暦過去帳(425)


 春きたれば・・、

春になると思い出す事は田舎の九州、福岡の春、南米の日本と正反対
の春、アメリカの北カリフォルニア州の春、各地の思い出があります。

我が郷里の福岡の八女市の実家に春先墓参りに行く時、行く先々で八
女茶の新茶を作る甘い香りが村中にしていました。私が好きな八女の
深蒸し茶の独特の香りです。

実家に行き、出される新茶の香りとその味の深さを子供ながら感心して
飲んでいました。父は帰りに近くの製茶工場に寄り、いくつかの茶の包
みを買うのが決まりでした。

製茶工場で玉露といわれるお茶を出されて、父が美味そうにお代りをし
てお茶を飲んでいた姿を今でも思い出します。
春先、終戦後まだ爆撃で崩れ落ちた飛行場の格納庫の横を近道で、
父と共にひばりの鳴き声を聞きながら歩いた事も覚えています。

沖縄にそこの飛行場からも特攻機が出撃したので、艦載機の襲撃で破
壊し尽され赤錆の鉄骨が無残でした。ポツポツと飛行場跡地に菜の花が
奇麗に咲いていて無心に鳴くひばりの声が、何処までも続くお茶畑の中
に、のんびりと響いていた事を覚えています。
南米でもアルゼンチン北部のボリビア国境地帯の南回帰線内側の亜
熱帯地方の春、またブエノス州の春、全てが季節の香りと、その陽気ま
で違っていました。

47年前のブエノス郊外、田園地帯の春は見事でした。
当時はまだ植林がされていなくて、パンパの大草原が広がっていました
が、牧場の邸宅の廻りに風除けの並木や防風林があるくらいでした。

麦畑の芽が出たばかりの、まるで絨毯を広げた様な一面の麦の青葉が、
そよぐ風にきらめくばかりの色が揺れている様は見事のひと声でした。

所々に黄色の菜種の花が咲いて趣を添えていましたが、鳥の鳴き声を
微かに聞いて、地平線に消えるような真っ直ぐな田舎の土道を車で走っ
ていると、その豊かさと広さを実感したものでした。

現在私が住んでいるサンフランシスコ郊外の田園地帯も、30年ほど前
は20分も車で走ると、広大なマスタードの黄色の花が咲き乱れ、昔の
駅馬車道の両脇に錆びた鉄条網の牧場のフェンスが青草に埋もれてい
ました。

まだ当時は日本人の一世達が生きていた時代で、郊外にはまだ日系人
の農家も沢山あり、主に近郊農業と、果樹栽培をしていました。
春にサクランボや白桃が収穫の頃にはハガキが来て、自分の家族と収
穫できる時期を知らせてきました。
ハガキが来るのが途絶えて、2年ほど前に、その場所を春先にカリフォ
ルニア桜と言われる、アーモンドの花を見に行ったら、全てが宅地に造
成されていました。

その方達の農場は跡形もなく消えて、色鮮やかな新築住宅が並んでい
ました。それは将来、そこにサンフランシスコから通勤電車が来る計画
が分かっているからです。
35年前に、最初に来た時からしたら小さな町が驚くほどに大きくなり、
ショッピング・センターが何ヶ所も出来て、交通量も道路拡張するほど増
えていました。昔のアーモンドの花が咲いていた、のどかな春の風景は
何処にもありません。

チエリーのサクランボの木も、我々日本人が喜んで家族で摘みに行った
白桃の農場も全て消えていました。変わらないのは吹き抜けて行く冷た
い春風です。

昔の一世が道端で開いていた野菜の特売所の古い看板だけが、うち捨
てられて残っていました。
吹き抜ける春風は時代を経ても、時代が激変しても、今も昔も同じ様に
サクラメント河からスタクトン方面に吹き抜けて行く風が、身体に感じま
した。

2013年9月18日水曜日

私の還暦過去帳(424)

来る歳、去り行く歳・・、

また新年を迎え、新しい年が始まりましたが、この時の流れを身体で感じる
事は時代の流れです。

私が住んでいるサンフランシスコ郊外のケーブルTVでも毎日、日本語放送
を見る事が出来ました。去年からそれが全体的に変り、日本語放送も短縮
され、削除されて、今では有料か、限定された日本人が多く住む地域だけし
か見る事が出来ません。

それまでは朝晩、日本の最新ニユースを毎日見ていたので、当初は寂しい
思いでした。
他の中国語では広東語、北京語、台湾のテレビ番組はいつでも見れます。

韓国語のテレビもサンフランシスコ市内でしたら、常時見れるようですが、何
か勢力範囲が交替したと思います。

日本語放送がなくなったのは、それだけコマーシャルに参加する企業が少
なくなったと感じます。勿論商業放送ですから、そのスポンサーが居なけれ
ば営業が出来ません。それだけ日本企業が衰退したと感じます。

昔は一日遅れのNHKの紅白も見られたのでしたが、それも無くなりました。
当時は大勢の商店や会社、企業などがスポンサーでした。

衛星放送のテレビ・ジャパンを特約すれば日本語放送を常時見れる様にな
りますが、今はそれを見る時間的余裕がありませんので、無駄ですから契
約には躊躇致します。

南米では何処でもその衛星日本語テレビ放送を見ることが出来ましたが、
現地の契約額にしたらかなりの金額になると思います。

南米パラグワイのエンカナシオンで、日本人が多く泊まるホテルでは、衛星
放送を部屋のテレビで見る事が出来ました。
ホテルのベッドに寝転んで、NHKの国際ニユースなど見る事は、47年前
の事を思い出すと隔壁の隔たりを感じていました。

当時はNHKの国際放送を短波ラジオで聞くぐらいが楽しみでした。
特に年末の紅白歌合戦などは真剣に、ラジオの前で聞いていた思い出が
あります。

それにしてもサンフランシスコで発行されていた日本語新聞も読者が減っ
て、企業と商店の広告が減ったようで二年前に廃刊されました。

地元の日系ローカル・ニユースが途絶した事は困ります。これも時代の流
れですから致し方ありませんが、何か日系社会が、日本人が衰退していく
思いが致します。
私が永年参加していた福岡県人会も一世達が居なくなり、去年解散いた
しました。

それからしたら、韓国のハングル文字が何処でも見られ、またハングル
文字だけの看板も、このアメリカで通用させる韓国人達の根性には驚き
ます。
サンフランシスコの日本町も、今ではハングル文字が目立ち、コリヤン・タ
ウンと言う別称でも呼ばれています。
あの独特の韓国焼肉の香ばしい、甘ったるい匂いがランチ時間でも漂っ
て来ます。

栄古衰勢のこの世の中、時世の波に乗り栄えてまた衰退していくのは致
し方ないこと、そのサンフランシスコの日本町を建設して所有していた近
鉄が全ての資産をユダヤ系の企業に売却して撤退して行きましたので、
韓国系、ベトナム系、中国系の盛況さと比較すると少し寂しくなります。

昔は多くの日本からの留学生達が日本町に遊びに来て、食事して、紀伊
国屋の本屋などで週刊誌など立ち読みしている姿を沢山見ました。
学生達の姿も、それも少なくなり、日系のモールに出店している店が減り、
韓国系や中国系に代わっています。

アルゼンチンのブエノス市内でも韓国人達の町が出来ていたのには驚
きましたが、そこの朝鮮焼肉は、どうした事か世界でも有名な食肉生産
国でありながら、貧弱な事には少し驚きました。
私が47年前にブエノスに居た時代は、韓国人の人口は4桁に達しない
極僅かな居住人口でしたが、今では日系社会を追い抜いているという話
を聞いて、さもあらんと感じたのでした。
来る歳、去り行く歳・・、栄古衰勢、輪転再生の俗世の流れ、栄える者は
いつしか衰え、衰退していく運命と感じます。

それにしてもその事が我が目で見て、身体で感じる事が出来る世の中
には、一抹の寂しさを感じます。

2013年9月16日月曜日

私の還暦過去帳(423)


忘却とは、忘れ去る事なり、

先頃から度々に知り合いや、昔の友人が亡くなる話を聞きます。

私の年齢を考えると、それもあたり前に聞く事がありますが、日々世界の
様子が変わるさまは、それに連れて人々の寿命も長くなったと言うことも
感じます。

しかし、南米に移住してアマゾン河の中流域に入植した日本人の平均年
齢が低いという事も聞いた事が有ります。それも生活習慣の違いから来
る、食生活の格差、飲酒や喫煙などが関連する成人病などもあると思い
ます。

私の友人達も南米移住した同級生達が良く喫煙するのには驚いたこと
が有ります。また日本在住の同年齢の方々の喫煙にも驚く事があります
が、中には死ぬまで止められないと言う人も居ます。

確かに私の同期生ですが、2ヵ年ほど前に食道にガンが見つかり、食道
の一部切除も致しましたが、一時は手術後の経過が悪くて、命の危険も
有ったようですが、それが持ち直して、元気になると、また酒タバコに手を
出すようになり、今では『これだけは死ぬまで止められない・・』と言う事で
続けて居るようです。

しかし、私の知り合いは一日、タバコを2箱も吸っていた人ですが、あっけ
なく発病から亡くなるまで3ヶ月で人生を終えた人もいます。
私がその癌の兆候まで見て、注意したのに、無視されて亡くなりましたが、
哀れと言う心が致します。

引退するまであと、数ヶ月だと言う時期でしたが、亡くなるまで人生を駆け
抜けて来た事が果して何だったか・・、と言う疑問も湧きます。

人それぞれに人生と言う重き荷を背負い、遠き旅の道を歩く様な生き様に、
己の人生を賭けている方々が大勢いますが、時には果してそれが正解か
と言う、自問自答もする事があります。

人には金儲けも興味がなく、家族と心の幸せとを願って、慎ましく清貧な
生活を送りながらも満ち足りた家族の幸せを掴み、育んで、小さな農園
生活に満足して人生を終らせた方も居ます。
その方が、『心安らかなる者、平和なる者、約束の地を得ん・・』と話して、
大きな心の平和を掴んで人生を終えられたのですが、人生一回限りの
道程の旅に、人の何倍もの稔りの宝を手にしていたと感じます。

二言目には金儲けの話ばかりで、それに溺れ死ぬ様に、人生を終えられ
た方も居ましたが、果たして幸せが何かという疑問が、限りなく心に湧い
ていた事も有ります。

日本人の2世の女性と結婚していた中国人でしたが、死の床にありなが
ら、良くなったら今度はこんなビジネスを始めたいと話していたのですが、
その言葉がまるで、病との闘いを鼓舞する勇気付けの文句の様な感じを
受けた事があります。

彼が奥さんと子供一人に残した物は、生命保険金と、家のローンが死亡
したら保険金で全額完済されるという保険付きの家でした。

政府からの遺族給付金で食べて行ける様でしたが、ご主人が残した資
産の全額を、危ない銀行の高利子に惹かれて預金して、その資産は政
府の預金補償額までしか保証がなく、銀行が倒産してその戻ってくる資
産も2ヵ年近く掛かり、家を売却して、親元に身を寄せる為に子供連れ
で引っ越して行きました。

昔、時々その家の近くを通り過ぎる時に、ふと・・、あの子どもは幾つに
成ったかと、去り行き、その行方も分からない人の子供の事を思い浮か
べていました。

何年ぶりかで国際電話で知った南米時代の知人の消息も、殆どが亡く
なり、また中には日本に帰国して消息不明と言う事も聞き、日本に出稼
ぎに行き、日本で女性が出来て離婚して、日本に居付いたと言う事も聞
いた事があります。

人は別れの離別と、また再会のたずなも握りながら、この世の狭間で
人生の大河に流されて行く感じが致します。

去り行く先が、御世の世界に足を向けて行く人も少なからず・・、果たし
て人生は短い様で、早い様で、誰も推測できない、占う事も出来ない世
界の、物語の登場人物のようにも感じる事が有ります。

2013年9月13日金曜日

私の還暦過去帳(422)


寒い日の思いで・・、

カリフォルニアも12月に入ると霜が降りる事があります。
現在の南米の気候は初夏で正反対ですが、寒いのは季節では同じです。

南米でも内陸部の乾燥地帯では、寒暖の差が酷くて、まるで一日で、春
夏秋冬の季節が周り来る感じでした。
南米で農業をしていた時代は、冬の時期にボリビア国境地帯の南回帰
線から中に入った亜熱帯で栽培して、冬のブエノスやラプラタの大都市
に野菜や果物を送っていました。

アルゼンチンは縦に細長い国ですから、その様な特定の栽培地帯が出
来たと思います。寒い時期に長距離を走りますので、シートを被せないと、
トマトやピーマンを満載して、長距離トラックで走り始めますが、中には
ブエノスのアバスト市場に到着したら、トラックの一番上部に積載されて
いたトマトが、凍傷で売り物にならないと電報が来ていました。

トラックが走り始めたら、停車するのは食事やトイレと給油に検問所の
停止だけでした。殆ど休み無く、24時間運転しています。

夜遅く出発して、早朝のまだ日が昇る前の半砂漠地帯のサンチヤーゴ・
エステーロの人里離れた侘びしい地帯を通過する時に、霜で白く雪を被
った様なアドベの日干し煉瓦で造られた家々の側を通過すると、肩にポ
ンチョを被り、ヤギを追う人達に会う事がありましたが、足にはボロで暖
かい靴下のようにして、粗末なクツを履いていましたが、肩から物入れの、
弁当などを入れた様な物を下げていました。

大勢のヤギ達が砂漠の潅木地帯に向けて砂埃を立てて歩き去る様子
は、朝霧が微かに地面に這う様に流れる様と交じり合い、薄赤く染まっ
た大地の色と交差して幻想的な風景を醸し出していました。

道路端の家の前で、レンガで作った丸いパン焼釜から煙が流れ、焼き
立てのチーパや、トウモロコシのパンを籠に入れて売っていました。

長距離トラックを目当てに朝から焼いているのです。現金収入が少な
い地帯では貴重な現金を手にしていたと思います。

まだホカホカのパンと、絞りたてのまだ暖かいヤギの濃いミルクをサッ
と沸かして、コップにこぼれんばかりに入れて、それにパンを浸して食
べるのは美味しいものでした。
パンにはヤギのチーズを少し挟んでありましたが、独特の風味で焼き
立てのパンに合うものでした。

パン焼釜の火を見ながらの立ち食いでしたが、子供の頃に近所でヤギ
の乳搾りを見に行き、まだ暖かいヤギの青臭いミルクを飲んだ事を思
い出して食べていました。

側で我々トラックの運転手を見ていた子供に、運転席の後ろからオレ
ンジやバナナを取り出して手に握らすと、こぼれる様な笑顔で母親に
見せると、早速子供達は食べていました。
冷えた道路に排気ガスが白く蒸気を吐く様に流れ、単調なジーゼル
エンジンのアイドリング音が響いていました。

それ以外は死んだような静かな世界で、微かにヤギの鳴き声が聞こ
えて来るだけでした。
我々が朝食を終り、トラックに乗り込むと子供が駆けて来て、手作りの
小さなヤギの姿をした縫いぐるみを手に握らせてくれました。
粗末な物でしたが、何処と無く愛嬌があり、可愛いものでした。

私も口が寂しい時のキャンデーを一掴み、子供に握らせてお返しをし
ていました。

ローギアーからゆっくりと加速するトラックを、子供達が手を振りなが
ら追い掛ける姿をバックミラーで見ながら、段々と遠ざかって行きま
したが、直ぐにかやぶき屋根に白く降りた霜の色も見えなくなりました。

冷えた砂漠地帯の静けさが、微かな朝日に暖かく染まり出した光景
を見ながら、運転席にヤギの縫いぐるみが揺れていました。

2013年9月10日火曜日

私の還暦過去帳(421)


 時は過ぎたり、

今年も秋の季節となって来ましたが、山沿いには雪が積もり根雪となる
量だと報道がなされていました。

49年も昔、9月の季節に移民船でアルゼンチンのブエノス港に到着す
る予定がストで、お隣のラプラタ港に到着して、そこからバスでブエノス
まで行きました。

当時の移住者達はボリビア行き、パラグワイ移住者達も全てブエノス下
船で、当時宿泊施設があった日本人会に滞在して、国際列車を待って
乗車して居ました。
当時、ボリビアのラパス行きの列車は週に2本程度の様でした。
その国際列車も、とうの昔に廃止されています。

その他、ブラジル入国審査で、当時ブラジルはトラコーマの症状があれ
ば入国を拒否していました。擬似トラコーマでも入国検査ではねられて
いましたので、ブラジル入国に、検査が行われないブラジル北部のマッ
トグロッソ州のポンタ・ポラン辺りからブラジルに入国していました。

パラグワイ経由で、大回りして入国をしていたのでした。
荷物などはサントス港で荷揚げして、身体一つで小さなカバンを持って
旅をしているようでしたが、私が『大変ですね・・、大回りでブラジル入国
するなど・・』と言うと、『各地を見物して歩けるから、それも楽しいです、』
と答えが返ってきました。

僅かな人達でしたが、花嫁移住者も居たようでした。
その女性がご主人がわざわざ、マットグロッソまでで迎えてくれると話し
ていました。当時、私は始めて地球の南半球が春先の季節と言う事を実
感して、体感して不思議に感じて居ました。

生まれて初めて、一年に2度も春を経験したのです。
パラグワイ行きの国際列車もパンパ草原の海のような大草原を走って
行きますが、49年も前ですから、現在の様に植林もあまりされては居な
く、本当の大草原という感じがしていました。

どこか草原の真っ只中の駅に停車して、その余りにも牧歌的な風景に
線路脇まで降りて、水揚げの風車がのんびりと、そよ風に吹かれて回転
して居るのを見上げていました。
ブエノスからパラグワイの首都、アスンションまで当時の単身移住者は
私一人で移住事業団の係りが、ブエノスのチヤカリータ駅まで送って来
てくれ、そこからはパラグワイ入国までは一人旅でした。

アルゼンチンとパラグワイの国境ポサダまでは一人で汽車に乗車して来
ましたが、真に悠長な旅でした。

エンカナシオンに渡しのフエリーで入ると、パラグワイから係りが迎えに
来ていました。おかげで迷う事無くパラグワイ入国が出来ましたが、パラ
ナ河の川幅が大きな事には驚かされました。
春の陽気に輝く河面の流れが、体感で大陸と言う感じを抱きました。

河には河船の5千トンクラスの貨物船が停泊していましたが、コーヒー
色に濁った河の流れが、遠くはアマゾンの源流近くから流れて来ている
事を聞き、また支流の一つはボリビアから流れて来ていると知り、その
ラプラタ河の大きさにしみじみと眺めていました。

その当時はパラグワイの入り口、エンカナシオンは人口も僅かで、ひな
びた感じでした。のんびりと馬車が走り、しばらく東京に住んでいたので、
その差に驚いていました。アルゼンチンのブエノスで、パラグワイから当
時出て来て、宿泊していた人が、日本より20年は遅れていると話してい
たことを思い出していました。

5年前に同じエンカナシオンの当時の駅を訪れた時は、廃駅となり永い
年月を経て、すっかり荒れ果てた姿で、そこには何組かの家族も住み
着いて居るようでした。
周りは草茫々の姿で、そこの駅の広場から移住者達が行き先の移住
地にトラックに乗り込み出発して行った姿を思い出す事も出来ない荒
れかたでした。

町では今は舗装道路が縦横に走り、未舗装の赤土に染まるという事も
今では無くなり、時代の変遷を肌で感じた事でした。

しかし駅構内の一角には世界で僅かになった、薪で走る蒸気機関車が、
貨車だけは僅かに運行しているので、その貨車入れ替え用に残ってい
ました。
その機関車を見て、百年の昔の機関車が何かタイムマシンに乗って動
いている様な錯覚を見た感じでした。

パラグワイは時は過ぎても、東京の様に激変するような環境ではない
ので、歩いて旅の景色の中に昔が見えた思いが致しました。

2013年9月7日土曜日

私の還暦過去帳(420)

現代の無情・・、

今年もあと僅かで11月になりますが、時と月日と、時代の移り変わり
の激しさを時々近頃は感じる事が有ります。

それと言うのも先月まで元気で言葉を交わしていた人が、ある日、亡く
なっていたと言う様な事もあり、自分の年齢的な現実を思い知らされる
事が有ります。

それと40年前の昔でしたら間違いなく、亡くなっていた様な病気でも、
心臓発作の瀕死の状態で入院しても2ヶ月もしない内に、ペースメー
カーなどを胸に埋め込んで退院してくる人を見ると、まるで冥土から戻
って来たと感じる事があります。
それにしても医学の進歩は凄いと思います。

知り合いの85歳近い老夫婦ですが、夫婦で前後して心臓病で倒れて、
6ヶ月経過した現在は、日中はお手伝いさんが時々来ていますが、
夫婦で生活している姿を見ると、何と言う医療の進歩かと驚きます。

ご主人はいまだに車で近所に買い物に出かける事があり、奥さんが病
院に行く時は車で連れて行く姿を見ると、車社会を見せ付けられるよう
です。 自分で車を運転出来なくなると、アメリカでは老人ホームなどの
施設に入る人が多いようです。

20年以上も前でしたが、私の知り合いで奥さんが軽い卒中の後遺症
で、調理が上手く出来なくなり、一日2食の食事が出る老人ホームに
引っ越して行きました。

私もその夫妻が引っ越してから、一度訪ねましたが中は奇麗で、身体
が動かせない人は自室まで食事を配膳してくれ、それ以外は大きな食
堂で皆で食べていたようです。 その施設は大型で、中にはゴルフ場が
2面もある様な広大な施設でした。

1万2千名程度が中に町を形成して住んでいるようですが、誰かが悪
口で、55歳以上でないと入居できないので、『天国の待合所』とか
言っていた場所です。

入り口にはゲートがあり、回りは広大な緑地があります、側のショッピ
ングセンターまではシャトルバスが巡回していて、歳をとってもその様
なところに住める人は幸せです。

それにしても医学の進歩は凄いと言うけれど、その恩典に触れる事も
出来ない人もアメリカには沢山居ます、それが現実と言われればそれ
までですが、アメリカでは何か弱者切捨てで、働いてもプワーの貧困
階級から抜け出せない人達も多くいます。

何かアメリカの現実から見ると、健康保険も完備していなく、保険が
なければ慈善病院に行かなければなりません、それか低所得者の医
療保険でカバーされるのを待つしかないのです。

アメリカといえば生活水準が高く、食べ物も豊かで社会保障も完備し
ていると考えがちですが、時には胸がキューンと痛む様な様子も目に
します。
それはホームレスといわれる、社会からはじき出された人たちです。

先日のテレビでも、リーマンショックからの経済不況で、アメリカの
トップを走るシリコンバレー地域の不況で、博士号、修士、大学卒業
者達が殆どの、ある教会の集会を写していましたが、中年過ぎの方々
が殆どで、仕事が無い状況を嘆いていました。

司会者が『この中に博士号を持っている方は・・』と声を掛けると5名
ほどが手を上げました。
ある独身女性は大企業のマネージャーをして高給を貰い、自宅を持っ
て生活していたのが、失業で全てを失くして、ホームレス・シエルター
で生活して、僅かな失業保険の給付金で、空き缶やボトルまで拾って
生活していると話していました。

我が家の近所でも銀行の差し押さえ物件の家があり、家の玄関に張
り紙がしてあり、直ぐに家の周りが草茫々の有様で、つい先日まで
奇麗だった庭がまるでお化け屋敷の様になり、水も与えないので、
プラントが枯れ放題で、見るも無残でした。

その様な姿を見ていますので、僅かな月日に、全てを失わなければ
ならないアメリカのシステムにも私も驚きました。
あるアメリカ人が、『給料の小切手が3回来なければ、悪ければホ
ームレス予備軍となる』と話していたのを聞いて、このアメリカの不況
を考えさせられました。

アメリカ人が貯蓄を余りしないことも原因が有りますが、それにしても
失業保険もない黒人のホームレス達が、一日1回の教会のスープ・キ
ッチンで食べて、後は空缶など拾い、ゴミまで漁る様を先日、目にして、
ピザ屋のゴミ箱から食べ残しを、ナプキンに包んでポケットに入れる姿
に、アメリカの矛盾が感じられました。

2013年9月5日木曜日

私の還暦過去帳(419)

 私の悲しい日、

今朝は起きてインターネットのメールと新聞を見て、一瞬呆然とした。
これまでの日本人としての精神的支えが崩壊したような感じを受けて涙
ぐんだ。

それは尖閣諸島で中国漁船の領海侵犯で巡視船に体当たりした漁船の
船長を起訴猶予で無条件釈放したという報道を見たからでした。

その釈放は、単に地方検察局の判断でなされたという事です。
日本の総理や外務大臣も国連総会に出席して不在の間に行われた行
為です。
その前は、『日本国の法に照らして厳正に対処する』と言う声明が出され
ていたからでした。

私の心の精神的支えは祖国の繁栄と日本人の大和魂です。今までの
大和魂の数々が、祖国を思い、祖国を憂い、救国の為に命を惜しまず
活躍して、ある人は勉学に心身を打ち込み、祖国日本の繁栄の為に命

を削るように努力され、世界に日本と言う存在を知らしめた人達や、
祖国日本の為に戦いに殉じて亡くなられた英霊達の思いなど、全て忘
れて、ただ金銭的、経済的な為に、中国の恫喝に屈したという事しか考
えられませんでした。

すでにアメリカにも38年間在住して、その間に第二次大戦で日本と戦
ったアメリカ海兵隊員や陸軍兵士達と膝を交えて話す機会があった時に、
海兵隊員で硫黄島攻略の最前線の、第1波の上陸部隊に参加した人

でしたが、擂鉢山の麓に強行上陸したその凄まじい情景を語ってくれた
時に、日本人兵士達がこの島を失えば日本本土爆撃が可能に成ると
いう事を知っていた様に感じると語っていました。

僅か数メートルの硫黄島の海岸の土地を占領するだけで、アメリカ兵の
屍が並んだと話して居ましたが、その人も海岸で鉄兜に銃弾が命中し
たが、幸いに貫通しなくて、気絶して、後で再度攻撃に参加して、海岸

線から100mばかり中に入った所で、腹部を撃ち抜かれて瀕死の重傷
で助かって帰還したと話していましたが、日本の領土を守る日本兵の
精神的な強さも思い知らされたと話していました。

水も満足に無い、援軍の救援も無い、草木も無い、地下は熱い火山性
地熱のその硫黄島でジッと耐え忍んで、アメリカ軍を迎え撃った兵士達
に深く敬意を表していました。

アメリカ陸軍の兵士が沖縄で日本兵士が降伏を拒否したので、入り口
に食料とタバコを置いて降伏を誘っていたが、一人の日本兵が入り口
まで出て来て、タバコを1本とって火をつけて一服すると、胸に隠した
ダイナマイトの束にも火をつけて、米兵の目の前で自爆してしまったと
語っていました。

その凄まじい光景を目にして、これからの日本本土上陸作戦を恐怖に
感じていたと語っていましたが、降伏を潔しとしない精神を見て、日本
は直ぐに立ち直り世界に羽ばたく国になると確信していたと語っていま
したが、そのアメリカ軍兵士達も全て亡くなり、今ある日本の世代は、

戦場でもない平和時に簡単に中国の恫喝に屈服して、日本側には海
保巡視船に中国漁船が体当たりしてくるビデオもあるのに、GPSのレコ
ードも記録されているのに、これを国連など国際舞台で公開するという
手もあったはずと思います。

昔、ソ連空軍戦闘機が大韓航空機を撃墜したとき、後藤田正晴官房
長官は自衛隊レーダーサイトが傍受したソ連機と地上基地との交信
記録を国連で公開することに踏み切った。

自衛隊は傍受技術の水準が判明してしまうと抵抗したが、それを押し
切っての公開措置だったが、カミソリ後藤田と言われていた人物だか
らこそ、当時の共産主義大国のロシアを相手に対等に接した感じられ、
これによって、ソ連側がアメリカの偵察機と誤って撃墜したことが世界
中に明白に伝わった。

日本外交の勝利でしたが、それから見ると、今回の措置は完全な外
交敗北で完敗であったと感じられ、 中国政府は乾杯を上げて地に落
ちた日本政府の威信を笑っていると思います。

68年以上も前にアメリカ軍兵士達を脅威に感じさせていた大和魂は
すでに過去の歴史に消えて、今日の韓国の二ユースも、沖縄・尖閣
諸島沖の中国漁船衝突事件で、中国人船長の釈放が決まったこと
について、韓国メディアは24日、「日本の降伏宣言」などと報じ、日本
が中国の圧力に屈したと伝えた。

聯合ニュースは見出しで日本が「白旗」を上げたことを強調し、日中
の対立は「日本の降伏宣言」で幕を下ろしたと伝えた。

テレビYTNも「菅首相は外交を試されて白旗投降する姿を見せ、深
い傷を負った」と報じた。

公共放送KBSは、国内法にのっとって粛々と対応するとしていた日本
側が「立場を180度変えて中国の要求をそのまま受け入れた。中国
の強い圧迫のためだ」と指摘した。

隣国の韓国さえ日本人の屈辱的な外交完敗の有様を報じているの
を見て、現政権の政権幹部達が日本人としての魂を忘れた存在を憂
い、悲しく思います。

中国人船長の釈放決定について東京都の石原慎太郎知事は定例
会見で「政府は非常に間違った判断をした。(釈放の)論拠はわが国
の利益だろうが、利益とは金目の問題。それ以上に国家として、民族
にとって大事なものがある」と述べ、「日本はこのまま沈む」と嘆いて
みせたが、これは本当の事と感じます。

私も日本人の誇りまで捨てる事は、国家と民族の一番大事なものを
金に代えてしまうと感じます。

中国は船長を凱旋将軍と迎えるだろうし、すでにその様に待遇してい
る、それでなくとも、尖閣諸島を中国領と認めたから釈放したのだと
内外に宣伝するだろうとおもいます。

仙石内閣とも言える政府の親中国な経歴を中国は見透かした恫喝が
効をそうしたと感じられ、今後益々日本の対中立場を弱体化し日本の
国益がそこなわれて行くだろうと感じます。

先ほどの二ユースを見ていたら、中国政府の声明は「釣魚島と付属
の島が中国固有の領土で、中国は争う余地のない主権を有している」
と改めて強調して・・、

「日本側の取った司法措置はすべて違法で無効で、日本側はこの
事件について中国側に謝罪と賠償をしなければならない」と指摘した。

私の悲しい日が憤激の様で一日終ろうとしています。

2013年9月4日水曜日

私の還暦過去帳(418)

 私の遠眼鏡、

遠眼鏡と言っても、双眼鏡の事です。

南米に移住する時に、かなり上質な小型双眼鏡を免税店で買い入れて南米
に持ち出しました。
これは優れ物で、移民船に乗船して居る時も、沿岸部を航海するときなど、
景色などを見るのに大変に役に立ち、またイルカなどが船と平行して群れで
走る様などは手に取るように眺める事も出来ました。

船員さん達も私の双眼鏡を見て、『これは使えるものだね・・、』と言ってくれ
た倍率とシャープな映像が見える双眼鏡でした。

皮のケースに入り、レンズカバーとレンズ拭きも備えられ、首から掛けるよう
に革紐もついています。
今年で50年目となりますが、いまだにレンズに曇りも入らず、新品の様にし
ていますが、当時の製品としては免税店に置いてあった物ですから、海外
向けの高級品と思います。コンパクトで軽く、その当時の双眼鏡としては有
名品だった様です。

アルゼンチンのサルタ州で農業をしていた時代に、娯楽と言えば魚釣り、
狩猟、酒飲などのお決まりでした。酒を飲む事は、若い仲間で集まり勿論の
事に、若い彼女達も入れてドンちゃん騒ぎに近いことをして飲んでいました。
早く言えば馬鹿騒ぎです。

狩猟ではインジオのガイドが付いて鳥屋撃ちと言う様な、木の上に小さな
隠れ場所を作り、そこに獲物が出て来るまで隠れて居るのですが、インジ
オが犬を使い山豚などを追い出して来るのを待っていました。

そんな時に私の双眼鏡は大変役に立ちました。余り日が刺し込まないジ
ャングルの木陰で、保護色に紛れてうごめく獲物は肉眼では中々見分け
が付かないのですが、私の双眼鏡で見ると、はっきりと浮き出た様に見え
ましたので、重宝していました。

時にはチャワンコ族が河岸で水浴びするのを、遠くから木陰で見る事が
出来ました。双眼鏡で見ると手に取るように見えますので、当時の私の若
い時期には、ありがたい双眼鏡でした。
特にチャワンコ族はかなり寒くても必ず、一日一度は水浴びしますので、
若い可愛い子は良い目標でした。

大抵洗濯を河ですると、それが終ると同時に水浴びもしていたようでした。
着ていた物を脱いで、水浴びして新しい洗濯した服に着替えて帰って行
きました。小麦粉色に日に焼けた肌と、黒髪の永い髪の毛が今でも思い
出されます。

ピーマンの畑で鹿が夕暮れの闇を透かして畑を荒らしに来ていましたが、
ぼんやりと遠くに見える景色の中に、微かに動く鹿の映像を私の双眼鏡
は捉える事が出来たので、ライフルに狙撃スコープを付けて狙い撃ちに
していました。
特に鹿などはまだら模様の迷彩色ですから、遠くのジャングルの中では
見分ける事は困難でした。
ピーマンの畑などでは鹿など2~3匹が来て食べられると、かなりの被害
になります。双眼鏡で鹿を発見すると、大体の距離を測り、弾の有効距離
まで近寄って、時には暗くなった中で獲物を倒していました。

銃声が響くと、インジオが直ぐに来て、ジャングルの側で内臓を出して、
その場で処理してくれました。
肉だけに下ろして、上質部分の肉を貰うと、後はインジオに渡していまし
た。バナナの葉などに包んで肉を持ち帰り、フライパンにサラダオイルと
にんにくを泳がせて、鹿肉ステーキなどにして食べていました。

忙しい時は若いインジオに双眼鏡を持たせて看視させて、単発のライフル
を持たせて鹿を狙撃させていました。たいてい弾は2発か3発ぐらいしか
与えませんが、彼等は上手に1発で、鹿一頭を倒していました。

アメリカに来て、簡単に射撃が出来るので、近所の射撃場に週末などタ
ーゲット射撃に行っていました。
10分間射撃があると、しばらく休憩になり、その間標的用紙を交換した
り、射撃台の廻りに飛んだ空薬きょうの回収で、拾って集めたりしていま
した。
また、ベンチに座り近所の射撃している人の標的などの黒点を双眼鏡で
見ていました。上手な人は中心にまとまって穴が開いていますが、下手
な酷い人は殆どポツポツしか穴が開いていなくて、何処を狙って撃って
いるかと感じる程でした。

自分の高倍率の双眼鏡で見ていると、面白い様に他の射手のスコアま
で数える事が出来ました。
秋晴れの天気の良い日に双眼鏡をロッカーから取り出して、裏庭から
見える近所の大木の梢に鳥が巣を作っているのか見ていたら、何か昔
の光景が心の中で大きな音を立てて撒き戻されているような感じを受け
て、走馬灯の様に、クルクルと懐かしい思い出となって見えた様な気持
ちがいたしました。

50年目のこの双眼鏡は、私の思い出の青春が詰まった、遠眼鏡の様
に感じます。

2013年9月2日月曜日

私の還暦過去帳(417)


昔と今の時代の流れ・・・、

近頃はスーパーなどに行っても、買い物数が少ないと、セルフサービスの
レジに行って、支払いを致します。
周りを見ると若い人が多い感じですが、歳寄りは余り見かける事はありま
せん。
近所のスーパーでは、先ずお得意さまカードをスキャーンして、入力いた
します。その後に品物を一つずつバーコードをスキャーンして計算いたしま
すが、果物などは、ラベルに書かれた数字をスクリーンに指先で押しなが
ら、入力して価格を出します。
女性が一人で6台ぐらいのレジの面倒を見ていますが、僅かな買い物の
人は便利なレジと思います。

アメリカや日本の様に商店やスーパーなどに物が溢れている所ばかり見て
いるとそれがあたり前で、感覚的に麻痺してしまうと思います。

昔の時代、買い物や、商売は現在と比べるとかなりの差が有りますが、
5年前に南米各地を46日程度歩き回って、南米のチリやペルーの田舎
の市場で、雑貨や家電の安物が全てと言っても良いくらい、中国からの輸
入品でした。

4920mの峠を越してたどり着いた、チバイ峡谷の小さな町で、そこの
市場で売られて居た時計や工具類は全て中国製で、驚いた事がありました。
中古のトラックは日本の看板をそのまま消さずに、XX運送株式会社など
と書かれた侭の姿でした。
はるばると日本から運ばれて来た中古車ながら、こんな田舎の小さな町で
動いていると言う事を見て感心した事が有ります。

49年前にパラグワイに移住してから田舎に行って、アルマセンと言う雑
貨屋に行き、買い物をしようと店内に入ると、豚肉が天井から吊り下げら
れ、無造作に木からもぎ取られたオレンジが大きなカゴに入れてあり、砂
糖などは一種類で、秤売りでした。
食用油、缶詰類、タバコ、ほんの僅かな医薬品と言っても、アスピリン程
度ではなかったかと思いますが、片隅に置いて有りました。

豚肉とバナナは並べて吊り下げてあり、後は玉ねぎとイモ類があるぐらい
で、酒と言ってもカンニヤーと言う焼酎に似た酒と、ビールでした。
ビールも大瓶だけで、余り冷えない灯油の冷蔵庫に入れてありました。

これだけでも金を出せば買えるのですから、我慢しなくてはなりません、
一度などは驚いた事に金よりも、何か交換出来る物はないかと聞かれた
時は驚きました。
勿論の事に、日本から持って来た雑貨類や、衣類などです。

一番高く売れたのが何と・・、当時発売されたばかりのガスライターでした。
噂に聞いていたので、私も安いガスライターを持っていました。

ライターとガスボンベを付けて売りましたが、初期の重い、かさばるライタ
ーでしたが、ブラジルでも、アルゼンチンでも売れ売れと言われましたが、
勿論の事にパラグワイなどは、目を輝かせて『試させてくれ』と来ました。

なぜ売れと言わないのは、見ただけで高級で値段も高価と感じたからと
思います。パラグワイの物価からしたら、借りて試す方が良かったと思い
ます。

カメラも二台所持していましたが、スナップ・カメラのかなり古い方を売り出
していました。
パラグワイではおかげで安いカメラが、モーゼルのブルームハンドルの
大型自動拳銃に代わりました。ガスライターは機械彫りの奇麗な模様もあ
り、見たくれは高級品でしたので、日本で買った10倍近い値段で売れま
した。
日本製の作業用地下足袋は、これも日本で買う値段の3倍ぐらいで売れ
た記憶があります。日本人の方に譲ったのですが、南米相場値段のよう
でした。南米ではその当時、日本製のラジオが高級品として売られていま
した。
特にソニーの製品は日本人から何度も売ってくれと頼まれました。
私がソニーの最新携帯式ラジオで日本語の短波放送を聞きたいと計画し
て、持参していた物でした。
パラグワイや、アルゼンチンの奥地で、NHKの海外放送が鮮明に聞こえ
るのですから、それを聞いて、欲しくなったと思いました。

小型の持ち運びも簡単に出来る、電池でも普通の電源でも使える便利な
ラジオでしたので、当時は白黒のテレビでもチャンネルも3局ぐらいでした
から、ラジオでも貴重な存在でした。
そのラジオは私が南米滞在中も、日本に帰国しても使用していましたが、
母が裁縫する時にテレビより、音楽が聞けるラジオが欲しいと話していたの
で、母にプレゼントした思い出があります。
今では全てが様変わりして、時代の代わり様にただ驚くばかりです。

南米を旅行した時、辺ぴなパラグワイの田舎町で、衛星放送でNHKの
国際放送を食事しながら見れたことです。
その番組からは日本流行の歌謡曲が流れ、鮮やかな色彩のショーが写し
出され、食堂のテーブルで、憩いの一時を楽しめる放送には感無量の感
じでした。

48年も昔、移住地を巡回して日本映画を上映して廻っていたのを覚えて
いますので、沢山の移住者達が憩いと日本の娯楽に飢えて、野外設置
のスクリーンを見ていたのを考えると、時代の流れを感じられました。