2013年9月27日金曜日

私の還暦過去帳(427)

私が出会ったイタリア人達、

私が最初に出会って話したイタリア人は、1964年の南米に行く移民船の
アフリカ丸に横浜からロサンゼルスまで乗船していたイタリア人でした。

当時としては珍しい、バイクのスクーターで世界一周をしていた中年の男
性でした。小柄で、元気の良い人でしたが、我々と同じ三等船室に乗船し
ていました。

三等の食事は、日本食のご飯に味噌汁と言う、日本人が毎朝普通に食
べる食事でした。最初は『私は何でも食べられる・・、食べることが出来
る・・』と豪語していました。

見ていたら沢庵などは、『これは何であるか?』と聞いていましたが、顔を
しかめて食べて居たようでした。直ぐに10時に出るお茶の時間に、ミルク
テーとビスケットを余分に貰って食べて居たようでした。

それから何日も経たずに、ご飯に砂糖を掛けて、それにミルクを掛けて
食べていました。それを食べられなくなると、事務長に交渉して食事だけ
二等船客の食堂に食べに行っていました。
彼がロサンゼルスに到着して、まず走り込んだのはイタリアレストランだ
ったと思います。
結構古いスクーターに跨って波止場から元気に走り去って行きました。

次に出会ったイタリア人は、私がパラグワイから出てきて、アルゼンチン
のブエノスから160kmぐらい離れたチビリコイと言う町で、野菜作りをし
ていた時期でした。

出来過ぎたトマトが売れなくて、トラックの荷台に載せて町に売り歩いて
いました。そこで知り合ったイタリア人でした。
イタリアン・サルサを作るので、熟れたトマトを欲しいと言うことが始まり
でした。持って行くと、奥さんとおばあちゃんが揃って、ビン詰めのサルサ
を作っていました。

何度か行く内にランチのお昼でも食べて行きなさいという事で、食卓に
案内されて美味しいスパゲテイーやパスタをご馳走になりました。

それからと言うものは、あの美味しいスパゲテイーを食べたいばかりに、
熟れたトマトを届けに行きましたが、そこのおばあちゃんは、アルゼンチ
ンに来てまだ間がない人でした。
イタリアでご主人を亡くすと、息子が移民していたアルゼンチンに頼って
移住して来た人でした。
チビリコイは1900年にイタリア人の入植者によって開かれた町です。
イタリア人が沢山住んでいました。

おばあちゃんはよく・・、『マンジャアーレ・・!』とか大きな声で私を呼んで、
『コメー!コメ・・』といつも勧めてくれました。
時にはサラダの材料も沢山箱に入れて届けていました。

私が一番好きだったスパゲテイーは大きな肉の塊をソースの中で長時
間煮込んで、その煮込んだソースを掛けたスパゲテイーの横に、塊の
肉をスライスした物と、ポテトが添えてあるイタリア人の庶民が食べる
ランチでした。

昼からランチで飲んだワインにほろ酔いながら車を運転して帰り、昼寝
するのが楽しみでした。私もこの昼寝には直ぐに慣れて、必ず昼寝をし
ていました。起きてからは、マテ茶などを啜ってから、また夕方まで仕事
をしていました。

そのおばあちゃんが週末に大きな花束を抱えて、町外れの墓地に息子
と行く姿を見ていました。移民して来て、そこの町で亡くなった親戚のお
墓に花を持って訪ねて行く姿でした。
町外れの共同墓地に行くと、イタリア人達の埋葬地域があり、そこには
同じ町から移民して来た人達が何人も居る様で、見ていると墓参りに来
た人同士が大袈裟なしぐさでハグをして、なにやらイタリア語で話して
いる姿を見ました。

タイルに写真を焼付けて、それをお墓の前に飾ってあるのを見ると、同
じ顔付きのイタリア人の姿が何人も居ました。聞くと全員が親戚だと言
うことでした。

私がチビリコイの町を出て、ボリビア国境のサルタ州に行き、農業をし
ていた時に仲よかったイタリアから来ていた、おばあちゃんが亡くなっ
てお墓に入っていました。

お悔やみに訪ねて行くと、帰りに皮のブーツを私に持たせてくれ、サル
タで使ってくれと息子が話していました。オリーブとチーズを切ったおつ
まみで、ワインを飲みながら思い出話をしていたら、息子がおばあちゃ
んが作ったサルサのソース瓶を持って来て、涙ぐんでそれを見ていま
した。
私がアメリカに38年前に来てから直ぐに、オークランドの鶏肉専門店
で、ニワトリを処理する店に時々、仕入れに行っていました。
そこはイタリア人兄弟三人で経営していた店で、レストランなどに、冷
凍ではない鶏肉を専門で納めていた店でした。

何度か行く内に、仲良くなりそこの長男と話す様になりました。
ある時、その長男に両親の事を聞きましたら、その店はアメリカに移民
して来た両親が苦労して大きくした店だった様でした。

彼は,『パパがここで・・・、ママがこの店先で、』と指で示して働いてい
た場所を教えてくれました。
一番下の三男はこの所に籠に入れて、ママが面倒見ていたと指差し
ていました。
ふと見ると彼のごつい顔が、くしゃくしゃになり涙して、パパが仕事をし
ていたという、大きなステンレスのテーブル辺りを見ていました。

帰りがけに長男が、ママが作っていたと同じ、チキンのから揚げだと
言って、2個ほど紙に包んで持たせてくれました。
帰りの車の中で、それを食べながら、彼の母親が作った味を噛み締
めていました。

アメリカには多くのイタリア人達が移民して来ましたが、それぞれの
家族に歴史と、その物語が秘められて居ると思います。

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